この地上には漢字圏というものがある

中国の日本語科の新入生は、いきなり新しい名前を得る。「シー・チンピン」(習近平)が「シュウ・キンペイ」になるように。李小龍が「ブルース」なんてまったくの英語名をつけるのと違い、字はそのままで日本語名がつけられてしまうのだから、ちょっと笑ってしまうような驚きなのだろう。しばらくは名前(日本語字音の名前)を呼ばれても、それが自分と気づかず、とまどっている。
われわれは漢字圏に生きている。字を書けば意味がわかる。直接法だの何だの言うが、媒介語はもちろん使うので、それは教師にとっても学生にとっても外国語である英語である場合が多いけれど、ここの「媒介語」は「漢字」だ。「筆談」というユニークなコミュニケーション形態を成立させる、われらがいとおしく腹立たしい漢字だ。中国人はみな水筒をさげていて、冬にはそれが魔法瓶になる。それは日本語で何と言いますか? 知りません。マホービンです、と言って「魔法瓶」と板書すると、笑い出す。マジックボトルです、などと言って気の抜けた伝達をするより、そのおもしろさがぴったり伝わるこんなときには、同文の民、という語が頭に浮かぶ。
想像するに、初めは広東語を聞くようにちんぷんかんぷんだった彼らも、しばらくすると日本語の字音に慣れてくるようだ(漢音と呉音がある難しさは残るけれど)。字音だけを考えれば、日本の漢語は広東語・福建語・上海語などと並ぶ中国語の一方言である。もちろん漢語は日本語のごく一部だが、語彙に限って言えば日本語の半分だ。中国語と日本語には、言語学的におもしろい特殊な関係がある。
しかし、たとえば2年生が「はし(橋)」がわからない。わからないことがあるものか。もちろん習っている。1年の間に「はし」が出てこない教科書がどこにあろう。「橋」の漢字を見ればすぐわかる。ああ、「チャオ」か。また、「とおい・ちかい」が対なのは知っているが、どちらがfarでどちらがnearかわからない。習いはじめたばかりの初級者によくある現象で、その混乱は外国語に苦労した経験を有する吾人の深く同情するところであるが、意味がまったく反対なので、早く覚えてもらわないと話ができない。何度か教師にからかわれたのちにしだいに定着していくものだが、ここでは2年生がまだそんな状態だったりする。「遠い・近い」と読んだり書いたりする分には問題ないので、混同が異様に長く続くのだ。1年後に1級試験を受ける者がこんなことだ。つまり、字を知っていて字に頼っていて、日本語として音声化されていないのである。
たとえば、トーキョーと並んで海外でよく知られた日本の都市の双璧ヒロシマを、中国人は知らない。外国で出身地を説明するのに、ヒロシマの近くだと言えば、ヒロシマがどこにあるか知らない人も何となくわかったような反応を示すものだが、中国人はキョトンとしている。言うまでもなく、彼らは「広島」を「クアンタオ」として認識しているからで、それは「マオ・ツォートン」を「モー・タクトー」としてしか知らないわれわれの鏡対称なのだが。ことばというのはやはりオトだ。文字をオトの影としてしか考えない西方人に対して、いや、文字とはオト以上の何かだと力説する一方、ことばはやはりオトだ、オトとして覚えろと、こちらを向いては力説する。本当におもしろい。困るけど、おもしろい。


漢字圏の存在を大きく感じる。日本語を習いはじめて2年や3年の学生が、日本語能力試験1級に大量に合格する。ほかの地域では5年も6年も勉強してようやくほんの一握りが合格する試験に。それは、他地域の学生が音を上げる読解問題で点が稼げるからで、なぜ読解に強いかと言えば、もちろん漢字のおかげである。話す力聞く力は低い、どうかすると他地域同学年の学生よりも低いのに。
「楽しいでした」というのは日本語学習者のよくする間違いだが、ここでは1級合格者もする。それ違うよ、と言われてもわからない。他の国の1級レベルの者はこんな間違いはしないし、もししても、指摘されたらすぐ気づいて顔を赤らめるところだ。1年生の最初のほうで習ったのだから。1級であるという点さえ頭から取り去れば、単に学習者がよくする間違い(4年次生でも)というにすぎないのだが、中国に来たばかりの教師は、彼らが持っている証書とのギャップに驚き、混乱する。


誤用は知性の働きどころだ。ここでも学生たちは、「わたしは徳宝さんです」などと自分に「さん」づけする。ロシアでもトルコでもインドでも、どこでもさんざん聞かされた初級者の「おぞましい」言い方だが、中国人もそんなことを言う。なんで自分を敬うんだ。自分を卑下し相手を持ち上げる言い方は、中国が本場だろうに。愚生・大兄、豚児・令息、その他無数。「さん」も同列だ。
12月を「にじゅうがつ」。ほかの国でよく聞く間違いだが、中国人がそれをするか?「十二」をそのまま日本語の字音で「じゅうに」と言えばいいだけじゃないか。日本語の数詞、特に10以上は中国語の直輸入なのだから、中国人がそれを間違えるのは不都合だと思うのだが。
「いる・ある」を間違えるのはいい。しかし「ひとり」と「ひとつ」をいつまでも混同するのはどうか。助数詞は中国語と日本語に共通する特徴だから、いささか不審だ。
外国を学ぶときには、母語と目標言語の間に中間言語が形成されると言われる。その中間言語母語の影響を受けたものだと理解していたが、ひょっとしたら人類共通のものなのかもしれないとふと思う。手話のように。


中国語では無声音/有声音対立でなく、無気音/有気音対立だというのは知っていたので、有声音が苦手かと思ったが、「てんき」を「でんき」のような間違いはやはりしばしばあるけれど、予期したほどではない。英語はみんな勉強しており、英語も無声音/有声音なので、すでに慣れているのかもしれない。長音・促音の発音に難渋するのは他の外国人と同様で、特に彼らの問題というわけではない。
中国語の母音体系をよく知らないので、どういう転訛のメカニズムなのかわからないが、たとえば「ません」が「ますん」と聞こえる。だから「あります」か「ありません」か判然とせず、何度も聞き返さなければならない。彼らは「ありません」と言っているつもりなのだが、「ありますん」と聞こえ、「ん」は短く発音するので(彼らの「すん」は2拍でなく1拍)、「あります」と区別がつかない。YesとNoでは180度違うから、これは直さねばならない。
「さん」と「せん」もしかりで、彼らの「3」は「せん」に、「1000」は「さん」に聞こえる。3と1000なら997も差があるのですぐ気づくけれど、これも困ったことだ。「三国時代」と「戦国時代」を混同しては、ガイド失格じゃないか。「4」も「ゆん」。「時計」は「とかい」。彼らとしては「とけい」と発音しているつもりだろうが、どうしたって「都会」だ。「この都会は3円です」だからねえ。北京が3円で買えたらうれしいが。いや、1000円だっていいよ。
「エ」音が系統的に「ウ」音に近いものに交替するなら規則的だが、そうとも言えない。単語によっては「ア」音のように聞こえたりもするわけだから(セン>スン/セン>サン)。「ア」が「エ」に、「オ」が「ウ」になったりして、ちょっと規則性が見出しにくい。しかし、意志のコントロールのきかないところで転訛が発生しているのだから、よくよく突き詰めて研究すれば「母音交替」の法則が見つけ出せそうで、グリムの法則を知ったときのぞくぞくした感覚が心中によみがえり、「音韻法則に例外なし」と旗を立て勇ましく突き進む青年文法学派みたいな気分になれるかも。昔の中国語の「方言音」である日本漢字音の成立を考える際のヒントになるものもあるかもしれない。そんな夢想はさておき、この困った発音の癖を直す方法がないか、よく考えなければならない。
客観的に見て、母音の数も子音の数も多すぎず少なすぎず、日本語は発音のかなりやさしい言語だと思われるのに(むずかしいのは特殊拍ぐらいだ)、この日本語の発音をむずかしがっている中国人学生を見ると、世の中すべて相対性だなと思う。中国語の発音のほうが絶対むずかしい(あの反り舌音!)。加えて四声だ。あんなややこしい中国語が発音できる舌なら、日本語なんかわけないだろうと思っても、そうはいかない。自国語についてはあんなに有能な舌が、外国語では無能になる。おもしろいものだ。


字は上手だが、癖字はある。「あ」「め」「ふ」「た」「や」(縦棒が曲がって「セ」みたいになる)などだ。
「あ」は、縦棒が長すぎ、最後の曲線部が短すぎる。しかし、それはまさに「安」の崩し字の特徴を示しているわけで、興味深い。「め」も同様であり、つまり「女」の崩し字となっている。「ふ」もそうで、上の点が横にまっすぐになって、明らかに「不」である。「た」の短い横線2つが下に傾きすぎ、「太」に見えるのも同列の現象だ。
「ん」を一筆でなく分割して二筆で書く者も多い。「え」もそうで、下部を二筆に分て書くから、「元」の崩し字になっている。
「さ」について、上部を右上から左下、左上から右下に交差させる書き方も散見するが、これも漢字の書き方に倣ったと考えられる。その同じ学生が、「き」の上部は、左下から右上、左下から右上、左上から右下と書く。
「ヒ」の横棒は、ほとんどの学生が右から左へ打ち込む。これにも感心する。ただ、「ホ」が「木」になってしまうのは困る。
要するに、非漢字圏の学生は、かなを習うとき「無からの創造」のため悪戦苦闘するのに対し(われわれがアラビア文字を初めて習うときを考えてみればいい)、漢字圏の中国人は「漢字からの創造」をしているわけだ。個体発生が系統発生をくりかえしている例と言えるかもしれない。


もはや「同文」とは言えず、彼らは簡体字、われわれは新字体を使う。正字繁体字旧字体)をよく知らない。新中国の簡体字はかなりラディカルで、たとえば「丰」などというのが出てきて、何だこれは?と思う。われわれの「豊」である。正字は「豐」。日本の新字体も略字ではあるが、より正字体に近い(中には彼らが正字体を使いつづけている例もある:「乘・乗」)。正字体を間に置けば、日中の略字はよく理解できるという関係にある。日本の新字体は、日本語を学ぶ彼らはぜひ習得しなければならないのだが(中国語を学ぶ日本人が簡体字を習得しなければならないように)、それは正字体に、漢字の正しく豊かな伝統にアクセスするための助けにもなる、というひそかな道もついている。西欧文明との遭遇によってそれぞれ独自に適応をはかっているうちに、彼らはわれわれを、われわれは彼らを知ることによって、かつての漢字文明に接近できるという奇妙な相互依存・相互参照の関係ができてしまっていることに気づかされる。
漢字のみにとどまらず、新中国は、ラディカルな簡体字同様、さまざまな面で旧伝統を断ち切ろうとしていたらしく、本や新聞、古典籍までも横組みで出版している。学生たちは日本語によって縦書きに接するらしい。日本には横書きの封筒・縦書きの封筒のふた通りがあるというのが異国文物になっている。
中国人の日本語学習、そして日本人の中国語学習は、彼らにとって、またわれわれにとって、大きな反省の機会となる。ことばそれ自体を考えるという意味での反省のほかに(それならばどの2言語の間にもある)、文字および文字伝統(書式など)、つまり文明の反省、自己検証である。


説明をしていて、どうもわかっていないようだなと感じたら、英語の単語をさしはさむことをよくする。むずかしいとばではなく、誰でも知っているような簡単な単語やフレーズだ。ところが、ほかでは有効なこの方法が、中国では通じない。彼らの英語力が低いというのではない。英語はもちろん勉強しているし、TOEICの点は中国人学生のほうが日本人学生より高いだろう。また、私の英語の発音の悪さによるのでもないと思う。もちろん悪いのだけど(もちろん!)、そうではなくて、ある言語(ここでは日本語)での説明の中に、中国語以外の別の言語が入ってくることにとまどうらしい。「スイッチの切り替え」ができにくいようなのだ。その理由として、表音文字がないことによるのではないかという仮説をもっているが、どうだろうか。
中国語の文は中国語だけでできており、そこに異分子(外来語)が入りこまない。まぜこぜをしないことばなのだ。まぜこぜが血肉である日本語話者にはそう感じられる。中国語では、外来語は基本的に漢字へ意訳するから、それは「漢字語」であって、つまり、語源をたどれば外国由来であっても、形の上では純然たる中国語になりおおせている。たとえば、「hot dog」は「熱狗」。ちょっと鼻白むほどの直訳だ。ドッグが犬と知らない日本のおばあさんは、「ホットドッグ」と聞いても何か舶来物だと思うだけだが、ドッグが犬と知らない中国のおばあさんは、「狗」が犬とはもちろんわかるから、犬を焼くのかと驚くだろう。いや、犬を食べる地方の人なら、出てきたものを見て、犬肉じゃないじゃないかとどなりだすかもしれない。犬が食べたかったのに!
固有名詞以外は漢字で意訳するのが一般的で、音訳(つまり万葉仮名)の普通名詞は少なく、音訳されるのはだいたい固有名詞である。しかし、1字1字に意味のある漢字では、中国の人名地名さえ固有名詞か普通名詞かととまどうことがあるのに、外国の意味のない音訳固有名詞では、どこからどこまでが固有名詞部分なのかわからなくなることはないのだろうか。
音訳と意訳を兼ねた名訳とされる「可口可楽」は「ke-kou ke-le」で、日本語の「コカコーラkoka koora」のほうが原音に近い。McDonald’sは「麦当労」と書く。ピンインでは「mai-dang-lao」だから、原音からだいぶ遠い。この漢字表記は広東語での発音によったそうで(「mahk-dong-lou」)、それなら日本語の「makudonarudo」と同じ程度かもしれないが、無能な日本語音韻体系に少々勝っていたところで何ほどのことはない。劣るのならなおさらだ。両者ともに無能。だが表意文字をもっている日本語のほうがずっと便利。以上。
カタカナ語の氾濫を日本語の乱れと歎ずる論調があるが、それは半分正しくて、半分はまちがっている。日本語に訳せ、などと論者は言うが、彼らが考えている「日本語への訳」は「音読み漢字語への訳」なので、それなら「日本語」に訳したというわけではない。その論者たちは実は「中国人」なのだ。あるいは日本語が「中国語」だというか。日本語の中にはたしかに「中国語」の領分がある。中国人日本語学習者は漢字語へ翻訳されればうれしかろうが、そしてカタカナ語はうっとうしかろうが、ことは日本語の話である。外国由来の事物・概念は、1)和語に訳す、2)漢字語に訳す、3)カタカナ語にする、の3つの方法があり、ベストは言うまでもなく1)である。しかし和語の造語能力は未発達のまま萎縮してしまい、なかなかそういかない。だから、2)か3)かということになるのだが、漢語は同音異義語が多すぎる。それでなくとも溺れそうな同音異義語の海を、さらに溢れかえさせようというのは愚かだ。日本語は今でさえ聞いてわからない困ったことばなのに、そこへさらに聞いてわからないことばを増やすのは、まともな神経ではない。聞いてわかるのだったら、カタカナ語のまま取り入れて差し支えないはずだ。節度さえあれば(それがないことがまさに問題の根幹なのではあるが)。「テレビ」が「電視」に劣る何の理由もなく、「電子」と間違われないだけメリットがある。だが、映画の題はちゃんと訳そうね。


「和・漢・洋」というものはたしかに存在する、と思った。日本から見ての世界の三大別だから、自民族中心主義の典型ではないかとの非難を受けそうだが、けっしてそうではなく、ある程度の客観性がありそうに思えるのだ。
まず、世界は東アジア世界(漢字圏)とそれ以外に二大別できる。これは客観的に正しい二分法だ。オリエント世界はオクシデント世界と同根で、インドは独自性があるものの、やはり西と通底しているというのが、それとまったく異なる世界であり、東アジア文明圏を成しているこの国から見るとよくわかる。モンゴロイドコーカソイドという人種的区別とも何ほどか重なるし。
一方で、東アジア文明圏の一部でありながら、東南アジア的でもあり東北アジア的でもあり、欧米とも通じている日本は、ひとつの独自世界と言える。「東西古今の文化の理想、ひとつに渦巻く大島国」という校歌の一節は、単なる明治青年のオダではないなと感じる。客観性は前者ほどでないが、認められていい区分だ。


さまざまな西方の経験知識を踏まえた上で東方を見ると、中国も、そして日本もよりよく見えるように思う。非漢字圏を通して漢字圏を見よ、ということだ。それなのに、漢字圏外で言語を研究し、研究できた気でいるかわいそうな欧米人に教えてやるべきなのに、それができないでいる東アジアの言語学が悲しい、ということでもある。目の前に沃野が広がっているのに、欧米人の糟糠を舐めて能事畢れりとしている残念な人々ばかりだ。この稿の筆者をはじめとして。