中国覚え帳/犬の年

歌舞伎が好き、オペラが好き、京劇が好き、民俗芸能はもっと好き。だから京劇(北京の劇)の地方形態である河南省の豫劇とか四川省の川劇を見たいと思っているのだが、これがなかなか見られない。情報が得られないのだ。中国語ができない私は、情報をほとんど日本語科の学生に頼っているのだが、彼らがこれにまったく興味がないからだ。見たこともないし、見るつもりもない。テレビでやっているのを眺めたことがある程度。彼らに興味があるのは現代のポップのみ。これには困っている。
世の若者はどこでもそうしたものであろうけれど、中国はちょっとラディカルなくらいだ。日本の学生にどのくらい歌舞伎好きがいるかは知らないが、日本の地方都市でアメリカ人教師が英文科の学生に歌舞伎の公演が見たいとか地芝居が見たいと言ったら、調べてくれるのはもちろん、喜んで同行してくれる学生が何人もいるだろう。
日本人教師はことばだけでなく文化も紹介することが期待されていて、歌や踊りを教えてくれと言われることが多く、踊りとしてはたいてい盆踊りを教える。今までのどの国でもけっこう好評であったのだが、中国ではだめだ。広場舞(年配女性が朝夕広場に集まってする踊り。老人のやる太極拳に代わる新たなムーブメント)みたいと言われる。もっと激しくなければ踊りでないようだ。
アニメなどがまさにそうだが、日中の若者の同時代性には一驚する。たとえば、ほとんどリアルタイムで「半沢直樹」を見ている。訪中した安倍総理夫人が日本語を学ぶ学生の集いに出たとき、(DVDか録画か知らないが)今「半沢直樹」を見ているところだと言ったら、「遅れてるう」と笑われたそうだ(安倍夫人も笑っていたそうだが、このことは、日本では最高権力者夫人を笑ってもいいのだということを示したという点でも意味があったし、著作権の犠牲において日本が得ている大きな利益もまた示している)。
概して、人は彼らの20代を生きている、と言っていい。彼らの生涯の花であった時代に固着があることは確かだ。つまり、日本でも中国でも、学生は今の時代を、中年者は90年代を、老人は70年代を生きている。なつメロといえば「花も嵐も踏み越えて」とか「伊豆の山やま月あわく」だと思っていたのに、十数年か二十数年ぶりになつメロ番組を見たらフォークソングをやっていたので驚いたのだが、それは驚いた自分が悪い。「歌は人につれ、人は歌につれ」である。だからそのこと自体はなんらおかしくないのだが、問題は、中国の70年代から現在までは、桑田滄海、恐ろしく変化しているということだ。日本も変わった。しかし中国の変わりようは日本の比ではないし、たぶん中国以外のどの国より激しい。
顔を見るとよくわかる。老人はもちろん、中年の人々にも、これは日本人ではない、まぎれもなく中国人だ、という顔がある。日本人と区別のつかない顔もあるが、明らかに違う顔が多い。ところが若者になると、そういう顔は少ない。特に学生では、日本人とほとんど違わない(漂う大陸っぽさを除いて)。李玉麗さんの写真を見せて、「玉木麗子さんです」と言っても通じる。誤解のないよう言い添えれば、中国人の若者が日本の若者に似てきている、というのではない。日本の平成生まれたちも年配日本人から違ってきており、その両者が行動や趣味において(その結果顔においても)接近してきている、ということだ。日本がたぶんリードしているけれども。韓国のことはよく知らないが、おそらく似たような状況であろう。
東アジア共同体というものは、学生や若者文化においてはすでに成立していると確信している。政治だけが取り残されているのだ。
最近のインターネットの記事には、中国人旅行者が飛行機の中や外国でとんでもない行動(スチュワーデスにカップ麺をぶっかける、レストランで子供に排泄させる等々)をしたことがよく報じられていて、そのたびに「民度」や「素養」が云々されるが、私は中国で民度が低いと感じたことはない。大学内に住んでいるからだ。学生の「民度」が低いと思ったことはない(カンニングは除く)。例外はもちろんあるが、例外なら日本にだって山ほどある。この学生の「民度」が、やがて中国の「民度」になるであろう。学生は中国の将来だ。

そうすると、京劇は民度が低い人たちのものということになってしまうが、まあ、京劇が好きなら「民度」は多少低くてもかまわない。民度なんかより京劇のほうがずっと大事だからね。