ワールドカップ・漢字カップ

今回のワールドカップは中国で見たので、必然的に漢字とにらめっこすることになった。
中国でワールドカップを見ることは、つまり膨大な漢字表記の固有名詞群を解読するということである。中国に暮らしている人、中国語で生活する人には普通の日常で、何を今さらと笑われてしまうことなのだろうが、中国に生活する時間は長くても、ずっと日本語生活を貫いてきていた者には、今さらな新しい経験だった。何となく前世紀前々世紀の東洋学者になったような気分だ。
中国には周辺民族に関する記録が山ほどあって、学者にとっては宝物庫なのであるが、それが全部漢字で記されているので、それがほかの記録にあったり現在使われていたりする地名人名のどれに相当するのかを検討しなければならず、かつての東洋学の主要な任務は漢字名の解読比定であった。白鳥庫吉桑原隲蔵などのビッグネームが、大宛国貴族山城弐師城は現在のどこに当たるかをめぐって華々しく論争していたさまを、ワールドカップ出場国名選手名を見ながら追体験できる。そんな楽しみ方もあった。「颯秣建」はサマルカンド。西方の乾いた風が頬を撫でていくようだ。「烏拉圭」なんて、絶対あの頃の西域の国の名前だよ。ウルグアイピンインで書けばwulagui)と知るのはちょっと失望だ。
瑞典」「瑞士」は日本でも使うので知っていたが(ただしスイスは日本では「瑞西」)、「瑞」の発音は「rui」であって、それぞれ「Ruidian」「Ruishi」なのはおもしろい。日本語の音読み「ズイデン」「ズイシ」のほうが原音に近い。スウェーデン・スイスを「瑞典」「瑞士」と表記するようになったのがいつごろなのか知らないが、早くても明代だろう。そのころは「スイデン」「スイシ」といったような発音で、「瑞」は「スイ」だったのが、いつからか「ルイ」に変わったのだなとわかり、何となくうれしい。日本の漢字音のほうが昔に近いということも。
巴西」はひどい。ブラジルのことだが、発音は「パーシー(ピンインでBaxi)」でBrazilとは全然違ううえに、あれじゃ意味も「四川西方」になってしまうだろう。日本での漢字表記「伯剌西爾」(だから日伯協会がある)のほうが適当だと思うのだが、あの表記は日本人が独自に作ったものなのか? 日本の米・仏・独・伊・露が中国では美・法・徳・意・俄であるように、日中で異なる表記もあるけれども(西・葡・墨などは同じ)、ブラジルもその一例になる(なお、かつての中国は周辺民族にケモノ偏や虫偏の文字を当てるいやらしい国だったが、近代欧米諸国には好字を当てているのは何か事情があったのだろうか)。
「丹麦」(たんばく:デンマーク)「比利時」(ひりじ:ベルギー)は、知ればなるほどとは思うものの、これ、普通名詞に受け取られないか? 「赤い麦」とか「利を比べる時」とか。ウラジオストクは漢字で書けば「征東」とか「鎮東」の意味だそうだが、後者なら中国にもどこかにありそうだ。承徳・大慶・大同・保定等々、あの国には普通名詞(抽象名詞)と区別できない地名がかなりある。たいていうれしそうな名前だ。人名でも、令計画なんて人もいたし、丁寧という卓球選手もいる。こんなの普通名詞だろう。英米にもWhiteさんもいるしBlackさんもいるが、固有名詞は語頭が大文字なのでわかる。日本語の場合は、外国の人名地名はカタカナ表記だし、漢字名も前後が助詞(ひらがな)で囲まれているからそれとわかる。漢字はそれぞれの文字に意味があり、かつ分かち書きをしない点からも、普通名詞と固有名詞の区別がむずかしいと思うのだが、中国人はあれで大丈夫なのか? 昔の漢籍は固有名詞を普通名詞と混同しないために、固有名詞には傍線を引いていた。現代でもそれは必要なように思うのだが。
実況は中国語だから聞いたってわからないけれど、人名は何とかわかる。しかし、デンマークチームに「アレクサ」という選手がいるみたいなのだが、誰だ?と思っていたら、エリクセンEriksenだった。漢字で「埃里克森(ailikesen)」。どうもアナウンサーには、アルファベットを見て発音している人と漢字を見て発音している人がいるようだ。ポグバPogbaのことを「ポバ、ポバ」とg音がほとんど聞き取れない言い方をしている人もいた。あれはアルファベットを見て言っている。漢字なら「博格巴(bogeba)」で、日本語同様「グ」が入る発音になるはずだ。
漢字で書かれると本当に困る。「克里斯蒂亚诺·罗纳尔多」だものねえ。「梅西」ぐらいならいいんだけども。サッカーでは新しい選手が続々と現われる。どうやって彼らの漢字表記を決めているのだろう。中国語には405の音節があるというが(プラス四声)、この音節にはこの文字を当てるというのが決まっているのだろうか。たぶん機械的に当てはめているのだろうが、その際声調も考慮しているのだろうか。私が知らないだけで、きっとルールはあるのだろう。そのルールを一般の中国人も知っているのかな? 旅行中外国人と知り合いになって、その人の名前を日記に書くときはどうする? 何にせよ、面倒だ。カタカナがあってよかったとつくづく思う。


また、この大会は中国企業がスポンサーに多く名を連ね、すべての試合で漢字の広告を見ることになった。スマホvivoや家電のHisenseのように世界市場を目指している企業がスポンサーになるのはわかるのだが、国内企業に過ぎないと思われるところまで莫大なスポンサー料を払っているのは驚きだ。あれは結局国内向けなのだろう。だから漢字でいいというか、漢字でなければならない。国内消費者獲得のために、国際大会(世界一の人気で、それに見合って広告料も恐ろしく高い国際大会)に広告を出す。国内需要を満たせば巨大企業でありうる中国の事情が見える。国内事情を国際場裡で押し通す。国際常識が通じないというか、超越している。ま、おもしろい国であることはたしかだ。