札幌東京マラソン

 いささか旧聞だが、IOCによる強引なマラソンの開催地変更という事件があり、それについていろいろな意見があった。
 いわく、一生懸命準備をしてきたのに、IOCがそれを覆して一方的に決定し押しつけるのは不愉快だ。同意する。
 いわく、夏にやるのが根本的な間違いだ、秋にやれ。同意。しかし夏の時期にやるという条件で候補を募り、立候補して選ばれたのだから、そのあとでそれを言うのも根本的に間違いだ。
 要するに、オリンピック招致の際に嘘をついたということだ。7・8月の東京が「温暖」? 大嘘コンコンチキ、へそが茶を沸かす類である。福島の事故が「アンダーコントロール」などと首相みずから大見得切って大嘘ついたし。「コンパクト五輪」というコンセプトは結果的に嘘となったが、見通しの甘さはあったにせよ、こと志と反したのだろうからそれは責めないとしても。
 嘘つきなどと日本人だけが言われる筋合いはない。欧米や中国の嘘つきぶりにも大概なものがある。南米なんて嘘以外のことを何か言っているのかと思うしね。人類はそもそもホモ・ウソツキエンシスであって、言語を有し、したがって物語を有してそれを愛するのが人類だが、物語というのは嘘のことであるのだから。
 けれども、日本人がそう言われて反論できないのもまた事実である。韓国に対する輸出制限措置でも、明らかな報復なのに、輸出管理の問題だなどと誰も信じないことをいけしゃあしゃあと言っている。あんなのを信じるのはばかなネトウヨぐらいだ(いや、ネトウヨだって信じたふりをしているだけだろう。そうでないならあまりに愚かだ)。韓国がその措置に怒り狂っているのも、幾分かはその見え透いた嘘によるのだろう。
 「狡猾なジャップ」というステレオタイプは残念ながらまだ消えていない。たとえばラグビーワールドカップでのスコットランド協会会長の発言である。試合中止の場合は引き分けとするという項目がある大会規定に同意していながら、いざ台風襲来で日本戦が試合中止になりそうになると、引き分けでは自国はグループリーグ敗退になるので、延期してでも必ず実施せよ、中止されれば法的措置を取るなどと恫喝したあの件だ。引き分けでグループリーグ突破となる「狡猾なジャップ」が小ずるいことをやってくると警戒したのだろう。わが身が危うくなれば地金が出る。欧米人の本性が見えた真実の瞬間だ。

 この問題によってあらわになった日本人の特質、その1:日本人は間違いに気づいても正すことができない。
 間違いに気づいてそれを正すのはよいことだ。ドーハの世界選手権でのマラソンの惨状を見れば、これはまずい、こんなところでやるのは間違いだったと誰でもわかる。する前からわかるべきだが(これも誰でもわかるさ、きっとわからないふりをしていたのだ)、したあとで悟るのも次善である。データを見れば、真夏の東京はドーハと同じだ。それで対策を考えるのは当然のこと。まずいとわかったのちも、決まったことだからと粛々と破綻への道を進むのが日本人だが、百戦錬磨の戦争国家で育った欧米人(国民国家とは戦争国家のことである)はそうしない。手を打とうとするだろうよ。
(さらに言えば、日本には一度悪事を犯した人の更生を認めない狭量さも昨今認められるように思う。)
 その2:日本人は合理的な思考ができない。
 おそらくそれは欧米のエスタブリッシュメントの間では常識なのだろう。事実そうなのだし。東京の暑さ対策を見れば、打ち水だの朝顔だのと書いてある。のけぞるだろうね。
 札幌移転となったあとで、札幌も暑い云々と言っている人たちに議論させても無駄だ。暑さは最高気温によってはかられない。最低気温と湿度によってはかられる。朝夕涼しければ、その時間にやればいいのだ。最高気温を見るならば、シベリアだって夏は30度を超えるさ。
 東京で5時からというのは悪くない案だと思うが、早朝すぎてまずい。3時からというのは論外。単なる思いつきだ。河口湖のあたりでやればいいという意見もあった。賛成である。東京からも遠くなく、富士の麓でとてもいい。みずから早い段階でそう決めていればよかったのだ。札幌と決められたあとで言っても空しいだけだ。
 その3:日本人は決断ができない。
 札幌への移転を提案という形で持ち出せば、決断のできない日本人はああだこうだ言いながら責任回避を続け、時間切れでやっぱり東京になってしまう。断言できる。ならもう強権的に決めて押しつけるしかない。この事態の責任の大半は日本人の特性にある。五輪マラソンが救われたことに対し、IOCには非難どころか感謝すべきだろう。非難すべきはみずからの無能さだ。
 その4:問題をカネの問題、メンツの問題に矮小化する。
 それがもっともわかりやすいということだが、ことの本質を見極めようとしない性向とも一致する。残念なことだ。トライアスロンのようにほかにも開催地を変えたほうがいいものがあるのに、メンツを立ててこれ以上の開催地変更はないと政治決着してしまった。人身御供にされたわけだ。
 結論として言えば、この一件は日本人論のよい事例となった、ということだ。
 しかし一方で、日本人は、一見不可能に見えるが、チームとして力を合わせてがんばれば可能かもしれない目標を与えられたとき、ままそれを達成してしまう特性も持っている。先のラグビーで甚大な台風被害の直後にスコットランド戦実施を可能にしたスタジアムのスタッフのように。だから準備期間の短い札幌マラソンも成功させるだろうと信じている。

 東京都が怒っていい理由はたしかにあるが、日本全体を見ればこの決定はよいことだ。オリンピックも一都市開催でなく、サッカー、ラグビーのワールドカップのように広域開催するのが望ましい。光を一点に集中させるのではなく、より多くの人たちが光を浴びられるようにするほうがいいに決まっている。その最初の例にこのオリンピックがなるならば、もって瞑すべしなのではないか。
 しかしこの件で白日にさらされたのは、スポーツというのがそもそも温帯人による温帯人のためのもの、さらに正確には欧米人による欧米人のためのものであるという身もふたもない事実だ。東京の夏はほとんど熱帯である。つまり、熱帯や亜熱帯はスポーツをするところではない、と白人どもに宣告されたわけである。ただの一般マラソン愛好者であったコメディアンが、国籍変更すれば熱帯国のマラソン代表選手になれるという事実は、熱帯人はマラソンなんかしないし、する意味がないということを端的に証明している。冬季オリンピックなんていう雪が降らない、氷が張らないところの人間には参加すらできないものもやっているわけだし。雪も降り氷も張る温帯に一応属する東アジア人は、オリンピックを後生大事にして、欧米人による欧米人のためのものであったこの競技会をやたら尊んでいるけれども、夏の暑熱や湿気、台風襲来というこの国の自然に対し顔をしかめられるのは不愉快なことだ。スポーツするのはよいことだが、その根本特性にはよろしくない部分がいろいろある。