留学のいろいろ (7)

留学しなかった人びと
留学するのはエリートだけではない。選良留学のほかには、まず技術留学がある。文久年間西周らとオランダへ行った職人たちに始まるから、これも伝統ある留学だ。語学習得を目的とするものもここに入る。エリートと真逆の「落第留学」というのも存在する。自国では進学できない者が外国の学校に入るもの。それとは別に、「はみ出し留学」もある。自国の制度に収まりきらない者がする留学。熊楠のなどはここに属するだろう。どら息子連の「遊興留学」ももちろんある。それから、ほとぼりを冷ますための「噂76日留学」。大杉栄殺しの憲兵大尉甘粕正彦のフランス滞在がこれに近いが、ただあれは留学とは言えない。


留学した人々の一方で、留学しなかった人もいる。もちろんいる。した人なんて一握りで、しなかった人のほうが圧倒的に多いのは当たり前だが、留学して当然なほど優秀でありながらしなかった人のことは、見ておく必要がある。たとえば坪内逍遥(1859−1935)。英国でこそ学ぶべき英文学専攻で、それのみならずわが国近代文学や近代演劇の開拓者であり、シェイクスピアの全訳を成し遂げた人なのに、留学していない。
留学も、私費なら好きなようにすればいいし、実際好きなようにしているが、公費となると、選び選ばれる関係だから、優先される専門があり、理工、医、軍、法政あたりであれば、有為の秀才青年ならまず行ける。教(仏教・耶蘇教)というのもパトロンがいるのでけっこう行っている。しかし文は後回し、お鉢が回ってくるのはいつも最後、ということだ。また、官学か私学かによっても事情は大いに違う。私学ではなかなかむずかしい(逍遥のように、東京大学を卒業しながら、政変で下野した大隈の設立した「反謀学校」に勤めていては、とうてい無理である)。時代という要因もある。留学適齢期が戦争や敗戦に当たってしまうと、この人が、という人が留学していないことがある。すればいいというものではないけれど、留学が「選ばれし秀才」の印象をおびている以上、意外なことではある。
中国人の日本留学も実用偏重で、留学生の「十中九までは法律政治を学び、その次が理科工科で、文学に対してはみな頭から軽視してかかっていた」(「魯迅について その二」)と周作人(1885−1967)が言っているとおりだ。で、ご当人は日本で英文学を学んでいたりする。けれど、日本人は理工系重視の派遣なのに対し、中国人は法政科、つまり立身出世学科重視なのは特徴が出ていておもしろい。
逍遥のシェイクスピア劇に対し、漱石が「博士はたゞ忠実なる 沙翁の翻訳者として任ずる代わりに、公演を断念するか、又は公演を遂行するために、不忠実なる沙翁の翻案者となるか、二つのうち一つを選ぶべきであつた」(「坪内博士と『ハムレツト』」)と批評しているのは、当たっているだけに気の毒な感じがする。「自己の意志をもってすれば、余は生涯英国の地に一歩もわが足を踏み入るることなかるべし」(「文学論」序)と言い切るほどの漱石であるが、ここにはイギリスに行った者と行かなかった者の差が厳然とあるわけだ。「小説神髄」を書いて新時代を開きはしたが、結局のところ戯作や歌舞伎で自己形成をした人であり、それ以上に新しくなることができず、漱石や没理想論争の相手の鴎外のように留学をした人に追い越されることになった。
逍遥の甥で養子の坪内士行(1887−1986)はアメリカへ、一番の弟子であった島村抱月はイギリス・ドイツへ、ともに留学している。彼の次の世代は文学芸術なんぞの勉強でも留学できたわけだ。抱月の場合、留学から帰ったあとは母校の文科を背負って立つべき期待を持たれていたのだけれど、結局松井須磨子との恋愛事件で早稲田を去ることになってしまった。士行も女性問題で養子関係を解消されている。このあたりも新時代なのだろう。逍遥自身は夫婦仲がよかったそうだ(妻は元娼妓だが)。


時代のために留学できなかった人も、真に優れた人であれば、必ずそれに代わる道を見つけるし、見つかる。そういう人は戦後になって事情がよくなるとさかんに海外に招かれるようになるわけだが、それ以前、戦争の時代にも一種の「国内留学」をしているのだ。
生態学から民族学へ進み、民族学博物館を作った探検する文明学者梅棹忠夫(1920−2010)は、生まれ年が生まれ年であるから、留学どころか、兵役はまぬがれない。しかし、若い研究者が次々と軍隊に持っていかれ、学問研究が空洞化するのを憂えて、大学院特別研究生という制度ができ、彼はその第一回の要員に選ばれた。兵役は2年延期され、昭和19年(1944)5月に張家口に今西錦司を所長として西北研究所というものができ、そこに配属されて遊牧のフィールドワークをやった。今西の遊牧論の基礎になった研究である。研究所の人員はみな日本人だから、場所が外地であるだけの国内研究所とも言えようが、外国で研究したことには違いない。
世界的な宗教哲学者でイスラム学者の井筒俊彦(1914−93)がアラビア語を独習していて、いい教師を求めていたときに、亡命タタール人のアブドゥルラシード・イブラヒムというパン・イスラミズム運動の領袖が上野にいると聞き、頼み込んで教えてもらった。すぐに気に入られ、「わが子よ」と言われるくらいに可愛がられたという。そのあと、一所不住の大学者で、来日して押入れの上段に寝起きしていたというムーサー・ジャールッラーハに続けて教わった。「コーラン」でも「ハディース」でも、イスラムの学問の本は何でも暗記しているという人で、頭の中に入れている「シーバワイヒの書」というアラビア文法学の本を講じてもらった(司馬b:11ff.)。ことアラビア語イスラム学のような日本からはるかに縁遠い専門でも、いくつも道はあった。時の利も、却ってあったとも言える。大川周明が東亜経済調査局でイスラム研究を始めていたときだったからだ。西北研究所も満蒙進出の国策の一環である。それらのことは外国への道を狭めるものであったが、物事は決して一面的ではない。それは他方で別の道を開いてもいたのである。熱意と才能のあるところに、道は開かずにはいない。
松江生まれのインド哲学・仏教学の大家中村元(1912−99)も、留学はしていないが、戦後スタンフォード大学ハーバード大学などで客員教授をした。井筒俊彦ロックフェラー財団のフェローとなって海外へ赴き、マギル大学(カナダ)、イラン王立哲学アカデミーなどで客員教授をし、ユングらのエラノス会議のメンバーともなった。留学できなかったのは時代の壁によるものだろうが、逆にそれが証するのは、彼らのような専門でも留学することなく国内で世界第一流の業績をあげうるほど学問ができる環境が整っていたことで、かつ、戦争という障壁が除かれ、交通が発達して外国が近くなった時代には、彼らのほうが外国へ教えに行くのである。あの愚かな戦争は、留学をはばむ一方で、はからずもこんなことを証明した。明治日本の設計者たちは喜んでいい。


制度の堕落だが、公費留学はやがて堕落する。すべてのシステムが堕落するように。
「たいていの大学では、講師になって三年経っていれば誰でも外遊させてくれる。半年、一年、二年と、期間はさまざまだが、それに応じて大学が金を出してくれる。一応は帰国後、研究成果についてのレポートを提出しなければならないが、これは原稿用紙最低一枚でよく、内容もなんでもよい。つまり事実上は観光といってもよい外遊なのだ」(筒井:8)。
「外遊」するならまだいいが、留学に派遣されながらその期間中ずっと家に隠れていて、留学費だけもらっていた教師などもいたそうだ。筒井康隆の小説「文学部唯野教授」はだいたい実話を元にしている。もちろん戯画化されているが、恐ろしいのは、あれが大した誇張でないということだ。