頓知話「水がめ割り」

 むかしむかしのことでございます。南天竺に栄えたヴィジャヤナガル王国の片隅に、テナリ・ラマンと申す貧乏バラモンがおりました。妻子をかかえ、貧乏暮らしをしておりましたが、このヴィジャヤナガル王国の名君シュリー・クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王は、才ある者を愛し、宮廷に厚く召抱えると聞いて、都ハンピへとぼとぼと登ってゆきました。
 つてを頼って御殿に伺候し、殿様に詩をよんでみせることになりまして、自信の作を声朗々とよみあげましたれば、いたくお気に召したラヤ殿様、
「でかした、でかした。みごとな出来栄えであった。そのほう、名は何と申す?」
「はあ、テナリの近所に生まれましたれば、人呼んでテナリ・ラマンと申します」
「さようか。テナリ・ラマン、ほうびを取らそう。苦しゅうない。何なりと所望いたせ」
「殿様、わたくしの願いはわずかでございます。将棋盤ひとつと、その初めのマス目に米粒をひとついただきとうございます」
「何じゃ、米粒ひとつとな。」
「さようでございます。加えて、その次のマス目にはその倍の米粒を、そのまた次にはそのさらに倍を、八八六十四のマス目のすべてに、倍々の米粒をくだされませ」
「それだけでよいのか? 金はいらぬか?」
「十分にございます」
 ご家来衆のひそひそ言うよう、「この田舎者は少し足らんのか? 殿様の前でびくついたか?」
「貧しげな身なりじゃが、よほどひもじくて、ほんの少しでも満足と見ゆる」
 殿様は、
「では、将棋盤と米をもってまいれ。くだしおこう」
 ご家来衆が将棋盤と米袋をもってまいりますと、言われるとおり、最初のマス目にひとつの米粒をのせ、次のにふたつ、その次に4つ、さらに8つ、16と数えてのせていきますと、10番目のマスでは512、20番目では524288、半分の32番目のマスでは2147483648にもなりました。
「ややや、これはいかなこと。この貧乏バラモンは、予の米倉を空にする!」
「さればでございます、お殿様。強欲からかく申したのではございませぬ。何ごとも、ひとつひとつ小さいことから始めよとの神様の教えにございます」
「でかしたり、テナリ・ラマン、あっぱれ知恵者じゃ。ほうびは別に取らせよう」
 かくして、テナリ・ラマンは殿様のお気に入りとなりました。


 あるとき、都に悪い病がはやりました。黒胡椒に石や炭をすりつぶしたものを混ぜて売る者があり、それを食べた者がこの病にたおれるとわかりました。
 殿様はたいそうご立腹になり、「けしからぬ商人どもめ、みなひっとらえて牢にたたきこんでしまえ」とお命じになりました。
 さあ、困ったのは商人の女房たちでございます。御殿の前へ集まって、「申し、うちの人は何も知らずただ仕入れた胡椒を売っていただけでございます。悪いのはその胡椒を作った元締めでありましょうに。なにとぞお許しになってくださりませ」
と、頭をすりつけてお願いいたしますが、役人衆は、
「うるさい、うるさい、殿様のご命令じゃ、帰れ、帰れ」と、まるで取り合いませぬ。
 それを見ていたテナリは、少し考えるふうでありましたが、ふいと立ち去ってしまいました。
 すると次の日、都中にテナリが川べりの漁師の家で狼藉を働いているという話が聞こえてまいりました。漁師の家に押し入っては、水がめを蹴り割っているというのでございます。
「ええい、こんなものはこうしてくれる」
ガッチャンガラガラ。
ひとつの家で水がめを勢いよく蹴り割っては、また次の家に入り、
「ここにもあるか、ええい、これでもくらえ」
ガッチャンガラガラ。
家々を回っては、水がめを割って回ります。
 漁師たちも、テナリは殿様のお気に入りと知っておりますから、手出しもならず、ただおろおろするばかり。
「これ、おやめくだされ、テナリさま」
「口出し無用、それ、こいつもだ」
ガッチャンガラガラ。
 男も女もただうろたえるばかりのところへ、ひょろひょろやせおとろえた老人がただひとり、テナリの前に進み出て、
「ならん、ならん、この年寄りのやせあばらにかけて、ならんぞ、テナリ。いくらボロがめじゃとて、大事な水を入れるものじゃ」
と、水がめの前にすわりこみ、両手を広げて必死にかめを守ります。
 と、そこへ、かわいがっているテナリが乱暴狼藉を行なっていると聞いた殿様が、みずからお出ましになりました。
「乱心したか、テナリ・ラマン。何とて罪とがもない漁師どもを苦しめるぞ。控えおろう」
「ははっ、これはお殿様」
「何ゆえ漁師どもの水がめを割りおるぞ」
「この汚い川水をくみおいておるからでございます。悪い病のもととなりましょうから、かめを罰しておりまする」
「らちもない。水の汚れは川のとが。水がめのとがではあるまいに」
「されば殿様、いかさま胡椒を作った者にこそとがはあれ、それを売っただけの者にとがはありましょうや」
「やや、何と。いかにも、いかにも、さようであった。罪もない小売り商人どもを捕らえたは、たしかに予の短慮であった」
 もとより聡明な殿様ですから、すぐに間違いに気がついて、
「商人どもを放してやれ。かわりにまがいものの黒胡椒を作った者を探し出して捕らえるのだ」
そしてテナリのほうへ向き直り、
「よう意見した、テナリ。漁師どもには予のほうから、立派な水がめを買うたうえ、金貨を加えて弁済してやろう」
「ありがたいおはからいにございます」
 このなりゆきを見て、最前の漁師の爺さんが申します。
「ええ、テナリさま、先ほどは申し訳ありませなんだ。どうぞこのボロがめも割ってくだされ」
「そうか、爺さん、最前はすごい形相で守っていたが。では、望みどおりに割ってしんぜよう」
と、足をふりあげ、ええい、ガッチャンガラガラ。
「これでいいか、爺さん」
「ああ、よいとも、よいとも。数が多くなって、めでとうございます」



前に狂言にしたテナリ・ラマン滑稽話中の別のエピソードを、今度は落語にしてみた。狂言に取り上げた話のテナリと、この頓知話のテナリはまるで別人だが、そのように、いろんな性格の話がひとつの主人公の名のもとに集まっているのが、この類の笑話の特徴と言える。
狂言にしたり落語(落ちもくすぐりもないからあまり落語じゃなくて、むしろ講談かもしれないが)にしたりする、こういうのは「翻案」というのだろうが、しかし、と思う。実はこういう訳し方のほうが翻訳の王道ではないのかと。「翻案」とは、内容のみを自国語に移し、それを自文化にある形式の中に流し込むものである。それに対し、近代の「翻訳」は、内容のみならず形式をも、そしてさらに思考様式や文章の表現法をも移そうとするものである。異国の異質なものを移入し、自国にないものを作り出そうとする点で革新的であるが、近代の場合その翻訳の対象は欧米の文献であるから、外観のみならず頭の中身まで欧米化させようとするムーブメントであった。それもけっこうである。しかし、だからといってそれまでの「翻訳」の主流であったいわゆる「翻案」をおとしめ、彼らの賛美する「翻訳」のしかたを「翻訳」の正しいあり方と見なす欧米化主義者たちの考え方に流されてはなるまい。こちらこそが翻訳の正統であることは、見失ってはならないだろう。
− そんな無粋な物言いが、まさに「近代」そのものである。だが、こんな人間が世の中に多いから、テナリの知恵も輝くのだ。と、引き立て役敬白。