ヴァガボンドとして、スパイとして

 日本野鳥の会の主宰者として知られる中西悟堂(1895-1984)は、松江に住んでいたことがある。普門院の住職として1922年から2年たらずの間であるが。その前には安来の長楽寺にもいた。

 悟堂は金沢生まれであるが、生後すぐ東京に移り、そこで成長した。本名は富嗣、悟堂は法名である。天台宗曹洞宗の学林で学んだ。義妹の自殺と祖母の死の後、放浪の旅に出て、三朝で天台宗学林のときの友人で安来清水寺の住職をしていた山村光敏と会い、清水寺に滞在。その翌年(1920)乞われて長楽寺の住職となり、檀家総代の会計不正を正す改革を断行した。

 もともと歌人・詩人として出発した人で、普門院時代に第一詩集『東京市』を刊行、長編小説「犠牲者」を脱稿した(未発表に終わったが)。

 彼はインド留学を希望したが、かなわなかった。詩聖とうたわれるタゴールの三回目の来日時、直接単独会見をして話すことができた。そのとき英語による詩を献呈し、タゴールから彼の学園「シャンティニケータンにお招きしたい」と言われた。そこで、天台宗の留学生として行こうと考え、「天台宗の学林にその希望を告げてみると、案ずるより何とやらで、それも宜しかろうということなので、雀躍した私は渡印の第一目標をガンジーの許として外務省へ旅券を要求した」。しかし、それは交付されなかった。「おりからインドの不服従同盟は火の手をあげて独立運動化し、ガンジー捕縛の声さえあったおりで、日英同盟の手前、そんな危険人物の許へ行こうとする私に、外務省が旅券を下付する情勢ではなかった。だから私の申請の仕方ははなはだ不覚であったわけで、これで私の夢は断ち切られ、膨らんだシャボン玉の七彩の虹はあえなく空中分解してしまった」(中西a:303f.)。「留学せざるの記」である。

 9歳のとき、秩父の山寺で百五十日の行をした。坐禅を組んでいると、鳥が来て肩や膝にとまった。のちの野鳥の会へと続く最初の鳥との親しみであった。ただ動かずにいたため木や石と思って寄ってきたのではない。和尚さんが「お前はおもしろい奴じゃの。わしには鳥どもはたかったことはないが、お前にはようたかる」と言っているのだから。鳥に限らず、蜂や蛇もよく馴れたという。尾崎喜八は「君のからだには、何か動物をひきつけるラジエーションとかエマネーションとかの特別なものが備わっているのではなかろうか」言っていたそうだ(中西b:31)。その荒行では透視力のような霊能力を身につけたということだ。野鳥保護、霞網猟禁止の活動をしたり、はだか暮らしだったり、この人は南方熊楠にちょっと似ている。熊楠も鎮守の森を守るための神社合祀反対運動を精力的に行なっていた。官の粟を食まぬ野人である点も同じだ。

 

 悟堂が長楽寺の住職をしていたとき、「金子(光晴)は国木田独歩の遺児虎雄を伴って来て滞留した」(旅する:217)。「滞在中、金子は国木田の詩のノートをしきりに添削してやっていた。金子自身はペン画をいろいろ描いていた。ところが安来の町から二台の人力車をつらねて寺へくる途中、金子は人力車の上で蛸踊りばかりしていたそうで、一方の国木田のほうは長髪の青年で、五十年前の田舎には凡そなかったことだから村びとたちの目を引いた。やがて檀家惣代の老人から「あげな村じゅうをバカにするもんどもを寺に泊めておかっしゃっては寺の名に障るけん、早う帰してつかあさい」という抗議が出たが、格別悪事を働く手合いではない、二人ともワシの友達だ、遥々東京から訪ねて来たのだから暫く我慢しろ、長くは居らんよ。と言っておいた」(同前:219)。

「前に処女詩集『赤土の家』を出した時の本名「保和」は気に入らぬ、光晴としたいという。その頃は僧籍に入れば本山から法名をくれる。それに添えて役場に届ければそれが戸籍上の本名となったもので、私の「悟堂」も法名である。そこで金子に一応俺の弟子になれとすすめ、師僧としての私から延暦寺へ届け、法名は光晴(こうせい)としたい旨の副書を添えて出したところ、間もなく本山から「法名光晴」という鳥の子の用紙の度牒(得度入籍の牒)と数珠一環が届いた。以来彼は大っぴらに光晴を名乗ったが、坊主になどなる筈もなく、光晴だけを物にした」(同前:220)。

詩人金子光晴(1895-1975)は大鹿安和として生まれ、金子に養子に行った。そしてこのように光晴になった。

 金子は二度洋行をしている。最初のフランス・ベルギー滞在(1919-20)は「留学」と言ってもいい。学校に入ったわけではないが、そもそも詩など学校で習うものではない。根付収集家で技師・実業家のルパージュという人と友人になり、庇護を得て、ヨーロッパの風光や生活、フランドル絵画に親しみ、さまざまな詩集を熟読した。

「ルパージュ氏の人柄と、村の環境がすっかり僕の気に入ったので、この滞在の一年半は、僕の生涯にとってもっとも生甲斐ある、もっとも記念すべき期間となった。古ブラバント侯国領の豊かな田園ですごした月日は、僕のその後の人生を決定したといってもいい。このあいだにまなびえたもの以外に、その後何程のものもつけ足しはしなかったろう。朝は読書し、昼は散歩しながら詩を書いたりして、夜は、毎晩のようにルパージュ氏のもとにでかけて行って話をして、夜を更かした」(金子a:92)。「それよりも重要なのは、氏が、ヨーロッパに対してほとんど無知に等しかった僕の、眼をひらいてくれたことだった。鉄と石の文化の基礎のふかさと、永遠の疲労と、痛風の足と、皮肉に食い込む鉄の足枷、首枷と、諸々の悲劇のうえに築かれた歴史の類ない魅力を、由緒ある街なかのモニュマンや、美術館の古美術によって、ねんごろに僕に説ききかせてくれたのは彼だった」(同前:93)。

「ルパージュは、土曜日毎に僕を、彼の友人の王室数学顧問という役人のタッセル老人の許につれていった。タッセルは、版画の蒐集家で、書斎の机の両脇の棚に、天井に届く程の版画をもっていた。その解説をしてやることに話がきまって、その代償にモネー王室激情に、氏のためにとってある桟敷で毎週歌劇を見物できることになった。サンカントゥニェールの東洋美術館長のボンメールとも親しくなり、美術館で買いこんだ日本の書画を鑑定する仕事もやった。ルパージュ家の親戚たちとも知合うようになり、方々の家庭の舞踏会や、晩餐に招かれたり、ピクニックの一行に加わったりした。

 一すじな向学心に燃えた、規律的な、清浄なこんな生活が、なによりも僕にぴったりしたものと、ためらいなく考えるようになったじぶんを、過去の懶惰な、シニックなじぶんと比べてみて、信じられない位だったが、それはみな、ルパージュの友情のたまものであった。まなぶことのたのしさは、この時期をすごして、永久に僕のもとへかえってこなかった」(同前:95f.)。

 帰国後その勉強の成果である詩集『こがね蟲』を発表し、詩壇に名を成すのだが、金子光晴が真に金子光晴である本領を示すのは、汚辱まみれの二度目(1928-32)の渡欧である。それは「留学」ではとうていなく、「洋行」という晴れがましげな語で言うのも不適当な、端的に放浪であった。そもそもそのきっかけが若く美しい妻森三千代を不倫相手から引き離すためであり、当座の金しかなく、絵を売って旅費をつくりながら、上海、シンガポール、マレー・蘭印をさまよい歩き、パリの底辺に暮らしたあげく、ブリュッセルを経て帰国の途につくものの、またマレー放浪をする。

 東京美術学校日本画科に入学したこともあるので(一学期で退学したけれど)、絵心はあったが、「このシンガポールでもたくさん欧洲へゆきかえりの絵かきさんが展覧会をひらいたが、金子さん、あんたぐらい下手な絵を画く人もない。わしは、大いにそれが気に入った」(同前:162)などと言われる始末だった。

 一人分の船賃ができると、妻を一人先にフランスへ行かせた。そのあと、「僕は白服に中折帽子でスーツケース一つを提げて、ジョホール水道をわたり、邦人ゴムと石原鉄鉱の集散地、河口のバトパハまで、車を走らせた。熱雲のした、白枯れた椰子林家、はてしないゴムの栽培林をつきぬけてバトパハに着くと、川蒸気でセンブロン川を遡った。センブロン三五公司第二園に滞在し、さらに、スリメダンの石原鉱山を訪れ、大小数ヵ所の、川すじのゴム園事務所を泊りあるいた。僕はそこで泊って、もとめに応じて、肖像や、風景を描いて稼ぎながらあるく「旅絵師」というものになっていた。ジャングルと隣接する辺地の宿舎で、虎のうそぶくのをきいた。夜道を、コブラとぶつかったこともあった。さらに、東海岸の三五公司第一園は、瘴癘の地で、白昼も、蚊いぶしの煙幕のなかでなければすごせなかった。野象の群が裏山の樹林をおし斃して通ったあとも見にいった」(同前:163)。

「その当時、日本の『毎日新聞』の学芸欄では、日本を去ってから、誰のもとにも一通のハガキすら出さず、消息を断っている僕について、「印度の鄙地で、金子がジャズバンドにはいって太鼓を叩いているのをみたものがある」というゴシップが出た」(同前:166)そうである。

 ようやくパリに着く。

「多くの日本人は、パリへ文学の修行に来ているのに、僕は、パリに着くなり、それまで一片の情熱として胸の底に燃えていた、書かない詩まですてはててしまった。

僕は、無一物ということで、パリの街のなかで、真空にいるような苦しみ、内臓の涸渇してゆくいたさをおぼえ、じりじりと迫ってくる飢餓におののいた」(同前:166)。

「パリは、悪天候だ。一年のうち半分は冬で、暖房設備のない部屋では、ベッドにもぐり込んでからだをちぢめているよりしかたがない。寒気と栄養不良で、貧しい外国人はよく、胸をいためる。胸疾者は、施療病院に送られるが、病院へ行ったもので、棺にはいらずにふたたび門を出たものはないと言われている。そんな土地では、猶更、僕らは、身をいとわねばならない」(同前:167)。身寄りなく死ねば、「フランス政府の手で浮浪人として処分され、どこかの投込み墓地にほうり込まれ、犬の死骸や、猫の捨子といっしょに、支那まんじゅうの黒あんのように混沌とならされてしまうのが落だ。あの頃のパリは、東京よりも空気がわるかった。日本の留学生のなかでも、胸が悪くなる人が多く、二人、三人、僕の眼の前でもばたばたと死んでいった」(金子b:97)。「東洋ではともかく、西洋での身の詰まりかたは、さすがに個人主義国だけに凄まじいものがあった。破産者は遠慮なく自殺した。敗者が生残れる公算がないからである」(同前:132)。

「パリの食いつめもの達が、類は友をよんで、僕のまわりにあつまってきた。だが、その二年間に、僕は、めっきり痩せた。無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやってみた。しないことは、男娼ぐらいなものだ。博士論文の下書から、額ぶち造り、旅客の荷箱つくり、トーシャ版刷りの秘密出版、借金のことわりのうけ負い、日本人名簿録の手つだい、画家の提灯持ち記事、行商、計画だけで遂に実現にいたらなかったのは、日本式の一膳めし、丼屋、入選画家のアルバム等々だった」(金子a:167f.)。

 パリにはそのころ300人ほどの日本人画学生がいた。「パリは、針小棒大で、小心な人間達が神経衰弱気味で、万事大仰にことを言いふらすところで、うっかりするとひどい宣伝をされて、迷惑をこうむることが多い」。「パリでは、栄養をとらなければ斃れるという前車の轍を目撃しているので、少々な不義理な借金をしても充分、食べる費用だけは、なんとしても確保しようとした。そのため、えげつない人間に見られて、それがまた不評判の種になるというわけだった」(同前:169)。「パリでは僕の名を、物騒な人間の代名詞にしてしまった」(同前:168)。

「モンパルナスあたりの安ホテルを、あちらこちらとうつり廻った。労働者の住みついている裏町のホテルは、どの部屋も小便臭く、部屋の漆喰壁には、南京虫を指でつぶした血のあとが縦横についていた。住んでいる人間も、へんなにおいを発散し、野菜物を小わきに挟んで、がらがら木靴をひきずりながら階段をあがったり、おりたりしていた。素裸のうえに雨合羽をひっかけた女工などもいた。イタリー人の労働者や、なかには、黒人、気のぬけたような安南の学生、えたいのしれない混血児もいた」(同前:169f.)。そんなところが彼の生活環境だった。

 藤田嗣治は「フランス気質がたっぷりと滲みこんだ日本人」であるが、彼によると「パリでがっちり生きてゆくには、あくまで日本人であることであり、フランスかぶれの日本人などフランス人には何の興味もない」(金子b:107)とのことである。日本人が日本かぶれの外国人を好むのと比べ、非常にためになる見解だ。

 『ねむれ巴里』(1973)は40年もあとになって晩年に書かれた滞在記であるから、記憶違いもあればその後ふつふつと発酵した想念も交じり、実情そのままではなく「作品」化されている。パリで金子と交友があった永瀬義郎が、「金子夫妻は尾羽打ち枯らして、人前にも出られない様に言っているが、どうしてどうして、金子夫妻は、貧乏貴族と言うことばの通りで、(…)金こそ無いが堂々と胸を張って歩いたのである」(旅する:192)と書いているように。この人はまた、金子が「あぶな絵」の名人でそれを売っていたことも伝える。

 それでもなお、この「作品」はおもしろい。たとえば、

「僕の少年のころは、洋行といえば、同盟国の英京ロンドン、学術の都ベルリン、それからアメリカ諸方の都市で、フランスのパリを志すものは少かったものだ。その頃は、まだ日露戦争のほとぼりがほかほかしている時分で敵国ロシアの同盟国というので、子供ごころにも、フランスをばかにしていたほどで、人気のないフランスへ洋行するものは、腰ぬけか助平ときめこまれていた。フランスなどを志望するのは、軟文学者の、特に破廉恥な、口にすべきでないようなことを恬然として筆にして、したり顔の所謂自然主義小説家などには、なるほどふさわしいことだと思われたものである」(金子b:p.7)。

「あのP音の多い、人を茶にしたとぼけたフランス語を使いながら、あけくれ女の尻から眼をはなさない男たちや、男の眼でくすぐられている自覚なしではいられない女たちが、ふわりふわりとただよっているこのフランスの都は、立止って考えるといらいらする町だ。頭を冷やしてながめれば、この土地は、どっちをむいても、むごい計算ずくめなのだ。リベルテも、エガリテも、みんなくわせもので、日々に、月々に、世界のおのぼりさんをあつめる新しい手品に捺す古スタンプのようなものだ。騙されているのは、フランス人じしんもおなしことで、騙している張本は、トゥル・エッフェルや、シャンゼリゼや、サクレ・キュールや、セーヌ河で、そんな二束三文な玩具を、観光客は、目から心にしまって、じぶんもいっしょの世界に生きている一人だったと安心するのである」(同前:70)。「花のパリは、腐臭芬々とした性器の累積を肥料として咲いている、紅霞のなかの徒花にすぎない」(同前:79)。

 一方で、フォンテンブローの森を歩いた時のように、美点も的確に捉えている。

「森のなかに、木を切倒す斧の音が丁々ときこえ、その音があっちこっちに反響した。冬の森が語る冷厳な相貌が、フランス人のなかに一本通って、それがフランス人の知性となってゆるがないのではないかという実感を、手から手に渡されたような気がして僕は、この森でいくばくかの日を過したことが、無駄ではなかったとおもった」(同前:67)。

 

 妻の森三千代(1901-77)は、金子にひっかかって東京女子高等師範を中退するまでは首席の才媛で、この滞在を「留学」たらしめんとする意欲はあったようだ。アリアンス・フランセーズでフランス語を勉強したり、社交ダンスを習ったりしていた。メイエルホリドの劇のパリ公演を見にも行った。イタリア貴族の彫刻家のモデルをしたり、詩をフランス語にして詩集を出したりと、女性のほうが積極的でもあり、仕事の可能性もあったらしい。パリでは金子は金策のため人にいろいろ迷惑をかけていて評判が悪く、せっかく職探しをして見つけても、亭主が金子だと知れると断られることがたびたびで、籍を抜くことにした。最後はアントワープの商会で事務員をし、金子が一足先に出発したあとで帰国の途に就いた。金子はシンガポールまでの切符しか買っていなかったので、そこでまた会うが、彼女はそのまま帰り、彼はマレー放浪をなおしばらく続けたのち、やっと帰国した。おもしろい夫婦である。

 とにかく、この金子光晴の二度目のヨーロッパ滞在は、制度化し鋳型にはまった官費留学の徹底的なアンチテーゼである。

 

 悟堂が普門院にいたときには、梅田良忠(1900-61)がやってきた。

「梅田は曹洞宗学林時代の親友で、三軒茶屋の同居生活の仲間ではなかったが、ひとり別個の宇宙を持っていた心底からのコスモポリタンであって、ヨーロッパへ音楽の修行に行くということで、私の許へ別れの挨拶に来たのは、私が松江市の普門院の住職をしていたときで、彼はすでにヴァイオリンでバッハなどをかなりこなしていた。一流の場所で音楽を身につけるまでは十年でも二十年でもヨーロッパにとどまるというので、私は彼の壮途を横浜埠頭まで送った。その後二十三年間もあちらにいる間、ドイツの侵入やソ連の攻略でワルシャワを逃れ、ブルガリアのソフィーヤ、ルーマニアイスタンブールなどを転々としているうちに、音楽への共感を通じてブルガリア外務大臣と親友になり、その人からじかに聞く第二次欧州大戦の情報を朝日新聞社へ送るのが、他の大新聞の特派員より一週間も早いところから、朝日新聞社に乞われてその特派員ともなった」(中西b:131f.)。

 彼は1922年6月、曹洞宗宗務庁よりドイツ留学の資を得て渡欧するが、その船中でポーランド人の親友ができた。スタニスワフ・ミホフスキといい、建国された再生ポーランドへ渡るために上海から乗ってきた。招かれて、夏休みにポーランドへ行き、そのままそこにいつづけることになったという。はじめドイツを目指し、すぐに留学先を東欧に変えるところは今岡十一郎と同じだ。ポーランド愛とハンガリー愛の好一対かもしれない。

 ポーランド入国の際の光景はよほど印象的だったらしい。

第一次大戦が終った頃ポーランド人は、かれらが中世的クリスト教的信仰の象徴として敬愛した祖国を再建するために、最もすぐれた学術の成果や最新の技術を身につけて世界各地より帰ってきたものであった。筆者はあたかもその時代にベルリンよりかれらを乗せた列車に同乗し、国境駅ズボンシンを越えて復興ポーランドに足を入れたのであった。この駅で列車を換えるのであるが、帰国の群のうちには、ポーランドの地にひざまずいて―あたかもサン=ペテロ大聖堂の内で今日もみうけるように―大地をいだき、これに接吻する者すらいたのである」(梅田c:3f.)。

 その年10月にワルシャワ大学哲学科に入学し、「ジェリンスキイ博士の下で希臘ラテン哲学を学び居り候」と日本に書き送っている(梅原:41)。しかし1923年9月、関東大震災のため留学資金が途絶する。「長い間彼は全くみすぼらしい「下宿」に住み、「パンと水で」のはなはだしく貧しい生活を送られた」とヤジジェフスキ教授が追悼文に書いているのはこの時期のことであろう。だが、「かなり後になって、この窮乏生活から脱出され、ポーランド語を完全に自分のものとされ、終にヴァルシャヴァ大学における日本語の講師の地位を得られた。これと同時に、ヴァルシャヴァにある日本大使館においても、何らかの仕事をなされたようである」。「彼はごく容易く学生徒の間へ、またヴァルシャヴァにいたボヘミアの文学者達の間へ(K・J・ガウチニスキ、J・リベルト、その他多くのポーランド・ロシアの文学者達)出掛けて行った。梅田教授はミラヌベク行き(文学シンポジウムの開催された時)を始めとして、シヴィェントクル山脈への登山や、ポーランド領内のあらゆる地方へ、休暇を利用して、あるいはヴァルシャヴァの同僚の家族と共に旅行された」(関西学院史学:36)。「既に彼がポーランドへその第一歩を踏み入れた一九二二/四年には、多くの作詩をしていられる」(同前:38)。

 大学卒業(1925)後は、ワルシャワ大学、またワルシャワ東洋学院で日本語日本文学を教えるかたわら、日本大使館の嘱託となる。「クアドリガ」(四頭立て馬車)という詩人や画家、音楽家のグループとも親交があった。こうした人々と下宿をともにしていたこともあった。「ある女流文学者は早朝、バイオリンを手にした梅田が和服姿で森に出かけ、曲を奏でているところに通りかかり、思わずハミングで追唱した」(梅原:48f.)。ある女性画家は袈裟を着た梅田の肖像画を描いている。

 中西悟堂は「ユピテル」と題する三部二十七幕の詩劇を書いていた。「私は後年、添削に添削を重ねて、ポーランドワルシャワヴィスワ川のほとり、ショパンなどの芸術家の代々のパトロンであった伯爵家ワルワーラ・ヴォージンスカヤ夫人の許に厄介になっている親友、梅田良忠の許へ右のうちの第一部と、第二部の第四幕までの草稿を送ったところ、それが梅田とヴォージンスカヤ夫人との共訳によって、されに構想を加えられ、原作者日本人中西悟堂の名でワルシャワショパン座において公演された。その舞台を見た北極海捕鯨船団の人が自分の肖像写真を封入した書簡をよこしたのには、当の私が驚いた」(中西b:131)。

 1930年以来いくつもポーランド語でポーランド古代・中世史の論文を書いている。「彼は多くのビザンツ学者とも親交を結ばれた。例えばハンガリアのモラフチック教授、ユーゴスラヴィアのオストロゴルスキ教授、ブルガリアのフィロフ教授、そして数人のルーマニアの学者達」(関西学院史学:37。このうちブルガリアのフィロフ教授は戦争中の1940年から43年まで首相となり、外相を兼ねた)。

 ワルシャワで学問に芸術に充実した生活を送っていたことがわかる。恋人もいて、ドイツ系ポーランド女性との間に娘が生まれていた。梅田はそれを知らなかったが、後年その娘が死病で闘病中の梅田を訪ねてきたそうだ(梅原:234)。そのようなことも「充実」の一例ではあろう。元恋人がやってきた鴎外の件を思い出してもいい。

 だが、その生活は第二次世界大戦の勃発によって一転する。1939年、ドイツのポーランド侵攻によりブルガリアに移り、そこでも公使館嘱託として働き、1942年には朝日新聞の在ソフィア嘱託となる。

 戦時のことをこう書いている。「ポーランドの首都ワルシャワナチスの軍隊によって砲撃され、空襲されたとき、多くの友の家々を危険を冒してたずねまわったものであったが、友の母たちは地下室にあってロザリオを手に心を神にゆだねていた。さらに四年の間、ブルガリアのソフィアに暮したのだが、この都が英米軍に空襲され、一トン爆弾が高層建築を破壊するとき、筆者は同じ建造物の地下に避難していた。命中する爆弾は地下までは貫かなかったが、その地下室で、ブルガリア人たちはゆらぐ床にひざまずき、ギリシア正教の神に祈りをささげていたのであった。筆者はそのとき、東欧文化の地金ともいえる強い中世的な輝きに触れることができたのである。そしてその輝きこそ、東欧中世が一〇○○年にわたって鍛えてきたものであったと感じたのである」(梅田b:84)。

 1944年11月にクーデターによって親ソ政権のできたブルガリアを去って公使館の一行とともにイスタンブールへ脱出し、1945年3月、モスクワ、シベリア経由で帰国した。

 この戦火に追いまわされた流浪の間に失われた資料について、いかにも学者らしい嘆きを漏らしている。「ドイツ軍がポーランドに進駐したとき、多年苦心して蒐集した西スラヴ史に関する史料や図書が、ドイツ軍の砲火によって瞬時にして失われた」(梅田a:はしがき)。「いまもなお痛惜にたえないのは、ソフィアの数年間に集めた必要な文献すら、引揚げの際、満州里で鉄道便に托したまゝ、ソ連軍の南下と戦禍のため、内地には遂に届かなかったことであった。難を免れたのは、小型のトランクに入れて携えた数冊の書籍とノート位であった」(同前)。芸術が一方の柱であっても、学問研究が彼のよる大きな柱であったことは間違いない。

 悟堂は戦争末期福生に住んでいた。「そこへ、ひょっくりやってきたのが、ぼくの漂泊心などに数十倍した事実でのコスモポリタンの梅田良忠であった。滞欧二十余年、ドイツがポーランドに攻めこんでワルソーを陥れた際、砲弾をくぐり、身を以てベルリンへ脱出、以後ブルガリアのソフィヤで音楽修行をやっていたのだが(引用者註:前の引用文もそうだが、これも誤り。彼は梅田を音楽家だと思い込んでいたようだ)、欧洲の情勢が極度に危険となったので、辛うじてトルコ、ソ聯を経由、つい一週前、帰朝したのだという。久方ぶりで逢った彼は、身長低く、ずんぐりと円く、じゃんぎり頭に、間歇性跛行症とかで片足をわるくして、モゾモゾと動いている恰好が、まるで小熊みたいだが、眼鏡の奥の眼が、日本人には珍しく限りなく優しいのである。その彼も、ぼくについてどこへでも行くという。彼は一足遅れて山形へ来たが、外国がえりの風来坊で移動証明の出どころがなく、やむなく新たに国籍登録をしてもらったという、まるで天の一方から落下したあんばいなのも彼らしかった」(中西c:189f.)。このようにして、ともに山形の田舎に疎開した。

「梅田がヨーロッパから帰国の途上、モスコーで友人に勧められ、メトロポールのそばの映画館で「ウィッスラ川よりオーデル川へ」というニュース映画を見、戦禍に壊えたワルソーの、大統領の官舎だった古城や、カテドラルや、マリヤ寺や、ショパンの心臓を祭ってある聖十字寺の廃墟を見せられて男泣きしたという放浪者らしい話がひどく僕を打つ一方では、六十輌連結の貨車が十五分置きに極東へ武器を輸送している話は僕を慄然とさせた」(同前:200)。「僕は何気なく就眠後の梅田の寝顔にじっと見入って、何という寂しい顔をしている男だろうと思った」(同前:207)。このころが失意の極だったのだろう。

 その後1946年千葉県長生郡大泉寺の住職となり、48年樋口久代と結婚、翌年長男芳穂が誕生。1951年角田文衛に招かれ大阪市立大学の講師となり、55年に関西学院大学教授となる。角田とともに学術誌『古代学』を創刊。『ヴォルガ・ブルガール史の研究』で学位を得た。持ち帰ったバイオリンはいつの間にか本代に化けた。1961年、腫瘍のため没するが、死の床でカトリックの洗礼を受けた。洗礼名は親友の名と同じスタニスワフ。

 

 彼の考える「東欧」にはギリシャも含まれ、中世ローマ帝国(いわゆるビザンツ帝国)の文化の影響を受けた地域、ということである。たしかに、ポーランドはやや外れるが、モラヴィアまでの東欧地域はギリシャ正教圏であった。その後バルカン以北はカトリックに奪われるのだが。ユーラシア騎馬民族の侵攻占領地でもあった。西欧と東欧を分かつものはそのふたつだ。

 スラブ語を表記するのに適しているのがビザンツ帝国からの布教僧の作ったキリル文字である(わずらわしいポーランド語のラテン文字表記を見よ)ことからも、ビザンツ文化圏という切り取り方が適当であることがわかる。しかしその基準では、ロシアも「東欧」になってしまうのが難点だ。「東欧」とされる地域は「バルカン」と「東中欧」に分けるのがよいのであるが、それは今となって得られた視点であり、梅田の見解はそれとしてすぐれたものである。

 学位論文『ヴォルガ・ブルガール史の研究』で彼はこう披瀝する。

 「東欧民族史」は、「主流文化圏の文化に光被されつゝ、その文化圏の方向にむかって移動を試みたり、定住したり、侵略したり、相剋したりする東欧の遊牧諸民族や農耕諸民族の興亡の跡をたずねることにある。こゝでいう主流文化圏とは、始原時代の文化圏はいうに及ばず、その後の古拙時代のみならず、古典中世のオリエント、ギリシアローマ帝国、ことに筆者が東欧文化圏内に入れて極めて重視しようとするコーンスタンティヌポリスを帝都としたローマ帝国、ペルシア、アラビアの文化圏を総称しようとしているのである。こうした悠久の昔から西紀14、15世紀頃まで、幾度か東欧文化圏の東北限に君臨したこのヴォルガ・カマ地帯の諸族とか、その南方に大王国を建設しては、ローマ帝国の北辺を西漸して安住の地を求めたハザール、アヴァール等の諸民族の文化とか、バルカンを南下して直接、中世ローマ帝国の文化に浴しながら幾度か大王国を築いたブルガリア族とか、あるいは、東欧文化圏の殆ど全体に浸透したかのラウジツ文化のような火葬墳を大きな特徴とする重農文化の永い伝承や、その生地の上に、東欧の主流文化やラテン文化の吸収につとめたスラヴ諸族の文化なども、一応これを把握しないかぎり、東欧史の全貌はもとより、西洋史の全容を理解したり、体系ずけたりすることは不可能に思われるのである。なして況んや、これなくしては世界史を口にすることすら困難なことであらねばならない。

 もっとも筆者の年来の関心は、西スラヴ諸民族の歴史にやゝ偏していたかのようであった。しかし第二次世界大戦の戦火を避けて、1939年の末にブルガリアのソフィアに居を移してからは、こうした偏向は改め、南スラヴの人たちや東スラヴの人たちの文化にも眼を向けるべきであるとさとったのである。筆者にこうした考えを起さした動機は、ブルガリアに居を移したその冬、ソフィア近傍のボヤーナにあるギリシア正教の小教会堂の壁画を見て、そのはつらつとした生気と発想の奥に秘む深い伝統の泉に思いをいたし、その泉源が光輝ある中世ローマ帝国の文化と直結していることを知るにいたってからのことであった」(梅田a:はしがき)。

 意図してそこに赴いたわけではないが、戦争によるブルガリアでの生活は彼の研究の転換点となり、大いに貢献したわけだ。ブルガリアは彼の研究に深みを与えた。ポーランドは彼の人生そのものに深みを与えた。

 

 梅田良忠は「スパイ」と見なされていた。

 1944年夏、ソフィアに日本陸軍駐在武官秘書として着任した吉川光は、その回想記の中でこう書いている。

「そのころ、ソフィアに「梅田」と名乗るただ一人の日本人がいた。日本の龍谷(実際は駒沢)大学卒業の僧侶で、自費留学中戦争で送金が不能となり、朝日新聞の通信員であると自称していた正体不明の怪物で、日本公使館筋は反間諜者の疑いありと敬遠し、日本軍部からも要注意人物として接触せぬようにと注意があった。しかし私にはいか物食いの性癖も手伝い、また放浪の日本人として興味と同情もあって彼と内密に交際し、若干の物質的援助もおしまなかった。

 十月のある夕方、彼からの電話呼び出しで講演の一隅で密接した時のことである。彼は突然私の耳許に口を寄せてささやいた。「ドイツ降伏後三ヶ月以内にソ連は対日参戦する」と。その情報入手経路は休暇で帰省した駐米フィンランド公使館二等書記官ラムステットから聞いたとのことである。(…)/この情報は実は、そのころ日本参謀本部が目の色を変えて捜し求めていたテヘラン会議の内容であった。(…)/これは天下の一大事だとばかり急いで武官を叩き起こして報告したところ、大変なお冠で、なぜ梅田とあったのか、酒飲み女たらしのラムステットの話は疑情法だと頑張って取りつくてだてもなかったが、翌朝ようやく了解を取りつけて確度丙で日本へ打電した。しかし日本からは何の反応もなかった」(梅原:15f.)。

 梅原季哉氏の調査によると、梅田はアメリカCIAの前身OSS(戦略事務局)やブルガリア公安当局からスパイと見なされていて、公安当局は彼を監視下に置いていた。彼についての報告ファイルが両所に残っている。一方で彼は日本公使館からも疑われていて、1943年5月、公使館の勤務を離れることがブルガリア政府あてに通知されている(梅原:88)。

 調査や情報収集をする者は「スパイ」と目されやすく、それを公辺に提供していたらまずスパイとされる。河口慧海もスパイと見られていたように。スパイの目には怪しげな者はみなスパイに見えるのだろう。彼がどの程度まで真に「スパイ」であったかはわからない。テヘラン会議の件のように情報を収集していたのは確かだけれど、それをどこに提供していたのか。日本政府ではなく、軍部でもない。公使館からは怪しまれ放逐されているし、軍部とも関係がないからこそ、あのような個人的な方法で重要情報を伝えようとしたのだから。朝日新聞へは送っていただろうが、それをしもスパイと言うなら、新聞社の通信員はみな「スパイ」だ。しかも、朝日は1944年4月以来彼に送金しておらず、9月6日に「朝日梅田特派員生活資金送金斡旋ノ件」として、「生活ニモ支障ヲ生ズル程ニテ、誠ニ気ノ毒ト感ゼラルルニ付」、朝日本社に措置を講ずるよう伝達してほしいと公使が公電を打っている(梅原:219)。報酬のないところに「スパイ」はない。情報を集めるだけなら研究者や新聞記者はみなやっている。だが、彼らはふつう「スパイ」とは呼ばれない。情報提供によって特別な報酬を得てこそスパイである。

 テヘラン会議についてささやいた一件は、たしかに彼の「スパイ」らしい行動を示している。その情報源はどこか。のちに家族には「『プロメテウス同盟』の関係者から聞いた」と言っていたそうだ(梅原:177)。「プロメテウス同盟」はポーランドの反共・反ロシア組織である。彼は亡命ポーランド人と親しく交わっていた。ヤドビガ・クルロバという「ブロンドで、すれ違った人が振り返るほどの美人」(梅原:136)がウメダの秘書としていっしょに暮らしていたという。

 ブルガリア公安当局の資料には、「ウメダはドイツ嫌いの傾向がある」(梅原:120)。また、「同盟国の通信員として、ウメダは情報局からさまざまな断片情報などを提供されることが多いが、その情報がウメダからフランス、トルコ、クロアチア、スペインやその他諸国の公使館にもしばしばもたらされていることは注目に値する。我々が集めた情報によれば、彼はザグレブのVMRO(内部マケドニア革命組織)とも関係を維持しているものと判断できる。我々の情報によれば、ドイツ情報機関はクルロバが英国の工作員ではないかと疑っている」(梅原:124f.)と報告しているが、これが正鵠を得ているように思う。反ドイツ・親ポーランドの活動として一貫しているようで、同盟国ドイツに対して反対的であれば、日本の当局からも当然疑われる。

 ブルガリアの公安は、梅田は「読書と研究のしすぎのせいで、少し変人になった教授」(梅原:107)と見られているけれども、それは見せかけだ、としているが、実際そうだったのではないか。縁切りした公使館にさえ憐れまれるほど手元不如意な様子から見て、情報提供に対し金銭的報酬はあったのかどうか、あってもどの程度だったのか、疑わしい。それが「スパイ」だろうか。「愛国者」であっただけではないか。その愛の対象には、ポーランドもあった。

 遺骨はワルシャワに運ばれ、そこに墓がある。妻久代は梅田の死後ポーランド文学者の工藤幸雄と再婚した。息子芳穂は中学生のときからポーランドに留学し、自主管理労組「連帯」の幹部となった(ちなみに芳穂は梅田が親からもらった名で、良忠は法名である。自分の名を息子につけたわけだ)。

 ポーランドを愛しすぎた男だったのだろう。ヤジジェフスキ教授への書簡に、「私は日本人でありながら、ポーランド人であると感じます」(一九五五年一月二十五日。関西学院史学:39)。「世界中の民族のうちで、その父祖の地を熱愛した民族としてポーランド人以上のものはないと信じます。(…) 真実をもって我々の心をあなた方にさし上げます。あなた方の民族に捧げます。何故ならあなた方やポーランドを誰よりも強く愛するからです」(一九五七年四月二十日。同)とあるのを見るならば。

 

引用文献:

中西a:中西悟堂『愛鳥自伝』下、平凡社ライブラリー、1993

中西b:中西悟堂『かみなりさま』、日本図書センター、1997

中西c:中西悟堂『野鳥と生きて』、ダヴィッド社、1956

梅原:梅原季哉『ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠』、平凡社、2014

金子a:金子光晴『詩人』、講談社文芸文庫、1994

金子b:金子光晴『ねむれ巴里』、中公文庫、2005

旅する:『金子光晴を旅する』、中公文庫、2021

梅田a:梅田良忠『ヴォルガ・ブルガール史の研究』、弘文堂、1959

梅田b:梅田良忠・岩間徹編『図説 世界文化史大系12 東欧・ロシア』、角川書店、1959

梅田c:梅田良忠編『東欧史』、山川出版社、1958

関西学院史学:『関西学院史学』7、1964(故梅田良忠教授追悼号。コンラッド・ヤジジェフスキ「追悼文 故梅田良忠スタニスワフ教授」、「故梅田良忠教授略歴」を載せる)