留学のいろいろ (6)

幸福な留学土木工学の初代の日本人教授古市公威(1954−1934)は、明治8年(1875)から13年(1880)まで留学し、フランス中央工業学校、パリ大学理学部に学んだ。滞仏時、そのあまりの勉強ぶりを心配して、下宿の女主人が「公威、体をこわしますよ」と言うと、「私が一日休めば、日本は一日遅れるのです」と答えたという(司馬a:148)。抜群の成績だったようで、「仏朗西の生徒等は皆舌を巻いて驚嘆し…日本に斯る高等の生徒を教育する学校のありけるかと衆みな驚嘆したりとぞ」(「東京日日新聞明治11年1月17日付。石附:261)。帰国後は内務省土木局に勤め、工科大学長にもなった。その功績から、のちに男爵となる。三島由紀夫の本名平岡公威は、内務官僚だった祖父が恩顧を受けた古市の名前を取ってつけたそうだ。
1.送り出す人々からの期待を受け、2.留学地での勉学も生活も充実し、3.帰国ののち習得した知識技術を社会の役に立てる。この三つがそろっていれば、疑いもなく幸福な留学だ。日本の近代化に伴走した俊秀たちの間で、そのような留学は多かっただろう。

北尾次郎も充実した留学生活を送ったと思われる。嘉永7年(改元して安政元年、1954)に松江に生まれ、10歳のとき内村鱸香の漢学塾に入門した。のちに梅謙次郎や長谷川辰之助二葉亭四迷)も通った有名な塾である。明治元年(1968)上京して開成所に入った。明治3年(1870)12月に16歳でプロイセン留学の途につき、16年(1883)12月に帰国する。青春をドイツに送ったわけで、ドイツで人となったとも言える。
次郎の帰朝後明治17年(1884)1月に書いた履歴書によると、
「一 洋暦千八百七十一年二月伯林府ニ於テ中学教員ワク子ル氏ニ従ヒ独逸ノ語学及ヒ論理学ヲ学ヒ傍ラ文学歴史美術音楽政治算術等ノ諸学ヲ修ム
一 明治六年五月三日伯林府大学校ニ入リ究理学及ヒ点竄学ヲ学ヒ而ツ明治九年ノ冬ヨリヘリモホリツ大博士ニ従ヒ大学校ノ実地試験所ニ於テ究理上ノ実験ヲナス
一 同千八百七拾八年ギヨッチンゲンノ大学ニ於試験ヲ受ケトクトルノ証書ヲ領シ而ツ再ヒ伯林大学ニ入リヘリモホリツ氏ニ就キ明治十五年三月マテ尚究理実験上ノ事ヲ研究ス」(平賀:60)
まず大学入学のための予備教育を受けたのだが、それが学校に入ってのものか、ギムナジウムの教師に個人教授を受けたものかはわからない。その後ベルリン大学に入って、ヘルムホルツやキルヒホフに師事した。ゲッチンゲン大学で博士号を受けたあと、またベルリン大学で研究を続けた。学位論文は「色彩論」で、これをラーガーシュトレーム夫人に捧げている。この人の家に下宿していたのであろうか。そこには長井長義も下宿していた。彼の回想によると、「ホルツェンドルフ夫人の死後私はアルティレリー街一〇八番地のラーガーシュトレーム夫人(Marie von Lagerström)の家に移った。此の下宿には日本人が多く、独逸人、アメリカ人ヴィクトリア皇后御付のスイス人も居り、皆仲良しになった。日本人は大抵医者で、佐藤男や石黒子爵などが居た。此のラーガーシュトレーム老夫人は日本に特別の興味を抱いて、其の下宿に居るものに限らず、日本人でありさえすればよく世話してくれた。故に日本人仲間には日本おばあさんで通ってゐた。九十一まで生き長らえたが(…) 桂公は首相になってから此のおばあさんを特に表彰して、嘗て下宿時代に受けた恩に酬ゆる処あったと聞く」(金尾:83)。官費留学の打ち切られる前後には、のちに妻となったルイーゼ・トップの家にも下宿していた。次郎の寝室はルイーゼ姉妹の部屋の隣で、朝寝床から起き上がるときの彼の口癖「どっこいしょ」が彼女の初めて覚えた日本語だったそうだ。なお、ベルツ夫人ハナによれば、「日本おばあさん」はルイーゼの伯母だったかもしれない(「欧洲大戦当時之独逸」、1923、p.296)。
明治6年(1873)の官費留学打ち切りにあって、次郎は「或は少年に数学を教え、或は筆を新聞雑誌に執りて多少の学資を得(宛然太田豊太郎だ)、義父よりの送金を補ひつゝ大学に通学せられたりといふ。当時米国の領事氏其他先生の篤学に感じ学資の幇助をなしたるものあり、先生帰朝就職の後に漸時負債を弁償して全く償却し了られたりといふ」(稲垣乙丙。平賀:62)。
留学中にロイコスコープ(検光器)というものを発明した。これは日本の新聞でも報じられた。「追々日本にも才学抜群の人物が出現する喜ぶ可きことなり即今日耳曼府別林に留学する四人の少年を以ても之を証するに足る其内一人なる北尾次郎(雲州松江)は此頃人眼にて光と色を受取る差異を測る器械即ち「リュコスコップ」と称するものを発明せり」(「朝野新聞」明治11年6月12日付。平賀:64)。
真宗本願寺派の怪僧北畠道龍(1828−1907)の洋行時(1882−84)、通訳を務めたのも自活のためであろうか。彼はデンマークスウェーデン、ベルリン、サンクトペテルブルクポーランドバイエルンアルザスを巡ってウィーンへ。それからロンドン、リヴァプールを経てアメリカに渡り、イギリスに戻って、明治16年(1883)7月末に再度ウィーンへ行き、郊外ヴァイトリンガウに政治学ローレンツ・フォン・シュタイン(1815−90)を訪ねて講義を受けた。そのあとハンガリー、トルコ、ギリシャ、イタリアを経てインドへ行き、仏蹟を探訪して帰朝した。その旅を「天竺行路次所見」としてまとめている。次郎がこの行程のどこまで同行したかはわからないが、ロンドン、リヴァプールに行っていることは確かだ。イタリアにも旅した。インドにはもちろん行ってないし、アメリカにも随行しなかっただろう。シュタインは伊藤博文憲法制定の助言を受けた人として名高く、帰国まもなく次郎が「普国憲法起源史」を著したのも彼の「高論卓説ヲ聴クヲ得タ」ことによる。道龍はベルリンで「アルチレリーストラーセ」に宿をとったというから、おそらくラーガーシュトレーム夫人宅であろう。そこでいろいろな大家の講義を受けた。その中にはインド学者のオルデンブルクもいる。次郎はそんな通訳をして、科学にとどまらぬ幅広い教養を身につけることができたと思われる。
帰国直前の明治16年(1883)10月にルイーゼ(1864−1929)と結婚した。日本名は留枝子または留英子である。息子に富烈(1884−1950)がある。これはもちろんFritzに漢字をあてたもの。鴎外の夭逝した息子に不律がいたし、山崎橘馬の息子も不立だ。長井長義子息の名は亜歴山で、富烈の友人だった。鴎外の子供が漢字書き西洋名なのは、こういうコンテクストで見なければならない。彼の場合日本人の細君であるのにそうしているのは、あるいは結ばれなかった「エリス」を妻と観じていたのか? 明治19年(1886)に次男兵馬が生まれたが、生後すぐに死んだ。こちらはHermannであろう。次郎は交友少ないが、中で親しかったとされる高橋順太郎はルイーゼ、長井長義はテレーゼ、松野礀はクララと、ドイツ人の夫人があった。山崎橘馬の夫人もドイツ人、次郎と同郷の飯塚納の夫人はドイツ系アメリカ人で、要するに夫人同士の交遊による友人ということであろう。青木周蔵もドイツ人の夫人がいたが、明治最初期留学生はよく現地の女性と結婚している。
次郎は帝国大学農科大学教授として終わった。「長岡半太郎以前でもっとも実力のある物理学者」でありながら、最も適任であると思われる理科大学にはなるほど帰国直後の明治17年(1884)2月から勤務しているが、翌18年からは友人松野礀が校長をしていた東京山林学校の教授となり、その後身の東京農林学校・農科大学教授をずっと勤めた。理科大学のほうでも兼任教授をしていたが、明治26年(1893)それを解かれている。三宅雪嶺は「北尾氏は確かに天才の名を値ひす、明治年間に学者多きも天才を求むれば先づ氏を押さゞるを得ず、境遇にして善かりしならば、必ず世界の理学者として顕はれたるべし。不幸にして天才は往々不具者たり、氏は理学上の推理及び文学上の趣味に於て驚くべき頭脳を有せしも、俗事に於て殆ど児童と撰ぶ所なく、為めに最も適処たるべき理科大学より農科大学に貶せられぬ、而して猶ほ相当の働きありしより推せば如何に能力の秀でしかを察するに足る」(平賀:94)と慨嘆しているが、要するに学制が整備される前に留学に出て、整備がほぼ終わったころ帰ってきたので、そのときにはもう理科大学のポストは埋まっていたわけだ。
次郎はその長い留学中にバイリンガルになったが、その様相はドイツ語主・日本語従だったようだ。息子にあてた手紙もドイツ語である。論文もほとんどがドイツ語で書かれている(没後刊行された論文集”Die wissenschaftlichen Abhandlungen von Dr. Diro Kitao” [大日本図書、1909] は堂々たる独文である)のは、学界の言語が欧米語である点から理解することもできるが、彼は物理学者としての仕事のかたわら小説をいくつも書いており、それもドイツ語なのだ。とりわけ稿本のままで島根県立図書館に残る”Waldnymphe”(「森の女神」)は22冊に製本された5000ページを超す大作で、自筆の挿絵もふんだんに入っている。画才もあり、当時日本では珍しい(ドイツでは珍しくない)裸体画も好んで描いていた。文学のほうも巌谷小波にドイツ文学を講じていたほどだ。その縁でか、山田美妙の小説に裸体の挿絵がつけられたのを機に起こった裸体画論争で、明治23年(1890)の硯友社の雑誌「江戸むらさき」に「裸体像を論ず」(北尾次郎述・大江三郎記)を乞われた。
彼の日本語の著作は、これも、「普国憲法起源史」(北尾次郎編述・内村邦蔵校字、弘道書院、1884)も「物理学実験之手引」(稲垣乙丙筆記、海軍大学校、1893)も、彼の口述を筆記したものである。つまり、ドイツ語は母語同然に学術論文も小説も書けるほどである一方、日本語では著述できなかったのだ。16歳でドイツへ行き、13年もそこで暮らした次郎は、要するに、13、4でアメリカに渡り着き、10年もそこで過ごした万次郎や彦蔵とその点で同じである。彼らは通訳はみごとにでき、英文なら読み書きともできたが、日本語を書くことは困難だった。彦蔵が新聞を発行しようと思ったときは、岸田吟香のような漢学を学んだ協力者が必要だった。自分で書けないからだ。ここでわかるのは、書く能力は学校で学ばなくてはつかないということがひとつ。アメリカの学校で学んだ万次郎や彦蔵は英文は書けた。だが日本文はだめだ。しかし、漁師のせがれらと違い、次郎は漢学塾の優等生である。なぜ書けないのか。長い留学中に忘れたのか。「独逸留学以来曽て日本文を書いたことがない。帰朝の当座などは、日本語は大半忘れて大学の講義に余程困つたさうである。然し漢学の素養があつたから、講義の際に屡々奇抜の漢語を使ふことがあつたさうだ」(鳥谷部春汀。平賀:84f.)というから、それもたしかにある(南條文雄養母の杞憂は必ずしも杞憂ではない)。母語だとて、あまりに不使用期間が長いと能力が減退する。しかし、これには別の要素もある。たとえば、「前記書物(「普国憲法起源史」)の文の内に、是の詳細は附録に記述するといふやうなことがありし故に、附録は何時頃出来ますかと伺ひしに、先生は附録とはと反問せられしも、其本書には附録云々とありし故、小生は又附録と答ひしに、遂に通せず、此時傍に内村邦三氏が在りて、北尾先生に向ひ、附録とは……洋語にて陳べらる、アゝあれが日本にては附録といひますか、ソレなれば何とか御答がありしなり、同郷人の話しに通弁がいりしは又妙であつた」(米田稔。平賀:80)。彼の出発時には漢文くずしの文体しかなかった。戯作体はあっても、それは彼にはほとんど関わりなかったであろう。次郎が不在だった明治3年から16年の間に近代日本語が形成されてきていたのである。その間それと絶縁状態だった彼は「近代化された日本語」に追いつくことができなかった、と考えられる。西周をはじめとする多くの人々の努力で西洋の事物概念を翻訳する新漢語が山のように造られている時代、彼と同門後輩の二葉亭四迷が言文一致の小説を書き出す(1887)前夜である。
留学中の彼の手紙がおもしろい。実家にあてた13通が現存するうち、5通は1873から74年のもので、ほとんど漢字を用いない(3通はまったく漢字なし)ペン字カタカナ書きであり、しかも、縦書きながら左から右へ書いている。洋紙にペンで書く場合そのほうが合理的ではあるのだが。一応候文ではある。最初の手紙(1871)と1878(明治11)年以後のものは、鉛筆・筆・ペンと用具はさまざまだが、当時普通の漢字カタカナ交じりの書簡体である。むろん右起縦書。1874年の手紙の一節に「日本ノ手紙書クコト甚ダムツカシクナリ」とあるからそういう事情なのかもしれないが、あるいは、彼はローマ字論者なのだが、このときにすでにそんな考えを持っていたのかもしれないとも考えられる。両親はローマ字がわからないからカタカナで書いた、というような。在独中の手帳にはローマ字表記案をメモしている。もとより不完全だが、おもしろいのは、ヤユヨがドイツ式にja, ju, jo、ラリルレロがra, ri, ru, re, lo (!)、ヘがfe、シsi、チti、ツtu、ヅdu、ワwa, va、フf, fu、クk, ku、スs (!)、ヲo、ヰe (!)、ヱヒjo-jとなっている(平賀:71)。Diro Kitaoと署名したのは自身のローマ字表記によったのだろう。帰国後は学会誌のローマ字書きを推進した(ローマ字論者は田中館愛橘をはじめ物理学者に多い)。カタカナ書きをすれば表記が発音と一致するので、手紙には「フラツナル(不埒なる)」「クヤ(木屋)」などのように出雲弁が現われてくる。日本語を話すときは出雲弁だったのだろうと想像できる。
明治20年(1887)9月の「学海之指針」第3号に彼の「颶風ノ説」が載っており、それは「独逸ニテ演説シタルモノ」の翻訳だというが、それは同年の「理科大学紀要」に発表された彼の学術上の代表作「地球上大気ノ運動及颶風ノ理論」(独文)がすでに在独中に構想されていたことを示す。この「台風論」は大英百科事典1902年版にも紹介されているという(中村清二。平賀:77)。それはさておき、「颶風ノ説」の前段でこう述べている。「嗚呼我邦ノ国語タル、支那ノ文学ノ為メ、支那ノ国語ノ為メ、妨害ヲ被ムル少カラズ、為メニ千尺雲ヲ凌グノ発育ヲ遂ゲズ、為メニ美大ナル檞樹トナルヲ得ザリシハ、実ニ浩歎ノ至ナリ」「若シ夫レ今日ノ子孫ヨリ有為ノ人傑輩出シ、一身ヲ挙ゲテ此問題ノ犠牲トナシ、太古神代ノ諸記録ハ固ヨリ口碑ニ伝ハル昔話ノ類ニ至ルマデ其由来ヲ考察シ、以テ言語ノ根本ニ遡リ適宜ノ文字ヲ作リ、終ニ日本ノ言語ヲシテ独立セシメ、他国ノ混濁物ヲ遊離セシメナバ、以テ発達ノ新路ヲ得ルヤ論ヲ待タズ、況ンヤ他年一神人ノ日本ニ生レ、其偉大ナル翼上ニ我ガ国語ヲ駕シ去リテ最高点ノ完結ヲ得セシムルニ至ルヤ復タ未ダ知ルベカラザルヲヤ」。彼の手帳に「誰かが文学的著作をローマ字によって著さねばならぬ。それは北尾次郎氏か」(平賀:71)とあったのをちょっと思い出す。だが、次郎はローマ字書きの日本語文学はついに著さず、ドイツ語をローマ字で書いた一大小説を稿本で残しただけだが。その演説で彼は続いて「然レドモ此ノ如キ時期ノ来ルハ恐クハ我等ガ既ニ瞑目シタルノ後ナラン、何トナレバ此事業ヤ数百年ノ星霜ヲ要スル至難ノ問題ナレバナリ」と言っている。「適宜ノ文字」がまだないところを見ると、神人はいまだに現われていない。
比較的短命であったのと(53歳で病没)、「学者社会の仙人」と言われるような性格だったため、この人の事蹟には今一つわからぬことが多い。内田魯庵が「或る時鴎外を尋ねると、近頃非常に忙しいという。何で忙しいか訊くと、或る科学上の問題で北尾次郎と論争しているんで、その下調べに骨が折れるといった。その頃の日本の雑誌は専門のものも目次ぐらいは一と通り目を通していたが、鴎外と北尾氏との論争はドノ雑誌でも見なかったので、ドコの雑誌で発表しているかと訊くと、独逸の何とかいう学会の雑誌(今はその名を忘れた)でだといった」(内田:343)と書いているが、それがどんな雑誌でどんな論争なのかわからない。彼らの専門は重ならないので、あるいは日本のあの幻の独文雑誌「東漸新誌」(二人とも主要寄稿者であった)ではないかと思うが、根拠はない。次郎はともかく、鴎外のほうは研究者たちによってさんざん調べられているから、そこで現われてこないのは不思議だ。また、南方熊楠が「前年北尾次郎君なりしか、なにか数学上の大発明をなしドイツに報ぜしに、やつとその前に同じ説がかの国人に出されありて残念なりしといふことを川瀬善太郎(林学博士)に聞き候。これらは日本に図書館整頓せず、また図書館あるもビブリオグラフィー(参考項目の目録)備わらざるゆえに御座候」(明治44年10月17日付柳田国男宛書簡。南方e:193)と伝聞によって言及する「数学上の大発明」についても不明だ。だが、いかにも大発明をしそうな人だと思われていたことはわかる。
絵をよくし、ピアノも弾く人であったが、東信濃町の家も自分で設計した。洋館である。妻がドイツ人でそのうえ義足だから(左脚がなかった)、当然だ。明治39年(1906)病勢が悪化して休職のやむなきに至り、東信濃町の家はドイツ人建築家に貸し、自身は代々木に新居を建てて静養につとめたが、翌年死去した。
次郎は帰国の翌年ルイーゼを連れて松江に帰ったが、おそらく西洋人女性が来るのは初めてだったのであろう、一騒動だった。「次郎君が妻君同道にて市中を買物に歩くと云ふと、市の老若男女が其身辺を取りまき推しな推しなの勢で、後よりゾロ〱ついて行くと云ふ有様にて、留枝子君の神経を高めて次郎君も閉口せられ、到底市中見物の散歩は出来ぬ事となれり、然し親類巡りは是非せねばならぬとあつて、其行程は先づ松村氏門前の京橋川の石垣より船に乗して大橋詰にて上陸し、佐藤氏を始め歴訪せば、群衆をまくことが出来やうと云ふ考案にて、或日門前より次郎君夫妻と身近き人々四五人が乗船出発せし所が、ソレ唐人の奥様が船に乗つて行くと云ふ騒となり、方原町の川端今の三階楼の前や日本銀行支店前なぞ、京橋川の両岸に群衆は列をなして見物すると云ふ騒にて、次郎君夫妻は愈々降乗して居られたりき」。また、「親類巡りの際、玄関先の臼庭より奥座敷に通られしに靴其儘なりし様に記憶せり」(桑原羊次郎。平賀:82f.)。このとき、装飾品を多く持っていると思われたか、ある夜泥棒に入られた。日本の家は往々戸締りに無頓着なので、ルイーゼは非常に恐れ、急遽帰京することとなり、その後再遊することはなかったという。
孫の名前も次郎である。祖父の死後大正6年(1917)の生まれだが、ルイーゼが「もう一度次郎と呼びたいから」と言って、その名になったということだ。夫婦愛のほどがうかがえる。ルイーゼはきわめて家庭的な婦人で、「槙木割りを始めとして水汲み等の荒仕事まで、義足で不自由なる留枝子君の働き振りは並ミ大抵な事ではなかつた」(桑原。平賀:73)。また「其の余暇中には、懇意な来客中にても、編物は手を離れざる程であつた、従つて編物は余程上手であつた、一時は駿河台の成立学舎女子部の編物の講師として勤められたることもあつた」(同前)。後年息子に名家から嫁を迎えることになったとき、嫁の手が大きいのを見て、仕事のできる手だと安心したという話も、彼女の性格を示していよう。
三宅艶子(1912−1994)がルイーゼの思い出を書いている。父が次郎を高く評価していた三宅雪嶺の甥であったためか、母やす子は北尾留枝子や同じくドイツ人だった山崎橘馬夫人と親しく、彼女らから西洋家庭料理を習い、それは娘艶子に伝わった。
「北尾さんは私の生活の中に大きく残っている。というより、現在私がつくる料理の中に北尾さんはいつも顔を出す。(…) 先日(一九八〇年)も、ふだん家の台所をよく知らない人が、カリフラワーをゆでて、そのゆで汁をさあっと流しにあけた。私は思わず横から「あ」と声を出してしまった。
「いけなかったんですか。あのゆで汁を捨てては」と若いお嬢さんが私の声にびっくりして訊いた。「牛乳と半々にゆで汁をいれると、ホワイトソースがおいしくなると思って。でもいいのよ、これをゆでて、と言っただけなんですもの、初めに言っておかなかったし」と私は言いながら、こんなに長い間、北尾さんはツヤコの台所にまでお顔を出して下さる、と思ったことであった」(三宅:150f.)。
留学先から配偶者を連れ帰ったなら、その人の人生もまた留学の一部であろう。


北尾次郎の友人には、松野礀や山崎橘馬など同じ船で留学の途についた人が多い。長州人井上省三(1845−86)も明治3年(1870)伏見満宮一行に従ってドイツへ留学したので、次郎らと同船である。はじめ兵学を学んだが、青木周蔵の意見に従い、毛織物工場に職工として入って製絨技術を身に付けた。青木は留学生の専攻が医学と兵学に偏っているのを文明増進によからずとして、ほかにも松野礀を林学に、山崎橘馬を製紙業習得にと説得した(青木:30ff.)。井上は帰国後製絨所を設立している。なお、この人もドイツ人と結婚した。ドイツ留学に出発する前、ドイツ公使館書記ケンペルマン(1845−1900)の宿所春桃院に住み込んでドイツ語を学んでいる。木戸孝允の斡旋による(熊沢b:156ff.)。7月からドイツへ旅立つ12月までの間だが、これをしも木戸は「留学」と呼んでいる(井上の表現では「入込稽古」)。たしかに、言葉本来の意味から言えば「留学」に違いない。
このケンペルマンは通訳生として慶応3年(1867)に来日し、明治12年(1879)まで日本にあった。ドイツ医学輸入の第一陣となった明治4年(1871)の陸軍軍医ミュルレルと海軍軍医ホフマン招聘に尽力した。その衝に当たった石黒忠篤は、ケンペルマンを「よく日本語を話す」と評している。明治2年(1869)には気吹舎(平田篤胤の開いた家塾)入門を申し込んでいる。それは断られたようだが、篤胤の「古道大意」を読んで思い立ったということだ(熊沢a:55)。ドイツ東洋文化研究協会の創立メンバーであり(1873)、その会報に「カミの教え報告」(1874)「神代の文字」(1877)を発表しているのが平田国学を学んだ足跡と言える。気吹舎に入門していれば、欧米人による珍しい日本「留学」の事例になったはずだ。学びは本来自由なものだ。学校制度は学びのほんの一部分でしかない。
彼は明治10年(1877)に出雲への旅行を行なった。イギリス人「同業者」で先輩であるアーネスト・サトウ(1843−1929)がその機会を得た外国人として初めての伊勢神宮参拝(1872)に対応するものである。サトウは「古神道の復活」(1874)で平田篤胤の神学を詳しく紹介しているわけで、この二人の軌跡は平行している。出雲大社の参拝ということでは、ラフカディオ・ハーンの先駆けともなっている。


鴎外森林太郎(1862−1922)の留学は、その昔の遣唐使留学の空海のように、輝かしいもののひとつである。明治17年(1884)8月に出発し、まずライプツィヒでホフマン、ドレスデンでロート、ミュンヘンでペッテンコーファー、ベルリンでコッホに師事し、明治21年(1888)帰国。帰朝の後は、いわゆるドイツ土産の三部作、「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」で華々しく文壇に登場した。
彼の経験したのは、興隆期のドイツ帝国である。流麗な筆で描かれる太田豊太郎のベルリン。「余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこのヨオロッパの新大都の中央に立てり。なんらの光彩ぞ、わが目を射んとするは。なんらの色沢ぞ、わが心を迷わさんとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべくは思わるれど、この大道髪のごときウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だたみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩そびえたる士官の、まだウィルヘルム一世の街に臨める窓に倚りたもうころなりければ、さまざまの色に飾り成したる礼装をなしたる、妍き少女のパリーまねびの粧いしたる、彼もこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲にそびゆる楼閣の少しとぎれたるところには、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門をへだてて緑樹枝をさい交わしたる中より、半天に浮かびいでたる凱旋塔の神女の像、このあまたの景物目睫の間にあつまりたれば、はじめてここに来しものの応接にいとまなきも宜なり」(「舞姫」)。
帰国から20年以上たって書いた「妄想」の中でも留学時代をこうふりかえっている。「自分がまだ二十代で、全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には嘗て挫折したことのない力を蓄へてゐた時の事であつた。自分は伯林にゐた。(…) 昼は講堂やLaboratoriumで、生き生きした青年の間に立ち交つて働く。何事にも不器用で、痴重といふやうな処のある欧羅巴人を凌いで、軽捷に立ち働いて得意がるやうな心も起る。夜は芝居を見る。舞踏場にゆく。それから珈琲店に時刻を移して、帰り道には街燈丈が寂しい光を放つて、馬車を乗り廻す掃除人足が掃除をし始める頃にぶらぶら帰る。素直に帰らないこともある」(「妄想」。鴎外b:125f.)。
コッホやペッテンコーファーのような一流の学者について学び、ナウマン博士(フォッサ・マグナやナウマン象の発見者)の日本論をめぐる新聞紙上での論争や、国際赤十字会議での日本の矜持を示す発言など、日本を代表し堂々と(多少は過剰に)国の誇りを擁護し主張する若き秀才の姿に喜ぶ人は多かろう。
だが、こんな回想もしている。当時の駐ドイツ公使青木周蔵との会見や大学での出来事がおもしろい。公使館を訪ねると、「若い外交官なのだらう。モオニングを着た男が応接する。椋鳥は見慣れてゐるのではあらうが、なんにしろ舞踏の稽古をした人間とばかり交際してゐて、国から出たばかりの人間を見ると、お辞儀のしやうからして変だから、好い心持はしないに違ない。なんだか穢い物を扱ふやうに扱ふのが、こつちにも知れる。名刺を受け取つて奥の方へ往つて、暫くして出て来た。
「公使がお逢になりますから。こちらへ。」
僕は附いて行つた。モオニングの男が或る部屋の戸をこつ〱と叩く。
「ヘライン。」
恐ろしいバスの声が戸の内から響く。モオニングの男は戸の握りに手を掛けて開く。一歩下つて、僕に手真似で這入れと相図をする。僕が這入ると、跡から戸を締めて、自分は詰所に帰つた。
大きな室である。様式はルネツサンスである。僕は大きな為事机の前に立つて、当時の公使S.A.閣下と向き合つた。公使は肘を持たせるやうに出来てゐる大きな椅子に、ゆつたりと掛けてゐる。日本人にしては、かなり大男である。色の真黒な長顔の額が、深く左右に抜け上がつてゐる。胡麻塩の頬髯が一握程垂れてゐる。独逸婦人を奥さんにしてをられるといふことだから、所謂ハイカラアの人だらうと思つたところが、大当違で、頗る蛮風のある先生である。突然この大きな机の前の大きな人物の前に出て、椋鳥の心の臓は、斂めたる翼の下で鼓動の速度を加へたのである。(…)
「君は何をしに来た。」
「衛生学を修めて来いといふことでござります。」
「なに衛生学だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄を挟んで歩いてゐて、人の前で鼻糞をほじる国民に衛生も何もあるものか。まあ、学問は大概にして、ちつと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」
「はい。」
僕は一汗かいて引き下つた。希臘人や羅馬人の画にかいたのを見ると、紐で足に括り附けたサンダルといふのを穿いてゐるが、なる程現今の欧羅巴に、足の親指と二番目の指との間に、縄を挟んで歩いてゐるものは無いに違ひない。但し鼻糞をほじつてはならないといふことは、僕はこれまで考へても見なかつた。人の話に、どこかの令嬢が見あひに行つて、鼻糞をほじつて、破談になつたといふことは聞いたが、それも令嬢で、場所が場所だから不都合であつたのだ位にしか思はなかつた。まあ、公使の前でほじらないで好かつたと思つたのである。
それから僕は独逸に三年ゐた。学生に交際する。大相親切らしいと思つては、金を貸せと云はれてびつくりする。パンジオンの食堂に食事をしに出る。一同にお辞儀をすると、ずらつと並んで腰を掛けてゐる男女のお客が一度に吹き出す。聞けば立つて礼をする法は、此国では中学時代に舞踏の稽古をするとき、をすはるのである。それだから僕のやうな不調法なお辞儀は見た事がないのだ。跡で人の好いお嬢さんが、責めて両手に力を入れないで、自然の重りでぶらつと下がつてゐるやうにして、体を真直にして首をお屈めなさいと教へてくれた。大学の業室に出て、ベツヘルグラスの中へ硝子棒の短いのを取り落す。これはしまつたと、長い硝子棒をニ本、箸にして、液体の底に横はつてゐる短い棒を挟んで、旨く引き上げる。さうすると、通り掛かつた教授が立ち留まつて見てびつくりして、どうしてそんな軽技が出来るのだと問ふ。飯を食ふとき汁の実をはさむのと同じ事だから、軽技でも何でもないと答へると、教授が面白がつて、業室中にゐる学生を呼び集めて、今の軽技をもう一遍遣つて、みんなに見せて遣れと云ひ付ける。為方がないから、器の儀は改めまして御覧に入れますとも何とも云はずに、同じ事を遣つて見せる。師弟一同野蛮人といふものは妙なものだと面白がる。僕は腹の中で、なる程箸なんぞも例の下駄や草履の端緒と同じわけだなと思ふ。併し負けじ魂は底の方にあるから、何だ欧羅巴の奴等は日本人の台所でする事をお座敷でするから、ナイフやフオオクが入るのだ、マリア・スチユアアト時代にはそのナイフやフオオクもまだ行はれないで、指で撮まんで食つたといふではないかなどと、腹ではけなしてゐるのである。
僕は三年が間に、独逸のあらゆる階級の人に交つた。詰まらない官名を持つてゐたお蔭で、王宮のアツサンブレエやソアレエにも出て見た。労働者の集まる社会党の政談演説会にも往つて見た。但し次の分は内証である。あの時は翌日新聞に書かれて、ひどく恐縮したつけ。
併し此三年の間鼻糞をほじるものには一度も出逢はなかつた」(「大発見」。鴎外a:146ff.)。
しかしとうとうあるドイツの小説に鼻をほじる男を「大発見」する、という話である。
留学中にはこんなことも考えた。「西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云つてゐる。自分は西洋人の謂ふ野蛮人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時二親が、侍の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々諭したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思つて、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思つたことを思ひ出す。そしていよいよ所謂野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない」(「妄想」。鴎外b:129)。
また、自分の性欲を金井湛君という分身の回顧という形で描いた「ヰタ・セクスアリス」の中で、留学時代の女性との遭遇をふりかえっている。「伯林のUnter den Lindenを西へ曲つた処の小さい珈琲店を思ひ出す。Café Krebsである。日本の留学生の集る処で、蟹屋蟹屋と云つたものだ。何遍行つても女に手を出さずにゐると、或晩一番美しい女で、どうしても日本人と一しよには行かないといふのが、是非金井君と一しよに行くと云ふ。聴かない。女が癇癪を起して、mélangeのコツプを床に打ち附けて壊す。それからKarlstrasseの下宿屋を思ひ出す。家主の婆あさんの姪といふのが、毎晩肌襦袢一つになつて来て、金井君の寝てゐる寝台の縁に腰を掛けて、三十分づつ話をする。「をばさんが起きて待つてゐるから、只お話だけして来るのなら、構はないといひますの。好いでせう。お嫌ではなくつて。」肌の温まりが衾を隔てて伝はつて来る。金井君は貸借法の第何条かに依つて、三箇月分の宿料を払つて逃げると、毎晩夢に見ると書いた手紙がいつまでも来たのである。Leipzigの戸口に赤い灯の附いてゐる家を思ひ出す。絿らせた明色の髪に金粉を傅けて、肩と腰とに言訣ばかりの赤い着物を着た女を、客が一人宛傍に引き寄せてゐる。金井君は、「己は肺病だぞ、傍に来るとうつるぞ」と叫んでゐる。維也納のホテルを思ひ出す。臨時に金井君を連れて歩いてゐた大官が手を引張つたのを怒つた女中がゐる。金井君は馬鹿気た敵愾心を起して、出発する前日に、「今夜行くぞ」と云つた。「あの右の廊下の突き当りですよ。沓を穿いて入らつしつては嫌。」響の物に応ずる如しである。咽せる様に香水を部屋に蒔いて、金井君が廊下をつたつて行く沓足袋の音を待つてゐた。Münchenの珈琲店を思ひ出す。日本人の群がいつも行つてゐる処である。そこの常客に、稍や無頼漢肌の土地の好男子の連れて来る、凄味掛かつた別品がゐる。日本人が皆其女を褒めちぎる。或晩その二人連がゐるとき、金井君が便所に立つた。跡から早足に便所に這入つて来るものがある。忽ち痩せたニ本の臂が金井君の頸に絡み附く。金井君の唇は熱い接吻を覚える。金井君の手は名刺を一枚握らせられる。旋風のやうに身を回して去るのを見れば、例の凄味の女である。番地の附いてゐる名刺に「十一時三十分」といふ鉛筆書きがある。そこで冒険にも此Rendez-Vousに行く。腹の皮に妊娠した時の痕のある女であつた。此女は舞踏に着て行く衣裳の質に入れてあるのを受ける為めに、こんな事をしたといふことが、跡から知れた。同国人は荒肝を抜かれた。金井君も随分悪い事の限をしたのである」(「ヰタ・セクスアリス」。鴎外a:237f.)。
ヰタ・セクスアリス」はどうで創作であるが、この人の性格からして、まんざら嘘は書くまい。しかし、編集や省筆ならお手のものだろう。ここには当然現われてこないが、留学中の女性関係では、帰国した彼のあとを追って日本に来た恋人、いわゆる「エリス」の存在も有名だ。「もてる」、異性を魅了するというのは、どうして、人間を見るとき非常に重要な要素である。どうやら明治初頭の留学生にはけっこうもてる人がいたようだ。初期の留学生はだいたいが士族の青年である。倫理的な高さや立居振舞の美しさを身につけていたわけで、おそらくそういうことによるのだろう。武士は結局のところ、人を殺し自分も死ぬ仕事である。命のやりとりをする男は女を引きつける。ヤクザがもてるのと同じ道理だ。また、江戸時代には家を守るため養子に行ったりもらったりすることが盛行していた。それが可能なのは、やる家もらう家に共通の作法の体系があるということで、そういう作法の美を体得しているわけだ。「文明人」だということだ。文明人ならもてるだろう。
鴎外の長男の解剖学者森於莵(1890−1967)もドイツに留学した。「大正十一年四月私が留学を命ぜられ山田珠樹の妻であった妹茉莉と同船で欧州に向う時、父は笑って私に「お前はおれとちがってじじいになって行くから面白い事もあるまい。」と云った。老人の頭に若い昔の影―エポレットを輝かして若い独逸士官とビールの杯をあげた―がさしたと見える。この年の七月九日父はその生涯を終って、観潮楼の一室(階下洋室)で哲人のごとく眠った。その訃報を私は伯林の下宿で受取ったが、それは奇しくも父と縁の深いワイマルにの遺跡をひとり訪ねて父の上を想いつつ帰った翌日であった」(森:244)。於莵は渡欧時32歳、すでに結婚しており、二子があったのである。それはつまり、鴎外と「じじいになって行った」漱石(33歳・既婚・一子あり・留学中に次子誕生)の違いということでもある。近代文学史に並称されるこのふたりの留学は、近代留学のふたつの極だ。


鴎外と同じ石見出身の文芸評論家島村抱月(1871−1918)は、明治35年(1902)3月8日、讃岐丸に乗ってイギリス留学に出発した。ロンドンに着くのが5月7日だから、2ヶ月の長い船旅である。旅にはさまざまな出会いがある。「観照の人」抱月は、船中で見た印象的な光景をいくつも書き留めている。二等船室の客である彼は、上も下もよく眺められた。
横浜の出航時には「半白ナレドモ豊頬ナル左シテ上品ナラヌ老女一人ノ混血ノ女児十歳許リナルヲ抱キテ本船ヨリ帰ル、女児老女ノ膝ニ泣キ崩ル 蓋シ父ノ外人ガ国ヘ帰ルヲ送リテ別レタル類ニヤ覚エズ涙ヲ催シヌ」(「渡英滞英日記」。明治:84)。「下等室ニすまたら移住民ノしんがぽーるニ下船スルモノ数十人乗組メリ 其中ニハ妻ヲ携ヘタルモノ子女ヲ携ヘタルモノアリ、十二三ノ無邪気ノ女児ノ夕暮ニハ相連レテ唱歌ヲ歌ヒナガラ甲板ヲ往キツ戻リツスル可憐也 事務長ハイフ彼等モ末ハ何ニナルカト 蓋シ淫売婦タルベシトノ意也」(同前:85)。
「三月二十三日 曇、香港着。支那人の人足ども先を争ひて端艇に来たり、仕事を求む。人々うるさしとて大喝すると共にステツキ、傘の類を打ちふりて殴打すれば、四十男が泣顔そいて手を合はせ容赦を乞ふ。意気地なしとも言はばいふべけれど、国民としての彼等が立脚地も悲しきものなり、おのづから斯くもなるべし。さるにても家には彼を夫と頼り父と縋るものもあらんを、其れらを見なば、如何に心外にや思はん。我れも未だ野蛮人を打ちしことなければ。好き折りと背中をこづき試みたりなど誇り顔に説くものある、我は興みせず」(「海上日記」。抱月:122)。醜い日本人の姿をよく覚えておこう。南京の暴兵へ続く道だ。
「三月二十八日 新嘉坡着。上陸、見物。某旅館に日本料理の昼食を呼びたり。胡瓜もみのうまかりしこと、今に忘れず。例の馬来街といふを過ぎる。怪しげなる洋服して、髪は仏蘭西巻といふにかぶりたる日本婦人の、三人五人、店頭に卓を擁して、頬杖せるものあり、居眠りせるものあり。一行の人々車上より指顧して、国辱なりと罵るもあれば、国益なりと笑ふもあり。さすがに得堪えでや、顔を背くる女ありき。彼等が一代を思ふに、恋にあらず、欲にあらず、頬に血あり、顔に嬌羞あるあひだは、彼等たゞ、怨みに熱き涙をや命としけん。其の涙涸れはてゝこそ、眼元に浮ぶ今の笑ひは死よりも冷かに、泣くべき故郷を雲と見て、身は浪枕の、揺れつ流れつ、をかしう暮らす月日なり。さるにてもこの地に上陸せる女児等が、やがて読むべき身の因果経かと哀し」(同前:124)。そのころで言う醜業婦、からゆきさんたちである。彼女らの情けに助けられる者も多かったのに、国辱論者国益論者たちは一度彼女らの援助を乞う境遇に落ちてみるといいのだが、なかなかそうはならない。
一方、「シャムの王子」も船に乗ってきた。「三月廿九日(…) SiamノPrinceトイフモノ乗リ込ム 十三歳ナリトイフ 種々ノ話ナドス中一人ノべるりんヘ行キ玉フカト問ヘルニ其ノべるりんトイフ音余リニ早口ナリ 徐々ニ言フベシナヂイヒ又概シテ人ニ親シミテ聊カモ遠慮ハニカミトイフコトナキハ流石ニ大様素直ノ育チト思ヒタリ 午後ヨリ一等ノ方ヘ行ク、今日土人ノ蛇遣ヒ手ヅマ師来タル 三片与ヘタリ」(明治:88)。
西洋人も多い。「ペナンより乗りし洋人夫婦に一人の医師といふ洋人同行せり。妻君が夫をば全く忘れたらん如く終日、医師と散歩を共にし、午眠を共にし、会話を共にするを見て、衆評紛々たり」(抱月:128)。暇をもてあます人たちに格好の話題提供だ。
「四月六日 朝七時頃コロンボ港着 (…) 土人ノ児童ノ河童ノ如ク髪ヲ蒙レルガ桟ノ如キ船ニ二三人宛乗リテ船ノ傍ニ来リ客ノ銀貨ヲ投ズルヲ待チ海中ヲ潜リテ之レヲ拾フ、間々ニハ肱ニテ胴ヲ打チ拍子取リテ歌ヲ謡フ調子可笑シ」(明治:89)。「四月八日 (…) 例ノ如ク宝石屋等多勢来タル 彼等ヲ始メ上海以来土人等ノ用フル英語ニハ一種ノ訛アリ 例ヘバ悪イ品ハ売ラヌトイフニI no sale no goodトイフ類也」(同前:90)。
「四月二十日 晴、衣服を重ぬ。午後スエズに着き、夕暮より運河に向かふ。(…) 双岸の荒野、平砂茫々として、オアシスの形ちせる所には、樹木の間よりかすかに燈光の点々たるを見る。彼所にも人生あるよなど思ふに、淋しく物悲し。遥かなる砂山の麓より蒼然たる暮色蔭の如く蔽ひ来て、悲風何れよりともなく吹きすさみ、天地剖闢の暁、人間太古の廓寥も斯くやと感ぜらる。原人其の中をさまよふの記録は、やがて聖書にあらずや」(抱月:126)。この時代のヨーロッパへの留学生みなが見た風景で、和辻哲郎の「風土」論もこの感銘より萌した。
マルセイユの港では、「四月二十九日 晴、音楽を載せたる小船来たる。楽器はヷイオリンと立琴。楽手は二人の壮漢と少年一人少女一人。少女の十六七なるが、衣服の窶れたるに、帽は固より戴かず。白面の少年と相対して、心中の楽を弾ずと聞けば、興深し。舟を寄せ一曲弾じ了りては、少羞を帯びて銭を乞う。久しく楽音に飢えし我れは、之れをすら可憐と見ぬ」(抱月:127)。「船員ノ一人ハ言フ 此前来タリシトキハ彼ノ女マダ小供ナリシニ今回ハ早年頃ノモノトナレリ 己ガ年ノ立ツコト早キガ之レニテ初メテ気ニ留マル也ト」(明治:92)。同じ乞食楽師でも、通過するだけの人と回帰する人の見るものは少しずつ違い、持つ意味もまた違う。
留学壮行会で抱月は、「近頃洋行して帰朝する人は大抵何等かの土産を持つて来ます。或る人は『標準語』の論をお土産に持つて来ました。或る人は〇〇〇を、また或る人は〇〇〇を持つて来ました。私は出来るものならば欧洲文明の背景といふものを見味はつてそれをお土産に持つて来たいと思ひます」(川副:105)と抱負を述べた。彼の留学は漱石とほぼ同時期で、漱石の場合希望しないのに行かされた留学であったのは前に見たとおりである。その前の世代が西洋の学術技芸を日本に移入するべく勉学に励み、学位を取って帰朝しお雇い外国人に取って代わるよう要請されていたのに対し、彼らの頃には留学がセレモニー化していたと言える。大学の教師になるためには留学という段階を踏まなければならない。むろん先進欧米から学ばねばならぬことはなお多くあったので、大いに努めてはいるのだが(漱石など神経衰弱になるまで勉強していた)、学位取得は第一の目的ではない。留学がゆとりのあるものになってきたということである。留学制度の充実とも言えるが、形骸化への一歩手前とも言える。抱月の場合は、官学に30年遅れて、私学の早稲田がようやく自前で優秀な卒業生を留学に送り出し、帰朝後自学の教師に採用して、大学のさらなる発展をはかろうとしているわけなのだが、それでもこのような余裕がある。彼の留学を特徴づける三つの傾向、散歩や小旅行、ほとんど日曜ごとの教会通いと宗教への関心、熱心な観劇は、その目的に沿うものだ。勉強もよくしているが、聴講生としてである。自筆履歴書によれば、
「明治三十五年十月より三十七年六月まで英国オクスフォード大学にてE. de Selincourt講師の英文学講義、同じくExamination Schoolに於いてG.F. Stout教授の心理学講義、同じくAshmolean Museumに於いてP. Gardner教授の希臘彫刻講義を聴講す。
明治三十七年十月より三十八年六月まで独逸ベルリン大学に入りH. Wölfflin教授の十九世紀芸術史講義、Max Desoir教授の美学原論講義に出席す」(川副:135f.)。
抱月は観察にすぐれる。滞英中の旅行風景を見よう。「八月十四日にかしま立して、初めの二週間は北の田舎に、後の二週間は南の田舎に、倫敦の夏を避けた旅中旅行記の一節が是れである。バンク、ホリデーの季節と云ふので、同行すべて十二人、にぎやかな、多趣味な旅行隊であつた。勿論一行の十一人までは此の国の人で、彼等が呼んで極東の友といふ日本人は吾一人。更に之を品別けすれば、牧師が一人、其の妻君、女教師をしてゐる姉妹のミス、意匠業の人、其の細君、幾棟かの大家で、家屋売買の世話もするといふ男、石油会社の役員、小蒸汽の持主、其の妻君、建築請負業者が一人、風来の吾れを加へて、締めて十二人である。(…)
「ミス、ビーの今度のエンゲージメントについては、面白い話しがあるぢやありませんか。お聞きで?」
「どんな話し? 聞かして頂戴ね。ね。」
とせき込んで、向き合つてゐる細君の膝を揺すつたのは妹娘である。
「まあ、急つかちな。待つてゐらつしやい。忍耐は徳なり! 教訓になる話しですよ。之れはミセス、ビーから聞いたのだから事実でせう。ミスター、シーが今度の申込みをしたのは、先月の初めの日曜日で、教会の帰りであつたさうですが、ミス、ビーの方では、全く突然なので、何とも返事をしかねたさうです。併しあの通りしつかりした女ですから、返事を次ぎの日曜まで待つて呉れと言ひ延して、其の晩はそれなり別かれたさうです。それから家へ帰つて、一週間のあひだ、誰れにも話さないで、一人で考へて、考へて、到頭承諾することに決めたのですと。そして次の日曜の晩、また教会の戻りに一緒になつて、約束をしたのださうですが、是れからがお話しですよ。其のエンゲーヂメントの発表のしかたが面白いぢやありませんか。月曜のお昼に、家中のものが、みんなテーブルに集まつた時に、だしぬけにミス、ビーが「わたしや或る重大なニユースを持つてゐる」と、斯う言つたさうです。するとみんなが「何だ〱」といふ。ミス、ビーが「ミスター、シーの一家に関して」といふと予て知り合ひの仲ではあるし、みんながびつくりして、フオークもナイフも投げ出してミスビーの顔を見てゐると、ミス、ビーは落ちつき払つて、「ミスター、シーが結婚約束をしたさうです」と言つたのですとさ。みんな吹き出して、「何のことだ」とは言つたが、ミス、ビーの顔があんまり真面目なので、シスターが「誰れと? 姉さん」と問ふと、ミス、ビーが真面目くさつて「ミス、ビーとです」と言つたので、皆な二度びつくりして、「まあ此の人は」と言つた限りで、跡は大笑ひになつたさうです。」」(「旅中旅行」。抱月:129; 131f.)。オースチンの小説はまさに写実だったことがわかる。
抱月の滞欧は日露戦争に重なる。戦勝を喜ぶのはいいのだが、「英国で見た日本」を報じる記事中に気になる一節がある。「従来欧羅巴のものが、東洋人―亜細亜人―未開人といふ勝手な評価から、東洋人の悪特性として数へるもの、陰険、狡猾、酷薄、卑屈といふやうな箇条が最も普通で、オリエンタル、ツリーチエリー(東洋的奸黯)オリエンタル、クルエルチー(東洋的残忍)オリエンタル、サーヰリチー(東洋的奴隷心)といふ語は、種々の場合に用ひられてゐる。而して其の標本は支那人と見られ、非常の軽侮を受けてゐる。日本人が常に貧民町などで小供に跡から囃されなどするのは、大抵この支那人と見られるからで、彼の『ゲイシヤ』と題する芝居に使つてある「チン、チャン、チャイナマン」といふ唄を唄ふ。此の唄は三ツ子でも知ツてゐる。つまり従来の日本人は支那人と不名誉を分かつてゐた。日清戦争以来、一部の人には、日本といふ国の支那と別であることが分かツたれど、今回の戦争までは到底普通一般に我が国の地位を認められることは出来なかつた。現に僕など、日本は何時から独立したかなどいふ問に、屡々接した」(抱月:162f.)。当時の欧米先進国では人種差別を受ける現状があるわけで、「黄禍論」を忌みつつも、「脱亜入欧」の口吻を漏らす。「脱亜入欧」は中国人と見分けのつかぬ風貌(背は彼らより低いのだけど)の欧米留学のエリートにとって、切実に身体的な問題だったのだろう。
明治38年(1905)7月26日、ドイツ船ローン号で帰朝の途に着く。長い船旅の無聊を慰める乗客たちの素人演芸会が催され、その余興に”Loss and Gain”というファルスを書いて朗読した。9月3日には上海に上陸、芝居を見る。「夜八時頃より四馬路の丹桂茶館といふ支那戯場に到る、観劇一時間許にて出づ、入口に便所ありて臭気甚し、舞台の構造は極めて簡粗、奥は普通の硝子戸にて仕切り、書割道具立といふもの更に無し、囃子方及道具方とも舞台正面に居り、入口は上手下手の両奥にあり、多くは役者下手口より出で、上手口に入る、立廻りは取ツたりにて持切り、顔の隈取のgrotesqueなること甚し、二場目に道化的濡場あり一寸見るに足る、他は殆ど論外也囃子の騒しきこと限り無し歌詞とセリフのチャンポン也幕合いといふもの全くなし、見物は卓子を囲みて座し得ること独乙あたりの寄席のそれと同じ、茶を碗に盛りたるを持来る、番附は紅紙に摺りたるを持来る、見物の騒々しく勝手に立あるき且高声に話合ふ様乱暴也、此費用四五十銭を超えず上海第一の支那劇場也、途中四馬路は支那街の最繁富の所、妓楼軒を並べ、街上には芸妓の輿を飛ばすもの引きもきらず」(榎本・竹盛:93)。帰国後劇団芸術座を主宰して活躍する人であり、滞欧中は観劇に足を運ぶこと多く、彼の地の大衆演劇や西洋寄席まで見ていたのに、中国の旧劇に対する評価がこれか。ヨーロッパ文化に造詣深く、しかし短い生涯のうち海外旅行は大正10年(1921)の中国旅行の一度だけで、その旅行記に「私は支那を愛さない。愛したいにしても愛し得ない」と書いた芥川龍之介(1892−1927)が、劇場の汚さには辟易しつつ(彼は上海では天蟾舞台というのに行った)、旧劇をしっかり味得していたのと対照し、残念に思う。「脱亜入欧」を感じてしまう。


在留中は同様に幸福な留学生活だったが、上述の人々とやや違って、今岡十一郎(1888−1973)はあまりエリートではない。帰国ののちは外務省嘱託で過ごしたわけだから。つまり、上記2は満たし、1、3の条件には欠けるのだけれど、その2のありさまがおもしろいので、ここで見ておこう。
今岡は、松江近郊乃木村に生まれ、東京外国語学校独逸語科・仏語専修科を卒業後、大正11年(1922)に渡欧し、オーストリア・ハンガリー帝国の一部だったハンガリーブダペスト大学に学ぶ。その後昭和6年(1931)の帰国まで足かけ10年ブダペストに暮らし、私設公使といった格好で、この親日国で日本の紹介や講義講演、日本関係の展示会の組織や日本人来訪者の案内などをしていた。新聞雑誌への寄稿は800回、全国各地での講演は750回を数えたという(徳永:230)。ハンガリーでは日本紹介書”Új Nippon(「新日本」)”(Athenaeum, 1929)という本をハンガリー語で著し、日本に帰ってからは「ハンガリー語四週間」(大学書林、1969)「ハンガリー語辞典」(日洪文化協会、1973)「フィンランド語辞典」(日洪文化協会、1963)などを出した。
今岡の名は、今は上記の語学書の著者として残るが、終戦まではツラン民族運動家として知られた。戦争中に設立された日洪文化協会の中心メンバーで、著作翻訳を通じてツラン運動、つまりウラル・アルタイ諸語ハンガリー語、フィン語、エストニア語などのフィン・ウゴル語族と、テュルク語、モンゴル語満州語などのアルタイ諸語)を話す諸民族、さらには朝鮮、日本も一つの源に発するものとして、その連帯を説く運動を推し進めていた。汎ツラン主義は、イデオロギーとして汎ゲルマン主義や汎スラブ主義のように政治的に利用される傾向があった。ちなみにハンガリーフィンランドも日独伊枢軸側である。
ハンガリーに行きついた事情、留学中の生活について、「ハンガリー語辞典」のあとがきにこう書いている。大正3年(1914)、ハンガリー民族学者バラートシ・バログ・ベネデク教授が北海道・樺太におけるアイヌ・ギリヤーク・オロッコなどの研究旅行に来た際、ドイツ語の通訳として同道したが、その年の7月に勃発した第一次大戦で彼は帰国したけれど、大正10年(1921)再来日し、「こんどはツラン運動をやりたいから協力してくれとのことで、私は彼の講演の通訳や、日本の新聞などへの寄稿のときの翻訳やらで、かれこれ一年ほど彼の仕事に協力した。(…)
翌大正一一年(1922)、バラートシ氏の帰国に際し、私は、東大・外大・大原社会問題研究所などの嘱託として渡欧、敗戦後ドイツの経済的混乱、道徳的退廃の実情をまのあたりにして茫然とし、自失の状態にあった。折も折、バラートシ氏の勧めで、とりあえずハンガリーへ行くことになったのだった。
だが、風光明媚の一語につきる、ドナウ河畔の首都ブダペストに着いたときの私といえば、それこそハンガリー(自国語でマヂャル)ということばすら知らなかった。そんなわけで、さいしょのうちは、ドイツ語で用足しをしていたが、新聞雑誌はもちろん、日常生活のすべてがマヂャル語なので、いやでも応でもハンガリー語を身につけざるをえないハメになった」(今岡:907f.)。
「しかし、新聞が読めて、大学の講義がわかるようになるのは、前途遼遠の感があった。そこで、どこへ行くにも洪独・独和・和独・独洪の四冊をカバンに入れて離したことがなかった。ある日、ヴィラーグ(világ・世界)という新聞がこのことを知って、「三冊の辞典と一人の日本人」(Három szótár és egy japán)という見出しでコラム欄に取り上げ、私のハンガリー語学習を諷したことがあった。(…)
こうしてあれこれと学習の道をたどるうち、私は、日本に対するハンガリー人の関心が、並々でないことを知った。だが、日本にかんする彼らの知識は、日本に旅行したヨーロッパ人の記録を元にして彼ら流に解釈されたものであることが分かったので、私は、日本人の物の考え方の基本的なもの、つまり、日本的なものの考え方を直接、彼らに伝えたいという気持ちになり、日本にかんするハンガリー語での講演、新聞雑誌への投稿をはじめた。これらの講演や論文の下書き作製のため、かなりの努力を必要としたので、いつしか、やっとハンガリー語がわかるようになった」(同前:908f.)。
「この国の人たちの親切は直接、私に対するものだけではなかった。たとえば、国会議事堂や博物館などは、通常、日曜祭日には参観を許されないのだが、私が連れてゆく日本の視察者にはいつも心よく見せてくれたのだった」(同前:913)。
「私の帰国を伝え知った当時の自由主義新聞ペシュティ・ナプロー(Pesti Napló)論説委員サボー・ラースロー氏は、”Imaoka haza megy”(イマオカは帰国する)という一文をかかげ、『我々はイマオカにより多くを学んだ。日本の古い文化について、また新しいことも。また一千年前の女流作家、紫式部の長編小説「源氏物語」についても聞いた。願わくば、その帰国後は、われわれの敬愛する日本国民に、はるか西方、中央ヨーロッパの景勝の地、ドナウ盆地において文化の高い異民族と、きびしい生存闘争のさ中にも、日本を慕うマヂャル民族のいることを伝えて欲しい…』との別辞をもって送ってくれた」(同前:914)。
そして、「いっぱんにマヂャル人は親日的と言えるのであって、それはマヂャル人の起源が東方中央アジア方面の民族につながるという、言語的・伝説的・歴史的意識にあると思われるからである。それにしても、私がハンガリー人の間で一〇年ばかり暮らして、いちばん心よく思ったことは、ハンガリーのどこに行っても、私をよそ者として扱わず、常にマヂャル人の遠い親類として敬愛の念をもって遇してくれたことであった。それは大学生活でも、また田舎の学友宅でも、それから初対面の農民たちの間でも、いつも遠来の客として握手を求め、あたたかく遇してくれたのである」(同前:911)と書くのだが、”Új Nippon”には「ハンガリー人の質問」という章があって、ハンガリーには珍しい東洋人としていろいろ浴びせられた質問の様子が書きとめられている。
「所帯持ちはこんな質問をしてくる。
−どこに住んでいるか? 住居はいいか? 家賃は? どこで食事を? いくらする? 住居や食事に満足しているか?
ユダヤ人と知り合いになると、次のような質問で攻め立てられる。
―誰と知り合いなのか? 誰が紹介したんだ?
あたかも裁判官のように訊問する。残念ながら名簿を持ち歩いているわけではないので、お望みのような厳密な回答はいたしかねる。けれど「リベラルなハンガリー人」はさらにもっと問いつめる。
―どこから金をもらっているのか? 誰から? 現金か、小切手か?
まるで探偵のようだ。何かを見せてやるか、あるいはプレゼントでもしようものなら、ただちに質問が飛ぶ。
―いくらしたんだ?
そしてわれわれの通貨に興味をいだく。
―1円はいくらだ? 商売が大事だからね! 売ってくれるか?
―知らないね、日本の金は持っていない。―じゃ、1ドルはいくらだ?― というのも、きっとドルを持ってきたにちがいないと考えるからだ。
―それも知らない。銀行へ行きなさい。あそこならきっとみんな知っている。
―日本にユダヤ人はいるか?
―幸いにしていない。―何の気なしに正直に答える。
と、握手もせずに、人をうっちゃって立ち去る」(Új Nippon:262)。
ハンガリー生まれのドイツ人と偶然出会ったとしよう。ただちにガミガミ言い出す。
―ここで何をしているのか?
―勉強している。
―ここで何が勉強できるのか?
―哲学です。
ハンガリーの哲学が外国のよりいいと思うかね?
―まずよくもなく悪くもないでしょう。
―貴君どいつ語ヲ解スヤ?
―シカリ。
―何故はんがりーノ言語ヲ学ブヤ?
ハンガリーではハンガリー語はできなくてもいい(というのは彼および彼の家族の話だが)。40年暮らしているが、ハンガリー語はできないけれど問題なく生活している。誰も好んで頭を煩わせはしない。ハンガリー語はとんでもなく難しい。そんなもののために多くの時間を犠牲にする値打ちはない。この言葉ときたら、汽車で2時間も行けば、もう使いものにならんのだから」(同前:263)。
ハンガリーの医師と結婚したあるオーストリアの婦人が言った。
―はんがりー人ハ独自ノ文化ヲ持タズ、概シテ知的トハ言エマセン。彼ラハヒドイ盲目的愛国主義者デス。夜警、馬飼イ・・・ シカシ私ハうぃーん人デス!
―では、なぜハンガリー人のご主人のところに来たのです?
―あら、それは別よ!」(同前)。
「いわゆるツラン運動家はこのように迎える。
―やあ、よく来た、どうだい、ツランの兄弟よ!
―どうも。
―日本にツラン運動はあるかい?
―ある。しかし民族間の憎悪に基づくのではなく、「アジアはアジア人のもの」を標語とする汎アジア運動だ。
―なぜ日本は世界大戦でイギリスの味方をしたんだ? なぜ我々を助けなかったんだ。
―日本はおよそ35年前から英国と同盟を結んでおり、国際規範と同盟のよしみを守らねばならなかったからだ。・・・
そしてこのあとお世辞のつもりで、日本人の顔の特徴は少しヨーロッパ人に似てきていると言い出す。ありがとう、だがそんなことはない。とんでもない。それどころか、我々は純粋な日本人種であることを誇りにしているのだと答える。
―ここにユダヤ人の知り合いはいるのか? 日本にユダヤ人はいるか?
―日本にユダヤの臣民はいない。
―おお! 幸せな国だ! 一人も流れ込ませてはいかんぞ!」(同前:264f.)。
「このようなあらゆる角度からの含むところのある質問攻めのあと、田舎の生粋のハンガリー人に会うと、外国人は本当に生き返る心地がする。彼らのまず発するのは質問ではない。遠くから来た旅行者ではなく、第一に人間が、客人が重要なのであり、このように迎える。
―ようこそ! 日本の友よ! ハンガリー語がおできかな?
―ええ。
―立派なものだ! お上手じゃが、どこで習いなすった?
―ここで。
―いつからハンガリーにいらっしゃる?
―およそ2年前からです。
―けっこうなことじゃ!
心から喜んでいるのが目に見えるし、何をもっても遠来の客人をもてなそうとする。これこそ真のハンガリーの歓待! そしてさらに尋ねる。
ハンガリー料理は口に合いますかな?
―ええ。
―お国に小麦はありますかな? パプリカは? 豚は? 牛は? ニワトリは? ぶどう酒は?
―ありますとも。
これらはみな実に素朴な質問だが、まさにそれゆえに親愛なものである。・・・
田舎にはなお本当のハンガリーのもてなしと本当のハンガリーの心が生きている!」(同前:263f.)。
明治期の留学は、言うなれば日本の脅威である国への留学であった。そのような国がつまり先進国であり、その脅威に耐えうる国を作り上げることが急務であったからだ。しかし、このころにはとうてい国家的脅威にはなりえない欧米の小国へも留学するようになっていた。日露戦争後の日本にはそこまでの幅とゆとりができたわけだ。