越境、越境、また越境

「本物」などない。あるのは「本物」の影だけだ。
外国人に「本物」を見せる、などというが、本当か。東京で歌舞伎座に連れて行けばたしかに「本物」の歌舞伎が見られるが、外国に住む外国人にはどうするのか。引越し公演というやり方もある。しかしそんなことをしたって、空気は持ってこられない。オペラに必要なすべてを持ってきたつもりでも、日本の湿った空気の中で見るものは、ヨーロッパの乾いた空気の中で見るもの聞こえるものとは違う。逆もしかりで、スイスで能の公演を見たことがあるが、太鼓の音が全然響かなかった。音響効果が悪いのか、いやオペラもやる劇場だからそんなはずはないが、などといろいろ考えていたが、実は太鼓が割れたそうである。空気が乾燥しているので。応急処置をして何とかやったが、あんなスカスカな音だった。太鼓ひとつでこれだ。「本物」はその土地でしか見られない。見せられるのは結局のところエッセンス、イデアだけである。それなら、「本物」のプロ中のプロが来て演じてみせても、現地在住の日本人の子どもが日本の踊りを踊ったり、日本人の奥さん方がお茶をたててみせたりするのと変わりはない。あるのは量的な違いだけで、質的なそれではない。プロ中のプロととアマ中のアマでは、その量的な違いは大きく、完成度において雲泥の差がある。それは端的に言えばカネをとって見せられるか見せられないかということで、この両者間には大きな深淵がある(カネなんか取れるものじゃないのに取っている勘違いした人もいるが、論外は論じない)。だが、本質の話をするならば、それも学芸会のおゆうぎと同じ範疇だ。


それに対して、「越境」という方法がある。異文化を演じることだ。
「越境」とはことごとしい言い方だが、実際は簡単で、そのもっともシンプルな形は翻訳である。そもそも、異国のものを演じればそれですでに「越境」だ。
これにはふたつのやりかたがある。「異」風か、「自」風か。ことばを使うものなら、原語でやるか、翻訳でやるか。身振りや楽器、節回しなら、異文化のものを用いてやるか、自文化のものに「翻案」してやるか。歌や踊りの場合はどちらにしろさほどむずかしくないが、ことばのからむ劇となると少し難易度が上がる。
インド人が日本の歌を日本語で歌う、というのは単純な例で、インド人がインドの歌を日本語で歌う、となると、ひとつねじれる。インド人が日本の曲をヴィーナーで奏す、というのもそうだ。
日本人がカンナダ語劇を演じるというのも、英語と違いマイナーなことばだからそれなりの難度(量的な)や希少価値はあるが、英語劇と本質的に変わらず、単純である。だが、インド人がインドの滑稽譚を狂言や落語として日本語で演じるとなると、ひねりが加わり、階梯が上がる。インド人が、サリーを着て、ヴィーナーの伴奏で日本語で平家物語を語れば、もうひとつ上がる。インド人が、インドの話を日本人が日本語の能にしたものを、ヤクシャガーナ舞踊劇としてカンナダ語の朗誦と日本語の台詞で演じる、となれば、めくるめくほどねじれている。何度「越境」を重ねたか。私はこのような試みをこよなく愛する。
先日の催しでは、そのような「越境」の洪水に触発されたか、漢詩ふたつを吟じる予定の人が、ひとつの漢詩をとりやめ、あるヒンディー語の詩を詩吟の節で吟じてくれた。それはきわものだろうか? そうは思わない。そうすることによって、詩吟の詩吟たる本質的な部分が明らかになるはずだから。
たしかに危うい。タモリの話す、無意味だがまったくそうとしか聞こえない中国語や韓国語のようなお笑い芸とは紙一重だ。共通するのは、エッセンス、イデアをしっかりつかんでいること。それは芸としてなら高度な批評であり、真摯な試みとしては本質への肉薄である。越境だけが人生だ、と嘯こうか?
「本物」はどこにでもある。本気でやっているならば。