ダルマは日本へ

禅宗の始祖とされるダルマ、つまり菩提達磨ボーディダルマ、菩提達摩とも書く)は、禅僧としてもっとも高名であるにも関わらず、たしかな生涯はわかっていない。インドから来たとされるが、インドには何も伝がない。その伝記は中国人による。次のようなものが一般に知られている(中村浩訳「達磨からだるま」、社会評論社、2011)。
南天竺香至国の国王の第3王子として生まれた(「香至」はチェンナイ近郊のカンチープーラムだとされる)。子どものころ高僧般若多羅に宝珠について問われ、世の光を借りて輝くだけのこの珠より心の明らかさが勝ると答えて、般若多羅に賞せられその弟子となり、インドで仏教の教えを広めたあと、中国へ3年の旅をした。
520年に梁の武帝と会見したが、機縁ないと見定め、一枚の蘆の葉に乗って長江を渡った。その画題が「蘆葉達磨図」である。
嵩山少林寺に至り、そこで面壁九年の修行をした。長い間坐禅をしたため手足が腐ったといわれるが、それは手足のない起き上がりダルマを見て出た俗説である。
修行中眠気をふせぐためにまぶたを切り取ったという話もある。そのまぶたから茶の木が生えた、だから茶は眠気をふせぐと語る。
ダルマに入門を乞うたが断られ、みずからの片腕を切り落として決意を示し、許されたという神光(のちの禅宗第二祖慧可)の話も有名で、「慧可断臂図」という画題になっている(しかし慧可の腕は盗賊に切り落とされたらしい)。
少林寺に行なわれる少林拳は、ダルマがインドから伝えたものだとも言われる。
528年(529・532・534・535・536年説もあり)の死は毒殺だったという。熊耳山定林寺に葬られた。けれども死後、魏使宋雲がパミール高原で、片方の履物をもったダルマがインドへ行くのに出会ったという話もある。墓を開けてみると空だった。それが「隻履達磨図」の画題となった等々、伝記はほぼ伝説から成っている。


伝説によらない、史実としてのダルマはどうなのか。彼の生きた時代にもっとも近い記録としては、次のふたつがある。
楊衒之「洛陽陽伽藍記」(547年)巻1・永寧寺の塔を叙した部分に、

時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。

この記述によれば、永寧寺の塔は516年に建てられ、534年に焼失したから、その間にダルマが洛陽にいたわけだ。そのころの永寧寺では、508年に中国に来た菩提流支(?−527年)が700人の僧を率いて訳経事業を行なっていた。北インド出身の彼とダルマは同時代人である。
菩提達摩の語録とされる「二入四行論」の弟子曇林の序には、

法師は、西域・南天竺の人、是れ大婆羅門国王の第三の子なり。神恵疎朗にして聞くこと皆な暁悟す。その志は摩訶衍(マハーヤーナ)の道に存す、故に素を捨ててシに従い、聖種を紹隆して、心を虚寂に冥し、世事を通カンして、内外を倶に明らめ、その徳は世表に超えたり。辺隅の正教の陵替を悲悔して、遂に能く遠く山海を渉り、漢魏に遊化す。
(「達摩二入四行論」)

曇林は525−543年ごろ外来僧の筆受として活動していたことが知られる。
つまり、ふたつの異なるダルマの来歴が説かれているわけだ。ひとつは彼をペルシア人(いわゆる西域、中央アジアあたりのイラン系民族であろう)とし、もうひとつは南インドの国王の第3王子でバラモンであるとする。
禅の伝統ではダルマのことを「碧眼胡僧」というから、それもイラン人であることを示していると考えられる。南インド人なら碧眼ではありえないし、肌も黒いはずだ。死後墓を出て西へ帰るダルマにパミールで会ったという伝説中の行路も、ペルシアへのメインルートでもあった。法顕・玄奘らの通った北インドへの道でもあるけれども。
さらに、国王の息子なら、バラモンではあるまい。それならクシャトリヤのはずで、実際後代の伝記には「姓刹帝利」(クシャトリヤ)と書くものもある(「景徳傳燈録」1004年)。しかしながら、古伝承はすべて「婆羅門種」と説くから(「続高僧伝」645年、「楞伽師資記」716年)、それは後付けの合理化と見なすべきだろう。色の黒さを伝えないのも不審な点である。
だから、実際のボーディダルマイラン系西域人だった可能性がかなり高いのだが、親しく仕えたはずの弟子曇林の序文(それが仮託でないとして)が南インドの出自を伝えるなら、それを無視することはできない。ダルマの実在そのものを疑う学者もいる中で、断定的なことは言えないとするのが中正であろう。われわれは別に事実をつきとめたいと思う者ではないので(不可能でもあるし)、伝承に敬意を払うのが適当だと考える。
没年も定まらない。528年に150歳で没したというが、その享年をおくとしても、インドへ帰ったと伝えるものもある。死没地も、熊耳山呉坂との伝が有力な一方で、洛水の河畔で亡くなったともいう(「続高僧伝」)。熊耳山定林寺(のちの空廂寺)にある墓碑も明清時代のものらしいというから、史実として確たることは言えない。
その死因については、菩提流支や光統律師が毒を5度盛り、6度目に死んだとの話もある。

中国にはダルマの故跡というのがいくつかある。
ダルマが中国に上陸したのは広州で、そこの華林寺(もと西来庵)はダルマの創建と伝え、光孝寺にはダルマの洗钵の泉があり、「達摩井」と呼ばれる。
南京では、仏教に篤く帰依していた梁の武帝と問答したが、機のかなわぬを知って梁を出たという伝があり、長江を渡り魏に入る。南京の幕府山の下に「達摩洞」があり、そこから「一蘆渡江」をしたという。江北の長蘆鎮には「長蘆寺」があって、ダルマが渡った記念に建てられたと伝える。
嵩山少林寺には、少室山中にダルマが坐禅をしたという「達摩洞」がある。
少林寺少林拳で有名で、それはダルマがインドから伝えたものだと言われるが、もとより伝説である。ダルマの去ったあと残していった箱の中から「易筋経」という武術のための体練書が見つかったと同書序文にあることから出たようだが、これは明代の偽書とされている。
しかしながら東南アジアでは、シュリーヴィジャヤ朝の王都パレンバンスマトラ島)にダルマが来たという伝説とともに、東南アジア一帯で行なわれている武術シラットの原型を伝えたという話もあるようだが、それは蓬莱山へ仙薬を求めに旅立った徐福に対して、日本各地に彼がここに来たという伝説ができているのと同じ、迎え受ける伝説の発生というものだろう(Wikipedia: Bodhidharma、同Silat)。
そして洛陽の西、熊耳山下の空廂寺に達摩が葬られたとする碑がある。


伝説をそぎおとし、史実のみを追求するという方法を徹底すれば、史料に記載のないダルマは仮構の人物で、実在しなかったとの主張も出てくるだろう。だが、それは行きすぎである。「洛陽伽藍記」という、ほぼ同時代でかつ宗門外の人の書いた記録があるからだが、それだけではない。いろいろなものが付着しているのはたしかだけれども、その付着の核となる部分はあるはずだ。ボーディダルマといういささか謎めいた人物がいて、あるインパクトを中国仏教世界にもたらした。そのまわりに彼が説いたとされる教えや伝説的な事跡がまとわりついてふくらんでいった、と考えるのが自然だからだ。
ダルマは禅宗の「宗祖」となった人である。宗教は、弟子によって作られる。教祖は啓示を受けた聖人、カリスマであるが、マニのような例外を除いて、ふつう自分では著述しない。その言行を弟子たちが記録し、そこから宗教ができる。のちの宗教となったものには、教祖のあずかり知らぬ教義も多い。イエスはみずからの復活のことなど知らなかった(と非キリスト者には思われる)が、その「復活」という弟子の信仰があって初めてキリスト教はできた。父・子・聖霊の三位一体なども、イエス当人を去ることはるかのちに唱えられたが、これを信じないことにはクリスチャンたりえない。キリスト教の中核にはイエスがいるけれど、イエスキリスト教など作りはしなかった、という関係である。教祖は語り、行なう。それを種に、有名無名、凡庸非凡な無数の弟子たちが宗教を作り上げる。仏教についても同じことが言える。仏教経典は膨大だが、厳密な文献批判を行なったのちにどれほどの真正の仏説が残るのかは学者たちの問題で、宗教者の問題ではない。
始祖には「聖伝」がまとわりつく。イエスの母マリアは処女でありながら身ごもったとか、釈尊が生まれるとすぐ7歩あるいて「天上天下唯我独尊」と言ったとか、信者でない者には荒唐無稽な話が並べられている。だが、それはそういうものなのである。宗祖であるダルマにもそんな聖伝ができるのは当然で、それは「祖堂集」(952年)あたりにおいてだいたい完成するらしい。
ダルマについては、「楞伽経」を講じた等々のことがらは伝わるが、のちの禅宗の根本義のどこまでがダルマ本人に負うのかはわからず、研究者の議論のあるところである。ダルマの語録とか著作と言われているものも、どこまで文献批判に堪えるものなのかよく知らない。仮託は多かろう。教外別伝・不立文字などは禅宗を成り立たせる基本であるけれど、それは本当にダルマに帰してよいものかどうか。しかし禅はダルマは必要としているのであり、もし存在しなかったら存在させなければならないほどである(だから仮構という説も出る)。禅は仏教と老荘思想の結婚と言われる。中国の地で独自に生まれた仏教である。だから、仏教の本貫の地インドから法灯を中国にもたらしてくれる人、仏教伝統との連続を保証してくれる人は絶対的に必要だった。仮託には事情がある。禅は中国僧が作り上げたもので、ダルマが行なったのはたぶん最初の一突きだけだろう。


仏教という宗教の特性も考えなければならない。世界三大宗教と呼ばれるほかのキリスト教イスラム教にくらべて、仏教の大きな特徴は、根本経典がないことだ。かつ、仏典は膨大な量にのぼる。組織も集権的でなく、リゾーム的だ。寛容さも、非寛容が骨髄となっているほかのふたつにくらべて際立つ。日本で仏教徒神道信者の数を合わせると2億人近くになる。両方を信仰しているからである。一神教徒には理解できない雑種性も、日本のみならず中国韓国も含めて東アジアの際立った特性となっているが、それは仏教を信じることが他宗教を信じることの妨げにならないという寛容によるものだ。
仏教は、その広がっていく先々で民族宗教を成立させる。神道がそうだし、道教がそうだ。仏教に学び対抗して、理論化・組織化が行なわれる。民族宗教を結晶させる触媒となっている。ヒンドゥー教もおそらくそうだ。それ以前のバラモン教と呼ばれるヴェーダの宗教が大きな変容ととげヒンドゥー教と言われるものになるのは、仏教・ジャイナ教の挑戦への応答としてである。仏教がいま発祥の地インドにほとんど存在しないのは、ヒンドゥー教に取って代わられたからで、宗教的思惟に大きな価値を置くインドでは、東アジアのような曖昧さが許されなかったのであろう。しかし、インド世界の一部である辺境のスリランカとネパールには残った。隣接するチベットミャンマーも仏教圏である。仏教は周圏論的なありかたをしている。インドの核心部ではヒンドゥー教に替わられ、辺境に残り、北と東のインド文明圏で栄え、東アジア文明圏では他宗教と雑居する。
インドは古い文明なのに、芸術は仏教から始まる。インド芸術の最古層には仏教芸術があり、遅れてヒンドゥー教芸術が栄える。さらに、古いインド芸術では彫刻と建築が主役で、絵画は壁画を除いてほとんどなく(その壁画も仏教壁画が多い)、絵としては仏教・ジャイナ教の経文に描かれているものがあるだけだ。日本でそうで、中国でもある程度そうであるように、仏教は芸術とともにある。
分派はいつもおもしろい。シーア派など特にそうだ。宗教改革はあまりおもしろくないが(キリスト教イスラム化という視点からは少し興味がある。聖像破壊運動も)、正教の分離派というのも、深みはないが、その成り立ちには興味をひかれる。キリスト教イスラムも、正統派のほうは大同について結束し、離反派のほうは小異をもって無限分裂を重ねるというありかただが、仏教の場合は旧派(いわゆる小乗)がすでに分派を繰り返し、そこへ新派(大乗)が面目一新の別系統を打ちたてた。
分派活動は「可能性の冒険」だ。分派を考えるときには、本流を自認する正統派自体がすでに最初のイデーをある方向へ導いて成立しているのだということ、ひとつの(最大の)可能性の顕現だということを忘れてはならない。シーア派、わけても土俗シーア派と言うべきアレヴィー派などの教義は、スンニ派に親しんだ者からはこれもイスラムかと思えるが、それもイスラムなのである。イスラムはそのようにも展開しうるものとしてあったので、どんなに意外でも、原初イスラムがかかえていた可能性の展開として考えられる。
大乗仏教もそうである。「大乗非仏説」の論難にひるむことはないので、釈尊の教えのうちにはのちに大乗となるべき種子があったのだ。それが時機を得て発芽したというわけだ。禅宗もまた同じである。中国の地に蒔かれた種は、禅として発芽した。これもむろん仏説である。しかし、釈迦の死後数百年を経て現われたことについておぼつかなさは感じていたのであろう、大乗経典はしばしば、どこかに埋もれていたもの、隠されていたものが新に発見されたというフィクションをしつらえる。禅宗もまた、それがインド僧ダルマ、仏陀に連なる流れをもたらすダルマをまって初めて結晶化する事情には、似たものがあったかもしれない。
仏教は、小乗・大乗・密教・禅と、変容に変容を繰り返し、繁茂していった。見通しは悪いが、すばらしい眺めである。
これが特異な宗教に思えるのなら、ユダヤの宗教をもって宗教とするからそう見えるだけである。座標軸の転換が必要だ。仏教からユダヤ起源の一神教を眺めれば、逆に彼らが特殊で異様に見える。世界は南と東のアジアによって読み直されなければならない。
岡倉天心の夢、彼の有名なテーゼ、「アジアはひとつなり」。どれほど批判反論されようとも、その美しい夢は残る。それが「真実」であるからだ。「ひとつのアジア」を結ぶのは仏教だけなのか? −「だけ」が余分だ。それで十分だ。宗教は文明であり、世界観であるのだから。


ダルマ伝説にもどれば、道教神仙の尸解に類した話も説かれる。前述のように、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというのだ。そのとき、達磨は草履を片方だけ手にしていたという。宋雲が「どこへ」と問うと、「西天へ」と答え、また「汝の主君はすでにみまかっている」と言った。はたして帰国した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。そして孝荘帝がダルマの墓を掘らせると、棺の中にはもう片方の履物のみが残されていたという。
ダルマが日本に来ていたという伝説もある。聖徳太子のいわゆる片岡山伝説で、「日本書紀」によると、聖徳太子が片岡に行ったとき、飢えた人が道に臥していたので、名をたずねたが、返事がなかった。太子は食べ物を与え、自分の服を脱いでその人に掛け、歌を詠んだ。

しなてる片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ

翌日太子が使いを出してその人を見に行かせたところ、すでに死んでいたとのことだったので、そこに埋葬した。数日後太子は、「あの人はただ人ではない。きっと真人(ひじり)にちがいない」と語り、墓を見に行かせた。すると、棺の中には屍も骨もなく、ただ服があるだけだった。太子はその服を持ち帰らせ、以前のように身に着けた。
(なお「万葉集」には、「上宮聖紱皇子竹原井に出遊のとき、竜田山の死人を見て悲しみ傷みて作れる歌」として次の歌が掲げられている。
家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕 客(たび)に臥やせる この旅人あはれ)
墓をみたら死体がなかったというのは、上記中国のダルマの「尸解」譚と同じである。そして後世、この飢え人はダルマだったという説が出てきた。それも、日本に禅宗が興るはるか前、平安初期の光定「一心戒文」に記されているという(五来重「片岡山の飢者考」、「人類の知的遺産」月報41)。それは、太子は天台智邈の師である南岳慧思の生まれ変わりだという説とも関わる。太子出生時慧思はまだ存命だったのだから、生まれ変わりではありえないが、そんなレファレンスは当時の人たちはもちろんしなかった。
生まれ変わりをわれわれは信じない(信じられない)が、そのころの人々は信じる。それはしかし、われわれが高く、彼らが低いことを意味しない。われわれが高いのなら彼らも同じくらい高いし、彼らが低いのなら、われわれも同じくらいに低い。残念な21世紀人であるわれわれは、過去の人々の行動や信念をただ残念な21世紀人の視点からのみしか見られないことを、常に意識していなければならない。ある話を何かの(多くの場合不埒な)意図をもっての捏造とするのは、みずからが不埒な意図をもって捏造をする者どもだということを意味しているに過ぎない。
むろん、史実の吟味は学問的に正当であり、正統である。だが、史実を求めて伝説をそぎおとす作業によって、いたずらに貧しくなってはならない。「わたしは幽霊を信じません。でも幽霊が出たらこわい」と言った女性のように、伝説とは、たぶんそうではなかったが、もしそうだったらすばらしいことなのである。人間は、すばらしいこと、そら恐ろしいことを信じるようにできている。信じることができない者は虫である。われわれは人間の側に立ちたい。


片岡山伝説はともかくとして、ダルマが中国でより、ついに渡ることのなかった日本ではるかに愛されていることは、白隠を初めとする達磨絵の数々、玩具・縁起物(張り子のダルマ・ダルマ落としなど)や子どもの遊び(ダルマさんが転んだ・にらめっこ・雪だるまなど)に登場するその大衆的人気を考えてみれば明らかだ。だるま屋・だるま堂などという屋号はいったい全国にどのくらいあるだろう?
日本国内で考えても、実際に日本へ来て東大寺大仏開眼供養の導師を務めた南インド出身の僧正菩提僊那は一般にまったく知られておらず、中国渡来の僧は多いが、人の知るのは鑑真、隠元ぐらい。達磨大師は渡来僧すべて合わせたよりずっと有名だ。人気というのはおもしろい。
1970年代に中国の諸寺院を訪ねた柳田聖山は、「いってみればダルマはこのくにを出払っていた」と印象を記している(「人類の知的遺産16 ダルマ」、講談社、1981、p.46)。さっぱりダルマに出会うことがなかったのだ。ダルマに限らず、たとえば、かつて日本人僧が多く師事したが、「遂に日本に来ることのなかった中峰明本(幻住ともいう)を開山とする天目山が日本には各地にあって、今も中峰の祖像をまつり、すでに中国にその伝を断つ、無数の書蹟を伝えるのは、この人がすでに日本に来ている証拠である」(同)。中峰明本について言えることは、ダルマについても言える。中国禅の日本への大移動が起こったのだ。禅を(ChanでなくZenとして)世界に広めたのが日本人だったのは、いわば必然であった(鈴木大拙がそのパイオニアであった。彼の「無心ということ」にダルマの無心論が紹介されている)。
日中は「同文同種」であるとする意見に対して、それは大間違いだとする意見がある。大間違いである。これは日清・日露戦争期ごろから言われるようになったことばであるが、当時の日本のインテリは漢文を読み、漢詩を作り、中国人と筆談で意思疎通できたのだ。これが同文以外の何であるか。インテリ層においても漢文の能力が著しく低下し、大衆にとってはかびくさい蔵の中におさまった、ありがたいかもしれないが用のない骨董品となった時代、中国でも「漢文」(文語)が縁遠くなり、それどころか日清戦争のころなど漢字すら読めなかった人々の子孫が主役の国となった時代において、それが「間違い」であっても、当時においてまぎれもない真実であったことをくつがえさない。ここにも「残念な21世紀人」の思考を見ることができる。
19世紀が終わり20世紀が始まるころ、仏教考究のためチベットへ入ろうと企てた多くの若い日本人僧がいた。そのひとり能海寛は、ついにチベット入りを果たせず雲南の奥地で落命したが、四川のチベット人地域で入手した経典を見ながらこう書いている。
西蔵の文字は1300年前印度字より製作せられたるものにて、更に他国の文字を借ることなく自在に文章を書き顕したり、経典は1000乃至1100年前頃既に自国の語に翻訳せられて、少しも他国の言語文字を借りたることなし、我日本の如きは人口は西蔵の十倍以上を有し、長き歴史を有するにも関らず、文字といえば片仮名平仮名のみ、これとても大半は漢字により、漢字にあらずんば完全に文章を形成し完全に意志を表出するを得ず、仏教盛なりと雖日本文の経典とては七千余巻の中、一部半部一巻半巻一品半品もあらざるなり、予は実に日本の学者日本の仏教徒に対して大々的不平を有せざるを得ず、美しくかかれたる西蔵文字の経典を見て、小生は実に羨望に堪えず候」(明治33年)。
そのとおり、日本仏教の経典はすべて漢文で、意味もわからぬまま(少なくとも檀家衆はそうだし、無知な坊さんにとってもそうだ)それを音読するのが「お勤め」だった。能海が指摘しているのはそのことで、彼は旅の間にチベット語の短い経文のいくつかを日本語に訳している。
しかしその事実は逆に、中国と日本がまさに「同文」であったことを示している。学僧をはじめ教養のある日本人は、漢字漢文で書いてあれば翻訳してなくても理解できたのである。ダルマの教義は、翻訳を介さず直接に日本へ流入し、むしろ彼が来なかった日本でこそ、彼の教えも姿も栄える地盤を見出したわけである。


ダルマは来なかった? いや、来た。「ひとつのアジア」の夢と、同文の夢。ふたつの夢の中で、ダルマは日本へやってきた。