かるた、かるた、かるた

「あきのたの かりほのいほの…」

 いや、困った。声が裏返る。息が続かない。年を取ったか。中国にいたときはちゃんと詠めたのに、と思う。ブランクがいささか長かったと痛感するネパールの教室である。

 

 日本語教師にとってかるたは重要な教材だ。動詞絵カードを使ってのかるた遊びから始まって、いろはかるたも役に立つ。だが、百人一首は難度が高くて、中国に来るまではやったことがなかった。中国はしかしながらまさにこれをやるための国だとさえ言える。

 日本語学科では、現代語・口語だけでなく文語・古文も習う。ロシアですでに経験していたことだが、日本語学校などで日本語を教えるための「日本語文法」と、日本の学校で生徒に教えている「国語文法」では用語が違う。ロシアや中国では五段活用・一段活用(第1グループ・第2グループでなく)、形容詞・形容動詞(イ形容詞・ナ形容詞でなく)などの国語文法の用語を使っている。それはよく考えてみれば当然で、「国語文法」は文語を読解分析するために生まれたものであって、それを口語にも適用する。用語は文語文法・口語文法で共通していなければならない。専門性の高い大学ではもちろん文語・古文を教える。そのとき必要なのは「国語文法」なのである。「日本語文法」は要するに現代語だけやっていればいい学校で教えるためのものだ。ドイツ語ドイツ文学学科で今は話されない古高ドイツ語・中高ドイツ語が教えられるのと同じで、大学とはそもそもそういうところだろう。

 中高ドイツ語のような死に絶えたことばと異なり、日本語の文語は今も生きている。漢字圏であるため、中国の大学の日本語学科生は、N2はほぼ全員が、N1も半数が合格するようなところである。だからN1が目標になるのだが、1級のいわゆる機能語には「もがな」「まじき」など文語由来の表現がいくつもある。現代でも俳句や短歌には文語が用いられる。「古典詩人」が市井にわんさかいるというわけだ。能や歌舞伎のような「古典劇」が今も一定の人気で、そこで語られるのも文語だ。

日本語学科には日本文学史の授業もあるが、百人一首歌人文学史のビッグネーム(鎌倉初期までの)を網羅している。文学史の教材ともなりうる。

 全文ひらがなの取り札は、「こひにくちなむ」「こゑきくときそ」などと歴史的かなづかいで書かれていて、「ゐ」「ゑ」も用いる。濁点はない。最初はとまどうが、これもまたいい勉強だ。生きた教材と言ってもいいのではなかろうか。

 百人一首かるたになじませるため、人気のかるたアニメ「ちはやふる」を見せた。だいたいが中国の日本語学習者にはアニメファンが多いから、おあつらえ向きでもあった。私自身、このアニメで詠み方や節回し、競技かるたのルールを学んだ。一部音を消してアフレコさせることもした。アフレコというのも中国に来て初めてやったが、これもまた非常に有効だ。セリフが速いし、長ゼリフもある。それをうまくやってのければヒーローである。

 小学生のころ、クラスでよく百人一首をした。それに熱中して、すべての歌を覚えてしまった。覚えるのはズルでも何でもないけれど、そうするといつも私が勝つことになるので、遊んでくれなくなってしまった。みんなが競って全部覚えるというふうに進めばよかったのだが、キャアキャア言いながら楽しく遊んでいるのを台無しにしたみたいなかっこうだ。勝ったり負けたりするからおもしろい。誰が勝つか初めからわかっていたらおもしろくない。遊びとしてやっている級友には、下の句が詠まれないうちに取ってしまうのはズルだったわけだ。これは中国での経験においても示唆的だった。

 最初の1音、「いぬもあるけば」の「い」だけ聞いてすぐ取るいろはかるたと違い、歌かるたは前置きが長い。初心者は、上の句はすべて聞いて、下の句もかなり聞いたあとで、あるいは何回も聞いたあとで、ようやく手が出る。まだるっこしくもあるかもしれないが、逆に、いろはかるたではせっかく詠まれることわざをろくに聞かない。歌かるたではじっくり聞く。その点は教育的によろしかろう。

 取り札では、たとえば「みをつくして」は2枚ある。「みをつくしてや」「みをつくしても」の「や」「も」がいわば決まり字ならぬ決め字となるわけだ。そこに競技かるたでない素人かるたのおもしろさがある。「こひ」なんて山ほどあるし。「み」と聞いて「みたれそめにし」や「みそきそなつの」を取るお手つきが多い。上の句の初めのあたりで取る学生がいると、「オー」と讃嘆する。それが楽しい。といっても、「ちはやふる」などはほとんどすべての学生が覚えているので、「ちはや」と詠まれただけで激しい取り合いになり、それもまた楽しい。

 競技かるたは耳と手の連動を競うスポーツのようなものだ。それにもおもしろさはあるけれど、いうなれば「ホモ・ルーデンス」で言う「十九世紀における真面目の支配」の一例であって、浜辺の遊びでしかないビーチバレーや冬のお楽しみだったカーリングがオリンピック種目になるような合点のいかなさは残る。教室では、「金色夜叉」の正月かるた会のように、「楽しい遊び」の領分を越えない範囲でやるのがよろしい。歌は覚えてもらいたいが、決まり字まで覚えるほどのめりこむのはむしろよくない。

 その点でありがたいのが坊主めくりである。座を温めるために、まず最初にこれをする。そしてかるた取りが終わったあと、最後にまた。頭は使わず、ただ運だけのゲームで、逆転につぐ逆転があり、歌を覚えるところまでやるつもりのない学生にとっても楽しい。

 かならず町のどこかに(焦作ではキャンパスの中に)桜があり、花見がてら野外でかるたをするのも優雅なものだった。花見であっても、学生たちだからさすがに酒は飲ませられない。代わりにかるた遊びで酔ってもらえれば、なおのこと優雅であろう。

 北京かるた大会や上海かるた大会にも学生を連れて参加して、けっこういい成績を収めた。北京行きの夜行列車の中で、熱心にかるたを覚える学生の姿をうれしく眺めた。上海の大会のあとでは、魯迅博物館の外の芝生でやった。日本なら警備員に制止されそうだし、学生のほうも人目のあるところではやりたがらないだろうに、大らかな大陸気質を感じた。昔の「支那通」と言われた人たちもこんなところに引かれたのだろうと思った。

 四声かるたというのを学生といっしょに作ったりもした。彼らに読み札の句を一声・二声・三声・四声それぞれ選んでもらい、絵を描いてもらった(描いてくれた彼女は卒業後アニメ会社に勤めている)。それでなくても、有声音・無声音・反舌音など外国人に難しい発音がある上に、四声である。外国人の中国語学習者には役立つに違いない。鞍山には畳敷きの教室があり、そこでやった。チチハルはロシア人語学留学生が多く、彼らに披露した。

 すっかりそんな癖がつき、ネパールではデーヴァナーガリー文字のかるたをやはり学生を動員して作り、外国人クラスでやってみて、非常に好評だった。

 中国での教師生活は、かるた(動詞かるた)に始まり、かるた(百人一首・四声かるた)に終わったと言えるかもしれない。参加した学生たちに楽しい思い出を残せたとも信じている。そして中国を離れたあとも、かるたとの縁は続いている。