牛と山川草木と

先日知人が訪ねて来てくれたが、到着時間は7時半を過ぎる。温泉の共同浴場は9時(!)に閉まるので、夕食は駅弁を買って食べてくるように言った。
だが、山陰線は下関から出雲市まで駅弁なんか売ってないし、車内販売もない。ここらを走る特急は2両編成なのである(普通列車は1両編成、たまに2両)。新幹線からの乗換駅で買うつもりだったが、時間がなくて買えなかったそうだ。そしたらもうアウトである。車内販売はないし、途中駅では売っていない(かりに売っていても、停車時間が短すぎて買えない)。
いつごろからこんなことになったんだろう。学生時分は、駅弁は特急が止まるほどの駅ならたいてい売っていたし、列車の窓も開いて、停車時間に買うこともできた。特急なら車内販売は必ずあった。
今でももちろん駅弁はあるし、車内販売もやっている。山陰本線以外のところで(正確を期すと、山陰線中米子−出雲市間は除く)。
その知人にインターネットを使わせてあげることもできない。電話回線だから遅すぎて。このへんはまだ光回線にすることもできない。データ通信もそう。客引きのチラシに、実人口カバー率96パーセント、主要都市の人口カバー率99パーセントなどと謳っているのを見ると、つまりわれわれは4パーセントなのだなと悟らされる。「無視できる少数」であり、そういうものとして挙げてあるのだが、しかしその4パーセントは厳存するのだ。主要都市(政令指定都市都道府県庁所在地)ですら1パーセントがあぶれているのなら、実人口4パーセントはなお味わうべき数字かもしれない。
距離の桎梏に苦しむ人々にとって、距離を無化するインターネットや携帯電話は福音である。でもつながらなきゃ何にもならないよ。ITの発達は、もとから弱いIT弱者をさらに弱くする。パソコンをしない人できない人はもちろんIT弱者だが、パソコンはするけれどインターネットにつながらない人もそうなのだ。問題がそこにあることを96パーセント人は知っているのだろうか。
私の町特急停まるんです。外国で出ている地図に載っていたりもします。でもこんなざま。客が少ないからしかたがない。人口が少ないからしかたがない。わかってますよ。納得するし、せざるをえない。だがね。不便なことにとくに文句はないのだ。田舎だから不便なのは承知だ。それは昔からそうなのだし。文句があるのは、便利なところがますます便利になり、不便なところがますます不便になるというそのありかただ。
東京から田舎に来た人は、軽自動車が多いのに驚くという。だが、多くて当然なのだ。車は道具なのだから。トラクターと同じだ。田舎では、家長は車に乗れなければならない。ほぼ壊滅状態の公共交通機関には頼れないのだ。だから買い物ひとつでも車は必須のツールである。親(この世代はまだ免許がなくても家長でいられた)や子どもを病院に運んだりするのも一家の主人主婦の責務で、彼らの住んでいる地域では医者ははるか遠くにしかいないのだ。道具なら安い軽でいいし、家に2台以上車があれば、2台目は必ず軽だ。日本の4パーセント人が軽(および軽トラ)に乗るのは、モンゴル人が馬に乗るような生存レベルの話なのである。もちろん、公共交通に縛られるより、車で走り回るのはずっと便利で快適だ。道も非常によくなった。だが、問題はそこではない。ここには「車に乗らない自由」がないのである。「車に乗る」のは「自由」ではなく「義務」であって、車に乗れない人は自立した人間ではありえず、保護の必要な社会的弱者となるのだ。
1票の格差が違憲だとか。だが、そのような不便に耐えている人たちと便利な都会地と、票の重さぐらい多少違ったってかまうまいさ。
私はヒューマニズムの断固たる敵である。
票の重さを増してくれと誰が頼んだ。過疎の過程の中でそうなっているだけで、過疎地の議席数は減る一方なのだ。減らして減らしてなお2倍、という話なのである。格差が2倍をずっと超えれば違憲だろう。だが、それが必ず1倍でなければならないというのなら、同意できない。その根底にあるのは、人間だけに権利があるという思想である。
96パーセント対4パーセントの例でいけば、その4パーセントは、人口でこそその程度だろうが、面積で言えば国土の3分の2ぐらいだと思うよ。96パーセント中の少なからぬ割合は、「足が地についていない人々」、空中に住んでいる人たちだ。集合住宅の上の階に。彼らの土地は、カラスや野良猫やゴキブリはいても、あとは人間ばかりでびっしり埋め尽くされている。面積は無視されていいのか。面積の中には、さまざまな生き物や草木や山や川や海などが含まれる。大地が無権利なら、それはおかしくないか。山や海にも権利はあるはずだ。山川草木悉有仏性。
特に日本なんかマスコミは東京に集中していて、都会の論理や感情しか発信しないから、田舎の論理を言わせてもらうよ。ま、発言少ないのは道理なんですけどね。4パーセントなんだから。サイレント・マイノリティ。嗚呼。
アンチ・ヒューマニストは、当然ながら死刑廃止にも断固反対だ。
無辜の市民が殺された。正義が暴力的に侵された。正義は回復されなければならない。血が流された。その血は贖わなければならない。素朴で力強い正義の感情である。
人を殺したら死刑である。少なくとも殺意を持って複数人殺したら死刑でよろしい。
死刑で問題になるのは、冤罪と政治的乱用だ。冤罪はなくならない。残念ながら。人間のすることだから、完全にはできない。しかし努力してゼロに近づけることはできる。政治的乱用も押さえ込むことはできる。努力はその方向に向けて行なわれるべきで、廃止の方向ではない。
地球のためには、人間の数は少ないほどいい。だが人間は増える一方だ。なのに、そのうちの凶悪犯罪者の分も減らしてはならないのか? 殺人者たちを税金で生かしておかなければならないのか? 食肉処理場では牛が毎日多数殺されている。人に何にも悪いことをしてない牛なら殺してよくて、人を殺しまくった人間なら殺してはいけない。カンガルーならよくて、クジラならいけない。失礼、その基準がわからない。哀れな牛がよければ、凶悪犯はもちろんいいはずだ。
ヒューマニズムは地球の敵である。人類の希望はアニミズムだ。けっこう本気でそう思う。