外国暮らしのこんな楽しみ

ひとり身の外国暮らしは、仕事はそれなりに忙しくても、雑用がほとんどないので、かなり暇がある。本を読むにはもってこいだが、いかんせん肝心の本が少ない。恒常的に本に飢えている。しかし、前任者やその他の日本人が置いていった本がどこかに溜まっているもので、そんな本溜りにアクセスできれば、最低限の読みしろは確保できる。欠点は、読みたい本がそこにあることは少ないということだが、逆に言えば、そこにたまたまある本を読まなければならないので、ふだんなら読まなかっただろうような本が読める。選択肢がないというのは、どうして、なかなかいいことである。選択肢が増えるのは進歩である。だが、人間進歩ばかりしていていいはずがない。
「読みたい本がある」とか「ない」とかでなく、「ある本を読む」。すがすがしい。そこにどんな本があるかは見てみるまでわからず、自分では何も決められないし、要求もできない。いいじゃないですか。人生そのものだ。たいがいは駄本である中に、余人には価値低くとも、あなたにとってはかけがえのない一冊があるかもしれない。あなたの人生を変える「一生の出会い」があるかもしれないのだ。ま、ふつうないんですがね。


そういうところには「文芸春秋」の古い号が山積みになっていることが多く、日本では読んだことがないこの雑誌を、海外ではよく読む。この雑誌を読む層と社命で外国へ赴く働き盛りの企業戦士層・外交官層が一致するのだろう。しかし、「中央公論」はあまり見かけない。こっちのほうがずっといい雑誌だと思うのだが。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」もこんな本溜りの中にあったのを借りて読んだ。司馬遼太郎はだいたいどの本溜りにもある。「文芸春秋」と同様、駐在員の愛好するものであるから。文春・司馬遼・駐在員は海外進出日本の聖三位一体である。
古雑誌はもちろん、何年か前の古新聞を読むのもなかなか趣味のいいものだ。前後左右もよく見えず、ただひたすらにあくせくするわれわれの日常を時間を隔てて眺めるのは、いい反省機会だ。今から見れば何と言うこともない出来事のその当時の大げさな取り扱いに笑ってしまうが、その笑いは苦笑であるべきだ。笑われているのは自分自身かもしれないのだから。新聞はその宿命として同日という機械的な編成法を取るので、ある出来事とほかの出来事が実は同じ日に起きていたのだと気づかされて驚く。われわれの頭の中のファイルでは、性格の異なる出来事は別々に分類され記憶されているので、その分類がほどかれて、ただ同時性という精神的努力のいらないやりかたで並べられると、不意をつかれ、ああ、たしかにそうだったと今さらのように思い出す。記憶は事件を再編成し編集するわけだ。同時性という運命に縛りつけられているわれらの姿に気づいて、ちょっとだけかしこくなれる。一瞬後には失われているかしこさだが。


そこにある本を読むといっても、専門をかけはなれた本を読むことはあまりない。科学書についてなら、そんな本はほとんどなくて、文系で専門外だと経済とか法律になるけれど、こっちのほうたとえひまがあっても読みたくない。金儲けはとことんきらいである。読み捨て小説本もまず読まない。飢えているくせに選り好みが激しい。ほかで贅沢をしない分、この方面ではけっこう気むずかしい。
だから、読むのはこれまで何となく読みそびれていた本というのが多くなる(あればの話だが)。難波利三「てんのじ村」とか武良布枝ゲゲゲの女房」のような、同郷だし漫才も水木しげるも好きだから気にはなっていたが、ほかに読む本があるならわざわざ読みはしない類が読めるということだ。相田みつをもそう。よく見かけるが、企業戦士にファンが多いのだろうか。


もちろん、知らなかった本を手に取ることも多い。トルコの図書室にはインド関係の本がいくつかあって、そのうちの辛島貴子「私たちのインド」を読んだのがインドへ行くきっかけになった。採用されたから行ったわけだが、この本を読んでなかったらそもそも応募をしなかっただろう。
トルコではまた高坂正顕「民族の哲学」を読んだ。そんなのがあったのだ。おのずから限界も偏向もあるけれど、きっちりした本だった。カール・シュミットじゃないが、あれだけの戦争をしたからには、そのことについて思想的裏支えがなければならない。それがあったことは喜ぶべきである。この類の本は「大敗北」のあとでは再版されないから、図書館や古書店が存在意義を発揮する。プロパガンダの具であるという新刊書店の貧しい面が知れる。しかし、なんでこんなのが本溜りにあったんだろう?
スリランカでは、スリランカの農業水利施設についての本を読んだ。著者も書名も忘れたが、なかなかおもしろかった。こんなことを研究している日本人がいるのだなあと感心したけれど、そういう自分もまわりからはそう思われているかもしれない。


中国では、小西甚一「古文研究法」を読んだ。噂には聞いていたが、実物を初めて手にした。高校の学習参考書のロングセラーで、初版は昭和30年に出て、今も現役だというからすごい。受験用であることは著者自身が何度も文中で明言している。「研究するためにはこれでは不十分だが、高校生諸君はこの程度の理解でけっこう」などと言ってるけれど、その程度理解していたら古典を読むのに何の苦労もいらないよ。私も古典はたまに読むが、私の知識は明らかにこの本を完全に理解した高校生よりずっと下だ。受験で脅かしてこれだけの知識をつけさせることができるなら、入試制度も悪くない。中世精神について、「最善なるものは最も多数なるものによって支持されている」だとか「型以外の自由はきびしく否定するが、型以上の自由はたいへん尊重する」などと説いてるいが、それ大学の講義でしょ。「国文学を専門とする限り、どの学者だって「一生にいちどは、力のこもった文学史を書いてみたい」という願いを抱かない人はあるまいと思う。私も、もちろん、その一人である。しかし、そんな「すばらしい文学史」が現実には存在していないことも、残念ながら事実である。「すばらしい文学史」が刊行されるまで、諸君は「詰まらない文学史」を学習するよりほかないという悲しい運命にある。「すばらしい文学史」を−少なくとも結果的には−書こうとしない責任を棚あげにして、その「しわよせ」を高校生にもってゆこうとする国文学者たちは、たしかに困った連中である。やたらに異説を製造する文法学者よりは、いくらかマシかもしれないが」なんて言い草、学参じゃないよね。同業者の漫罵かたわら、「すばらしい文学史」を私が書くという宣言文じゃないか。
今も出ているということは、今も読んでいる高校生がいるということだ。日本の高校生はなかなかのもので、日本の国もなかなかのものなんじゃないかと思ってしまいそうだ。いや、まじめに、1パーセントでもそんな高校生がいたら、国は安泰だと思うよ。


だが中国では、そんな本溜りより、大学の図書館に大学が購入した本の中におもしろいものがある。中国で出版された日本文学シリーズがあるのだ。対訳になっていたり、中国語の注釈が入れてあったりする版である。著作権問題をクリアしているのかどうか知らないが、とにかくこうなっている。英語の本棚もしかりで、原書はほとんど(もしかして全然?)ない。その中に未読の「破戒」や「明暗」もあったので、この際に読んでみた。横組みで対訳つきの日本語小説というのは何か変な感じだった。「二宮翁夜話」なんてのもある。さすがに原文でなく現代語訳を使っているが、やはり横組み対訳つき。対訳ですよ。びっくりだ。二宮尊徳に興味はあったが、読みたい本、読まなければならない本が山積みの日本では、手に取ることはなかったろう。外国暮らしならではだ。
さらに驚くべきは、「高慢と偏見」(「傲慢与偏見」)、「ジェーン・エア」(「簡愛」)、「嵐が丘」(「呼嘯山庄」)、「二都物語」(「双城記」)、「ボヴァリー夫人」(「包法利夫人」)、「若きウェルテルの悩み」(「少年維特的煩悩」)などの邦訳泰西名作が並んでいることだ。原語ができなければ翻訳で読むのは道理だが、中国語訳だってあるでしょう。(1)日本語の勉強のためにわざわざ日本語訳を読むのか、(2)日本語訳のほうが訳文がいいのか、(3)中国語訳でも日本語訳でも変わらないくらい読めるからどちらでもいいのか、まあ(3)はないと思うが、たぶん(1)なんだろうが、それにしてもすごい。(1)としてなら、こなれた翻訳文は、古めかしくもなく独特の癖もなく(明治文学の、たとえば、現に書棚にある一葉や鏡花などのように)、論理的結構もはっきりしているので、むしろ読みやすいのかもしれない。もし(3)ならば、洋書の知識を得るためにその漢訳書を読んでいた幕末明初の人々を思い起こさせる。単に棚に並んでいるだけではない、明らかに読まれている。日本の戦後は無歴史の中を漂流しているが、中国は歴史のただ中にある。端倪できないね。こんなことを知るのも、海外暮らしの楽しみであり、本漁りの功徳である。「嵐が丘」は読んでいないから、読んでみようか。得がたい経験にはなるだろう。
ちなみに、英語のコーナーには中国古典の英訳書がたくさん置いてある。この大学に外国人教師は9人、留学生が何人いるかは知らないが、そう多くはあるないと思う。外国人のためにそれらが並べてあるのではあるまい。読むのは中国人学生で、それには、原漢文よりたぶん英訳のほうが読みやすいのだろうということも考えられるが、それよりもおそらく、英語を学ぶのは英語で中国の高い文明を紹介してやるためだという深い意図があるのだろう。なお、日本語のコーナーにはそんな訳書はない。日本語と英語の学習目的の違いによると思われる。
だが、この大学図書館で本当に驚くべきなのは、原書がないことだろう。日本語でも英語でも、中国で出たものしか置いてないのだ。文学書に限らず、日本オリジナルの教科書・参考書・辞書なども、ライセンス出版か海賊版か知らないが、中国で刊行のものばかり。図書についても「国家管理」が行なわれている。FacebookYouTubeを禁止して、国内向けの中国版フェイスブックや中国版ツイッターを提供するのと同じ眺めだ。中国はあくまで自余の世界から切り離された中華世界を誇っている、と皮肉られてもしかたがあるまい。
かつ、要するに学参ばかりなのである。理工系の書架は知らないが、外国語学科に関してはそう言える。科挙の悪いほうの遺産なのではないか。中国の膨大な人口は中国をオリンピックのメダル大国にしたが、ノーベル賞学者の輩出のほうは当分無理だろう、こんなありさまでは。


読む本を選んでいるつもりだが、実は本によって選ばれてもいる。手に取れる本の数は限られているにもかかわらず、読みたくないものはきっぱりと読まない。だから読み手が選んでいると傍目には見えるが、これはおもしろそうだと意識が動くその背後には、本のほうからの働きかけがあり、それに感応しているのだ。選択肢が多ければ選んでいるかもしれないが、選択肢が少ないと、むしろ選ればれる。そして、後者は前者より幸福でないとは、必ずしも言えまい。