留学のいろいろ (1)

漂流者たち
天保12年(1841)正月5日、土佐中浜村の万次郎少年(1827−1898)ら5人の乗り組んだ船は漁に出た。万次郎は当時15歳、9歳のとき父親を亡くし、13、4歳の頃から船に雇われ、魚はずしとして働かなければならなかった。沖で不漁が2日続いたあと、7日は大漁だったものの風が強く、帆柱が折れてしまった。船はそのまま風波に押し流されて漂流し、13日にようやく絶海の孤島に上陸した。彼らは雨水をため、おびただしくいるアホウドリの肉を食べて飢渇をしのいでいたところ、6月になって3本マストの異国船が現われた。それはアメリカの捕鯨船で、彼らはその船に救助され、サンドイッチ群島(ハワイ)のホノルルに連れて行かれた。4人はそこに残ったが、利発な万次郎はホイットフィールド船長に気に入られ、船長と行動を共にし、1844年、船長の家のあるマサチューセッツ州ニュー・ベットフォードに帰ってきた。そこで学校に通わせてもらい、算術や測量術を学んだ。アメリカ人は彼を「ジョン万」と呼んだ。1946年4月、また航海に出て、ホノルルに立ち寄ってその地に残った3人(4人のうちの1人重助は病死していた)と再会したり、またニュー・ベットフォードにもどってから、ゴールドラッシュに湧くカリフォルニアで砂金取りをしたりしたのち、またホノルルに渡り、1850年11月、伝蔵・五右衛門とともに上海行きの船に乗り込み(寅右衛門はハワイに残った)、翌年正月2日に琉球の沖合でかねて購入の短艇冒険号を降ろしてもらい、それに乗って沖縄本島南端の村に着いた。その村、鹿児島、長崎で漂流民の吟味を受け、ようやく嘉永5年(1852)10月、土佐の生まれ在所に帰り着いた。
帰国は幕末の多難な時期で、翌嘉永6年(1853)には黒船が来航している。幕府は英語ができアメリカの事情にも明るい万次郎を旗本に取り立て、航海、測量、造船の御用を命じた。幕末維新期、万延元年(1860)遣米使節団の一員として咸臨丸でアメリカへ渡ったのを始め、英語教育などで活躍したのはよく知られている。
これは留学ではない。留学とは修学の目的をもって行なうものである。これは漂流であって、教育を受けたのは偶然にすぎない。しかし、渡った先で学校に通い、帰ってのちは人に教え世の中の役に立ったという意味では、かっこつきで「留学」としてもよかろう。
四方を海に囲まれた日本では、漁業が盛ん、近世は船運も盛んで、その結果難船漂流はよくあることだったし、たいていは海の藻屑、無人島の白骨になったろうが、中には運よく助かる者もあり、さらに運よく異国船によって日本に帰還する者も江戸時代を通じてけっこうあった。文政3年(1820)遭難漂流してオランダ船に助けられ、2年後身一つで帰ってきたという浜田藩会津屋清助などがそうだ。南風が寒く北風が暖かいとか、相撲取ろうの島で相撲を取ったとかいう妙な話をしていたが、息子の八右衛門はそれを信じ、竹島渡航と称して抜荷(密貿易)を行ない、露見して死罪となった。見聞のみ持ち帰り、その見聞は結局息子の身の破滅という形にしか実らなかった。
天明2年(1782)に遭難しアリューシャン列島へ流れ着いた大黒屋光太夫(1751−1828)も有名である。ロシアでは、ピョートル大帝の頃の伝兵衛以来、日本人漂流民にロシア語を学ばせ、サンクトペテルブルグ、のちにはイルクーツクで日本語を教えさせるということを続けていた。中でも1729年に薩摩からカムチャトカに流れ着いた薩摩のゴンザは、デミアン・ポモルツォフと名を変え、ロシア人学者の協力を得て露和辞典や会話書を編纂したというし、光太夫の一行だが帰国を選ばずイルクーツクにとどまった新蔵は(ロシア名ニコライ・コロツィギン)、「日本および日本貿易について、あるいは日本列島の最新の歴史記述」なる本の監修を行なった(井上:15; 369)。学んだという点では「留学」の一面があるが、帰って来なければ「留学」たりえない。これは「抑留」「留用」だ。だが、帰ったところで同じである。帰国のため奔走し、望郷の念やみがたく10年の辛苦ののちに帰ってきた鎖国日本で、光太夫は番町薬草園に幕府の「囲い者」になって生涯を終わった。ロシアのやり口と日本のやり口は鏡うつしであることがよくある。
19世紀前半までの漂流は鎖国政策の影におおわれていたが、その後半、幕末になると事情が変わる。香港・上海とハワイ・サンフランシスコの間を通う船が多くなり、捕鯨船も日本近海に出るようになったため、救助された漂流者もけっこういたし、開国が近づくと帰国がかなうこともよくあった。漂流者は船乗りで、帰国までの間外国船で働いて洋船の操船術も知り、英語もいくらかはできるようになったので、帰国後藩に召し抱えられることもままあった。とはいえ、真に活躍したと言えるのは万次郎とアメリカ彦蔵(1837−1897)ぐらいなものだ。彦蔵は播磨の生まれで、嘉永3年(1850)に遭難、米国船に助けられ、ミッションスクールに学び、安政6年(1859)ハリス公使の通訳として日本に戻った。日本で初めて新聞を発行したことで知られる。彼はキリスト教に改宗し、アメリカに帰化していた。万次郎も彦蔵も、利発で人に愛される性格だったことと、何より遭難時少年だったので、親代わりになって学校へ通わせてくれる人がいた。彼らのように、流れ着いた先で勉強もし活動もし、帰国もかなったうえ、帰国の時代が彼を必要としていたというのは、僥倖であったと言うべきだ。帰国後の活躍を見れば、学んだ人と生活しただけの人の差がわかる。しかし、英語こそアメリカで学んで身につけていたが、日本で日本語の読み書きは十分に習得していなかったので、通訳として重宝された幕末と明治の最初期が過ぎると、時代に追い越されていったのもまた当然であった。もとより留学でないのだし、漂流民の限界である。
だが、漂流は胸に迫るものがある。漂流するのはほぼ船乗りに限られるという点では、職業による平等はない。生き抜くためには力も強い意志も必要だっただろう。しかし彼らは究極のところ、「天に選ばれた者」である。人事を超えている。こざかしい人事の彼岸であることに、ある種の感動を覚える。一方で、彦蔵と同じ船で遭難して上海に住み、開国後赴任するイギリス公使オールコックに通弁として雇われた岩吉(改名して伝吉)のように、イギリスの威を借って傲慢な振舞い多く、攘夷の武士に斬り殺された例もある。たかが英語が多少できるぐらいのこと、それは自分の能力というよりむしろ運命の施し物であったのに、それを勘違いする悲劇も生まれるのも、「天に選ばれる」ことのうちに含まれるのだが。
ジョン万次郎の軌跡には、留学の「ジョン万原型」とでもいうものが認められる。つまり、
1. 旅が難儀である。
2. 最も肝要なのは向学心である。その際制度は重要でない。
3. 帰国してこそ(正確には、帰国して世に働いてこそ)意味がある。
2と3が普遍的なのに対し、1は交通機関が発達するにつれ次第に薄まっていくが、初期留学には大いにあったことだ。ここでは幕末・明治以降の近代留学を見るのだが、その初期においてはほぼ「遣唐使」だった。つまり、渡航が冒険であった。その昔、遣唐使に難破はつきものだった。たとえば、日記を残しているために唐での行路動静がよくわかる円仁(のちの慈覚大師、794−864)の場合、承知3年(836)5月12日出航するも、嵐で第一船と第四船は九州に吹き戻され、第二船も九州漂着、第三船は難破し、生存者は対馬などに漂着した。翌年(837)の二回目の渡航の試みも壱岐五島列島に流されて失敗。承知5年(838)三度目の渡航が試みられたが、その前に遣唐副使小野篁は仮病を使って乗船を拒み、そのため隠岐島へ流刑になった。6月22日九州を発し、今度はやっと渡ることができたが、円仁が乗った第一船は長江河口近くの浅瀬に乗り上げ、第四船も遠からぬところで座礁し、死者が出た。第二船は山東半島の付け根のあたりに着いた(遣唐使船は4隻で行くのだが、第三船が難破していたので、二回目三回目の航海は3隻で行なわれた)。円仁は7月2日上陸。揚州に着いたのは7月25日。一行はそこにとどめられ、ようやく10月5日に大使は長安へ出発、12月3日に到着した。旅の苦難思うべしである。小野篁でなくとも逃げ出したくなろう。


文久2年
留学とは、簡単に言えば外国へ行って学ぶことだが、後進国であった日本の場合、知的エリートが先進国に渡って学び、進んだ知識を吸収して自国を益すること、という意味の傾きを持っている。それは後進国一般に当てはまる。留学の目的が個人的な成功であるとしても、その成功は社会に還元される。
最初の近代留学生の派遣は、文久2年(1862)、徳川幕府によるものだった。
「幕府が和蘭へ海軍留学生派遣の事は蒸気軍艦製造註文に関聯して起つたことで、是は其頃永井玄蕃頭其他要路の人々の間に海軍拡張の急務なることが切実に考へられた結果、軍艦増建士官養成といふことも益々盛になる気運に向つたのであつて、(…)乃で幕府は軍艦一隻を先づ和蘭へ註文しようといふことになつて、長崎から当時のコンスル・ゲネラール(総領事)デ・ウヰットを江戸へ招き寄せて交渉を進め、其相談が纏つて愈々和蘭で建造さるゝことゝなつた。此軍艦が後年幕府第一の新鋭なる軍艦にして、又当時東洋に於ける優勢の軍艦であつた開陽丸である。
軍艦建造のことが決つたので、幕府は亦之と同時に留学生を派遣するの議を定めて、愈々文久二年壬戌年三月十三日に城中に於て該留学生へ左の通り申渡した。
先般亜米利加国政府え蒸気軍艦御誂相成右製造中諸術研究として被差遣候旨被仰渡、夫々支度相
整ひ候議之所、亜国政府之方差支有之、急速其運びに不至候に付、今般改て右軍艦和蘭国政府え
御誂替相成、依て役々の者も同国へ可相越候。
江戸で此命を受けた者は左の七人である。
内田恒次郎(成章)
榎本釜次郎(武揚)
沢太郎左衛門(貞説)
赤松大三郎(則良)
田口俊平(良直)
以上の五人は御軍艦操練所の士で、内田・榎本・沢は御軍艦組、田口と私とは御軍艦組出役、一同外軍諸術研究を目的とする。
津田真一郎(行彦)
西周助(時懋)(後に西周と改む)
以上二人は洋書調所教授手伝並で、外に長崎の養生所に於て和蘭人ポンペを師として医学修行中の
伊東玄伯(後宮内省侍医伊東方成)
林研海(後陸軍々医総監林紀)
二人は長崎で一行に加はることになつた」(赤松:114ff.)。
そのほかに、水夫頭・古川庄八、船大工・上田寅吉、鍛冶職・大川喜太郎、鋳工(大砲鋳物)・中島兼吉、時計測量器技師・大野弥三郎、上等水夫(帆縫)・山下岩吉も同行した。「大野は、オランダで時計の製法を学んで帰国後、時計製作所を設け、日本ではじめて懐中時計をつくったほか、大阪の造幣局で各種の機器を製作したといわれる。また上田は、のち海軍技師となり、清輝、天城、天竜などの諸艦の設計にも参加した。かれは留学中、オランダの本もよく読み、専門書もこなしていたという」(石附:382)。
文人・学者・政治家などの留学に比べ、職人や技術者の留学は注目されないが、彼らも日本の発展に大きく貢献している。文人・学者は記録される。みずからも書けば、周囲も書く。彼らはいわば「書記カースト」である。歴史を記し記される。もの言わぬ人たちにももっと目が注がれなければならない。海外渡航で言うならば、旅芸人やからゆきさんなどが先駆者であり先兵だ。中国で言えば華僑、苦力だ。しかるべく取り扱われるべきである。
明治初期に啓蒙学者として活躍した西周(1829−1897)は、石見国津和野に藩医の息子として生まれた。脱藩し洋学を修め、幕府に召され蕃書調所教授手伝となった安政6年(1859)に、越後糸魚川藩の侍医石川有節の娘升子と結婚した。渡米渡欧を果たすべく運動していたが、万延元年(1860)の遣米使節団には随行できず、次の機会を待つことになる。そんな時期である。だいたい明治期の留学生は留学直前に結婚することが多い。大事を前に身を固めるということだが、ひとり生還を必ずしも約束されていない万里の果ての仕事に赴き、新妻に長く孤閨を守らせるのは、現代とは違うメンタリティである。行った先で無謀なことをせぬよう、家への絆を強め、必ず帰って来させるまじないでもあろうか。
升子は周助の出発に際し、歌を詠んでいる。
「まだ知らぬ千さとのほかの国にして行きます君を守りませ神
今のわがうきもつらきも諸ともに昔がたりとなすよしもがな」
慶応元年(1865)に周が帰国したときには、
「慶応元年十二月二十八日の夜背の君のかへらせ給ひしに、
指折りてかぞへ待ちにし日を更にはたかずふれば四年なりけり
暮れて行く年のなごりも嬉しさに忘れはてたる今にもある哉」(川嶋:57; 101)
留学仲間の赤松則良の帰国(1868)の場合は、「私の留守宅では私が恁様に突然和蘭から帰つて来ようとは考へても居らなかつたので、河岸から行李を船夫に担がして門口に入ると、只一人家を守つてゐた母は私の声を聞くのは真に根耳に水の驚きで、夢かとばかり駈け出して来て碌に口もきけぬ程の喜びであつた」(赤松:211)。国で帰りを待つ人たちもまた留学の一部分である。南條文雄が7年の留学を終えて帰朝したとき、養母は「おまえの言うことがわかる」と言って喜んだそうだ。日本語を忘れているとでも思ったか。素朴な恐れである。そこまで遠い距離、そこまで長い不在。それを思い暮らしている人たちのことも忘れるべきでない。


難破西周らの留学で、特筆すべきは三項である。いわく、難破・篤志勉学・客死。
純然たる漂流である万次郎らは別としても、難船は船旅にはあることだった。近代最初の留学生の洋行は、ほかに麻疹流行にも見舞われたりして、ずいぶん難儀な旅だった。まず、旅立ちのようすを西自身の筆になる「和蘭紀行」から見てみよう。
文久の二、みつのえ戌のとし、六月十八日、朝六ツ半時江戸の下谷三味線掘の宿より旅たちしき、余と同しき業もちて洋書調所に仕へ、同じく遣洋留学の仰を蒙れる津田行彦も和泉橋とをりに住ミて程ちかけれは、人はしらせて同しく路につきけり、義兄手塚をはじめ妻およひ家の人隣の人々其外睦ひし朋友なと見送にとて和泉橋迄来りて別をなし、中には教への子妻方の児子なと送りて築地の操練所まて至りき、午のときすきはかりに押送の船ニて品川の中なる咸臨丸に乗組なしき、(…)抑かゝる大任を蒙りつるは賤しき身に余れる御恵ともおほえぬれと、才薄く学浅けれはなか〱に惶くて蚊の山負へる心地そすなる、されと素より業となしつる道の為にしあれは、よし死ねはとていなミ奉らしと心に誓ひ、夫のいにしゑの空海伝教等か仏の道求めんとて唐天竺へ行きしもかくこそあらめなと、名高き僧たちもちて自らおくへらんもいとおこかましく覚へ侍るなり、さはいへと、此事をしも思ひ企てしはなか〱にあさゆふのことにはあらすて、年久しくねかひ居ぬことなりけるに此度はからすもねかひのまに〱ことさちわひぬ」(西:339f.)。
あとは同行の赤松大三郎則良の半生談から引く。赤松則良(1841−1920)は長崎海軍伝習所に学び、この留学の前にも、万延元年(1860)の遣米使節派遣のとき咸臨丸に乗り組んでサンフランシスコへ行っている。海軍建艦の基礎を築き、のち海軍中将、男爵になった。妻は林研海(1844−82)の妹貞。同じく林の妹である多津は榎本武揚(1836−1908)に嫁しているし、弟紳六郎は西周の養子になった。赤松の娘登志子は森鴎外西周の従兄妹の子)の最初の妻で、於莵を生んだ。この最初期留学生は家族関係でも結びついている。
「さて咸臨丸に乗組んだ我々は此日の夕七ツ時(午後四時)前途に多大の希望を抱いて品川湾を抜錨して長崎に向ふ。朝陽丸も亦此日小笠原島に向つて出帆した。
翌暁浦賀に着したが風波暴き為め滞留、二十四日出帆直路鳥羽に向はうとして機関に故障を生じたので、其夕方下田に投錨した。然るに此頃関東方面には麻疹の大流行で、船中患者を発生して一行中先づ榎本が発疹し、尋で沢・内田・私にも伝染し、職方の者も同様で、咸臨丸乗組員や便乗の士官が十二、三人病床に着く。総員の三分の二が患者だといふ始末だから、遂に下田を出ることが出来ない。其中に咸臨丸乗組士官の豊田港が余病を併発して亡くなるといふ不幸などが起つて已むを得ずして八月朔日迄此所に淹留するに至つた。(…)
八月二日下田を出帆して鳥羽に向つたが、航路を錯つて行過ぎ、遅れて志摩国的矢浦に入港、此所で測量士官を上陸させるなどで八日間碇泊した上、九日の朝六ツ半時(午前七時)出帆、夕刻風波を二木島に避け、翌十日抜錨、十二日夕兵庫着、十三日神戸発、同夜五ツ半時(午後九時)讃岐国塩飽島に碇泊した。此地は私たち一行中の職方古川庄八・山下岩吉の故郷であるから、海外万里の永い旅に上るに当り親戚故旧に対し暇乞をさせんが為めに態々寄港したので、乗組水夫の大部も亦此島出身者であつたので、島民は小舟を艤して来り、本船を取巻き親戚故旧互に相見て呼ぶといふ有様であつた。
十四日の夕六ツ半時(午後七時)塩飽島を出帆、上ノ関を経て十六日夜下ノ関着、此所で石炭を積入れ十八日出帆福浦に寄り、途中石炭の乏しくなつたので十九日肥前国田助浦に入港、漸く二十二日になつて石炭船の入つて来たのを待つて之を買入れることが出来たので、翌朝抜錨昼後八ツ半時(午後三時)長崎に着船投錨した。私たちは江戸を六月十八日発してから此日即ち八月二十二日に至る前後六十五日掛かつた訳で、途中の故障とは云ひながら今日から思へば実に悠々たる航海であつた。」(赤松:125ff.)。
長崎からはバタヴィア行きの「誠に小さな風帆船」カリップス号に乗った。「十月四日船はガスパル・ストリート(Gaspar Str.)に入る。即ちボルネオ(Borneo)とスマトラ(Sumatra)との間に在るバンカ島(Bangka)とビリトン島(Billiton)との間の海峡で、亦暗礁の多い処であるが、此辺は既に赤道近く驟雨が日々数回来る為めに、暑熱も凌ぎ能く且つ涼風が起るので船の進行をも援ける。翌五日の朝又錨を上げて出たが、風が少しもなく海面は油を流したやうに静かで、船足は殆ど止つて了つた。此海峡の中央にリアート島(Liat)といふ樹木の繁茂した小島があつて、其の西の瀬戸は比較的暗礁が少ないので其航路を執つたのであるが、潮流の急な為めいつしか此小島の一里近くまで流されて、此日は此所に投錨した。翌る朝風が出たので是れ幸と錨を上げて少しく船が出るかと思ふと、船底へドシンと突当つたものがある。素破暗礁だといふ騒ぎで船長以下狼狽して脱出に努め、漸くそれを離れるかと思ふと又突当てゝ了つた。一同焦慮して引出さうと工夫したが容易に今度は動かない。一体此辺の潮の干満は一昼夜に一回で、其差は九尺程もある。船体は干潮と共に漸次傾斜し初めて十八、九度になつた。午後満潮を待つて引卸しにあらゆる方法を施したが殆ど徒労に帰したので、船長も我々を呼んで「最早万策尽きて施す術なきに至つた。言訳はないが、此上は各々生命の安全を計る為めに近傍の島へ上陸する外はない」といふ。一等安針役は中々元気のある男で、遥かにリアート島の近くに漁船と覚しき小舟が十隻程浮んでゐるのを目懸けて、ボートに乗つて出掛けて往つたが、忽ちのうちに三隻の馬来人の乗つてゐる漁船を率ゐて帰つて来たので、力を協せて引卸しを試み我々も手伝つたが更に効果はなく、傾いたまゝの船中に泊ることにして不安の一夜を明かした。
(「西周伝」によって補うと:「漁艇数隻あり。船の坐礁を知るに及びて、皆先を争ひて来り集まる。乗る所の民皆馬来種にして、其意船の廃するに至りて貨を奪ひ利を射んと欲するものゝ如し。一行皆刀を佩びて以て不虞に備ふ」という情景もあった。鴎外c:80)
翌七日は驟雨が屡々来り早風も交つて波も高かつたが、前日約束した漁船四、五艘が来たので重ねて最後の努力を試みたが、此の日は風と波とで船体の動揺が甚しく、水垢は溜る、綱は切れる、殆ど絶望の姿となつたので、一同遂に船を放棄してリアート島へ避難することに定めた。
私達は馬来人の漁船に手廻りの荷物を積込み、分乗してリアート島へ上陸したが、来て見ると遠望した如く樹木も茂つてはゐるが何れも水中から生へてゐるので、少し許り高い場所は燥いてはゐたが土に波紋のあるのを見れば、満潮には大部分水に浸ることが知れる。私たちは船から携へて来た帆布を張つて雨露を防ぐ準備をし、粥を煮て餓を凌ぎ、地上に茣蓙を布いて夜を迎へたが此日の夕刻にはカリップス号は部屋々々まで浸水するに至つたとのことである。荷物は大川・古川の両人や和蘭人が残留して大体揚げることが出来た。此夜は土人襲来の万一に備へる為めに、交る〱夜警をしたが弦の月清く晴れ渡り、孤島に旅愁を味ふて壮者も万感胸を衝くものがあつた。一行中津田真一郎の歌がある。
伊久利立、賀須巴乃海門爾、船奈豆三、中乃島回乃、月乎見加奈[イクリタツ、ガスパノセトニ、フネナヅミ、ナカノシマワノ、ツキヲミルカナ](沢太郎左衛門翁の日記に此歌あり、茲に入れる。リアート島の名は中の島といふ義なりと)(…)
此日船長から漁船に托して此所から西南十三、四里を距てたレパル島(Lepar)の酋長の許へ馬来語で救援を請ふ旨の書面を送つたので、翌九日の午前には其酋長夫婦が二十艘許の小舟を率ゐて救助に来て直ちにレパル島へ行くやうにとの事であつたが、何分にも荷物が多いので先づ乗れるだけ行かうといふ事になつて、私と内田・津田・西の四人と職方の古川・大野・中島・山下と馬来語に巧な和蘭人ファン・サーメレンと尚一人の一等按針役等と共に先発し、日暮れ夜更けてレパル島に上陸することが出来た。此島は直径半里許の小島で人口も僅かであるが、皆回教徒で礼拝堂がある。私たちは其酋長の家へ泊つた。其家は小高い丘の上に在つて三千坪程もあらうかと思ふ大きな構で、周囲には板塀を廻らし隅々には櫓ともいふやうなものが在つて、古びた長さ一間半程の元込の砲が備へなどしてあつた。家屋は瓦葺の破風造であつたが、之は酋長の家だけで普通のものは皆椰子などの葉で葺いたもので、当時の私たちには総てが頗る珍らしい構造であると感じた。
扨島へ上陸すると翌日直ぐにリアート島に残つた人々を迎へに七隻の漁船を出したが、予期の時刻になつても杳として其消息が判らないので、私達先着の者は非常に心配して皆夫々手分けをして島の廻りへ見張りに出て諸所へ焚火をするなど大騒ぎをしたが、十二日の白々明けになつて一同は漸く到着した。只船長のポールマンと水夫三人とは遂に来なかつた。是は蘭領ボルネオに属するビリトン島の方へ逃げて了つたのだといふことであつた。
酋長の家では私たちが遭難者でもあり、又初めて来た異国の客でもありするからであらうが、非常に歓待して慰めて呉れるつもりで自分も出て来て食事を共にしたが、食膳に供へられた料理などは当時の私たちには材料の見分けもつかないやうな物が多かつた。珍客の接待用として備へたフォークやスプーン、ナイフもあつたが酋長自身は巧みに指で摘んで食つて居た。私たちも未だ西洋料理には不慣れなので、上田寅吉に箸を削つて貰つてそれで食べたが、酋長は之を頗る珍らしがつて見てゐたのを覚えてゐる。(「西周伝」では、「島民皆檳榔子を囓む。歯黒く唇紅なり。又膚に塗り食を調ふるに、皆椰子油を用ゐ、其臭鼻を撲つ」。鴎外c:82)(…)
十五日になると午前十時頃バンカの方向から一艘の蒸気船が来る。見ると軍艦で檣頭に長旒旗を飜し小船を二艘曳いてゐた。午後になると其軍艦から艦長の海軍大尉が端舟で上陸した。之はバンカ島の常備艦ギニー号で、艦内にはレジデントも乗込んで私たちを迎へに来て呉れたので、是れから出発の準備に着手したが荷物が多いので到底一艘の小舟には積み切れない。乃で更に酋長に頼んで漁船を二艘出すことにして貰ひ皆協力して其夜の十二時過ぎに積荷を終つたが、潮の具合で十六日の暁方に漸くレパル島を離れた。
遭難以来種々厄介になつた酋長には諸般の費用としてファン・サーメレンから話して貰つて八十六弗三十仙を遣り、榎本から短刀一口、裁付袴、日本の旗、私から手槍一本を記念の為めに贈つて感謝の意を表した。私たちが小舟で軍艦ギニー号に乗り込んだのは午後五時頃になつた。軍艦の仮泊した地点が遠距離であつたのみならず、正午頃に仏蘭西の商船が浅瀬に擱座したのを引卸すとて出動したので、徒に海上で潮の満ちて来るのを待つてゐた為めに恁様に遅くなつた。私たちは小舟の中で驟雨に遭つてズブ濡れになつたので、ギニー号に乗移つた時の姿は散らし髪、足袋跣足で全で狂人のやうな有様であつた」(同前:133ff.)。
それからトバリー港へ行き、郵船に乗り換えてバタヴィアへ向かった。「十八日の朝バタヴィアの港へ着いた。バタヴィアは蘭領第一の港で、各国の軍艦商船が沢山出入し、近くには支那人町、遠くには洋館の宏壮なる建物が見えるので、私たちは其繁昌に驚いた。(…) 一行中、林・津田・西・沢など此地の風土病の熱病に冒されたが、幸にして何れも大した事もなく、三、四日で癒つた」(同前:139f.)。
バタヴィアからは客船テルナーテ号に乗った。「月末に入りマダガスカル島の沖で冬至線を越えると、此辺から貿易風が止んで喜望峰の近く迄は颶風や竜巻の多い地帯であるから、船長を初め一同窃かに心配したが、幸にして恙なく此境を過ぎることが出来た。十二月二十九日は恰度日本の大晦日で、田口俊平の狂句がある。
まだかすと聞いて嬉しき年の暮
私達はサルーンに集まつて江戸の歳末の情況など咄し合ひ、江戸絵図を広げて互に懐郷の想に耽つたことであつた。
明くれば文久三癸亥年正月元日で、西暦千八百六十三年二月十八日に当り、本船は東経五十二度十二分、南緯二十八度二十八分、マダガスカル島の西リウニオン島の沖に位置し、曇つた蒸暑い日本の五月頃の気候であつた。一行は元日の式を行ふ為めに皆黒紋付に小袴・割羽織を着し、脇差を佩し、扇子を携へて船室に集り、船から求めた三鞭酒七本を屠蘇代りにし、船長・一等按針役其他相客の蘭人等を招いて祝宴を催したが、船長も私たち異郷の者を慰める為めに晩餐には特に意を用ゐて献立をして呉れた。其食膳に缶詰の桃が出たが、此時始めて缶詰といふものを知つた」(同前:145)。
セント・ヘレナ島ではロングウッドにあるナポレオンの幽居や墓を訪ねた。榎本の詩がある。
長林烟雨鎖孤栖  長林の烟雨 孤栖を鎖す
末路英雄意転迷  末路の英雄 意転た迷う
今日弔来人不見  今日 弔来の人を見ず
覇王樹畔鳥空啼  覇王樹の畔 鳥空しく啼く
「前年(一八六二年)六月十八日日本江戸を出発してから此日迄、実に三百二十二日であつた。私達一行十五人は長崎を離れてからは、南洋の海難に遭遇して爪哇に上陸したのと、セント・ヘレナの孤島に薪水を得る為めに寄港した以外は、茫洋たる海上に昼を送り夜を迎へ、殆ど一年に近き月日を費して、目的の地たる和蘭に恙なく到着したのである」(同前:156)。
最終行程こそ「恙なく」であろうが、冒険談と言っていい旅である。