かるたアニメ

北京で百人一首かるた大会が毎年行なわれているらしい。それにうちの大学からも参加させられないだろうかと考えた。しかし、そのためには百人一首を全部でなくともある程度覚えねばならず、それは古語で書かれている。日本語(現代口語)の勉強に直接役に立つものではない。だから強制はできない。なるべく興味をもってもらうようにしむけなければならない。よい手立てがないかとあれこれ考えているとき、「ちはやふる」という競技かるたをめぐるマンガ・テレビアニメがあることを知った。マンガ、アニメなら学生は大好きだ。よし、これを見せよう、ということで、まず自分で見てみたら(中国のサイトで視聴もできるしダウンロードもできる。合法なのかどうか知らないが)、これが非常におもしろかった。
テレビアニメなど見るのは久しぶりだな、子どもの時以来だな。劇場アニメだって、この前見たのはいつだったっけ、何だったっけ? マンガもついぞ読まないが、週刊誌や新聞に載るマンガ以外で最近見たのは何だっただろう? とあれこれ考えて、思い出したところをまとめてみた。いわゆるオタクでない平均的な人間(得意分野と不得意分野では平均を大いに逸脱するけれど、この分野ならたぶん平均的だろうと勝手に思っている)のマンガ・アニメ史として、おもしろくなくもないのじゃないか(「ない」が多いな)と思う。


小学生のころは貸本屋があった。そこでマンガを借りていた。散髪屋にも貸本屋にある類のマンガが置いてあった。どんなものを読んでいたかは思い出せないが、「ロボット二等兵」は記憶にある。「少年」や「少年画報」をときどき買ってもらっていた。「鉄腕アトム」はそれで読んだのだろう。親が「少年サンデー」をとってくれたので、「オバQ」や「おそ松くん」を楽しみにしていたが、「アトム」はそこでは読んでいないはずだから。子どもだったそのころは特に熱心に読んでいたわけではないのに、長じたのち強く印象に残っているのは、「カムイ外伝」や「河童の三平」である。「墓場の鬼太郎」は別の雑誌だったか。楳図かずおは怖かったが、水木しげるは怖いというのではなかった。草深く薄暗い村と山の境あたりを描いた絵に吸い込まれるような魅力を感じていた。その魅力を否定したいと思う類の魅力だった。禁断の、なんて形容がつきそうな。
少年マガジン」は借りて読んでいた。「サンデー」と交換で。しかし毎週読めたわけではなく、「巨人の星」も「あしたのジョー」も切れ切れだった。「マガジン」では「天才バカボン」もおもしろかった(「マガジン」だったよね?)。「巨人の星」は魔球が出てきてからおもしろくなくなり、花形が大リーグボールを打ったあたりからあまり見なくなったので、大リーグボールがどんなものだったかよく覚えていない。
マンガの神様手塚治虫は、実はそれほど読んでいない。「アトム」(昭和史上の傑作、今も目に浮かぶ数々の切なく美しいシークエンス)以外では、「ジャングル大帝」「ワンダースリー」「どろろ」「ブラックジャック」ぐらいか。「リボンの騎士」も記憶にある。
高校時代は「少年チャンピオン」が全盛時代で、回し読みのがよく回ってきた。マンガ雑誌は基本的に読み捨てだから、週遅れを気にしなければ友だちが快く貸してくれる。その友だちはそのまた友だちからもらったわけだが。しかしなぜか「少年ジャンプ」はあまり読んだ記憶がない。
妹が「マーガレット」をとっていたので、少女マンガはそれで読んだ。「ベルサイユのバラ」が人気だったころだが、「エースをねらえ」のほうがおもしろかったように思う。「つる姫」にも笑った。
高校生のころ、「のらくろ」が文庫本で出たので、買って読んだ。非常におもしろかった。古物趣味はそのころからあったのだ。そういう趣味と関係なくおもしろいと私は思うけども、大方の賛同を得られるかどうかわからない。あるいはこの点では平均をはずれているかもしれない。「サザエさん」も10巻までぐらいのところが抜群におもしろい。寅さんシリーズの初期が図抜けているのと同様に。
学生時代に読んだのは、「喜劇新思想体系」「あぶさん」「花の応援団」などである。これらは人から借りるか何かして読んでいる。自分で本を買ったのは、文庫本のつげ義春と、知性あふれるいしいひさいちだ。
ほぼこれで私のマンガ史は尽きる。大学を出てから読んだのは「ナニワ金融道」だけじゃないかという気がするが、どうだろう? ほんとにそうなら、何だかちょっと残念な気がしなくもない。もっときれいなのがいくらもあるのに。だが、インパクトではこれはなかなかすごい。
BSマンガ夜話」という番組をときどき見ていた。あれに取り上げられるマンガの9割以上は読んだことがない。けれど、それについてああだこうだ勝手にしゃべりまくっているこの番組は十分楽しめた。学生が部室や喫茶店でダベっている感じ。マンガ評論というのが確立しているのか知らない。たぶんあるのだろうが、メジャーなメディアで認知されているレベルではなかろう。そういう草創期の混沌の中で、無人の野を行く感じがあって、それが魅力だ。無人の野は行きたいものだよ。彼らが論じるように日本のマンガがすばらしいものであるかは大いに疑問だが(それは文芸評論家が持ち上げる文学作品とやらがそれだけの価値を有するか疑わしいのと同様だ)、いいんじゃないですか。自動機械化している文芸批評や映画批評より好ましいのはたしかだ。


テレビアニメでは、「赤胴鈴之助」は見ていたかどうかまったく記憶にないが、主題歌は覚えているから、見ていたのかもしれない。「鉄腕アトム」は見ていない。そのころのわが故郷では民放はTBS系列しか映らなかったので、見られなかったのだ。だからテレビアニメもやはり「オバQ」「おそ松くん」から始まっているように思う。そのほか、「狼少年ケン」「妖怪人間ベム」「JQ」などをよく見ていた。「トムとジェリー」を見るのは至福だった。
中学・高校時代になると、テレビアニメを見ることはぐんと減った。高校生のとき「宇宙戦艦ヤマト」をやっていたが、早く帰らないと見られないので、友人はその曜日は早く帰宅していたけれども、私は1、2回しか見ていないと思う。しかし主題歌は覚えているから不思議なものだ。「トリトン」もそうだ。何回かは見ている。歌も覚えている。「ハイジ」も2、3回は見たはず。これも歌をよく覚えている。アニメの話自体は忘れてしまったり、そもそも数回しか見ていなかったりするのに、アニメソングだけは記憶に残っているのは、どういうメカニズムによるのだろう? それから、たまに「サザエさん」を見た。これも歌える。「メルモちゃん」はかなりの回見ているはずだ。ストーリーも登場人物も記憶になく、何がどうおもしろかったのかも覚えていないが、おもしろかったことはたしかだ。
大学生になってからは、テレビアニメは見ていない。そもそもテレビ自体見ることが少なくなったし。


劇場アニメはどうだろう。
小学校のころ、講堂に全生徒を集めて映画を見せることがときどきあって、そこで見た「長靴をはいた猫」に夢中になった。その続編ができたのは大学生のときで、ポルノ映画館の隣の館で見た。
学生時代以後では、「王様と鳥」、トルンカ人形アニメチェコの名前失念氏のクレイアニメ(サッカーで相手をぶん殴り合うというもの)、それからノルシュテイン
だからヨーロッパのものはそれでもいくつか見ているわけだが、アメリカものはほとんど見ない。神々しい「トムとジェリー」を除いて(何度でも見るよ、「トムとジェリー」なら、この歳でも)、ドナルドダッグの出るのを見たことがあるくらいだ。ディズニーの長編アニメはまったく見たことがない。それに気づいて、自分でも驚いた。ミッキーマウスなんか見たことないよ。ディズニーランドでどうしてあんなにミッキーに人気があるのかわからない(といってディズニーランドも行ったことがないわけだが)。単なる記号としてじゃないのか?
アメリカのはマンガも見たことがない。「チャーリー・ブラウン」ぐらいだが、あれもちっともおもしろくない。ポジション的にアメリカの「サザエさん」なのかもしれないが、それなら日本人でよかったなと思う。幸せになるなら、「サザエさん」でなろう。
宮崎駿には敬服している。この人のアニメはけっこう見た。「トトロ」「ナウシカ」「もののけ姫」がベスト(この順で)。しかし「千と千尋」以降は見ていない。「紅の豚」も(見る気にならない)。「魔女の宅急便」以外の女の子が主人公のものも(あ、そんなこと言ったら全部がそうか。「魔女の−」も駄作。敬服しながら選り好み激しいな)。
外国に住んでいると、大使館などが主催する日本映画祭を見る機会があるもので、そこで猫の「銀河鉄道の夜」とか「銀河鉄道999」「ナルト」「火垂るの墓」などを見た(「銀河鉄道999」「火垂るの墓」はつまらなかった)。「エヴァンゲリオン」を見たのも大使館の映画祭だった。このアニメ、傑作であることは間違いないが(圧倒的、という形容がぴったりだった)、その表現と内容のギャップに驚く。絵や構図のすばらしさだけでなく、主題歌にも唸った。だが内容は、要するにウルトラマンじゃないか。

こうして見ると、マンガやアニメが江戸時代の絵双紙の正当な後継者であることがはっきりする。女子供の慰みである点(今ではいい歳した連中が読んでいたりするが、それは泰平日本の彼らが「女子供」化しているのだ)、貸本で読んだり読み捨てにしたりする点、読み切りでないものは切れ切れに読んで一向にかまわない点(作者もそれを大いにありうることと考えている)等々。一部マニア(その一部が肥大化しつつあるが、しかし全体から見ればあくまで一部)の世界を離れれば、そう見える。これをばかにした言い方だと感じる人は、間違いなく絵双紙をばかにしている。両者を同等に、つまり正しく評価しなければならない。


さて、それで「ちはやふる」である。競技かるたの世界で、クイーンを目指す女主人公千早と、彼女と小学生時代からかるたをともにした太一と新を軸に、彼らの戦いと成長を描いている。マンガのほうは今も続いているようだが、私が見たのはテレビアニメの50話までである。
わがマンガ・アニメ私史の中では、テレビアニメをまともに見るのは「メルモちゃん」以来ということになる。だから新鮮でもあったし、懐かしくもあった。裕福な家庭に育った美男で学業優秀・スポーツ万能の太一は、要するに花形満だな。無敵のクイーン詩暢は、妖怪人間ベラそっくりじゃないか。ドSの須藤は、「伊賀の影丸」に出てくる、善玉でもなくかといって悪玉でもない天野邪鬼に似てるな、等々。主人公やまわりの人々の心の声で試合(部外者が見ていて血沸き肉躍るものではないかるたの試合)が進んでいくのは、「エースをねらえ」のテニスをしないテニスの試合のようだ。さらにさかのぼれば、1球投げるまでに、ライオンが子ライオンを崖から落としたり何だり、やけに時間のかかる「巨人の星」がその流れの源頭にあるのだろう。


主人公の3人のほかに、異様な存在感を示す詩暢、瑞沢高校かるた部員肉まん・机・かなちゃん・菫・筑波と、ライバル校北央高校の須藤・ヒョロなどが主な登場人物だ。
絵で見ると、千早と太一が少女マンガの定型美男美女顔である。これはもうほとんど伝統芸能の型や隈取りのようなものだ。目が異常に大きく(眼窩はどうなっているんだ)、細身で長身。一方、肉まんと机はギャグマンガに出そうな単純手抜き顔。要するに両者とも記号である。象形文字と言ってもいい。これをカテゴリー1としよう。
あまり重要でなかったり、年長だったりする者は、リアルな人物像に近いが、美化されたリアルである。これがカテゴリー3。
その中間に、カテゴリー2を認めてもいい。カテゴリー1ほどに記号化されていないが、美化リアルではない、デフォルメされた顔である。かなちゃんや菫はこの範疇だろう。詩暢やヒョロもここに入る。新は美化リアルをずっと美化したものだと思う。
重要な脇役である肉まん君や机君は、実に気の毒な顔を割り当てられているが、しかしその行為言動はほれぼれするほどすばらしかったりするのである。その落差たるや異常だ。肉まん君もなかなか名言を言っているが、特に机君はすごい。せめてその他大勢の選手並みの美化リアルで、もうちょっと背が高ければ、主役を食う人気を博しそうなくらいかっこいい。机にかじりついているしか居場所のないちんちくりんのガリ勉が、突然諸葛孔明になる。
ヒョロと須藤が狂言回しを勤める。ヒョロは道化役、須藤は味方でもある敵役といったところだが、彼らもなかなかかっこいい。須藤がいいのはわかるが、ヒョロがあの顔で大向こうを唸らせるような名台詞を吐いたりしているからすごい。
ヒョロは男版千早である。女・美人・天才という千早の属性を点対称で結べば、そこにはヒョロの像が現われるのだ、驚いたことに。このかるたマンガの中で、かるたを一途に愛してやまないのは、実は千早とヒョロぐらいだ。喪失を抱える詩暢や新、かるたから離れていた肉まん(新も)、かるたをする理由が千早への恋情である太一、競技かるたより和歌を愛するかなちゃん、情報収集や分析に冴える机君の中で、ストレートにかるたを愛して打ち込んでいるのが千早とヒョロだ。
「魔球」や人間の能力を無視する忍法はなし。異能者は詩暢だけ。あとはどうして強いのか一応説明がある(詩暢についても説明らしきものはあるが、あれでは説明にならない)。耳がいい(「感じがいい」というらしい)天才周防名人・千早・理音らに対し、凡才で強いのが肉まん(ストーリーの都合によって勝ったり負けたりする哀れな肉まん)で、才能の乏しさを努力で補って登りつめたのがユーミン、「感じ」こそ天才にゆずるが、それ以外のあらゆる点で極限まで強いのが新(血統にも恵まれている)。太一は並外れた記憶力があるので凡才ではない。
そんな中で、千早は同輩・年少の天才(理音・梨理華)には勝ち、年長の凡才に負ける(金井さくら・ユーミン・逢坂恵夢)。成長をうながす負けである。異能者詩暢には2年連続の惨敗。
かるた競技の構造的な欠陥がうまく使われている。この競技はレフェリーがおらず、自己申告制である。遊戯の尻尾が残っているのだ。どちらが先に取ったかは当事者同士の話し合いで決められる。したがって、微妙なタイミングの場合言い争いになり、それを「モメる」というそうだが、国際化したかったら何とかしなければならない欠点である。タッチアウトかセーフか、オフサイドかオンサイドか。そこの判定が勝敗を左右する結果になるにちがいないのだから。サッカーなら人死にが出るぞ。
もうひとつは、運命戦である。実力で決着がつくのは2枚差まで。自陣と敵陣に1枚ずつ残った場合は、どちらの札が先に読まれるか、つまり偶然によって、「運命」によって勝負が決まる。実力伯仲なら運命戦までもつれこむことはしばしばあるだろう。しかし運命で勝敗が決するのはおもしろくない。そこを、このアニメでは「運命戦は運命ではない」というテーゼを立てて、みごとに盛り上げている。運命戦で敵陣の札を抜くのが実際に可能なのかどうか知らない。無理そうに思える。しかしこの主人公たちは、一か八かで抜いたり、攻めたてて相手のお手つきを呼んだり、嵐を巻き起こしている(その運命戦で敵陣を抜くヒーローがちんちくりんの手抜き顔の机君だったりする。今まで少女マンガでこんな外見のヒーローがいたことがあるのか知りたい)。
そのほか、さまざまなかるたを見せているのもよろしい。セオリー無視のやりたいようにやるかるた、記憶力一辺倒の変則かるたなど。勝負のあやはきっとあるのだろうけど、それがなかなかうかがい知れない競技かるたにあって、幅が見られる部分である。
先生がみなすばらしく、尊敬されているのも、特筆されていい。白波会の原田先生、翠北会の北野先生、富士崎高校の桜沢先生、瑞沢高校の宮内先生など。
ネガティブな登場人物がいないのも特徴で、人の反発を買いそうなのはユーミンと初めのころの菫ぐらいだが、才能に恵まれず、努力でクイーンの地位まで登ったユーミンは、ルールを最大限に活用しているが(モメることで)、ルール違反をしているわけではない。
百人一首のかるた遊びをしたことがある者なら大勢いるだろうが、競技かるたはそうではない。競技かるた人口がどれだけあるのか知らないが、1億の人口の中では100万でさえ1パーセントに過ぎず、かるたはそれ以下だろう。このアニメはかるた競技者とその家族しか出てこない異常な世界を描いているので、菫のような当たり前のかるた部外者がかえって貴重である(彼女は彼女で、恋愛に傾きすぎてウザいけれども、それは色気づいた年頃の女の子としてはさほど不思議なことではない)。彼女は日本人の99パーセント以上の最大多数派の代表であって、それがネガティブに見えるなら、マニアックも度が過ぎると言うべきだろう。勝負と優劣の世界はいやだと思っている。それは要するに弱肉強食やいじめの世界でもあるわけだから、特に女性がそれを拒絶するのは一種の健全さである。まあ、彼女も結局そこに入っていくわけだが。
この物語は、水平ベクトルと垂直ベクトルから成っている。かるたクイーンを目指し、水平線をみずみずしく駆けていく千早(伴走者太一)とその仲間たち。一方で、垂直ベクトルが物語に深みを与えている。こちらを受け持つのが詩暢と新である。両者の結節点に千早が立つ、という構図だ。
このアニメでぞくぞくするほどおもしろい登場人物といえば、何と言っても、出るたびにそこだけホラーになってしまう独自世界の詩暢にまず指を屈する。その孤高の詩暢と関わるのは、新・千早・須藤ぐらい。二度も対戦したユーミンは関わらない。準主役の太一も。詩暢に関われるのは特権みたいなものだ。
千早は、謎めいたものに魅かれる性格と、強くなりたいというだけでなく、かるたが好きな人を見ると無闇にうれしくなる向日性をもっている。後者によって周囲を巻き込み前へ進む水平ベクトルのエンジンになるとともに、前者によって新・詩暢に魅かれ、垂直ベクトルにもからむ。
千早がよく鼻水を垂らすのにも好感をもっている。涙は少女マンガのお得意だが、涙を流すときは鼻水も出てるだろ。だからリアリズムだ、というのでもない。かっこよすぎないための地上レベルへの引きとめ装置といったところだ。かっこよくてかまわない人たちは鼻水垂らしていないので。なお、机君のあの雑な顔の記号鼻では、鼻水も流しようがない。ヒョロは鼻水垂らしながら名文句を吐いていて、その点でも千早に似る。


大人になってからテレビアニメを見たのはこれが初めてだったから、いろいろな発見があった(その筋の人々の間では常識なのかもしれないが、「平均的」な人間には「発見」だった)。
まず、浮世絵と同じなのだな、ということ。原作(原画)者がいて、それをもとに作画されているわけだ。虫プロが手塚作品をアニメ化したような例を除き、テレビアニメはどうしてもそうなってしまうだろう。原作マンガのほうを知らないので、その複製であるこのアニメの絵がどれだけ原作に近いのか知らない。ともかく原画の複製的二次製作であるわけだ。この点でも日本文化の伝統にのっとっていると言えるかもしれない。
テレビアニメは劇場アニメとまったく異なるものだというのもよくわかった。テレビアニメは、要するにところどころに動きが入るマンガだ。音声・音楽入りで。「細動紙芝居」と言えばいいか。静止画面が動き出すものであり、静止画面(それは芝居の「見得」にも似る)が動いて、そしてまた静止画面に至る。静止画面が本質なのであり、その点が動きが本質である劇場アニメとまったく異なる。その静画には微動が入ることが多い。まばたきであったり、なびく髪の毛であったり、体の一部分の動きであったりするが、光や風も静画に命を与えている。
これはテレビアニメ一般というより日本のテレビアニメの特徴ではないかと思うが、細かいところにやけに力を入れている。細部命と考えていると思しい。払われて飛んでいく札の動きなどはこのアニメの主題にも関するところだから必然性があるし、畳に突っ伏して寝た千早の顔に畳のあとがあったりするのもくすぐりとしてわかるが、スーパーリアリズム的に再現されたパンフレットや新聞だとか、携帯電話を肩にはさんで歩きながら話したり、電話のコードを指でもてあそんだりするところなどは、それを描きたいために描いているとしか思えない。しれっとした顔をして、手はものすごいバチさばきで動く文楽の三味線のようだ。しかしこのアニメでは、歩行の描き方がきわめて下手だけども。電車や踏切などは、話の語り口として細かいが重要な部分だ。しかし、それだけにとどまらない車や電車の描き方の克明さは、職人的な細部愛好である。どうも、メカと文字にこだわりがあるらしい。「エヴァンゲリオン症候群」と呼んだらいいのかな、こういうのは。


結論として、いいものを見た、と思っている。願わくは、うちの学生たちがこれに感応して、百人一首に挑戦してくれればいいのだが。