千年の田舎

これまで、カザンだとかフェルガナだとかカイセリだとか、古い歴史はあるが一般にはあまり知られていない町に好んで暮らしてきた。今回河南省の焦作に職を求めたのは、なるべく人の少ないところへ行きたかったからだ。中国はとにかく人口が多すぎて、大したことのなさそうな町でも驚くべき数の人口だったりする。聞いたこともない焦作(石炭と山芋の町らしい)などというところなら少ないだろうと考えたのだが、その見込みは外れて、ここもやはり100万近い人口であったが、もうひとつの見込み、歴史的なものは何もないだろうというのも、少しばかり外れていた。
そう外れていたわけではない。たしかに何もない。近郊に太極拳発祥の地というのがあり、大行山中に雲台山とか神農山などの景勝地がある(ユネスコ指定の世界地質公園だそうである)。一般の観光客をひきつけそうなのはそれぐらいで、人物は出ていまいと思っていたが、これもちょっと違った。竹林の七賢の故地なのである。てっきり東晋、つまり江南の人だとばかり思っていたが(竹林だから)、西晋の人だった。たしかに、よく見ると竹はある。細くて竹というより笹ぐらいなものしかまだ目にしないが、山のほうには竹林もあるのだろうか。
中国の文明は黄河流域、つまり華北に発するが、中国を代表する植物、茶と竹は華北に産しない、いわゆる照葉樹林文化の産物で、どのようにしてそれが華北に浸透したのか知りたいと思っていた。だが、華北のこの昔の中原の地にもあるのだった。茶も河南省に産する。最南部に限られるが。猿もいる。河南省は思っていたより南に近いのだった。清末にこのあたりを旅した宇野哲人も書いている。「清化鎮を発す。…この辺り一帯に竹叢稲田が多い。… 河内県を過ぐ。広恵洞渠の碑がある。これは明の万暦年間この地の水利工事を起こしたことを記したもので、この辺りに稲田が多いのはその余沢である」(「清国文明記」、講談社学術文庫、2006、p.175)。稲田もあるらしい。まだ見ていないが。
そのころは首都(洛陽)から遠くないわけで、すれば文人名士が遊んでいても不思議はない。市区から少し山に入ったところに、結構は整っているが何の変哲もない円融寺という寺がある。建物は新しい再建だ。しかし、創建自体は5世紀だというので、驚いてしまった。法隆寺より古いわけで。もちろん中国のほうが歴史ははるかに古いのだから、驚くこともないのだが、こんな田舎町だから不意をつかれた。あなどれない。
焦作は近代の名前で、漢代ここには山陽城があった。後漢最後の皇帝献帝が譲位のあと住んだという。雲台山近くに陵もある。三国志の群雄の故跡もいくつか見られ、呂布の墓と言われるものや司馬仲達の生地が域内にある(河南省三国志史跡の集積地だから、これっぽっちというべきだが、あることはある)。唐代では李商隠の生地、韓愈の陵園、域外だが黄河を渡ったすぐ南隣には杜甫故里も。ずっとさかのぼっては子夏の生地であり、さらにさかのぼって殷代の府城遺跡も市区内にある。河南省黄河文明の中心地だから、当然と言えば当然である。神農山は神農にちなむし、要するに唐代以前の史跡ならいろいろあるのだ。焦作市区内の一番の観光スポットは影視城(日本語だと「映画村」となるのだろうが、まさに城であって村ではない。日中のスケールの違いがここにも出る)で、周王宮・楚王宮や春秋戦国時代の城市が映画セットとして作られている。もっと新しい時代の映画は他省の影視城で撮影される。ここには大昔が割り当てられているというわけだ。似つかわしいかもしれない。


中原は衰退してしまった。河南省は貧しい地域だと聞いて、驚いた。沿海部が発展しているのは知っているけれど、中国の中心部じゃないか。そんなに悪いはずはないと思っていたが、ここに住む中国人自身がそう言うのだから、そうらしい。
中国歴代王朝の首都を見てみよう。西周が今の西安・東周が洛陽、秦が西安前漢西安後漢洛陽、西晋洛陽、東晋以下の南朝が南京,隋西安、唐西安北宋開封南宋杭州、金北京、元北京、明は初め南京・のち北京、清北京、民国南京、中共北京。洛陽(開封も)のある中原と西安のある渭水盆地が長く諸王朝の都するところだったのに、宋代を区切りに首都は中原を去り、北京にあらずんば南京というぐあいに、大運河をはさむ南北軸へ移動した。
宋が転換点をなすことは、王朝名からも見て取れる。金以降は元・明・清と抽象的な名前になっている。それ以前はずっとゆかりのある古代の地名国名をとって王朝の名としていた。伝統がそこで完全に改まっている。洛陽でなく大運河により近い開封、南京でなく海のそばの杭州。中国人は海から遠い人たちで、臨海都市に都を置くことは地方政権以外に絶えてないのに、海に近い南宋国都臨安(杭州)はその意味で唯一の例外をなしている。宋学によって古い儒学が革新したのも宋代だし、それまでのように異民族の軍団が漢族のただ中に入り込む形でなく、故地を確保しながら進出して面的支配をするようになったのも宋代からだ。そしてそのあとは、明一代を除いて中国は北方異民族の支配下に入る。中国史はここで一大転換をしている。
三国志の時代、三国と言いながら華北を支配する魏の力が圧倒的だった。だから中国は魏の帝位を簒奪した晋によって再統一されたわけだ。しかし華北の抱える最大の問題は好戦的な北方騎馬民族の近さで、彼らが華北を蹂躙した五胡十六国時代に、漢人王朝はかつての呉の都南京に移らざるを得なかった。以後、彼らの故地に近いため、王朝を建てた北方諸民族によって偏愛された北京を除き(北京は大運河によって南方とも結びついていた)、大発展した江南が中国文化と経済の中心になる。漢人民族政権はだいたい南京に拠る。太平天国もそうだし。「北方異民族」ソ連に後押しされた「共匪」政権の都が北京であるのも、その前の国民党政権が南京を首都としたのに対し、江南と北虜の争いの続きと見なせる。ま、その武力のいたすところ、たいがい北虜が勝つ。国民党政権は台湾に移り、大陸では廈門の近くの金門島のみ占めて、まるで明滅亡後の鄭成功政権のさまであることも、同一パターンを繰り返す中国史の特性を眼前に示してくれている。
歴史は結局交通史である。南船北馬といわれるように、舟行が発達しにくい北の黄河流域では馬が、長江とその支流から成る南では船が重要な交通手段で、いわば棲み分けられていたのに、大運河の開通とともに水運の時代となり、中原の優位は掘り崩されていく。江南が次第に興隆していくが、江南の大発展は中原の没落を意味するものであった。
そして、イスラム商人や倭寇海賊商人の活動と、それに引き続くヨーロッパ人のいわゆる大航海時代の到来によって、海運の時代が訪れる。泉州・広州・廈門、ポルトガル澳門・イギリス領香港・そして列強が租界を構える魔都上海。北では列国の天津・ドイツの青島・ロシアの大連などの海港都市が開かれ、それは今も中国経済を牽引する大都市だ。
(日本人は中国の地名を音読みするが、いくつかの町は欧米人が呼ぶように呼んでいる。租借地だったホンコン、マカオ、チンタオ、租界のあったシャンハイ、アモイ、そして首都のペキン、ナンキン。それは清朝後期以降の中国近代が「欧米の時代」だったことを物語る。また、「明」と「清」がそれ以前と異なり現地音に近い「ミン」「シン」と呼ばれるのには、近世以降の日中関係の大衆的な近さが見て取れる。名前はいろいろなことを語っている。)
京都へ行くことが「上洛」だったように、洛陽は王城の代名詞だったのだが、今では、洛陽?なんか世界史で習ったなあ。漢文でも洛陽の鹿とか何とかあったっけ?程度の認識だろう。河南省省都でもなくなり、漢文でも近代史でも習ったおぼえのない鄭州省都になっている。中国鉄道の二大幹線、京広線・隴海線が交わるという運輸の便から発展したのだ。海港と同じく、近代輸送手段によって栄えている町である(鄭州日産もある)。
大著「シナ」を著した地理学者リヒトホーフェンは、明治維新のころ焦作の炭鉱を調査に訪れている。そのとき指摘しているのが輸送コストの高さで、近くの炭鉱の石炭を買うより、南方から船で運んできたもののほうが安いのだ。炭鉱地李封で1トン6マルクの石炭が、15キロ程度離れた清化鎮(博愛)で15マルク、50キロ離れた黄河沿岸では30マルクとなってしまうとして、鉄道敷設の必要を説く。「南方の商業的好況−この好況はまたある程度優秀な水上交通機関と外国貿易とに帰せらる−は、ただ単に北方の相対的没落の原因であるばかりか、さらにその絶対的没落の原因をもなしている」(「支那旅行日記」)と彼は結論した。鉄道はとうに開通したが、今も沿海地方に遅れた状態のまま、河南省は1億人とともに後方にうずくまっている。
リヒトホーフェンの本は別の点でもおもしろくて、河南の人々は非常に物見高く、彼らの一行が来るとまわりに集まってじろじろ見る。しかし人が良くて、罵ったりすることはない。ただ楽しそうに見ている。宿にも押しかけてきて困るので、昼に大道を練り歩くから夜宿屋へは来るなと話をつけて、そのように道を歩いて十分に眺めさせてやったりするのなどは微笑えましい。そしてこのような田舎じみた人の良さは、150年後の今もあまり変わっていないような気がする。


首都がきらい中央がきらい、恵まれない人や地域が好きというかなり偏った性向をもつ人間なので、中原であることは好ましくない点だった。ウラル語・アルタイ語・ドラヴィダ語と膠着語地域に暮らしてきたので、中国でも膠着語地域を優先したかった。だが住んでみれば、歴史をもちながら今は落ちぶれている中原こそ住むべきところだったとわかった。二千年の畿内にして、千年の田舎。いいですねえ、河南省。こんな人間に好かれては迷惑かもしれないが、けっこう好きです。