リキシャに踏まれる

四つ角で横断歩道を渡ろうとしたら、車は止まったが、その外側をリキシャが回ってきて、止まらずに通りすぎていった。そいつに足を踏まれた。だが、あまり痛くもなかったし、靴に跡もつかなかった。
要するに三輪オートバイで、バイクがリヤカーをひいているようなものだ。ドアはないし、屋根は幌。軽いのである。車輪も驚くほど小さい。乳母車並みだ。近くのガソリンスタンド前によくリキシャの列ができているが、それが少しずつ進むとき、エンジンをかける者は少なく、たいてい手で押して前進する。片手で押しているのもいる。その程度だ。
この町は、オートバイ、オートリキシャが非常に多く、自動車はそれより少ない。バスは割合多い。自転車はときどき。車では、国産タタのほかにはスズキやトヨタが多く、ヒュンダイもよく見るが、旧式なアンバサダーを見かけると何だかうれしい。
町中では、まずスピードは出ない。路上駐車だらけの上、人も牛も車道を平気で歩いているし、道にはいたるところにバンパーがある。トルコも多かったが、それ以上に多い。初めは、路上の恐るべきひしめきあいを見て、交通事故の心配をしていたが、大丈夫そうだ。あんなに軽くて遅いリキシャなら、ぶつかっても大したことにはならないだろう。ぶつかれば危ない車もバスも、スピードを出していないし。
危険なのはバイクだ。雲霞のごとき数で、かなりスピードが出るし、そのスピードがまちまちで、すぐにハンドルを切るリキシャと違い、直進してくる。よけることも止まることも知らない香車だ。車と車の間をこいつらが埋めているので、車がとぎれたから渡ろうとすると、けっこうなスピードで1、2台が迫ってくる。危ない、危ない。
道を渡るときあのとろとろ走るリキシャがやってきたら、邪魔だから先に行かせようとやりすごすのだが、そうされるのに慣れてないようで、必ず止まる。こちらが乗るのかと思うらしい。邪魔でしようがない(インド人の三大特性は、邪魔なところに立つ・邪魔なところを歩く・邪魔なところで止まる、である。ほかの国では道で人にぶつかることなんてなかったのに、ここではよくぶつかる)。ことばにディスコミュニケーションがあるように、行動パターンにもディスコミュニケーションがある。
リキシャはふつう1人か2人で乗るものだが、3人も可、つめて4人乗ることもある。フレクシブルだ。子どもの場合、7、8人乗っていることもある。あの狭いスペースからぞろぞろ人を出してくるんだから、コブラを踊らせるぐらいわけはない。
この小型三輪タクシーは、インドと東南アジアに繁茂繁殖している。他の地域にはない。人工物であり工業製品であるけれど、その分布は「生態学的」と言っていい気がする(日本語ではこれらは「ある」でなく「いる」と言うしね。「あ、あそこにタクシーがいる」)。そしてその分布域は、ヒンドゥー教小乗仏教地域、つまりインド文明圏域なのである(ムスルマンやヤソの軍門に下ってしまったマレーシア・インドネシア・フィリピンもかつてはそうだった)。サルの生息域とも重なる。その理由は、ドアがなく開けっ放しで、寒いところでは無理な反面、暑いところに好適な乗り物だからであろうし、暑さのみならず、道が狭いというインフラ面、人口稠密かつ公共交通の発達度が低いという点など、要するに「低開発」と一言ですませられてしまう地域特性と関連があって、そういうところで威力を発揮するわけだが、その「低開発」そのものが「生態学的」な現象であるらしいことも示しているように思う。そして、われわれは「先進国の需要」こそ「人類の需要」であると信じこまされつづけているが、この「生態学的」低開発地域の「需要」はそれとは違うのみならず、「先進」をもって任ずる地域よりはるかに人口も多いので、したがって重要度も高いのだ。
「リキシャ」の名はもちろん「人力車」から来ていて、日本人の発明である(日本も、小乗でこそなけれ仏教国で、夏は熱帯のように暑く、道狭く人口稠密である)。その人力車からサイクルリキシャ(輪タク)ができ、発動機をつけてオートリキシャになった。日本とインドの合作のようのような代物だ。日印友好の絆、か?
馬車も、多いとは言えないが、現役ばりばりである。1頭立てで、やけに車輪が大きい。道端に厩もある。速度は出ないし、荷車が小さくてあまり積めないが、ほかのものもスピードが出ないから、競争力を失っていないようだ。長い棒状の物を運んでいるのをよく見る。ここでは普通のトラックより三輪の小さいトラック(オートリキシャの後部が荷台になったものや、それよりやや大きいもの)が多いが、それにはこういうものは積めない。その点で需要があるのだろう。「燃費」の点でどうなのかは知らないが、たぶん悪くないのだろうと思う。ただ、やせ馬が多くて、気の毒だ。
マイソールでは牛車もある。人を乗せる馬車タクシー(馬リキシャ)のようなものも見た。けれどもロバは見ない。
頭上運搬も多い。男も女も、頭の上に大きな荷物を載せてぽかぽか歩いている。あれもいい。背筋をのばし、右顧左眄せず、荷物が人の妨げにもならない。手に荷物を持つと姿勢が悪くなるし、他の人の通行の妨げにもなるわけだし。きょろきょろするのが民族的特性の日本人は見習いたいものだ。
リキシャにしろ、小型三輪トラックにしろ、あるいは馬車にしろ、小口短距離なら便利である。これらは非常に小回りがきく。こういうものを開発したり、利用しつづけたりするのは、まさに「知恵」の姿そのものである。合理的であって、地域の需要を満たしている。与えられた条件に対する最適解だ。
効率という点では、いいとは言えないかもしれない。人件費の高い国では、こんなまねはできないだろう。欲望は最大限、労苦は最低限というのが西欧思想の根幹である。それは人間が徹底的に楽をすることを目指している。いわば収奪の思想である。奴隷や植民地から収奪していたものが、機械や機械を動かす資源の自然からの収奪に代わったのは「人道的」な進歩であるが、思想の根本は変わっていない。それに対して、量において距離において額において人間的なサイズを守っているこの効率的と言えないインドの交通運搬手段は、「道行くガンジー主義」と言っていいのではあるまいか。
読み込みすぎだろうか? もちろん読み込みすぎである。だが、何でも少しぐらい「すぎた」ほうがおもしろい。だから、そういうことにしておこう。といって、足を踏まれたいわけではありません。