フクシマをもっと人災にするのか

「管おろし」だそうである。だが、彼ではどうしてだめなのか、よくわからない。むろん、あの人が宰相の器だとは思えないし、ましてこんな時の総理にふさわしいとは毫も思わない。しかし、彼以前の首相や次の首相候補に名前の挙がる人の顔を思い浮かべて、彼らだったらよかったと言えるのか? 彼よりましな人もいるだろうし、だめな人もいるだろう。だがそれは、上にしろ下にしろ五十歩の違いでしかない。
国民のレベル以上の首相を持てると思ったら大まちがいだ。彼が悪いのは、われわれが悪いからだ。彼が無能だとしたら、われわれが無能だからだ。首相を取り替えたらよくなるなんてことはない。よくなるかもしれない。五十歩ほどなら。もっと悪くなるかもしれない。それも五十歩だけど。
一管の問題ではない。「日本というシステム」の問題なのだ。
震災のあとに起きたあのJR北海道のトンネル火災事故を見ればいい。車掌や運転士が適切な処置が取れず、乗客が自主判断で脱出した。あの事故対応も、彼が首相だったからか? そうではあるまい。あのような対応しかできない国民の代表であるにすぎないのだ。


どうも現首相は、人望がなく人徳がない人らしい。その点ではもっとある人はたくさんいるだろうだが、問題はそこなのか? 野党といっしょになって不信任案を通そうとした人物も人徳のない人ではなかったか。連立が組めるはずのない両者が手を結ぶのは、野合以外の何物でもない(政治史はおおかた野合史ではあるけれど)。そしてその野党第一党たるや、原発事故へいたる道を準備した「A級戦犯」ではないか。現政権も「戦犯」だが、「BC級」だと思うよ。
浜岡原発の停止は「超法規的措置」で、手続きをすっとばすことのできる彼のような(見方によっては「能天気な」と評されそうな)人間でなければできなかった。手続きどおりにやれば、結論はわかっている。「安全性に問題はない」という答申が出て終わりである(いま原発再開へ向けて経済産業省がやっているように。つまり、この問題に関してはみごとなくらいダブルスタンダードだ)。
日本では、根回しをしないことやアポなし行動はとんでもない「犯罪行為」であるらしい。根回しをしてシャンシャン大会を行なうのが日本人の組織運営の理想である。表では建前のみが言い立てられ、すべては裏で決められる。裏で万事仕切れる者が、「デキる奴」と言われる。そして根回しをするというのは、その段階で骨抜きにされるということだ。
これがどんなに「日本的」であるかは、ここに挙げたことばがすべてよそよそしくきれいぶった「漢語」や「カタカナ語」でなく、生々しく手ざわりたしかな「和語」であることからもわかる。根回し、建前、本音、骨抜き、足して二で割る、花道、シャンシャン大会…。「大会」だけが漢語。「談合」は字音語だが、和語と言ってよかろう。
首相は、まわりに相談せず思いつきを口に出してしまう人でもあるようだ。仮設住宅建設が用地確保がむずかしくて難航しているが、「盆までに完成させる」などと裏づけのない希望にすぎないことを国会で言ってしまったり、太陽光発電パネル設置の目標を、担当大臣にはからずサミットで宣言してみたり。
しかし一方で、日本の官僚機構は、最大多数に支持され、実現には困難があるが、がんばればぎりぎり可能だという目標を与えられたとき、最大の力を発揮する。その特性を考えれば、その機構にとっては適切な目標設定だと言えるのではないか。そこまでの深謀があってのことではなかろうとも。
あの人は、「最悪の事態になった時には東日本がつぶれることも想定しなければならない」とか、「原発周辺には10年20年は人が住めない」などと発言していたらしい。公的には否定されたけれども、それは実に正しい認識であり、危機感である。それが評論家的なものにとどまっていることは責められるべきだが、その認識自体は全国民で共有しなければならない。「希望」にすぎないことが「事実」とされ「根拠」とされるリアリズムの欠如(大本営体質)がこの原発事故の根幹なのだから、これらの「リアル」な認識は否定されなくていい。むろん一方で、「希望」を語るのが政治家の聖なる職務であるけれども。


今回は「国難」級の災害だったので、1300キロ離れた島根県社会福祉協議会がボランティア隊を組織して送り出した。それは非常にすばらしく、県社協として初めての試みに尽力された人々に敬意を表するけれども、この善意の行ないにも「日本的体質」の地がそこここに顔を出していた。
出発前にオリエンテーションと出発式があった。公費をつぎ込んで派遣するのだから、出発式ぐらいあっていい。だが驚いたのは、「オリエンテーション」というのがセレモニーの式次第の説明のみだったことだ。日程や注意事項の説明はひとつもなくて。
活動は2日と半日。3日目は1時までで、そのあと風呂を浴びる。そして入浴後1時間も休憩があるのだ。そんな時間はもてあますだけで、それくらいならもう1時間活動すればいい。でなければ出発を早めるか、どちらかだろう。昼食時間を取ることと、松江帰着時間とのかねあい(むろんそこではまたセレモニーが待っている)で、このようなスケジュールになったようだ。初めは、活動日は3日だったのだが、それだと予定通りに帰り着くためには急がねばならなくて、事故を起こしかけたそうだから、こう修正されたらしい。もちろん事故を起こしてはいけないが、その事態を受けて変更すべきはそっちなのか? スケジュールが優先されたのだけども、優先すべきことはそれではないはずだ。順位がいささかおかしい。
原発は安全だから避難訓練をしなくていい、1時間以上電源が失われることはないから想定しなくていい。原発を取り巻いていたこのような判断放棄の形式的で空虚な考え方や、「空気を読む」と称する同調強制が、あの事故を起こした。初動の誤りを含め、フクシマは天災4分、人災6分である。形式を整え、セレモニーを催してばかりいた人たちが、事故の責めを負わねばならない。宮城県は自然災害だから、式次第やスケジュールを優先させたがる人たちも支援に行っていい。だが、原発事故の福島県には支援に行く資格がない、ということだ(ま、福島県民もほとんどはこんな「日本システム」を支持してきた人たちなんだけど)。


この震災の教訓は、このような行動様式・思考様式自体を変えなければならないということであるはずだ。その方向を見据えれば、今の首相のほうが見込みがあって、それを引きずり降ろそうとする勢力には期待がもてない。
現首相を支持するのではない。非常時にあってはならぬ罪深い無能さを示したことは事実だ。言いたいのは、彼以外の人ならうまくやれた、今からでもうまくやれる、と考えるのは、幻想に近いということだ。震災を政争の具にするな。ただでさえ人災のフクシマが、もっと人災になる。
政治家は人事が大好きだ。それは日本人が人事が大好きだということの正確な反映だが。人事問題になるとはしゃぎだす政治家どもの醜態は、原発事故以上にみじめだ。そのみじめさもまた、われわれのみじめさの反映なのである。
この時期に首相を替えるというのは、要するに不人気な現首相に責任、それまでの政治全体が引き受けなければならない責任をすべて押しつけて、これまでの罪悪をしれっと忘れて今までと同じことをしようとする悪辣な陰謀のように見えるのだが、違うだろうか?
変えなければならないのは首相ではなく、そんな政治家どもの性根であり、彼らよりましではあるにしても(と信じたい)、われわれ自身の性根である。


「石陽消息」らしからぬ話題だが、「国難」だから仕方がないか。おかしいことをおかしいと言って通じなかったのが震災前。震災後には、おかしいことをおかしいと言って通じるようにしなければならない。