さくらさんはどんな歌をうたうのか

寅さん映画で、寅さんが夜遅く酔っ払った飲み友達をとらやに連れてきて、さくらに何か歌えと命じる場面があった。強いられてさくらは学校唱歌を歌った。それを妙によく覚えている。寅さんはそのあといたく反省する(「あとで反省しなければならないようなことするな!」という先生の叱責を受けたあとで、しょうこりもなく同じことをくりかえす子どもが大きくなっただけのわれわれは、やや誇張されたおのれの肖像をいつも彼の中に見出す)。
その映画を見て何年もたってから、はたと、われらのさくらには学校唱歌しかうたうべき歌がなかったのだということに考え至った。
江戸時代なら、彼女は民謡を歌っていただろう。その頃はもちろん、今言うところの「民謡」は「民謡」という名ではなく、ただ「うた」であった。今の日本酒がただ「酒」であったように。だが、昭和のさくらは民謡なんか歌わない。昭和の時代、庶民が歌うのは歌謡曲である。しかしこの歌謡曲に、ふつうの女性、さくらのような女性がうたえる歌はどれだけあったか。世の中には男と女しかいない関係上、歌謡曲にも男とともに女は無数に現われるが、そこに登場する女の大半は、特殊な女たちである。水商売か、待つ女耐える女か、そんなものだ。
謡曲はいわば雑種犬のようなものだが、それでも日本の歌謡の正統な後継者である。その歌謡曲のズブズブの玄人たちは、さくらのような女たちをあまり気にかけず、玄人女を歌っていた。歌声喫茶が隆盛したのは必然だった。素人の女、ふつうの女が歌うのは、唱歌でなければ洋楽、西洋歌曲ということになる。女を制する者は人類を制す。女たちが子どもを育てるのだから。日本音楽が西洋音楽の軍門に下ったのには、その何割かはバーに通いまくっていた作詞家作曲家の男どもに責めがある。
そう考えると、松任谷由美中島みゆきの登場は、必然でもあり画期的でもあっただろう。「玄人」どもの手を借りず、女性が必要とする歌を女性が作ったという意味で。


さくらが直面したのはまた、「共通言語」の問題でもある。人のためにうたう歌ならば、相手も(この場合観客も)それを知っていなければならない。世代や性別、境遇を越えて共有されている歌は日本にあるのか、というかなり重要な問いがとわれてもいるのだ。彼女の答えは(そして時を経た現在のわれわれが出す答えもまた)、学校唱歌。それしかないのだ、日本には。近代以前なら、これも「民謡」で解決できた問題だが。


民謡といえば、トルコに「ゲシの葡萄畑」というのがある。カイセリの民謡だそうだ。学生に教えてもらったのだが、みんな知っていたから、けっこう有名な歌だろう。やっと歌えるようになって口ずさんでいたら、あるカイセリ出身の学生が、この歌の主人公は祖父の知り合いだと言ったので驚いた。そんなに新しい歌なのか。「民謡」なんだが。
小島剛氏の「トルコのもう一つの顔」に、年若い妻を残して兵役に出立する男を歌った「ドゥエドゥエ」というクルド(ザザ)民謡が紹介されているが、これも作詞作曲者存命の歌である。そういうものは「民謡」じゃないんじゃないかと思ってしまうが、それは日本人の気の迷いで、これらは立派な「民謡」なのである。社会の多数の成員から「われらの歌」と認められる歌が「民謡」なのだ。それは今も現役で生産中である。世界に対するある態度と感性の様式をもち、あるメロディーパターンの集積の中からそのひとつの変奏をくりだすもので、社会の成員の大部分に共有される。古くさく決まりきった進歩のないものという「民謡」に対する固定観念はよろしく捨て去らねばならない。
今も発展生成する「民謡」は、たとえば沖縄で見ることができよう。日本に沖縄があるのは日本人の幸福で(沖縄人にとってはどうか知らないが)、沖縄こそが「世界標準」で、日本は特殊だと思い知らねばならない。三線がひける者が近所に必ずいて、歌がはじまると全島民が踊りだす。歌も踊りも、先生について習うものではない。われわれの折り紙のように、家族や近所の人びと、年かさの子どもから知らず知らず習い覚えるものだ。人間とは自分たちの作ったうたで歌い踊る動物である。それを沖縄で、トルコで、ウズベキスタンで、知らされた。


歌声喫茶というのは、なくなったあとから見れば不思議なムーブメントである。歌への希求が満たされない状況における若者のDo it yourself運動と見るべきだろう。これも実に素人っぽい活動だが、そのあとにもっと大きな「素人たちの反逆」があった。歌いたい歌を自分で作ってしまう若者たちである。それは日本で「フォークソング」と呼ばれるのだが、「フォークソング」は英語で「民謡」じゃないか。個性を唱えたがり、自分たちの周囲にしか顔を向けてなくて、出来もきわめて稚拙なあんな作りものが、なんで「folk song」なのかと思っていたが、トルコで今も生きている「民謡」を見たあとでは、意見が変わった。「民謡」の正しい姿に即して見れば、実は「フォークソング」はむしろふさわしい名前だったのかもしれない。享受する世代こそ限定されるが、その世代の中では誰もがうたえる、自分たちによる自分たちのための歌だったのだから。


民衆が出す答えは、いつも正しいとは限らないが、いつもその中に聞くべき多くのものを含んでいる。個人的には、フォークはきらいで民謡・唱歌が好きだけど。歌謡曲もきらいじゃないです。