懐梆 −宋寨村を例に−(郭雪奕)

はじめに
中国河南省の焦作市、沁陽市、博愛県、温県、武陟県、修武県などは、明清朝において懐慶府と呼ばれ、当地の方言で「懐梆」という劇を作りだした。沁陽市紫陵鎮の宋寨村では地元の劇団がその劇を保持発展させている。日本の村歌舞伎と対照しながら、この宋寨村懐梆劇団について報告したい。


1.宋寨村懐梆の歴史
河南省陝西省山西省が境を接する一帯に位置する今の沁陽市は、物産が豊かである。自然条件に恵まれて、交通の要路であり、「四大懐薬」(地黄、山薬、牛膝、菊花)で名高い。これが懐梆が発展する基礎となっている。
宋寨村がいつ形成されたのか、史料がないため明言することができない。だが、所属する沁陽市紫陵鎮については、早くも春秋戦国時代から人々はそのあたりで働き生活していた。宋寨村はそんな時期にできたと考えられる。
中華民国の時代、懐梆はこのあたりで流行っている。宋寨村の人も懐梆を好んだが、演じられる人がいなかった。1949年の建国後の初めての春節を祝うために、板胡が好きな李直基氏は、リーダーとして村の住民と積極的に協力して、宋寨村懐梆劇団を結成した。役者たちは、有名な秦吉先氏を師として、『困銅台』『反徐州』『火焼柴王』『穆桂英』などの名高い演目を学んだ。師匠に謝礼をするだけでなく、村の住民は劇団にお金、穀物を寄付した。演劇の熱狂的ファンは自分で山に入り、立木を切って道具を作った。劇団のメンバーは農民であり、農繁期に農業をし、農閑期に懐梆を演じ、村民を楽しませた。
50、60年代に懐梆は最も輝かい時期にあった。役者たちは新しい演目を学び、あたりの各地を巡って懐梆を演じた。1966年から1977年までの文化大革命期は、革命模範劇だけを演じていた時期だった。懐梆の発展は壊された。1978年、改革開放の後、状況は好転した。村役場の支持を得て、村役場に人民舞台が建てられた。
今の宋寨村懐梆劇団の団長は李長寅氏である。父親の事業を継続した。演出レベルを向上させるために、期日を決めないで懐梆の世界で名のある趙玉清氏、孫国成氏を招いて役者に教えてもらっている。稽古場と活動室が建てられた。目下、劇団は祭日に出演するだけでなく、市や県で開催する演劇のコンクールで本領を発揮するチャンスも見逃さない。
2.懐梆の上演
懐慶府一帯では三分の一の村に舞台がある。仮設舞台も多い。舞台の前方には直方体の穴があって、上にパネルをはめ込む。足の動きがよく響き、遠くの観衆も聞き取れる。稽古のときは普段着で、上演するときは舞台で着替えて、化粧する。京劇のように顔の色で人の性格を表現する。宋寨村劇団に専門の化粧師はいない。役者たちは自分で化粧する。
近年、村役場は劇団の衣装や道具のために毎年1万元を支出している。商業化に伴って、出演の謝礼金で稼いでいる。しかし、若者は劇に興味が薄い。役者は高齢化している。劇団には50歳以上の人が多く、最も若い役者でも35歳である。これは熟考しなければならない問題である。
宋寨村の懐梆は方言で演じている。イントネーションの幅は大きい。だから、調子は粗野豪放である。そのため、地元の民衆と懐梆の距離は近くなり、人を深く感動させて観衆に強い印象を与える。役者は自分本来の声で歌って、人の音色によってスタイルが違う。
戦いの場面では、役者は武術の動作を活用して、雰囲気を盛り上げる。ナツメ材の梆でリズムをとりながら歌う。劇の歌詞は韻を踏んでいる。楽器は主に、板胡、二胡、揚琴、バイオリンや大弦だ。特に、大弦は懐梆のユニークな楽器である。
3.懐梆の演目
歴史や社会生活や縁談話などが演目の題材を構成する。宋寨村懐梆の伝統的な演目の来源は以下のとおりである。
1、宋朝、金朝、元朝の雑劇、明清の伝奇から生まれたもの。民間の生活場面と民俗文化が調和し、地方文化の特色が目立つ。
2、歴史、演義小説から生まれたもの。宋寨村懐梆では歴史劇の比率が高い。歴史の束縛を受けないで、自分で想像して懐梆の演目を作り出し、史実と架空の事柄が入り混じったようなストーリーを創造している。
3、神話、民間伝説、生活から生まれたもの。懐慶府のあたりに起こった歴史事件、農民の縁談、実在する人や事柄をもとに演目を作り出した。
一体懐梆の演目はいくつあるか。今まで具体的なデータがなく、筆者の調査によると、常時上演するのは以下のものである。
「穆桂英下山」「 穆桂英挂帅」「秦香莲告状」「 対花枪 」「反西京 」
「程婴救孤」「 穆桂英大破天門阵陣」「下陈州」「斩赵匡胤 」「赵氏孤児 」
「 打金枝 」「秦雪梅吊孝」「 趙匡胤下河東」「古槐案」「卢明征西 」
「狸猫換太子」「小姑賢」「六郎探母」「状元遇仙记 」「封神榜」「�樞秦三」
「雷振海征北」「姉妹易嫁」「三哭殿」「桃花庵」「天河配」「楊満堂征西」
「錦袍記」「六郎招親」「双孝廉」「小二黒結婚」
4.農村歌舞伎の歴史
農村歌舞伎は江戸時代の中ごろに発生し、明治時代の初めから昭和の中ごろまで盛んであった。芸能の発生地は、繁栄する寺社の門前であることが多い。京都、大阪、江戸を中心に発達した歌舞伎は、買芝居とも呼ばれるどさ周りの旅役者によって、全国各地に伝えられた。旅役者が地方に住み、その土地の演劇の指導者になって、村芝居の素人役者が上手になった。このような農村の生活を基盤にした歌舞伎は農村歌舞伎と呼ばれる。一般には『地芝居』『地狂言』と呼ばれることが多い。文化文政期に全国へ広まった。江戸時代には、熱中しすぎて仕事が疎かになるという理由からたびたび禁止された。その禁止令は強化されたり、弱められたりした。明治初期から昭和の中頃に全盛期を迎え、農村の唯一の娯楽であった。戦後は、後継者の不足とテレビなどの新しい娯楽攻勢などから、衰退した。
5.村歌舞伎の上演
村歌舞伎は都市と同じく常舞台で行われることが多い。しかし、山車や舟で演じられることもあって、それも地芝居の大きな特色である。それに、村歌舞伎の舞台は、上演のためだけでなく、村の集会所となるとかいろいろ効用を持つことも特色である。
また、呪術性が多く残っている。雨乞いのために地芝居が演じられる。村歌舞伎における信仰は年中行事と結び付き、その本来の感情を素朴に守っている。村歌舞伎の演目では、村の氏神に対してひどいと思われる演目はタブーになっているところがあり、演じられない。たとえば、木曽神社を氏神とする村で『布引滝』を演じないなど(群馬県北橘村字箱)。
6.歴史の比較
村歌舞伎は宋寨村懐梆よりもっと長い歴史を持っている。たとえば、小鹿野歌舞伎(埼玉県)は、文化文政期に江戸の大歌舞伎の役者坂東三津五郎のもとで修業した役者が帰郷して若い衆に芝居を教えたのが始まりであるとされている。都市の旅役者が指導者として村の素人役者を教えたという例がよくある。懐梆は元々農村の文化から発生して、徹底的な村の劇である。こういう点では違う。
しかし、両者とも発生した後で、祭礼や社寺の信仰と結びついてきた神事的な性質は同じである。これも両者の発展の要因の一つである。娯楽だけでなく、信仰を見せる手段である。
7.上演の比較
宋寨村懐梆は主に左右に引いて開閉する引き幕を使うという点では、歌舞伎と同じである。歌舞伎のような花道とか廻り舞台とかせりはない。一般的に懐梆の道具は簡単で、いつも机と椅子だけでいい。
懐梆の役者の化粧は村歌舞伎とほとんど同じである。両者とも役によってさまざまな顔の化粧しかたがある。顔色で人物の性格を表す。しかし、村歌舞伎の役者はもっと多くの白粉を使い、役の性格を誇張する。懐梆では、役者は頭に重い飾り物をつけたり、華やかな帽子を被ったりする。
8.演目の比較
両者とも歴史人物に関する演目は多い。村歌舞伎の時代物の言葉は古い語が多く、人々に高尚で上品な感じを与えている。懐梆には方言を使い、演目を上演する。地元の人々は親しみを感じる。そいう点ではちょっと違う。
なお、両方とも、親子の情、主従の忠義や男女の愛などを描く。地芝居だから、地元の地理環境と民俗文化に基づき、劇をやっている。演目とか舞台とかにそれぞれの土地の独自性がある。


終わりに
現代の若者は欧米風が好きで、わかりやすい言葉が好きである。宋寨村懐梆が地元の方言を用いているのは、民衆との距離を近くさせる一方で、自身の発展に悪影響を与える。しかし、言葉を改革したら、本来の特色と価値がなくなる。これは熟考しなければならない問題である。
懐梆は、今の「沁陽市懐梆劇団」という劇団が唯一のプロ劇団であるが、近年上演するチャンスはすくなくなっている。休演の日が多い。残念なことである。市や研究会などが懐梆の発展を大切にして、支援を始めてほしい。
(郭雪奕)


河南理工大学日本語学科4年生の郭雪奕さんが書いた懐梆という村芝居についての報告を紹介する。