映画ベスト10

フィクションから降りて久しい。
小説はもとから好きでない。昔は演劇青年だったが、演劇ももはや見ない。昔せっせとよく見た映画も、今は忌避の対象だ。アメリカ映画はとうに軽蔑の対象となりはて、ヨーロッパ映画も早くに見るのをやめた。東欧・ロシア映画をよく見た時期、イラン映画の時期が少し続いて、戦前から60年代までのモノクロの日本映画を見て、そしてやんだ。白黒日本映画は今も時に見ないではないが。
テレビドラマも、子どもの頃は見ていたが、いつごろからか見るのは苦痛以外の何物でもなくなった。日本語を習う学生が好きなので、教師としては授業で見せてやるのは学習効果があると思うのだが、だめですね。あれを見る苦痛は学生を思う気持ちをはるかにしのぐ。マンガもしかり。外国の日本語学科生の多くはマンガ・アニメ好きなので、そこで教える日本人の必須教養となっているのだが、つつしんでそういう役は若い人にゆずる。オバQについてなら話せるよ。
作家は神である。彼は創造する。だがその神々とその物語とその被造物は、99パーセント以上が凡庸であるか、愚劣であるか、その両方であるか、それともそれ以下だ。くだらない神たちのつくるお手盛りの世界たち。なぜそんなものを見なきゃならない? 傑作なら認めるよ。ドストエフスキーにはひれ伏す。だが、駄作や凡作、それよりはるかにたちの悪い、ぶった、すかした愚作の山には愛想笑いも起きない。そんなものにつきあうべきいかなる理由もない。
見るのはオペラ(というよりオペレッタ)とか歌舞伎とか、民俗芸能とか。定型的なものには強くひかれ、作家性には深く嫌悪をもよおす。ひと言でいえば、近代嫌悪、というかもはや憎悪だ。
映画を見なくなりだした時期は、おおよそ日本でサッカー中継が増えた時期と重なる。「筋書きのないドラマ」と言われるが、まがいものの細神どもでなく、本当の神が書いた「ドラマ」を見るのに傾いたわけだ。何でも数字にしてしまうアメリカのスポーツと違い、サッカーではゴール数以外の数字はないと言ってよく、それはフォワードについては何かを語るかもしれないが、MFやDFはそれでは計れない。記録でなく記憶によるスポーツ、語られるスポーツである点が芝居に似る。名優の名演技を語るように往年の名選手の神々しいプレーを語る老人は、団菊爺そのものではないか。だから私は「ドラマ」を見つづけているのである。ただその「書き手」が違うだけで。
というわけで、この映画のベスト10は、私が映画を見ていた時代のものになるから、どうしたって古めかしい。いいじゃないか、古くても。あの頃眺めていた美女たちのポートレートだ。今は冷眼視していても、彼女らに見惚れていた日々は充実の時だった。本気だったからだ。


で、以下順不同。


・「戦艦ポチョムキンエイゼンシュテイン
映画史上の傑作と聞いて見に行ったら、本当に映画史上の傑作だった。古さも技術的な制約も関係ない。古さなんか忘れてしまう。その「古さ」に同化して見ているからだ。だからこの作品のもつ力がむき出しに迫るのだ。


・「黄金狂時代」チャップリン
無声喜劇から1本となれば、これでしょう。チャップリンはトーキーになっても無声喜劇を作りつづけたが、それは退行的だ。無声時代に撮った無声喜劇のこれを推すべきだ。ギャグで言えば「独裁者」がいちばんおもしろいが、メッセージ性が強すぎて取れない。それにトーキー時代の無声映画だし。


・「吸血鬼ノスフェラチュ」ムルナウ
ストーリーテリングですぐれるのはイギリス人である。アメリカ人はこなれすぎ、くだけすぎの感が出る。対して、大陸はいかにも生硬だ。しかし、ものによってはそれがかえっていい。これなどがそうだ。
悪夢の形象化。この主演俳優は本物の吸血鬼だった、という映画があったと記憶するが、そんな発想も出てきそうなほどだ。無声であるため、さらに悪夢に似る。「カリガリ博士」のチャチな悪夢から、ずっと胸苦しい悪夢へはまっていく。


・「巴里の屋根の下」ルネ・クレール
洒脱を映画にするとこうなる。庶民の美しさをこれで知る。私はフランス的なものを好まないが、ルネ・クレールは別だ。


・「バルカン超特急ヒッチコック
ヒッチコックから1本選ばなければならないが、これがむずかしい。佳作ばかりだから。だが、どれもこれもベスト10にもってくるには小粒だというのも事実で、犯罪もの、サスペンスものではキャロル・リードの「邪魔者は消せ」とかフリッツ・ラングの「M」などのほうが収まりがよさそうではある。しかし、列車・東欧・ユーモアと、私の好きなもの3つが並ぶこれはぜひ推したい。


・「ジャック・タチの郵便屋」(?)
自転車の疾走と古きヨーロッパの田舎。走ることと映画には親和性がある。タチってこんな顔だったの? 私はフランス的なものを好まないが、ジャック・タチは別だ。


・「火の馬」パラジャーノフ
天然色でトーキーの無声映画である。この人は魔法を使おうとしている。それに成功している、と私は思う。
この映画はカラーだが、このベスト10の大半は白黒だ。それがこのベスト10の古めかしさを表わしている、か? そうでもあり、そうでもない。映画が光の芸術、光と影の芸術である以上、その本質に適合するのは白黒であって、天然色は欺瞞なのだ。カラーがその本質をさまたげないのは、アニメに限る。とはいえ、カラーの時代にことさらに白黒映画を撮るのは衒学的となる。色に喜びおぼれるパラジャーノフの映画などが、天然色映画のひとつの極だ。


・「アマルコルド」フェリーニ
「道」も大傑作で、ほとんど神話で、あのメロディーを聞くと心が平静でなくなるが、フェリーニから1本となればこれを取ろう。思い出の祝祭化。フェリーニの杖に触れると、すべてが祝祭と変じる。ここにも別の魔術。


・「博士の異常な愛情キューブリック
「極北」を行く映画作家である。「映画作家」という言い方は好きではないが、この人はこうとしか呼べまい。何でも作れる人だというのをこの喜劇で証明した。彼のほかの映画にはユーモアのかけらもないだけに、この笑いの洪水にはいっそうすごみがある。「独裁者」はストレートな政治風刺だが、これは政治風刺でも「極北」だ。
ここにあげた監督はすべて好きだが、この人だけは好きではない。しかし、彼のほうでも好かれようとなど思ってもいまい。それもすごみのひとつだ。


・「E.T.」スピルバーグ
自転車が空を飛ぶ場面。あれがスピルバーグであり、あれが映画である。映画というものを撮る理由はただひとつ。あれを撮るためだ。


これで10本だけど、次の日本映画も入れたい。


・「七人の侍」黒沢 明
おもしろいということでは、古今東西これほどおもしろい映画はない。日本人だから言うのではないよ。これよりおもしろい映画があったら見せてほしい。これを作っただけでも黒沢はすごい。三船もすごい。志村喬もすごい。あの時代の日本もすごい。


・「となりのトトロ」宮崎 駿
アニメからひとつとなれば、「やぶにらみの暴君」もいいが、日本アニメのこれでしょう。あんなもの、日本の森にはいない。いないから、いてもいいし、いるかもしれない、という論理脈絡のない三段論法が成立する。映画ひとつで日本の森を変えてしまった。


このうち封切館で見たのは「E.T.」と「黄金狂時代」(リバイバル上映があった)、あとは名画座やフィルムセンターで見た。名画座なんてまだあるのかね。封切館も死語ではあるまいか。いずれにせよ、すべて銀幕で見たわけで、ブラウン管や液晶画面ではない。やがてブラウン管も死語にになって、スクリーンのほうが長く続くのだとしたら、いらぬ注釈かもしれないが。−おやおや、すっかり老人の物言いだ。私の時代の年寄りってのは、映画を「活動写真」と言う人のことだったんだけどね。振り返れば死語の山、という時代だ。古めかしくもなろうよ。