リトマス監督解任一件

サッカー代表監督の解任一件で、ヤフーのコメントにこんなのがあった。
「先生の新しい課題が難しいので、校長先生に言ったら先生を替えてくれて、古い課題でよくなった」。結局そういうことなのだ。ザッケローニのときも試合中の4バックと3バックの併用という課題をこなせない生徒だったし。あのときは先生が課題を取り下げてくれたが、今回は決して取り下げない頑固な先生だったので、先生のほうが取り替えられた。


実に腹立たしい事件だった。卑怯卑劣なだまし討ち。背後からいきなり斬りつける。まあだいたいがだまし討ちをするのが好きな国民性ではあるのだが。
解任せよ解任せよと無責任に書きたてるマスコミに対し、サッカー協会はそんな無責任なことはすまいと思っていたが、実は無責任だった。
長い目で見ることができない人たちにはうんざりする。マスコミも、解任を叫ぶ一般のファンも、結局目前の親善試合に多くを求める消費者の姿勢でしかない。自分で勝手にノルマを決めて、次の試合(テストマッチにすぎない試合)で結果を出せと勝手に要求して、それが出ないと解任を書きたてる程度の低い評論家が多すぎる。売れる記事を書かなければならない生業だからやむをえない面はあるが、ジャーナリズムの本質が日銭稼ぎであることを知らしめる好例となっている。
彼に与えられたミッションは、W杯予選通過と本選での結果(グループリーグ突破)のはずだ。そのひとつは果たし、もうひとつも果たすべく鋭意準備中だった。もしそれ以上に求めることがあるならそのつど監督に伝えるべきだし、次のテストマッチでこれこれの結果が見られなければそれ相応の行動を取るとでも言っておけば、それ相応の試合をしただろう。それをしないでおいて、しかも試合後には続投と言っておきながら解任するのでは、激怒するのが当然だ。
彼のサッカーが日本人に合わないという意見には同意する。時に厳格すぎると思えるくらい厳格だということも含めて。しかし日本人によく合うサッカーが世界の舞台で通用するかについては、もはやブラジル大会で結論が出ているではないか。それに改善を施さねばならないので彼が招かれたのではないのか。もの忘れの激しさには驚いてしまう。同じことを飽きもせず繰り返す根気のよさにも。弱い中国軍に連戦連勝して勝った勝ったと提灯行列をするメンタリティから抜け出せていないのだ。アメリカにコテンパンにやられたことはけろりと忘れて。アジアですら弱小だった時代を、その時代を見てきた人たちもすっかり忘れているようだとも思う。欧米に勝てるように、強豪国に競り勝つ戦いができるようにあの監督を招いたのではなかったのか。
代表に何を求めているのかをはっきりさせなければいけない。世界大会で勝つことか、親善試合でときどき勝ったり善戦したり、負けてもビューティフルゴールをひとつほど決めることなのか。ハリルホジッチは「私が厳しいのではない。ワールドカップが厳しいのだ」と言った。そのとおりだ。
いくら体格が向上したといっても、日本人はやはり背が低いし、細い。体格のハンデを敏捷性・チームワーク・テクニックで補おうというのは正しい。しかし、そうしたところで強度の問題は回避できない。強度の要求を突きつけ続けたのがハリルホジッチだった。それは無理な要求ではない。猛特訓を課したラグビーのエディージャパンを例に挙げないことにしても(ラグビーナショナルチームには血統日本人・国籍日本人でない日本在住外国人もメンバーたりうるから)、プロ野球のトップ選手11人でチームを作ったらけっこうなフィジカルモンスターチームになるはずだ。藤浪や大谷がワントップにいたら怖いよ。相撲に進んでも三役ぐらい行きそうなのもいるし。要するに、野球選手のような練習を欲しない連中がサッカーをやっていて、彼らが協会に君臨しているということではないのか、という疑問は持っていい。


ザッケローニのとき、メンバー固定が非難された。世代交代が言われた。海外組偏重でなくもっとJリーグの選手を使えと主張された。
ハリルホジッチは全部やったんじゃないのか?
選手選考にはもちろん自身の好みもあったし、戦術への適合性による偏りもあったけれども、かなりフェアだった。一度呼んで、失敗すると外し、調子がいいとまた呼んで重用しようとしていた大島が好例だ。好みの選手であるらしい井手口や宇佐美も、クラブで出ていないときは呼ばない。その基準をほぼアンタッチャブルのスターである本田や香川にまで適用していた。
彼は、自分は「政治」はしないと言っていた。忖度や裏取引はしないということだろう。そして思い切った「冷酷な」決断をする。その彼に対して、協会は「政治」をした。テストマッチで負けたことを解任理由にせず、「選手とのコミュニケーション」などという理由で解任を告げたが、「政治」をしないあの監督にはそれは全然通じない。


日本代表はいつの間にかロートルチームになってしまった。オーストラリアもそんなチームだったが、若返りに成功し、今や日本がかつてのオーストラリアだ。
世代交代の失敗のみじめさは、なまじW杯で優勝したばかりにその優勝メンバーの陣容が続いて、哀れな末路をさらしたドイツやイタリア、いや、何よりも身近になでしこジャパンで見ているのだから(なでしこの場合は不可解な宮間の失墜もあるが)、手を打たねばならない。だが、手は打ったのである。あの監督は積極的に若手を使ったし、国内組の選手にもチャンスを与えた。しかしそれをものにできておらず、この時期になってもどんぐりたちが背比べしている。監督の責任ではない。結局遠藤が抜けただけのブラジル組が主力のままで、まして大会直前に日本人監督に代わったのなら、ブラジル大会第一戦とほとんど同じメンバーがロシア大会第一戦の先発に並んでいるのではないかと思えてしまう。笑えない冗談だ。ドイツやイタリアは優勝という輝かしい成功のあとの凋落なのに、日本は情けない失敗のあとにさらに凋落するつもりなのか?


本田や香川が本大会メンバーから外される恐れはあった。あの監督は、調子が悪いとか使う局面がないと判断すれば、躊躇なく彼らをも外すだろう(岡田監督がカズを、トルシエが俊輔を外したように)。
これまでも、本田を外せ、香川を外せという声はあった。そう言われてしかたがない低調なパフォーマンスだった時期に。しかし、ハリルホジッチが実際に2人プラス岡崎を外すと、非難の声が湧きおこる。じゃ、どうすりゃいいんだい?
「ビッグ3」なんて言葉は、あの3人がそろって外されるまで存在していなかった。外されてから突然そんな言葉が言われだして、今ではスポーツ記者用語辞典に登録されている(「ビッグ3」と言うなら、本田・香川とインテルにいた長友だろうに。スモールクラブにしか所属したことのない岡崎ではなく)。
どうせ負けるなら本田香川で負けろということなのか? 本田には、北京五輪で監督の指示に従わなかったり、ザッケローニのときもハーフナーが入っているのにクロスを上げなかったりなどの前科がある。メッシやマラドーナなら監督をクビにしてもかまわない。彼らが気持ちよくプレーすれば勝てるのだから、監督はそのための環境整備係でいい。だが、日本にそんな選手がいるのか? まさかそれが本田や香川だと言うんじゃあるまいな? ブラジル大会の前、W杯優勝などという人に聞かれたら恥ずかしくなるようなことを真顔で言っていた選手がいた。選手の発言力に関してだけは優勝候補チーム並みのようだ。


その前のアギーレも解任されていた。彼のときにもマスコミはさんざん解任しろ解任しろと書きたていていた。彼の解任にも反対だったが、しかし消極的賛成をせざるをえなかった。八百長疑惑の先行きが見えないので。つまり、W杯直前になって裁判その他で解任せざるをえない事態になることを恐れたからだ。そんなことになったらとんでもない混乱だ。その恐れていた事態を、今回サッカー協会が自発的に(不必要に)起こしているのにはあきれてしまう。
アギーレの場合、アジア杯で敗れたタイミングで、そのアジア杯で敗れたことを理由にせず、彼のサッカーを高く評価した上で穏便に解任を納得させた。「政治」をして、このときは成功した。アギーレは今も日本に好感を持っているらしい。だからまた「政治」をして、「政治」をしない頑固な老人を激怒させている。


ブラジル大会は何だったのか?
日本が支配し圧倒して勝つという「日支事変サッカー」がああいう舞台では通用しないことをまざまざと知らされ、それゆえ強豪国に勝てるサッカーを目指したのではなかったのか? そのためにはハリルホジッチの戦術も厳格さも必要なものであった。だからあの監督は真剣に真摯に改革をしてきたのではなかったのか?
本大会出場を決めたオーストラリア戦はすばらしかった。相手がボールを持っていても決定機を作らせず、効果的に点を取った。日本がいつもやられていたパターンだっただけに、爽快だった。あれをまた見たい、対戦相手や局面に合わせて戦い方を変える変幻日本をみてみたいと思っていたのに、その希望は断たれた。
たしかにザッケローニからハリルホジッチに代わって、極端から極端に振れた感じは否めない。だが、進歩のためにはそんなジグザグの道もしかたがない。
むろんあの戦術で結果が出たかどうかはわからない。解任された今となっては永遠にわからなくなってしまった。しかしあのオーストラリア戦を見た者としては期待をしていたし、3年間の努力がどういう形になって現われるか最後まで見届けたかった。
それを直前になってご破算にする。
結局、ブラジル大会のサッカーをブラジル大会のメンバーでまたやるわけだ。4歳老けたメンバーで。やんぬるかな。
しかし、よもやむざむざとブラジル大会の再戦はすまい。この3年間の遺産がそこここに生かされることを希望するのみである。
「永遠にわからない問題」は人を魅了する。「ハリルジャパンのロシア大会」はそんなものと化してしまった。銀座パレードの幻とともに。今は、失ったものを嘆き、伝説のひとつを得たことを慰めとするしかあるまい。嘆きもまた美しいもののひとつだから。


ハリルホジッチ前監督に感謝したいことはいろいろあるが(胸に輝くくまモンバッジとか)、サッカー批評家連をふるいにかけられたというのもそのひとつだ。彼が監督になる前から信頼できるサッカー批評家とそうでない批評家はだいたいわかっていたが、彼をめぐる言動でもののみごとにはっきりした。強力なリトマス試験紙だった。目先の批判や上っ面の称賛をして飯が食える人たちといっしょにどこまで行けるのか。彼らに飯を食わせているのはそういう記事を喜ぶ日本の民衆であるし。なかなかに根の深い日本の課題である。


このような緊急事態では人の行動の美しさと醜さが際立つ。東北の大震災のとき、外国人実習生を避難させたあとで自分は津波に呑みこまれてしまった零細企業専務と、原発近くの立入禁止区域で略奪を働く卑劣な連中のように。代表で2試合しかプレーしていないのに、会見のため来日した前監督に感謝の意を伝えるため広島から飛行機でやってきた選手がいたそうだ。概して歓喜より失望のほうが多くなりがちなわれわれの行く手を照らすのは、そういう無数の美しい行為たちである。
(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)