一時避難

ちょっとばかり離れていた中国にまたもどってきてみると、前には使えていたはてなブログが閲覧も投稿もできなくなっていた。そのほかにもいろいろ閲覧できないブログがある。それで、投稿できるこのブログ(閲覧はできないようだが)に一時的に避難することにした。今までの記事ははてなで見てください。
はてなだけでなく、YahooJapanでの検索もできなくなった。メールはでき、ニュースも見られるが、検索はできない。Googleは以前から使えない。これでYahooとGoogleしか入れてない私のスマホからは検索がまったくできなくなった。
それだけではない。Wikipediaの日本語版も見られない。英語版などは閲覧でき、韓国語版もできるが、日本語版、そして中文版はだめ。FacebookYouTubeニューヨークタイムズなどが見られないのは以前からわかっていたからそのつもりでいたが、こんなに制限が拡大したのには困惑する。VPNを使えば見られるようだが、そのVPNにも閉鎖の魔手を伸ばしているそうだ。サイバー万里の長城はますます高くなっていく。
国民を外国の情報から遮断するためにそうしているわけだが、みんなが習っている英語による情報へのアクセスを妨げるのはわかる。だが、日本語学習者など大して多くもないのに、なぜYahooの検索や日本語Wikipediaから遠ざけようとするのだろう。単純に日本人に対する嫌がらせなのか、あるいは日本語情報は漢字を拾い読むことでけっこう伝わるものがあるのだろうか。
政府にそんなことをされても、おとなしく国内に暮らす民衆はほとんど困らない。対応する国内サイトがあるからだ。何せ13億人だから市場は十分以上に大きいうえ、外国のサイトが万里の長城によってブロックされているのだから無敵である。そのようなサイトが中国の発明品ならそんなことをされてもしかたがないと言えようが、もちろんアメリカの作ったもののパクリである。そのパクリを国民に使わせて、本家本元のアメリカのサイトはブロックしているのだからタチが悪い。そして13億にものを言わせ、規模を誇る。
これが韓国人なら、今にそういうサイトも韓国の発明だと言い出すのだろうが、中国人はそんなことはしない。しかし国民には誰の発明であるかは決して教えず、そのような記述があれば検閲によって徹底的に削除するというやり方をするに違いない。歴史に向き合う(というか、向き合わない)東アジアのふたつの流儀である。これらの国々が「歴史を忘れるな」と叫んでいるのは噴飯ものだ。ま、日本にも愚劣さにおいて彼らに十分対抗しうる安倍流歴史修正主義というのがあるけどね。
外国(欧米+日本)からの情報発信を国民から遮断するのは、中国政府ではなく外国(欧米)の本部の指令に従うキリスト教、特にカトリックを露骨に警戒し抑圧するのと軌を一にする。リゾーム的なイスラム教や仏教が許容されるのと好対照だ。彼らが誇り、他の独裁国家に輸出しようとさえしているあの防火壁によって守られることで大きな利益をあげているインターネット会社は、当局の検閲削除に当然のごとく従う。そのことで国民の利益は損なわれているはずなのだが、彼らがそれで満足なら外から四の五の言うべきではないのだろう。とにかく、この国の驚異は数だ。9割が満足しているなら、それは12億が満足しているということで、その数の前には何もかも無力に感じる。不満な1億というのもすごい数なのだけども、12億の前にはやはり力を失う(12億は本当に満足しているのか、彼らの国内SNSでの発信も検閲し、問題がありそうだと思ったらバンバン削除しているのだから、不満をため込んでいるのではと外国人は考えるが、その不満はたぶんそんなに大きくない。金をもうけさせてくれる限りは)。


この国は国内向けにできていて、たいていのことが国内で完結するようにデザインされているようだ。
駅や空港にはwifiがあるが、これは携帯電話番号がないと使えない。電話番号を入力し、送られてきたパスワードを入れることによって使用可能になる。外国人でも在住者は携帯電話番号があるだろうから使えるが、それを持たない旅行者にはアクセスできない。
中国では何をするのにも身分証明書が必要だ。地下鉄を含む駅構内に入るのに、手荷物検査があるのはいい。安全は重要だから(イスラエルではセキュリティ検査の厳しい店ほど歓迎されるそうだ。世界はイスラエル化しつつある)。しかし身分証明書も提示する必要がある。切符を買うこと自体にも身分証明書がいる。外国人の場合はパスポートを提示することになる。切符の自動発券機や自動チェックイン機も駅や空港にあるけれど、これらは中国の身分証明書がなければだめなので、外国人には使えない。
要するに、中国は身分証明書がない人の行動は大幅に制限される国となっている。むろん、犯罪者に行動の自由がないのは悪いことではない。逃亡中の犯人を捕まえるのにも役に立つだろう。それはけっこうなのだが、政府が「犯罪者」や「テロリスト」と認定した民主運動家(それは反体制活動家と同義になってしまうのだが)や独立運動家、特定の宗教信者の自由も蹂躙されるわけだ。かつて共産党員は地下活動家であり、共匪と呼ばれ匪賊あつかいされていたのだが、自分たちが支配者になったのちはかつての自分たちのような存在は許さないのだ。正義は共産党が有し、共産党だけが有す。動乱に乗じまんまと天下を取った新皇帝がかつての自分の出自階層(匪賊や無頼漢など)を弾圧するのと同じで、笑ってしまうぐらいわかりやすい。
スマホ決済の普及が驚異的な速度で進んでいるが、これもまた外国人には利用できない。銀行口座がなければならないし、もちろんスマホもなければならない。スマホも買えない貧しい人がどれくらいいるのか知らないが、スマホが使えない老人はけっこう多いだろう。老人、子供、外国人にやさしくない国になりつつあるのではないか。スマホが使えない老人は年々世を去っていくので、遠からず国民皆スマホの社会になることは疑いないけれども。
現金というのはアナーキーな存在だ。その由来を問わず、所持人の素性を問わない。盗んだか、拾ったか、そんなことは問題にされず、いま手中にあることだけに価値がある。金、特に紙幣などというのは空しいものだ。要するに紙切れである。ちぎれる、燃える、風に飛ぶ。キューブリックの「現金に体を張れ」のラストで、強盗して金を盗んだ男が空港で捕まるラストで、風によって大量の札が飛んでいくシーンが印象的だった。そんな「吹けば飛ぶよな」空しい金札に狂奔するさまが逆説的におもしろいのだが、それを過去のおとぎ話と化そうとしているのがスマホ決済だ。しかし、これはつまりデータのやりとりである。誰が、どこで、何を、いくらで買ったか。膨大であるためチェックはほぼ不可能なはずだが、人工知能が発達すればそのような膨大なデータもじきに管理できるようになるだろう。
つまり、この国には徹底した管理社会が出現しつつあるわけだ。それは便利である。しかし従順な羊のみに便利なのだ。すべてが身分証明書の所持を基礎としている。データはまず会社が把握するのだけれども、共産党独裁国家ではそのデータはいつでも政府が入手しうる。1984どころではないような気がするのだが、杞憂だろうか。中国政府はもちろん杞憂だと主張するだろう。「12億の満足」を盾に。しかし炭鉱のカナリアたちはいろいろなことを「杞憂」しつづける。
(しかし、スマホ決済によってニセ札横行が解消されるなら、それはたしかにメリットである。ゴミのようなボロ札駆逐も。)


一度は地に落ちた(欧米と日本によって地に落とされた)中国が復活してきたのは喜ばしいことだ。しかしこの国は実に厄介で、力をつけるや否や四千年の頑固な悪癖をまたぞろ発揮しだしてきた。中華帝国の構築である。ルールは彼らが決め、関わりたければ彼らの決めたルールに従わなければならない。皇帝はいないので拝謁の際叩頭はしなくていいが、実質叩頭であるさまざまな決定(彼らが勝手に決めたもの)の順守を夷狄に課す。欧米の覇権を認めず、それに対抗しようとしている点だけは評価できるが、それ以外の点ではまったく評価どころの話ではない。
ただし、英語を、世界を理解するための道具ではなく、世界に中国を理解させるための道具だと思っている点はむしろ小気味よくて、日本など見習うべきである。
世界に数限りない多くの賞がある中で、最低最悪の賞は疑いもなくノーベル平和賞である(経済学賞は無価値であり、文学賞は無益だが無害だ)。あれは正しくノーベル西欧価値観広報賞と呼ぶべきだ(なお、最高の賞は本屋大賞であろう。全国の書店員が選ぶという選考方法がすばらしい。受賞作を読んだことはないし、おそらくこれからも読むことはないけれども)。
ノーベル平和賞が他を圧して最低最悪であるにもかかわらず、実はそれよりひどい賞がひとつだけある。孔子平和賞である。これは本当に戯画だ。中国に都合のいい人を表彰するのだから。独裁中華主義国家中国に。パロディーとしてなら秀逸だけれど、全然そうは思っていないところがさらに醜悪さを増すのだが、その点でもやはりノーベル平和賞の好一対をなしている。孔子平和賞のほうがひどいにせよ、五十歩百歩だ。
中国はアメリカの写し鏡である。独善において両国は世界に並び立つ(西欧諸国、特にフランスの独善もかなりのものだが、米中の独善ぶりからは児戯に見える。今や他国に自分の独善を押しつける力の大部分を失っているからだ。それは独善関東軍を尖兵とした大日本帝国も同様)。自分たちがとにかく正しい。だから勝手にルールを決め、勝手に改変する。自国の利益が最優先で、手を縛られるのを極端に嫌う。そして何かされれば必ず報復する。即座に、粗暴に。なおかつ鉄面皮な宣伝をする。そういうアメリカに辟易していたが、復興中国は驚くほどよく似たその双生児だ。反中感情を持つ日本人が多いようだが、彼らは中国を見るその目でアメリカを見る必要があるだろう。まったく同じものがそこにある。
中国はすばらしいが、そのすばらしさを完全に相殺してしまう欠点をもっている。それは、「中国である」ということだ。この点もまったくアメリカと同じだ。困った隣国ふたつに挟まれてしまったものだ。大国が醜悪なのは、かつて大国を目指して横暴を極めた軍国日本を想起すればよくわかる。一方で、愚劣であるためには大国である必要がないことは小国北朝鮮が示してくれている。それが慰め? いやいや、なかなかつらい東アジアである。
(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)