Do it yourself

弁論大会を作ってみよう。それは意外に簡単だ。場所があり、弁士と審査員がいればいい。そのほかにいるものは、あなたの時間と熱意。そして少々のポケットマネー。
場所はある。学校には講堂とか会議室があるから、それを借りればいいだけだ。
弁士はもとよりいるはず。いるからこそしようとしているわけで。学生のほうで乗り気でなければ、あなたのほうでもわざわざ何もないところへ人々を結集しようと企てる(平地に乱を起こす?)はずもあるまい。
審査員の確保がこの中ではいちばんむずかしい。第三者的な日本人や日本語が非常によくできる現地人が一定数以上いなければならず(最低3人はほしい)、その人たちに特定の日に集まってもらわなければならないのだが、微力な個人が21世紀にもなって第1回大会を始めようとするような土地には、日本人など非常に少ないだろう。この困難はしかし乗り越えなければならない。でないと大会開催はおぼつかない。
質問の作成というのもむずかしいことのひとつだ。スピーチのあとに質問をするのだが、学生たちの指導に当たっているわけだから、あなたが質問するわけにはいかない。質問は、難易度に差がでないように、その場で考えるのでなく、あらかじめ原稿にもとづいて作っておかねばならない。その際、日本語教師でない人だととんでもなくむずかしい質問をしたりするので、経験のある日本語教師に頼みたいところである。さいわい今はEメールというものがあるので、遠方の知人の教師にお願いするという手が使える。
賞状も、ワープロ・パソコンができて便利になった。これで作れる。賞状用紙は100円ショップで売っているし。
賞品の心配もある。学校が提供してくれるのがいちばんいいのだが、うまくスポンサーが見つからなかったら、私物の提供かポケットマネーで何かを買って、ということになる。上位大会の出場権が与えられる(つまり上位大会の予選になっている)場合は、ほんのおしるし程度でよかろう。
審査員確保や質問作成よりむずかしいのは、実は継続である。あえてこんなものを始めようというくらい熱心なのだから、あなたがいる間は続けられるだろう。だがいなくなったあとは? 慣性の法則はいろんなところで働いているもので、何事も最初に動かすのがむずかしく、一度動き出せば2回目以降はさほど労力はいらないはずだが、しかしこういうものをやりつづけるのにもエネルギーが必要だ。ダイナモとなる人がどうしてもいる。それに恵まれない場合、第1回だけで立ち消えになってしまう恐れはけっこうある。だが、それは他日の問題だ。あなたが興した家業を息子が継がなくても、それでも事業を興すのはいいことだ。


トルコでは、11月のアンカラ大会と3月のイスタンブール大会の2回の弁論大会があり、それぞれA(初級)・B(中上級)の2カテゴリーに分かれている。トルコのすごいところは、この2大会のA・B両カテゴリーとも1等賞品が日本旅行であること。つまり毎年4人の優勝者が日本へ行く。なんとも太っ腹だ。ウズベキスタンのように、まず学内予選、それからウズベキスタン大会、中央アジア大会があって、それを経てやっとたどりついたモスクワの全CIS諸国の大会で優勝か準優勝してはじめて東京行きのチケットがもらえるという国から見ると、非常に恵まれている(日本への航空券でこそなけれ、国内大会・中央アジア大会ともにまずまずの賞品はあるけれども)。
アンカライスタンブールの2大会があると聞くと、ではアンカラ大会はアンカラの大使館管轄区域、イスタンブール大会はイスタンブール総領事館の管轄区域の大会なのか、あるいは首都アンカラが全国大会で、イスタンブール大会は総領事館区域だけの地方大会なのかと考えるが、両方とも同等の全国大会である。イスタンブール大会にはアンカラからは参加が少なく、アンカラ大会にはイスタンブールからはほとんど参加しないという一種の棲み分けはあるようだが、他の地域からはどちらにも堂々と参加している。アンカラ大会にはスピーチをテーマが与えられるのに対し、イスタンブール大会はテーマが自由(今年はトルコにおける日本年ということで課題が与えられていたが)というのがいちばんの違いだ。アンカラはより学習の一環という色合いが強く、イスタンブールは学生以外の参加もあって聞いてたくみなスピーチが多い、という色分けはたしかにある。
スピーチのあとに出される質問は、アンカラは3問ほど。イスタンブールもそのくらいだったが、今年は5問になった。質問が多ければ多いほど、発表者の日本語力があわらになる。これからも5つの質問を課すならば、それはイスタンブール大会の大きな特徴となるだろう。これはこれでおもしろい。質問を考える人はたいへんだけども。


CIS諸国の場合、諸事そのトップに君臨するモスクワ大会にならっているので、スピーチの時間(5分)や出場資格などはほとんどどこでも同じだ。トルコの大会では、たとえばスピーチ時間が3分なのは大きな違いではないけれど、告知から申し込み締め切りまでの流れ、それから参加資格についてはかなり違った。
アンカラは告知から大会までが短すぎる上に、出場者が確定するのが大会1週間前。練習時間が足りない。イスタンブールは逆に、時間は十分あるものの、告示日が大学の試験期間中で、申し込み締め切りは試験のあとの休暇中に当たり、地元の学生以外は帰省していて影も形もない。選ったかのように学生に都合の悪い日取りとなっている。
参加資格では、Aで6か月、Bで1年までの日本滞在が許されている。CISでは90日未満なのに比べると、あまりにもゆるすぎる。留学経験者が日本語が達者なのはわかりきったことで、その連中と同じスタートラインに並べられては、結果がどうなるかは初めから明らかだと思うのだが。日本に行ったことのある学生がその経験を生かして優勝し、賞品の航空券でまた日本に行く。金持ちがますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になるという図ではなかろうか。
スピーチを聞く側からすれば、日本語がうまく見聞広く、経験豊かな者の話のほうがおもしろいに決まっている。国外に出たこともなく学校でぼそぼそ習った不十分な日本語で、乏しい経験の中からたどたどしい話をされるより、聞き手にとってはむろん前者のほうが楽しい。わが国にはこんなに日本語が上手な者がいますよというデモンストレーションとしても、そのほうがいいだろう。弁論大会を教育の一環と考える立場からはそれは決して好ましくないのだけども。
トルコ国籍以外の者が参加できないのは、二国間関係上の催しである以上やむをえないが、残念なことのひとつである。だから、外国籍の参加希望者がいた場合、コンペ外の参加となる。
参加希望者の数は年によってちがうらしい。全体としても、それぞれの機関においても、年によって参加希望者は増えたり減ったりする。だから機関ごとに人数を割りふる(機関ごとの参加者枠を設ける)というやり方はできない。参加希望者が定員を上回ったら一次審査で振るい落とすという方法である。ただ困るのは、それが作文審査であること。スピーチと作文はまったく別物なので、そういう選別をされるのはよろしくないのだが。
(実はエルジェス大学でもイスタンブール大会に出場する学生を作文で選んだ。学内弁論大会を開いて選びたかったのだが、日程上それができなかったためである。)
しかし、希望者が定員に満たない年もあるなどと聞くと、恵まれた国だなと思う。中央アジアで優勝賞品が日本旅行だったりしたら、応募者が殺到して収拾がつかなくなるはず。世の中はどうしても不平等にできている。
トルコの弁論大会の最大の問題点は、教師会が関与しないことだ。教師は学生のことを第一に考えるもの。それに欠けている両大会とも、学生本位であるとはとても言えない。


「第1回エルジェス大学日本語弁論大会」は、こんなふうだった。
エルジェス大学の学生なら、国籍を問わず誰でも参加できる。国籍条項はない。逆に、留学経験があってもスピーチしたければしていいが、ただしコンペ外のエキシビション参加となる。
司会は学生がする。発表順は学生がみずからくじをひいて決める。
審査休憩中に、舞台でアトラクションをする。今回は箸で豆をつまんで皿から皿へ移す競争や早口ことばの競争をやってみた。これが歌や踊りであってもいいだろう。スピーチはしたくないが、ほかのことでなら日本文化学習の成果を見せたいという学生はいるはずで、彼らのための場があっていい。
もし教師会が弁論大会に関わるのならこういう大会を提案したいというものを、とりあえずやってみた。だが、何のことはない、これって中央アジアでやっていたものじゃないか。「世界中央アジア化計画」か?


ところ変われば、は真理である。日本人が多く住んでいたり、大勢やってきたり、日本へ行くチャンスが数多くあったり、町により大学により事情はさまざまだ。しかしわがエルジェス大学は、日本語を話す機会に絶対的に恵まれていない。百万都市カイセリに日本人は2人だけ。その2人とも大学教師。もし平日9時ごろ文理学部棟1階南側に爆弾が投げ込まれたら、カイセリの日本人は絶滅してしまう。こんな「日本ひでり」のエルジェス大生にとって、7人ばかりの日本人と2、3時間ほど話をすることさえ忘れられない経験だ。そのことを学生がイスタンブール大会で次のようにスピーチしている。日本で日本語に磨きをかけるのも勉強、伝手をたどって日本人を探し出し、バスを乗り継いで会いに出かけるのも勉強。後者の背丈は前者より低いが、それは彼女の罪ではありません。


<海をこえた愛/オズレム・ナズル・ギュルセス>
子供のころから結婚している人が気になって、よく結婚式を見に行っていました。結婚はとても大切なことですから、その日についてもいろいろ考えます。どんな服を着たらいいだろうかとか。婚礼はすべて自分で計画して、自分らしくしたいです。でも、これまで私の考えていたのはトルコ人との結婚でした。カッパドキアへ行ってトルコ人と結婚した日本人と会ってから、ちょっと意見が変わって、もしかしたら外国人と結婚するかもしれません。そして、自分の国以外に住むのはどうだろうかと考えます。そう思うようになったのは、つぎのできごとからです。
私たちの大学には、毎年発行される「あのね」という新聞があります。今年の「あのね新聞」のために、カッパドキアに住んでいるトルコ人と結婚した日本人の暮らしについて記事を書くことになりました。それで彼女たちにインタビューをしました。あんなにたくさんの日本人と一度に会って話をしたのははじめてでした。今までこんな機会はありませんでしたから、とても貴重で楽しかったです。
ギョレメの野外博物館を見物したあとで、約束の場所へ行って日本人と会いました。自己紹介をしてから、二つのグループに分かれてインタビューをはじめました。日本人は7人で、2人の子供と3人の赤ちゃんがいっしょでした。私がインタビューする間も、小さい子供が後ろで遊んでいたり、そばで他のグループの友達がインタビューする声が聞こえたり、話を聞いている女性の赤ん坊が私の髪を引っぱったり、耳をいじったりしていました。カフェの中はずっと日本語が話されていて、おもしろい経験でした。外国人から見たトルコの習慣や生活やトルコ人の性格についてさまざまなことを教えてもらいました。最初はうまく話すことができるかどうかちょっと心配だったんですが、話しているうちに日本語の中に深く入っていきました。
いちばん驚いたのは、この女性たちの目的はトルコを旅行することだけだったのに、結婚して住むことになってしまったんです。日本からとても遠くて、慣習も暮らし方も食べ物も全然違う国に住むことに決めるためには、大きな愛がなければなりませんね。どうして日本人でなくてトルコ人と結婚しましたかと聞いたら、好きになった人がたまたまトルコ人だったんです。運命でしょうかと答えました。しかしトルコに慣れるのは難しかったそうです。でも日本に帰って住むことは考えていません。日本の家族と1年に1回ぐらいしか会わずに、新しい環境の中で子供を育てるというのはどんなものなのでしょうか。日本人が共通して言ったことは、トルコ人の優しさと人間関係の強さ、困った時すぐ助けてくれることです。しかし、家族は結婚に反対でした。でも、結局は愛が勝ちました。
世界は大きくて、トルコと日本は遠いです。連絡は難しくて、民族や習慣が違いますが、すべてを一つに結ぶのは「愛」です。いつ、どこで、どんな時に愛に出会うのかは人生のミステリーです。だから、私の愛も海をこえるかもしれません。