中国覚え帳/中国ギリシャ論

中国4000年、という。中国は東アジア文明の発祥地であり中心であり、古い歴史を誇る大国だ。中華文明より古い文明はあっても、滅び去らず今まで連続していることにおいては、世界最古であること疑いない。
だが、この国は本当に「古い」のか? 実際に来てみると、いま残る建築物は古くても明清期がせいぜいである。そのくらいのものなら日本にもある。それより古いのはほとんど遺跡で、遺跡なら古いに決まっている。継続しているもので見れば、そう古くないのだ、この国は。ある学生が粟津の法師旅館で研修することになったので、ちょっと調べてみたら、718年創業とかいうべらぼうに古いものだった。それよりもっと古い旅館がふたつあるようで、そのふたつとも日本にある。むろん建物は何度も建て替えられている。だが、事業がそんな古くから続いてきているのには驚く。578年から続く社寺建築の金剛組というのが世界最古の会社だとも聞く。天皇家遷宮を繰り返す伊勢神宮などから考えると、むしろ古いのは日本だ、とさえ言えるのではあるまいか。せっせと大陸から書籍を輸入していた勉強熱心な日本では、地震も頻発し木造のため火に弱い建物ばかりであるにもかかわらず、戦乱政争のため本国で失われてしまった書物がいくつも残っていた。まったく、人は石垣、人は城で、古さとか伝承の力はハードによらずソフトによるのだという事実をまざまざと示す日中両国である。
中国の歴史は王朝の交代ごとに切れていて、またその交代時、つまり「革命」時には大乱が発生し、信じられないくらいの人口激減が起きている。それに対して流入もあったので、北方民族が中原に国を建て、大挙移住してきている。ことばも変わっただろう。唐代の発音をよく残しているのは、現在の北京語、普通話ではなくて、むしろ広東語や福建語、韓国や日本の漢字音のほうだと言っていい。
またその文化も、真にすぐれていたのは宋までで、明代はまだいくらかよいものがあるが、清などは、軍事的経済的には卓越していたものの(19世紀までは)、文化にはさほど見るべきものはなく、あのくらいなら同時代の日本も遜色ないと思われる。そして宋代までの古典はすべて日本に入り、日本文明の血肉になっている。
つまり、現代中国と日本は、ともに唐宋期までの古典中華文明の血を引く兄弟のような関係だ、ということである。むろん前者が体躯の雄偉な嫡男で、後者は後添いの小さな末子であるが、関係としてはそうとらえられるし、そう考えたほうが実際を正しく認識できるだろう。
西欧の歴史と日本史との類似はつとに識者の指摘するところだ。西欧と古典ギリシャの関係は、日本と古典漢文との関係に等しい。西欧文明は古典古代から養分を吸収して、その花を咲かせた。ギリシャ・ローマ文明故地へのグランド・ツアーを行なう英国紳士の子弟は、自分たちの精神的故郷を訪ねる旅をしたわけで、それは「唐詩選」を手に中国を旅する日本人と同じだろうと思う。たとえば陶淵明の名を口にするとき、われわれは異国人を感じない。諸葛孔明を敬慕する人は、彼を「中国人」として尊敬しているわけではなく、われらの英雄と思っているに違いない。
中国は、つまりギリシャである。今のギリシャが小国であり(なんなら「愚昧な」という形容詞をその前につけてもいい)、近世のギリシャも亡国のみじめな民であったのに対し、中国は、一時的に哀れな状態であったことはあっても(近い過去などに)、つねに堂々たる大国であったのだから、こんな喩えに中国人は納得しないかもしれない。だが、見れば見るほど似ているのだ。
輝かしい古典ギリシャ時代からヘレニズム期は先秦期から漢代、ローマ時代にもギリシャは文化的政治的一大勢力であったが、それは魏晋南北朝から唐・宋ぐらい、ギリシャ人によるキリスト教帝国であったビザンツ帝国の時代は元・明あたり、そしてそのビザンツを滅ぼしたオスマン帝国では、亡国ではありながら、軍事・政治はトルコ人オスマン人)に支配されていたが、経済はアルメニア人・ユダヤ人とともにギリシャ人(つまり非ムスリム)が握っていた。この時代は清に対応するだろう。
そして、近代になる。独立以後の辺陬の小国ギリシャはおいて、東亜では、西欧文明を積極的に取り入れて近代化を成功させた日本と、自尊の念からそれに躓いていた中国の地位は初めて逆転した。
中国の首都は3つだ。北京と上海と、そして東京。政治の首都北京、欧米植民地経済の東アジアにおける拠点上海、そして東亜の文明伝統を踏まえて西欧文明を咀嚼した新たな近代文明の中心地東京。日本への留学を通じてそれは中国に入ってきた。大衆はともかく、近代中国を形作ったエリート層の多くが日本留学の経験者であることはまぎれもない事実である。現代中国語の語彙の多くが和製漢語(翻訳漢語)であることもその例証だ。東京が「首都」であるゆえんである。
中国に来て驚いたことのひとつは、早稲田大学知名度が異様に高く、敬意を持たれていることで、それはどうかすると東大をもしのぎかねず、少なくとも慶応は完全に圧倒している。そのよって来たる源をたずねれば、早稲田が積極的に受け入れた清国留学生にたどりつく。当時鶴巻町には清国チャイナタウンがあったそうだ。辛亥革命ののち初めて開設された国会には、袁世凱によって追放されて幻に終わったが、32人もの早稲田出身議員が「稲門会」を結成しようとしていたそうだ。これらのことは一早稲田の話柄ではなく、日本留学が中国の近代を育んでいたことを示す例である。
古典漢文の中国は、日本にとって「異国」ではない。西欧人は現在の残念な小国を無視して自分たちの「文明の故郷」を探訪することができるが、われわれは、「故郷」の前に再興した鬱陶しい大国があるために、西欧人のように(無責任に、と言おうか)それを味わうことができない。歴史が政治になっているためだ(まあ、それが中華文明の牢固とした伝統だが)。責任は負いつつも、「文明の故郷」を訪ねる値打ちは減じない。彼らも「辛亥革命の中国」が東京に負うところを認めて、あるべき関係になってほしいものだ。