台湾的にしてウズベキスタン的でない

バンガロールのあるカルナータカ州の人々は、カンナダ語を話す。カルナータカ州の人口は5600万人で、カンナダ語は世界で27番目に話者の多い言語だそうだ。
国連公用語のような勢力のある言語でない、マイナーな言語を母語とする人々が日本語を学ぶときに、「大言語」(植民地宗主国の言語と言ってもいい)で習うことになってしまうのをつねづね残念に思っていて、この状況を少しでも変えるために微力を尽くしたいと勝手に念願していた。バンガロールに赴任が決まって、よき敵ござんなれ、では「日本語カンナダ語学習辞典」や「みんなのカンナダ語」を作ってみようと思ったが、来てみると、カンナダ人でない教師のみならず、カンナダ人教師も全然乗り気ではない。そんなものは不必要だと思っている。英語の辞書があれば十分だと。
インドはたしかに「英語圏」である。大学に進む者は例外なく英語ができるし、その「できる」かげんはほとんど母語レベルである。町中の日本語学校ではどうか知らないが、少なくともここバンガロール大学に併設の公開講座に通う人々は、ほぼ大卒で、だからもちろん英語ができる。幼稚園から英語で(「を」ではなく「で」)勉強してきている人たちだから、日常のおしゃべりも英語だ。それは発音や語彙が強く方言的な「インド英語」であるけれど、しかし英語であることにまちがいない。この時世、テレビにも英語のチャンネルが多いので、子どもの英語習得も早いのだろう、家では母語で話している家庭でも、子どものほうが、言いたいことがうまく言えないと「英語で言っていい?」と聞くそうだ。うちで英語を話している家庭も多い(うちでもロシア語を話しているタシケントウズベク人家庭のように、という比喩をしたくなるが、あまり適切なたとえではないか。後者のほうが格段に知られていないのだから)。
英語は、この「インターナショナル(国際的にもだが、国内的な意味でも)」都市バンガロールで、出身地の異なる、つまり母語の異なる人たちの共通語である。
加うるに、カンナダ人は、実はバンガロールでは少数派のようだ。公式の統計は知らないが、大学の教室を見ると4分の1程度である。タミル人とマラーティ人も多く、それぞれ4分の1ぐらいいそうだ。テルグ、マラヤーラム(ケララ)人やその他北インド人が残りの4分の1、といった感じである。
インドIT産業の中心地のひとつであり、「インドのシリコンバレー」と呼ばれるバンガロールは、近年急速に膨張した。Wikipediaによると、1971年に165万人だった人口が、81年には292万、91年413万、2001年510万、2011年には959万人となっている。この10年間でほぼ倍増、30年間で3倍増以上である。その流入人口の多くが州外からにちがいない。単純に地理的に言っても、タミルナードゥとの州境から40キロ、北の州境からは700キロと、州の南東隅に偏っているその位置から見て、カンナダ人のみが流入するなどありえない。まして企業が求める高学歴の人材は、大半が州外から入ってきていると考えていいだろう。大卒、つまり「英語人」である。


インドの言語事情を見ると、北ではヒンディー語が一定の勢力をもっている。ある程度まで「共通語」化しているらしい。だから「日本語ヒンディー語学習辞典」は必要だし、文化的文学的伝統のあるベンガル語による「日本語ベンガル語学習辞典」もそうかもしれない。また、タミルナードゥ州ではタミル・ナショナリズムが強いと聞くから、「日本語タミル語学習辞典」なら必要とされるかもしれない。だが、カンナダ語はそうではない。その他のインドの諸言語と同様に。
南インドでは、ヒンディー語は勢力がない。北インドでは「共通語」が英語とヒンディー語の二頭体制であるのに対し、南では英語のみがその地位にある。
これは「台湾的」な状態と言えるだろう。山地に住むオーストロネシア語族高砂族はさまざまな民族に分かれていて、他の高砂族と話すときは日本語を使う。いつまでそうだったのか知らないが、戦後もかなりそんな状態が続いたらしい。一方、低地の台湾漢族は、福建語・広東語・客家語などを話す。
北インドでは印欧語であるインド・アーリア諸語を話し、南ではまったく別系統のドラヴィダ諸語を話しているインドと似た状況で、優勢言語(印欧語・中国語)の地域でそのうちのひとつ(ヒンディー語普通話)が有力になるのに対して、劣勢の側では旧植民地宗主国の言語(英語・日本語)が一定の勢力を保っている(いた)、という図式である。
同じく植民地であり、宗主国の言語が近代化のパスポートであって、高等教育はそれらの言語によらなければならなかった点で同一であるウズベキスタンは、しかしながらインドと全然異なる。首都ではロシア語を話すが、地方都市ではロシア語の通用度は歴然と下がり、特に地方出身者を中心に、「ロシア語より日本語のほうが上手な学生」なんてものも出てきた。だからウズベク語による教材が必要で、したがって「日本語ウズベク語学習辞典」は歓迎される。
ロシア語と英語の重要度の差だとか、国や人口のサイズの問題もあろうが、最大の相違点は、独立後も国内共通語である必要があったかどうかによる。ソ連邦内ならともかく、独立ウズベキスタンでは国内でロシア語を共通語とする必要はなかった。
ただ、インドとウズベキスタンで似ていると思うのは、ウズベク人もインド人も日本語の上達が速く、話すのが上手だ。それは、トルコ人や(トルコ人よりましだが)ロシア人の日本語上達速度とは明らかに異なる。その理由としては、多言語状況に慣れているということがあるだろう。周囲で当たり前のようにさまざまなことばが話されている生活世界の中に生きていれば、外国語の習得に対してよい心の備えができているだろうし、耳も鍛えられているだろうと思われる。親兄弟も本人自身もバイリンガルトリリンガルであったりしたら、そもそもスタートラインが違うわけだ。また、基準の違いもあると思う。教育のあるウズベク人はロシア語を話し、教育のあるインド人は英語を話す。それぞれ、ほぼ母語レベルでロシア語・英語ができる。「外国語ができる」ということの基準が高いのだ。目標が(志が)高ければ、成長も大きい。このくらいできなければ、ことばができるとは言えないと(無意識にせよ)考えているに違いない。逆に、日本人やトルコ人のように、外国人に支配されたことのない人々は、みじめなくらい英語ができないのだが、それは外国語に対する心の中の障害が非常に大きいことによるのだろう。


いったいこの国でどのくらいの人々が英語を話すのだろうか。
「インド新聞」に、それは10−30%くらいだとあった。ずいぶん幅のある数字で、かつ根拠がはっきりしないけれども(目分量?)、この数字は信じていいのだろうか。
(あることばができると言っても、その程度には上から下まで相当な差がある。いわゆる片言、文法は無視し、単語を並べて最低限の意思疎通ができるレベルから、母語であるはずのことばより自在にあやつれるレベルまで。ここでは「できる」というのを、やや高く、「言いたいことが即座に過不足なく言える」というあたりに取っておこう。)
岡本幸治「インド世界を読む」(創成社、2006)にあるさまざまな統計から、関連あると思われるものを見てみよう。まず識字率は、
全体64.8%、男75.9%・女54.2%(2001年)
これでも1951年の数字(全体18.3%、男27.1%・女8.9%)を見れば格段の伸びではあるし、10年後の今はもう少し伸びているだろうが、しかし低い。字が読めなくても、外国語を習得するのに問題はない。それはジプシーの例に見られるとおりだ。しかし、両者に強い相関関係はあるだろう。
さらに、2000年の就学率を見ると、
小学校登録率(1−5年) 89%
とある。これだけ見れば高そうだが、実はドロップアウト率が非常に高く、小学校修了率はわずか49%、半数にすぎず、基礎教育の修了率となると25%である。しかし、中退する者の大半は家庭の事情、金銭的な事情によるのであって、能力の不足によるのは一部にすぎないだろうと思う(国民の4分の3が中学校を終えられるほどの学力もないとは信じられない)。それに、外国語というのは学校に行かなければ習得できないというものではない。それはジプシーの例を…(以下同文)。しかし、ここにもまた強い相関関係が…(以下同文)。
インドの貧困には、こんな数字もある。1日1ドル以下で生活する人が35.6%(1999年)、1日2ドル以下が79.5%(2003年)。これも今は多少改善されているはずだけども、しかし驚くべき数字だ。英語ができればそれだけチャンスも増えるということから考えて、そのチャンスに見放されている低所得者層は、英語からも縁遠いと思われる。すると5分の4がそれに当たる。
これらの傍証を挙げれば、10−30%というのはかなり信じてよさそうだ。
英語ができることで社会的上昇が果たせるという面はあるにしろ、階層固定化の道具にもなっているだろう。社会的に上の階層の英語習得率は高く、下では低いに違いない。水平的には、都市と農村で英語通用度は全然違うだろう。英語のできない人たちは主に村に住んでいて、都市に限れば英語の通じる率は2割よりずっと高いと思われる。さらに、男性の習得率は女性より高いであろうから、都市の男性だけをとれば、かなりの高率なのかもしれない。
けれども、農村と都市は別世界と言っていいほど異なっているようで(住居にトイレのない人が6億人いる、なんて新聞記事も読んだけども、これもほとんどは農村部だろう。そうであってほしい。村ならそこらでできるかもしれないが、コンクリートで固めた都市部でトイレがなかったら、いったいどこでするんだ?)、インドの都市化率は30%(2010)とかなり低いところを見れば、広大な農村世界を知ることなしに、インドを知ることはできないはずだと思う。村に限らず、都市でも多数派である非英語世界を知ることなしには。その世界は、英語によっては限定的にしかのぞくことができない。
バンガロールを離れていなかに行くと、看板などはすべてカンナダ語カンナダ文字になる。軽い目まいを感じるが、外国なのだからそのほうが自然で、見る看板見る看板に英語がカンナダ語より大きく書かれ、英語だけの看板も大いに幅を利かせているバンガロールのほうが異常でなければならない。
英語を話す人たち、つまりエリートばかりに取り囲まれているというのは異常な状況であるはずなのだが、ここの日本人はそのように生活している。今も「植民地」なのではないかと感じてしまう。かりに英語ができる者が2割として、あとの8割について直接得られる情報はなく、2割の人々が彼らに対してもっている意見を聞くだけになる。2割によって何かを論じるのは危うい。
英語のできない8割にとって、カンナダ語その他による日本語教材は必要であるはずだが、その8割は日本語を学ぶなんてことはしない。学ぶならまず英語なのだから。日本語は「贅沢品」で、「エリートの言語」なのであり、高収入への鍵となるけれど、その鍵は一部の人にしか握れないという事実を露骨に示している。
英語ができるのは、大きな利点である。それには何の疑いもない。インド経済の近年の発展は、まちがいなく英語を話し、教育があり、人件費が安い人々によって牽引されている。たとえば日本語を学ぶという小さな一点を取ってみても、中国語に一籌を輸するも、世界で第二の話者数をかかえ、他を圧して第一の国際共通語である英語には、多くの学習教材がそろっている。そのメリットは最大限に生かすべきだ。
だがその一方で、それだけでいいのか、という気持ちがぬぐえない。(もともと細分的な階層化が貫徹されているインド社会では的外れな言い方かもしれないが)英語が階層固定化の結果でもあり原因でもあるという状況を見るならば。「8割」はどうなんだ、ということだが、しかしこの現実は現実だ。またひとつ知見がふえた。