中国覚え帳/中国トルコ論

日本人はふたつの戦争(中国との戦争とアメリカとの戦争)を戦ったが、中国人にはひとつの戦争しかない。日本との戦争しかないのである。
「日本人と戦争」を考えるときにいらいらさせられるのは、被害者意識が旺盛で、加害者意識が希薄なことだ。アメリカとの戦争では惨禍に遭った。残虐な方法で非戦闘員の無差別大量殺傷を目的とした原爆投下や焼夷弾による大空襲など、アメリカが負けていれば立派に「人道に反する罪」のはずだ。そのような被害者意識は語り伝えられたが、加害者意識はあまり伝えられなかった。それが好まれないのはわかるが、結果として加害者意識のほうは、実際に兵士として中国兵および一般人民を殺していた人々が死にゆき老耄していったあとは、希薄になるばかりだ。いつのまにかみどりの日が昭和の日になっていた。昭和天皇の誕生日を祝日とするのはいい。だがその名前は何だ。偉大な明治の日がないのに、多数の戦地の民の命を奪い、自国民も大勢殺したあの戦争の時代、亡国の淵に沈んだ昭和の日? こういう命名をする時点で、議員らに加害者意識など毛の先もないことがわかる。つまり、被害者意識を語り伝える(増幅装置つきで)中国との認識の差は年々広がる一方だ、ということだ。
というのを前提にした上でも、中国の「抗日戦争趣味」はちょっと異常なレベルにある。テレビをつければ、だいたいどこかのチャンネルで抗日ドラマをやっている。大学入試の統一試験では、教科書の近現代日中関係の部分を丸暗記しておけば合格できるかもしれないとさえ言われる。「東北地方の××村で日本軍に虐殺された村人の数は何人か」などという問題が出るのだそうだ。そういうのを理解するためには、中国が「新興国」だということを知っておかなければならない。「中国四千年」などというが、現在の中国は非常に新しい国なのである。


明治時代に清国からインドを経てトルコまで大旅行を行なった伊東忠太は、「土耳古の事情は不思議に中国とよく似て居る。その地方制度が州、府、県に分れ、総督、知府、知県が配置されて居るが、その具合が中国と殆ど同様であるのみならず、各州庁、府庁、県庁等へ行って見ると、その執務の体裁までが彼此殆ど同一である」(「西遊六万哩」)と書いているが、これらの点以外でもたしかにそれは言える。中国を知るためには、オスマン・トルコを見ればいい。清朝と並ぶ「老大国」であったオスマン帝国とその後継トルコ共和国には、中国と共通する部分がかなりある。17世紀から18世紀に大隆盛を誇りながら、一転19世紀からはヨーロッパ諸国の蚕食をこうむり、20世紀には気息奄々余喘を保つありさまだったところなど、そっくりだ。清朝の場合、文明程度の低い少数の「素朴民族」が武力をもって多数の高文明漢族を支配していたわけで、武力に長けたテュルク族がビザンツ帝国を倒してそれに交代した格好のオスマン帝国とは好一対の関係にある(支配者の言語がアルタイ系というのも共通点である)。
トルコ共和国の首都アンカラを歩くと、バルカン的な印象の近代建築があるのが目につく。国歌もバルカン風だ。トルコはバルカン地方を支配していたのに、なぜそんなことになっているのかとはじめ訝しんだが、ちょっと考えるとわかる。バルカンは「先進国」なのである。19世紀末から20世紀初め、オスマン・トルコ帝国の領土であったバルカン諸国はヨーロッパ列強の手引きによって次々に独立していき、一応体裁はヨーロッパ風な国家となった。その点で遅れていたトルコも、第一次世界大戦の敗北を機に古いスルタン帝国の衣をうちはらい、新しいヨーロッパ風の共和国となった。欧風共和国としてはかつての臣民の国バルカン諸国のほうが先輩であったので、とりあえずそれを模倣した部分が出てきたわけだ。
トルコ共和国の成立にあたっては、敗戦後のトルコ分割を狙い侵入してきたギリシャ軍の撃退が大きなモーメントになっている。そのため、ギリシャ嫌いという国民感情がある。ギリシャの側もトルコが大嫌いで、そっちのほうは長い間支配収奪されていたのだから自然だが、かつての支配者トルコのほうで嫌うのは筋違いな感じがするけれど、火事場泥棒を憎む気持ちのほかに、「窮地に陥った祖国を侵略する卑劣な敵軍に立ち向かい、これを英雄的に撃退し、新しい共和国が打ち立てられた」という輝かしい独立の歴史の冒頭を飾る敵という神話的な気分があることは間違いないと思う。
ケマル・パシャが侵攻英豪軍を打ち破ったガリポリの戦いなど、まるで民族英雄叙事詩である。中華人民共和国という名の「国家独立」を導いた抗日戦争もまた新興国の「民族叙事詩」であるわけだ。その宣伝に力を入れないわけがない。
ただ非常に大きな違いがあって、トルコの場合狼どもが仲間うちで喰い合いを行なった第一次大戦で列強からの侵食はやんだが(オスマン帝国が滅亡し、アナトリアに逼塞する地方的後進国に堕ちてしまい、餌にならなくなったためというのが実情だが)、中国は身内の争いでヨーロッパの狼が退いたあと、日本というチビ狼が彼らの分を奪ってさらに侵略を推し進めたからで、結局侵略がやむのは第二次大戦終結まで待たなければならなかった。一方で、支配地をむしられ尽くしたトルコと違い、外モンゴル沿海州ぐらいを失っただけで、帝国領土を維持した点は幸運だった(ということはつまり、内モンゴルウイグルチベットにとっては不幸だった。満族もしかり)。


多かれ少なかれ、革命のあとは疎ましい過去と決別したいと望むものだ。それは日本の例を顧みればよくわかる。明治維新や敗戦は革命的変化をもたらしたが、維新後前代の美術工芸品は二束三文で国外に売られ、城の天守閣も廃材利用のため売却された。その中で偶然取り壊しをまぬがれたいくつかの天守閣が、いま国宝ともてはやされたり観光客を集めたりしている。敗戦後も同様で、戦前のものはすべて「封建的」「軍国主義的」の語で切り捨てられ、たとえば戦前のアジア進出に伴うアジア研究アジア理解の一切が放棄されてしまい、今ようやくそれを追確認しているありさまだ。
中国もしかりである。中国の場合、歴史が長い分、過去との決別がより深刻なような気がする。中国の歴史の最大の特徴は連続であるはずで、実際には王朝交代ごとにけっこう断絶があるのだが(だいたい大量破壊と殺戮を伴う)、文字をその典型に、文明の体例は殷周以来、少なくとも秦漢からはとぎれなく連続しているわけなのに、前近代と近代の間には大きな切断線があると感じる。
近代中国の驚くべき語法は、「古代」である。「古代漢語」と聞けば先秦時代のことばのことかと日本人なら思うが、清代のことを指していると知って、驚かずにはいられない。もちろん先秦時代も含むのだが、要するに現代の白話でない、いわゆる漢文、文言のことだ。総じて、アヘン戦争以前は「古代」とされる。長すぎないか、古代?
オスマン帝国ではオスマン語というのが使われていた。アラビア文字で書かれ、語彙語法にアラビア語ペルシャ語の影響が大きいものだそうだ(漢文書き下し文のようなものかと想像する)。トルコ共和国ではそれを捨て、ローマ字表記に改め、アラビア語ペルシャ語もどきの言い方も廃した。この点でもトルコと中国は同じだ。過激な簡体字の導入や横書き転換を見よ。これでローマ字化していれば完璧だったろう。


中国には西から接近したほうがわかりやすくなるかもしれない。東から直行すると見えにくい部分があるだろうと思う。隣人を理解するのは義務だが、なにせ図体がでかい上に古いから、いろんなところから補助線を引く必要がある。中国人自身中国をよく知らないみたいだし。