ところかわれば・弁論篇

いろいろな国で日本語を教えて、今は南インドバンガロールにいる。
その国にはその国の事情があり、特徴がある。国を替わるたびにそれを感じる。日本語教育というひとつの定点をもって、世界各国の観察ができる。快適とは言いかねる生活環境や薄給に耐えても、これがあるのでその埋め合わせはつく。
インド、と言っても広く大きく、やたらめったに人の多い国だから、ここでは筆者のわずかに知っているバンガロールだけに話を限らなければならないが、その特徴を言えば、まず日本語力がけっこう高い。学習者の大多数は会社で働く社会人で、その会社で日本語を使っている人も多い。日本へ行ったことがある者も少なくない(サハリンでは日本へ行ったことのある者の比率はもっと高いが、一衣帯水、元日本領でもあるのだから、当然だろう。ただし、彼らの「日本」はほぼ北海道に限られるのだけど)。
この町で弁論大会をやってみて、ここの日本語教育や学習者の特徴のあらましがつかめたように思う。それをいくつか書いてみよう。


まず、時間を守らない。時間を守らないのは、ロシア人もトルコ人ウズベク人もみなそうだ。というより、ホモ・サピエンスというのは時間を守らない生物のことであり、不思議な(はた迷惑な)例外が日本列島やユーラシア大陸の西北の一角および北米に棲息している、と考えたほうがいい。それはだから承知だけれど、インド人はさらに頭ひとつ出ているような気がする。


インド人の議論好きは有名だ。堀田善衛の「インドで考えたこと」には、デリーからムンバイへの長距離列車の中で、寝ている間を除いて同室のアメリカ人と日本人(堀田氏)を相手に論じづめだったというインド人学生が出てくる。インド代表は国連総会で9時間もスピーチしたというレコードをもっているそうだ。国際会議の議長は、インド人を黙らせて、日本人を話させることができれば大成功だと言われる。
スピーチの練習では、1.作文、2.発音、3.質疑応答という、個人指導が必要なため授業ではおろそかにされがちな項目が、みっちりマンツーマンで指導できるのがよいところだ。質問に対する応答の練習は、学生たちは「想定問答集」を作るのが目的だと思っているが、もちろんそれも目的のひとつではあるのだけども、教師側の考えはちょっと違う。ディベート練習が第一のねらいだ。学生は、自分のスピーチに対する質問だから、真剣に答えを考える。そこがつけめである。根掘り葉掘り、揚げ足取りのような質問、こんなの絶対にされないよという仮定に仮定を重ねたような質問や哲学的な問いかけまで、学生にぶつける。大会では、壇上で、誰も助けてくれないところで、ひとりでそれに立ち向かわなければならないわけだから、彼らは必死に考える。こんないい練習はない。本番で出されるはずのない質問に答えさせることこそ、この練習の眼目と言っていい。なに、それだけ練習したって、本番では失敗するのだけど。それも経験、とうそぶき、教師は翌年も同じことをする。
トルコ人やロシア人の学生が非常に苦労するここのところで、インド人はかなり泰然としている。彼らとて答えるのに苦労はするが(そりゃそうだよ、外国語だもの)、ひるんだふうがないのだ。質問が理解できなくても、自分が理解できた隻言半句をとらえて、とうとうと答える。見上げたものである。


インドは大学に日本語専攻が少ない。バンガロール大学も、大学付設ではあるけれどオープンコースで、生徒はほとんど全員が学外者であり、社会人かでなければ主婦、定年退職者もいる。事実上、大学というより日本語学校である。したがって授業は夕方と土日に行なわれる。
それに対し、トルコは日本語学科が多く、さらに増設している。就職口などないのに。実質、土産物屋店員養成所となっている。文教当局は無責任極まる。トルコの日本語科では日本語しか学べないのだ。ロシアでは、日本語が主専攻語・英語が副専攻語で、日本語で就職を見つけられなくても、英語で就職できる。セーフティネットがあるわけだ。しかしトルコには安全保障がない。
(ちなみに、インドの場合英語云々は問題にならない。大学に入った者ならみな母語レベルでできるから。) 
インドの弁論大会では、日本語学習時間数500時間をもってジュニアとシニアに分ける。旧ソ連は区別がないが、トルコやインドではこのふたつのカテゴリーを設けている。
ジュニアとシニアを分けるとするならば(筆者個人は分けなくてよいという意見だが)、そのラインは、初級教科書を終えたかどうかに置かれるのが正しい。能力試験で言えば、前の3級・今のN4が境目となる。日本語専攻の学生の場合、そのラインが500時間となるのだ。
意外なことだが、日本語専攻・日本語必修だと、むしろレベルが上がらない。日本語がむずかしいとは決して思わないが、独特なことばであることはたしかだし、表記法は複雑きわまる。授業が進むにつれ、脱落者が出てくるのが自然である。
選択科目ないし希望者コースである場合、ついていけなくなったり、やる気が失せてきたりしたら、やめていく。それでいいのである。日本語に対する需要自体が、地域的に偏ってもいるし、そんなに多いわけでもないのだから。意欲や能力で追いつけなくなった者が自然淘汰されていくと、コースの終わりまで残る者の日本語力はかなり高くなる。同じ時間数勉強した日本語専攻の学生よりずっと高い。
必修だと、明らかに落伍していても、本人が自発的に身を引かない限り、ずっとクラスに残る。むろん落第点を一定数取ったらやめなければならないのだが、そこはやはり情というものがあって、まあ卒業だけはさせてやるか、なんてことになる。意欲や能力に劣る者が沈殿しているクラスでは、伸びるべき学生も十分に伸びないということにもなる。これが乱造日本語専攻科の抱える問題だ。
日本語専攻では、卒業生は日本語ができるだけだ。でありながら、実はトップのひと握りを除く学生の日本語力は決して高くなく、トルコの場合、英語も不十分なことが多い。これでどうしろというのだろう。学生にとっても気の毒な話である。
採用する会社にしてみれば、日本語ができるというだけの人間より、経済や法律を専攻し、プラス日本語もできるとか、エンジニアであり、かつ日本語も話せます、という者のほうが望ましいのは明らかだ。加えて、その日本語力自体が専攻した者より高かったりしたら。
500時間という日本語専攻科における基準を当てはめると、自由選択・希望者コースの学習者は、とっくの昔に初級教科書なんか終えてしまった人たちも「ジュニア」カテゴリーになってしまう。N3とか2級などに合格していても。日本語専攻科を抱える大学の先生が中心になって基準を考えるから、そうなる。これでは趣旨に反するのだが、客観的な基準(数値のような)でラインを設定する場合、学習時間数ぐらいしか数字で出せるものがないので、実情に明らかに反していても、これによるしかないのだろう。


ここの学習者は、さまざまな日本語の習い方をしている。学校をいろいろ移りかわっていたり、教師でないふつうの日本人に手ほどきをうけていたり。日本語は全然できないのに、いきなり日本へ派遣され、そこで覚えて帰ってきた者もいる。日本語専攻の多い「純粋培養地域」から来た人間にとってはとまどうことが多いけれども、こちらのほうが「正常」なのだろうとも思う。必要があるから勉強しているので、学科があるから勉強しているのではない。後者のような本末転倒に慣れてしまっていた人間の蒙を啓かせてくれる。
だが、弁論大会は、大学なり学校なりの教育機関で習っていることが参加資格となっているので、それが問題となるケースが出てくる。学習機関本位というのは、弁論大会はだいたいそうである。旧ソ連の場合、はじめから大学生のための弁論大会という設定にされているので、そのあたりの問題は少ない。だが、日本語が必修でなく、選択科目であったり、希望者のみである機関が多数(バンガロールの場合すべて)である地域では、この規定は遵守しにくい。学校で勉強したが今は通っていないとか、個人的に習っているとか、学習の様態がさまざまなのだ。けれども、弁論大会には所属がないと参加できない。いかにも日本人的な規定だが、実情に合わない。学び方がどうであれ、スピーチしたい人は誰でもスピーチできるのが弁論大会の望ましい姿なのに。
インドでもバンガロールというところは、ここ数年で急激に膨張した大都市で、「インドのシリコンバレー」などとも言われる躍進ITインドの象徴のような町だ(それにしては汚いが、そのへんは「インドの」という修飾語に含意されているのだろう)。町の人口の6割が25歳以下の若者で占められるというが、それほどに人口流入がすさまじく、ほかの町で日本語を習った連中もわんさと流入してくる。教室を見ると、隣のタミルナードゥ州・マハラシュトラ州から来た者が多いけれど、そのはるかに遠い距離を考えれば、ちらほら見かけるアッサム地方出身者にも驚く。学習時間の計算は、ひとつの機関でずっと習っていればすぐわかるけれども、累計積算しなければならない者がほとんどなのだから、はっきりした数字が出るわけがない。
弁論大会には年齢制限というのもあって、ジュニアもシニアも18歳から35歳まででなければならない。以前はなかったそうだが、これが導入されて、年齢によって門前払いされる参加希望者が出てきた。人生経験が長いほど、おもしろい話の種ももっていて有利になるわけだから、若年層を守るという意味はあるのだろうが、ここなど元来学習者の年齢層が高いのだから、その点では大いに困る。
一言で言えば、この弁論大会の参加資格は現実に合っていないのである。少なくとも、バンガロールの現実に。 机上の規定に齟齬をきたさせているこの現実も、これはこれであるべきひとつの姿だと思う。バンガロールの場合、大学に日本語専攻を設ける必要は全然ない。中心部のここシティキャンパスには社会人が通い、遠いメインキャンパスから通う学生はほとんどいない。だから必要なのは、市中心部から距離のある大学のメインキャンパスに、学生たちを主対象としたオープンコースを開くことだ。


学習者は、工学を専攻した者が多く、文系では商学経営学が少しいるだけ。女性を含め、ほとんどが理工系の卒業生である(というか、女性のほうがもっと理工系比率が高い)。これには驚嘆する。だいたい語学を勉強するのは女性が圧倒的に多いものだが、ここでは男のほうが過半数だし。ロシアなんかの場合、語学を専攻する学生は理数科目がむちゃくちゃ弱くて、足し算引き算もまともにできない。それはそれで、平均的にいろいろなことがある程度できる日本人学生と比べ、ある面で非常にすぐれ、他面では目も当てられないなんて際立った特徴を示していておもしろいのだが、計算に関わる仕事を任せられないので困る。そんな学習者がいないのも当地の大きな特徴である。


ただ、漢字はあまりできない。作文も、特に習わないせいか、トルコやロシアに比べて弱い。これは日本語専攻でないことのひとつの結果だろう。
発音は悪くない。ロシア人よりウズベク人やトルコ人のほうが発音がいいが、インド人もそれ並みだと思う。


多様性の花に包まれて、ちょっと困りつつも(よそで使い慣れたノウハウが使えないので)、それなりに楽しい生活を送っているが、しかし楽というわけではない。まあ、後者の不足は前者で補いましょう。