ボルネオだより/本溜りから本溜りへ

 日本人がいた外国の土地なら、昔住んでいた人が置いていった本がどこかに溜まっているものだ。結果としてそんな本溜りから本溜りへ渡り歩く生活をしている。もともと捨てていった本だから、誰でも自由に借りられることが多く、それを読んで渇を癒やす。その中には日本では読むことのないような本、読むことができなかった本が混じっていることもあって、こういう機会にそれを手に取るのは海外ならではの楽しみだ。
カトマンドゥではそんな本溜りは古本屋で、金を払って求めなければならないが、読み終わった後にまた引き取ってもらえるから、実質貸本屋みたいなものだ。昔の旅人はよく本を読んでいたものだと思う一方、新しい本が少ないのは、日本人旅行者が減ってきていることのほか、最近は本を読むことが少なくなっているのではないだろうかと少しばかり懸念する。

 ボルネオにも学校や日本人スナックの奥の部屋に本溜りがある。誰が置いていったのか、箱入りの今西錦司編「ポナペ島」復刻版もあった。
 マレーシアについての本を読みたいのだが、それは意外に少ない。若竹七海加門七海/高野宣李「マレー半島すちゃらか紀行」(新潮文庫、1995)、高沢栄子「ジュンパ・ラギ」(長征社、1991)、吉川公雄「サバ紀行」(中公新書、1979)ぐらいのものだ。ほかに、マハティール/石原慎太郎「NOと言えるアジア」(光文社、1994)、渋谷利雄/加藤巌編「アジアから学ぶよい暮らし、よい人生」(八月書館、2016)とか、「日本サラワク協会会誌」、松永典子「多文化・多様化社会における日本語教育理念及び方法論の探求-南方占領地の事例より」(科研費研究成果報告書、2006)なんて非売品もあった。
 日本にいたら絶対に手に取らない。「NOと言えるアジア」は聞いたことがあったし、「すちゃらか紀行」は新潮文庫だから目に触れることはあるかもしれないが、ぱらぱらとめくることもないと断言できる。石原慎太郎だの「すちゃらか」だのだから。しかしここにいれば、ひまにまかせて読む。読めば読んだで、どんな本でも啓蒙啓発されるところはかならずある。
 「NOと言えるアジア」がなぜ出版されたのかよくわかるのに対して(露骨なくらいよくわかる。対米自立を声高に言うネット時代以前のこのころまでの右派は、今のネトウヨ輩よりずっとましだということもわかる)、「アジアから学ぶよい暮らし、よい人生」はなぜ出版されたのかよくわからない。MBAで出世というそぐわない話やいい気な旅行記などもまじっていて、まるで雑多だ。雑誌の特集記事を5倍の長さにしたようなもので、出版不況の中にこれを投じる意図は不明だが、「怒らない社会」マレーシアの観察で腑に落ちるところはいろいろある。「日本ではアジアへのこだわりを持っていないとヨーロッパ中心になってしまう」という言にもまったく同感だ。現在の日本はあきれるほど脱亜入欧してしまっているから。
 「サバ紀行」は1964-67年の学術調査の回想、「ジュンパ・ラギ」は1980年代に海外青年協力隊員としてマレー半島のタイ国境に近い村で働いていた人の生活手記、「マレー半島すちゃらか紀行」は1994年の旅行記である。マレーシアと関わった状況は大いに異なるものの、通観するとこの国の発展のようすがわかる。
 「サバ紀行」では、カンボジアがもともとの調査目的地であったのだが、許可がおりなかった。それで、カンボジアのビザを取るために大使館に行ったとき偶然に会い、再びカンボジアでも偶然に会ったインド系マレーシア人の勧めに従って、急遽マレーシアを調査地にするという、大らかなというか、行き当たりばったりないきさつがまずおもしろい。関わる人たちがみなやさしくて親切なのはどうしたことだろうと思う。マレー系やインド系マレーシア人が日本人に好意的なのはいいけれど、半島の中華系の人たちもそうなのにはちょっと驚くのだが。終戦から20年もたっておらず、まだ記憶は生々しいはずだ。シンガポールはもちろん、マレー半島でも日本軍が華僑虐殺をやっていたのを知っていて読むと、すごいなと思う。日本人がきらいな人は近寄って来ない、だから文中に現われないのだろうが、それだけでは説明できない人の好さがあるように思える。
 「ジュンパ・ラギ」では、タクシーで村に帰るときのエピソードがおもしろかった。夜7時、もうバスがないのでタクシーに乗ったら、途中で知り合いの男を勝手に同乗させる。女の子だから、どうにかされて殺されるのではないかと緊張していたら、実は運転手のほうが怖がっていた。ゲリラを。昔はゲリラが出没し、恐れられていたことがわかるし、協力隊員が派遣されるようなところならもうその心配はないはずだが、恐怖はそのあとも残っていたというわけだ。
 「マレー半島すちゃらか紀行」は、軽薄に書いているが、背筋はしっかりある。「阿房列車」が好き、金子光晴の放浪の旅にあこがれがあり、戦争のことも知っている、という旅以前の資質の部分がいいからだ。観光旅行は好きでないが、もし観光旅行をするとすればたぶんこういうところに行くだろうという趣味の一致もある。
 洗濯屋の月給が500リンギット(2万円)というのに感じるところがあった。途上国ならそのくらいであることに不思議はなく、自分自身がその程度の認識でこの地にやってきて、物価もだが、生活の質がその予期とかなり違って高いのに面食らった。3、4台車をもっているのがざらだもの。四半世紀前で認識が止まっていたわけだ。私の個人的な怠惰ではなく、おそらく少なからぬ日本人の認識はそのあたりで凍りついたままなのだろうが、世界はどんどん進んでいる。「NOと言えるアジア」で、マレーシアが2020年までに先進国入りするのを目指していると知って、先進国でこそなけれ、その手前にはたしかに達している目前の驚嘆のボルネオの状況に納得した。密林の首狩り族のイメージを捨てきれていない男など、はるかに時代に追い越されているわけだ。

 その首狩り族の時代の最末期(先の大戦末期。敗残日本兵は首を狩られたらしい)のことは「日本サラワク協会会誌」(2-6号卒読、1988-92)でうかがえる。これはいわば「戦友会誌」で、戦時中サラワクに駐留していた人たちの会として始まったもののようだ。昔を懐かしんだり、慰霊につとめたりするのはそういう会として当然と理解できるが、「戦友会の人達だから無理はないと思うが、皆さんは遺骨を掘ったり標柱を建てたり記念碑を建てる話ばかりしていて、現在の吾々に協力して国造りの為に何かをしていと云う申出を実は聞いたことがない」「率直に言わせて貰うと吾々の国の方々に戦争の思い出を残して貰うことはもうまっぴらである」「できたらこの辺で戦争の話などはやめて次の時代に役立つようなことを考えて貰いたい」などという現地の人たちの苦言を紹介しているのは、自省が働いていてけっこうだ(第2号、p.11f.)。
 そこに橋本風車「ボルネオ博物誌」というのが連載されていた。もともと出版されたものの再録らしい。戦時中石油の出るミリ(ブルネイの近く)に駐留していた人である。蟻だのドリアンだの、ものを語ることで駐留時代の回想をしている。ふつうの戦記と違い、非常におもしろい。最末期に戦闘があっただけの余裕のある恵まれた駐留だったためでもあるのだろうが、前線の兵士にしても、実際に戦っている時間より兵舎の日常を生きている時間のほうがずっと長かったはずだ。虚心に観察する人は、運転手の仕事は車を運転することではなく、車を止めて待つことだと気づくはず。それと同じである。これはのどかすぎるにしても、兵隊の仕事はのらくらすることだと道破されてもいいのではないか。描かれる南方点景も興味深い。埋もれた教養人だ。再版されてもいいと思う。

 「多文化・多様化社会における日本語教育理念及び方法論の探求」の著者も1991-93年にマレーシアで協力隊員をしていて、その後研究者になった。
 北ボルネオでの戦争中の日本語教育について調べたもので、空白部分を埋める作業である。半島部については研究が進んでいても、サバ、サラワクは手つかずの状態だから、やるべきことではあるけれど、大した教育は行なわれておらず、したがってよくわからないというのが実情だとわかる。おもしろいのは「錬成教育」で、これは率先垂範、心身を鍛錬すること、体得することを方法とするもの。それによって「国(公共)のために貢献する」「規律・規範を守る」「労働を重んじる」という価値観を教え込む。儀式的・身体儀礼的な訓練、歌による日本語の普及、実務に即した会話教育が特徴だが、日本語教授法の未熟と教員の不足によって取られた方法であるという面は否めず、考え抜かれた上で採用されたとは言えない代物だが、かえってイマージョンなどの現代の方法に通じる点がある。一定の効果をあげたのもたしかで、次のような回想もある。
「彼らは教育を通じて、私たちマレー人に農場や工場での仕事が机上の仕事以上に大切なものであることを気付かせてくれました。彼らは格好の良い仕事のみを求め、農作業などのきつい仕事を蔑視し、ただ現実離れした日常の享楽のみを追求していた私たちの勤労意識に変化をもたらしたのです。
私たちは、身分や職業が何であれ、努力を怠らず一生懸命働けば、国の発展に貢献できるということを学んだのです。この時期の経験は私の教育理念や人生観に最も強い影響を与えました」(p.52)。
 ヨーロッパ人の植民地体制は厳然たる身分制社会であったし、インドのカースト社会も、中国の士大夫社会もそうであるのに対し、上に立つ者も体を動かすことを恥じず、掃除カーストにまかせず生徒が学校の掃除をするような日本的「四民平等」社会の価値観を前面に押し出している。それは意味のないことではないと思う。
 こういう教育方法に対して、華僑、特にイギリスのエリート教育を受けた者からは、「無教育」「愚民教育」とか「強制的な奴隷化教育」などという言われようをしている。同意できる面もあるが、そういう彼らの受けていた植民地支配者による教育は「買弁教育」、中間搾取階級になるための教育だということも忘れてはならない。ここでは、「教育は如何なる場合にも必ずもとの群から出てしまい、以前の自分たちと同じ者を食いものにし、又は少なくとも彼等を家来にしようとする」(「現代科学といふこと」)という柳田国男の核心を衝く指摘を思い出すべきである。
 パラオの人々が親日的であるということはよく聞くが、「ポナペ島」探検隊も島民の日本人に対する親近感を感じていた。「兄事」するような態度だったようだ。上記マレー人の日本式教育への評価とともに考えるべきであろう。日本人は間違いなく南洋的気質を持っている。類は友を呼んで、南洋的な人々は日本に親しみを感じるのだと言えるのではないか。悪儒教的な大陸とは違う、言挙げをしない武士的ゆる儒教のありかたも関係するかもしれない。日本人も首狩り族で、戦国時代は敵の首を斬り取ることに血道をあげていたわけだし。南洋土人は日本人の兄弟だ、というより、日本人そのものかもしれない。