弁論大会の両極

いろいろな国で日本語弁論大会に関わってきて、知識も経験もそれなりにあるつもりでいたが、なにごとにせよ奥は深い。今年になって弁論大会の両極端を4か月のスパンで体験した。


トルコにいたときの教え子で当時留学中だった学生が参加したので、「第54回外国人による日本語弁論大会」を北九州に見に行った。
司会者(日本語の達者なイラン人。たぶんプロだ)が饒舌に切り回し、なめらかに進行させていく。
質問はない。昔からそうなのかは知らないが、この大会はそうだった。
弁論大会の参加資格というのは問題になる項目であって、学生の大会である場合も、どんな学校の学生ならいいかとか、年齢制限とか、いろいろうるさい。この大会では、日本に住む外国人という以外の資格はいらない。日系ブラジル人の参加者は、家でも日本語を話しているそうだったから、母語話者である。でも参加できる。そういうのは制限していいんじゃないかとも思うが、参加資格が簡潔なのはすがすがしい。
12人が登壇するが、応募者はその10倍、120人だったそうだ。応募者は原稿に加えてスピーチのビデオも送る。それによって事前審査が行なわれる。10倍の応募者がいれば、一定レベル以下のを振り落としたあとでも、よりどりみどりであろう。セレクションにあたっては、おそらくスピーチ自体のよさ以外のさまざまなファクターがからんでいると思われる。地域(出身地・居住地)バランスとか、年齢や職業のバランスとか。年齢のほうは最年長で40代のようだが、居住地のほうは北海道から沖縄まで、まんべんなく広がっていた。年齢も職業も制限されていないのだから、さまざまな分野から参加者があったほうが望ましいのはたしかだ。しかしそのことは学生には不利になる。学生は若くて人生経験に乏しいから。
もし応募者が日本在住外国人の出身国に比例しているのなら(きっとある程度は比例しているだろう)、中国・韓国で半数以上だったはずだが、中国・台湾・韓国の参加者はそれぞれ1人ずつだった。在留外国人の第3位で10パーセントを占めるフィリピンの参加者はいなかった。中国人韓国人の応募者のレベルが特に低いわけではなかろうが、中韓大会になってもつまらないし、応募状況をことさら反映しなくても特に異議はない。応募者が多かったと思われる東京大阪近辺の者ばかりではつまらないのと同じで。地元居住者のスピーチはぜひほしいし。しかし、そのただ1人の中国人弁士がチベット系だったのを見れば、漢人は「友好国」の台湾人だけだということだ。尖閣問題で対立している昨今、なかば意図的に大陸漢族が除けられたと勘ぐられてもしかたがないように思うのは筆者だけか。日本人は(特に役人は)そういういやらしいことをやりそうなんだよね。違っていたら謝るが、東電の発表と同じで、内輪な体質から今ひとつ信用が置けないのである。
インドネシア人の介護士で国家試験に合格した人がスピーチしていた。これなどまさに国策にかなっている。もちろんそういうがんばった人の経験は聞きたい。性格のよさそうな若者だった。しかし国の政策の側面援護であるのもたしかだ。
聴衆の反応もよくて、上述介護士が「試験に合格しました!」と言ったら盛大な拍手が起きたり、弁士がスピーチを忘れ立ち往生したら拍手とかけ声で励ましたり、笑いをねらったところでは注文どおり愉快そうに笑ったりと、話されるスピーチを楽しむという点で一貫していた。
テレビでも放送されるので、弁士には民族衣装を着てくるように要請されてもいた。コンテストだからもちろん審査され表彰されるが、それが眼目ではないのは明らかだ。


一方で、「河南省第四届大学生日語演講大賽」である。こちらも非常におもしろかった。その感想は、慄然、という形容がふさわしかったかもしれない。
河南省で日本語を教えている19大学から2名ずつ、計38名が参加した。スピーチのテーマは与えられている。あらかじめ出題のふたつ(私の夢/身のまわりの美しい人・こと)のうちから選ぶ。スピーチに際し、氏名・大学名を言わない。プログラムにも書いてない。
時間制限(2分30秒より短くても、3分15秒より長くてもいけない)はどこでもあるが、ここでは制限時間を超えると強制終了となる。実際に2人そうなった。経過時間が背景に大きく映し出され、聴衆は計時を見ながらスピーチを聞くことになる。
質問はない。そのかわり、午後に2分間の「即席スピーチ」が行なわれる。5分前に出題される。題はふたつ(インターネットの功罪/失敗から学んだこと)で、それを各自5分前にくじ引きで決める。制限時間があること午前の部のとおりである。大会は朝9時に始まって一日がかりと聞いて、何でそんなに長いのか不審に思っていたが、これなら午後もたっぷり時間がかかる。
得点は逐次会場に発表される。これにも非常に驚いた。スピーチする弁士を「選手」と呼んでいた。これにももちろん驚いた。
審査員は中国人のみだった。日本人はおそらくほとんど関与していない。
要するに、「公開口頭試験」である。あるいは「オーディション」というか。スピーチコンテストとは言い条、スピーチだけで順位をつけるわけにはいかない。スピーチの原稿は教師が書いてやることもできるので、学生はそれを暗誦しただけかもしれないから。学生の地の日本語力を見るために質問を行なうのだが、個別の質問だと難易度にばらつきが出て、公平さに欠けるところがどうしてもある。だから、即興スピーチでやったらどうかという案が日本語教師の間で出ることもあるのだが、それは無理だということで沙汰やみになる。ところが中国ではそれを平気でやっている。驚かずにはいられない。
科挙か、と思った。この国には長い長い科挙の伝統がある。そこまでしなくても、と日本人なら思うが、この国ではそこまでしても、教師にも、そして学生にも違和感などないのだろう。
中国のほかの弁論大会は知らないが、少なくとも河南省の大会はこうだった。この大会は、任地に夜到着して、その翌日にあった。洗礼を受けた感じである。ここは今までの国とは違うぞ。世界は広いのであって、その広さを保障するのは中国とインドだ。


筆者は宮脇俊三氏の鉄道紀行を愛読する者である。氏の場合の鉄道のように、一点基軸になるものをもっての外国観察はおもしろい。一種の定点観測である。それでいけば、弁論大会という定点からもいろいろなことが見えそうだ。