日本語文法ひとり合点

 「造化の妙」ということばがある。自然界のもろもろを眺めていると、それがあまりに精巧で調和あるさまにできていることに感動せずにはおれないだろう。自然界だけでなくそれは人界にもあり、文法などがまさにそれだ。体系的で規則的で整然としていて、美しい。誰かが意図的に作り上げたのでなく、人びとが何百年何千年も使っているうちにたくまず結ばれていった美しい結晶体に感嘆讃嘆することこそ、文法を知る喜びである。

 外国人に日本語を教える仕事をしているうちに、いろいろ文法の本を読んだり、経験からああだろうかこうだろうかと考えたりもしてきた。そのいくつかを書き上げてみることにしよう。だが、以下述べることはあくまでさまざまな文法トピックについての便宜的な説明で、こう考えたらわかりやすいだろうという提案である。厳密さは求めていない。

 

<論理的>

 日本語というのは非常に文法的だと思う。昔は日本語は論理的でないという非難をよく聞かされたものだが、それは欧米をもって世界を見ようとする視野の狭い人たちの早のみこみにすぎない。そもそも、すべての言語は論理的である。論理的でなければ言語による意思疎通ができるわけがない。ただ、それぞれの言語にはそれ独自の論理があり、それが印欧語の論理と異なっているだけの話だ。その中でも特に日本語は論理的だと思うのにはひいき目もあるだろうが、少なくとも非常に「文法的」であるのはたしかだ。

 品詞の別がかなり厳密である。「あお」は名詞で、「あおい」が形容詞というように。英語の「stop」が自動詞でも他動詞でも名詞でもあるのに対し、日本語では、自動詞は「とまる」、他動詞は「とめる」、名詞は「停止」のほか「止め」「止まり」がある(一般に複合語で「通行止め」「行き止まり」などの形で使われるが、「泊」なら「泊まる」「泊める」「泊まり」と自動詞・他動詞・名詞できれいに形が異なる)といったふうだ。一方で、その厳密さは外国人学習者にとって困難ともなる。接続の形が品詞によって違ってくるので。たとえば「ようだ」の前で、動詞「気分をよくしている」・形容詞「機嫌がいい」・いわゆる形容動詞(ナ形容詞)「ご機嫌」・名詞「いい気分」+「ようだ」となるように。

 格関係はいちいち助詞で示される。英語はそれを前置詞で示すのだが、主格・対格は前置詞なしに位置だけで示されるのと比べるといい。「Big fish eat small fish」「Small fish eat big fish」はまったく逆の意味だが、「大きな魚が小さな魚を食う」「小さな魚を大きな魚が食う」は視点は違えど同じ意味で、何が何を食うのかは助詞「が」「を」でわかる(もっとも、話しことばや日常使いでは「が」「を」「に」などが省略されることは多い。「雨降って地固まる」「蓼食う虫も好き好き」、あるいは「おれ、そこ行かなかった」などのように)。

 

<省略>

 日本語が論理的でない例としてしばしばあげられるのが、いわゆるウナギ文(「ぼくはウナギだ」)だ。しかし、これを「I am an eel」と解すればこそ非論理的な文となろうが、もちろんそんな意味ではなく、食堂でメニューを見ながら「君は何にする?」の答えとして発せられているのであり、それへの応答なら誤解の余地なく明瞭な文だ。そういうコンテクストから切り離して持ち出すのはアンフェアである。自己紹介のときこれが発せられたのなら別だが。自己紹介でも、「吾輩は猫である」と宣言する漱石の猫や、あるいは「わたしはカモメ」のような比喩ならきわめて論理的である。

 要するに、わかっていることは省略するのが日本語の要諦で、「みなまで言うな」、自明なことは略せば略すほど日本語らしくなり、果ては十七文字の俳句にも至るわけで、ほとんど美学の領域になる。反面、文脈依存度がきわめて高くなるというこの言語の大きな特徴は、欠点とも言える。よくわかりあっている間では、「どう?」「いい。いったから」「ああ、あったね」などという暗号めいた会話が成り立つ。「(体の調子は)どう?」「いい。(きのう医者に)行ったから」「ああ、(きのう医者に行く途中で)会ったね」ということか、あるいは「(彼との仲は)どう?」「(もうどうでも)いい。(彼に自分の本当の気持ちを)言ったから」「ああ、(近く彼に言うつもりだという話が)あったね」かもしれないが、つまりは、第三者には理解不能でも、文脈を踏まえている当人たちはこれだけで十分わかり合っているのである。

 夫が「えーと、あれ、あれ…」とつぶやいているのを聞いた妻が、隣室から「あれならあそこよ」と指さすことなく教え、「あ、あそこか」と気づく、なんてことも珍しくないが、こちらは言語学的(省略)でなく社会学的現象(共有情報の多さ)であろう。

(省略について、自己紹介で「初めまして。田中です」と言うときの「田中です」は「私は田中です」の「私は」が省略されたものではない、という指摘がある。たしかに、ほかの人と対比的に言うのでなければ、実際こんなとき「私は田中です」とはまず言わない。だが、それが踏まえている文として「私は田中です」が裏にある、つまり隠れているわけだから、やはりこれは「私は」の省略と考える。)

 

 省略のことを言うついでに、完形・略形というものがあることにも触れておく。「Thank you」は「ありがとう」ではない、ということだ。「ありがとう」と「ありがとうございます」なのである。「ありがとうございます」が完形、「ありがとう」は「ございます」を略した略形なのである。略形は同輩や目下に対して言われ、目上には完形を用いるべきである。ヒラが「ありがとう、社長」と言ってはまずいので、そんなことは日本人は知っているが、外国人に教えるときには注意しなければならない。クビになっては困るし。「おはよう」と「おはようございます」もそうで、「部長、おはよう」ではいけない。「おはよう」は「おはやく(お+「はやい」の連用形)」、「おめでとう」は「おめでたく(お+「めでたい」の連用形)」の音便で、「ございます」が後続すればこそこの形であるわけだ。ほかにも、「ちょっと来て」などの「て」の形による指示は完形「来てください」の、「よろしく」は「よろしくお願いします」の略形である。

 後略文というのもあり、一等最初に習うあいさつ語「初めまして」「どういたしまして」がそうだし、「どうもうっかりしていまして」「もう、こわくて、こわくて」など、よく出てくる。「うっかりしていました」の間違いではなく、「うっかりしていて(すみません)」、「こわくて(たまらなかった)」と後に続く部分の後略である。この性質を利用して、「て」で終えることによって、後略部分を言わず相手に察してもらうというのも日本語会話の技法となる(「ちょっとばたばたしておりまして…」―「要望に添いかねます」と言うのを避けて)。「が」による後略もよくある。日本語は点々ふたつの違いにて、「か」は質問で「が」は「あんたわかってよ」。「行きたいんですか」は完結した疑問文だが、「行きたいんですが」だと「行けそうにありません」等々の後続文を言わずに相手に察してもらうこと、「困っていました」(完結した過去の出来事の叙述文)・「困っていまして」(「助けてくれませんか」等々を後略)と同じだ。日本語学習者がおもしろがる「ちょっと…」と言いさして否定であると察してもらう言い方もそう。相手に過剰に推察を強いるのは、確かに日本語の特性だ。

 あいさつということでは、「褒め」と「願い」というタイプがあることにも留意しておきたい。まだ12月なのに「あけましておめでとう」と言ってくる学習者がいるが、これも「Happy new year」=「あけましておめでとう」と考えているわけで、前者のほうは「願い(wish)」型のあいさつ、しかし日本語では今ある状態を賛美する「褒め」型のあいさつが多い。「お早うございます」「おめでとうございます」などまさにそうだし、「こんにちは」も「今日はよいお日和ですね」が定型化したものだ。だから、まだ新年にならないのに「あけましておめでとう」とは言えないのであって、歳末のうちは「よいお年を(お迎えください)」と「願い」型のあいさつをしなければならない。

 さらについでに、外国人が少々とまどう「ありがとうございます」と「ありがとうございました」の使い分けにも触れると、「ありがとうございます」は完了していないことや直前のことについて言われ、「ありがとうございました」は完了したこと(完了させたいことを含む)について言われる。論理的じゃないか?

 「ようこそ」についても、これは完形「ようこそいらっしゃいました」の略形だから、やって来た人(来る行為が完了した人)に言うことばで、まだ来ていない人(未完了の人)には使えない。どちらにも使える「Welcome」と同義でないことは、完形を見ればわかる。あいさつの「褒め」型/「願い」型も、完了/未完了の違いと認識できよう。完了したことを褒め、未完了の将来のことを願う、というように。

 

<完了・未完了>

 日本語の動詞タ形と終止形は、英語の過去・現在とは違い、過去・非過去と言われる。終止形が、状態性の動詞では現在を、動作性の動詞では未来や習慣を表わし(「これから朝食を食べる・いつも7時に朝食を食べる」)、動作動詞では「ている」の形が現在を表わす(「いま朝食を食べている」)とされるが、むしろ、終止形は未完了を表わし、それが現在か未来かは後続動詞の性格にかかる、と考えたほうがいい。

 そして、「連用形+た」のいわゆるタ形は完了を表わし、完了であることから過去をも示すことになる。タ形には過去と完了のふたつの意味があるとされるが(「けさごはんを食べましたか:過去」と「もうごはんを食べましたか:完了」に対する否定の答えが、「いいえ、食べませんでした」・「いいえ、まだ食べていません」となるのに見られるとおり)、それは基本の完了の意味が状況により違ったふうに受け取られると見なしたい。このように、過去とか現在、未来とかは、完了・未完了が別の受け取り方の次元に映されたときの表われというふうに考えたほうが、統一的に理解できると思う。

 完了したか完了してないかは、外国人学習者がとまどいがちな「日本へ行ったとき買う」のような表現で重要になる。われわれが英文法のいわゆる時制の一致にとまどったのと逆のとまどいと言えるかもしれない。だが、正直時制の一致などよりずっと論理的かつ明確だと思う。

 「日本へ行ったとき買った」「日本へ行くとき買った」「日本へ行ったとき買う」「日本へ行くとき買う」は、要するに「買う」という行為をするのはいつか、「行く」という行為の前か後か、という基準によっているのだ。「日本へ行ったとき買う」なら日本に着いてから日本で買うわけで、「日本へ行くとき買った」なら日本旅行の前に買ったのだ。「食べる前」「食べたあと」という「前・後」の前の動詞の形が未完了・完了となるのと同じである。

 「ところ」を使った表現、「朝食を食べたところに電話が鳴った」(食べる行為完了)・「朝食を食べているところに電話が鳴った」(食べる行為進行中)・「朝食を食べるところに電話が鳴った」(食べる行為始める前・未完了)の3つはそのあたりをよく示している。

 ちょっと奇妙に思える「た」の用例、「来た、来た(待っているバスがやって来るのを見て)」とか「あ、ここにあった(探しものがそこにあるのを見つけて)」、「あしたは彼女の誕生日だった(あしたが誕生日であることを思い出して)」も、その瞬間に認識の行為が完了したということである。「どいた、どいた!」のような例は、命令形を避けて代替しているので、それは終止形でも可能だが(「テレビばかり見てないで、さっさと宿題する!」)、タ形のほうが多いのは、それを完了させるよう促すのであろう。仮定の「たら」も、「あした雨が降ったら、遠足は取りやめます」のように、前件の完了後に後件が成るということで、先後関係がある。

 ある時点を基準にした言い方は「てくる」「ていく」もそうで、ある基準となる時点までの変化とそこからの変化を示す。その基準点は過去でも現在でも未来でもよくて、「10年前まで発展してきた・10年前から発展していった」「今まで発展してきた・今から発展していく」「10年後まで(そこまで)発展してくる・10年後から発展していく」と言える。

 「死んでくる」という文も可能で、たとえば特攻隊の指揮官と隊員の間に「お国のために死んでこい」「はい、立派に死んできます」という会話があったとして(たぶんあっただろうが、これからはあってほしくない会話だ)、それは死んで幽霊になって帰って来るという意味ではもちろんない。将来のある一点へ向かう行動を、その一点の側から見たものである。「さあ、こい。どこからでもかかってこい」だと、時点でなく位置(自分の位置)の関係になるが、要するに設定された視点から見ての言い方である。

 

<文法用語の問題>

 話を進めていく前に、用語の問題もかたづけておかねばならない。日本人の学校生徒に教える国語文法と外国人に教える日本語文法で用語が違うのだ。

 国語文法は文語文法から発生したものである。現代のことばは平安時代のものからかなり変わっているのだが、平安のことばが文章語の規範となって19世紀まで使われ、今でも短歌や俳句において能動的にも現役であるし、受動的には少し古いものを読むときに必要だ。話しことば自体はもう室町のころから現代のものと大きな違いはなく、一方で文章語では古い時代の文法を用い続けていた。だから古典語・現代語と言わず文語(文章語)・口語(話しことば)という言い方が一般的になっている。その文語の文法を研究することから日本の文法学は発展してきた、という出自がある。

 現代においても文語は重要だ。唱歌は多く文語だし(口語だと「兎追ったあの山/小鮒釣ったあの川/夢は今もめぐって/忘れがたいふるさと」になる)、人口に膾炙する愛誦詩にも文語詩が多い。故事ことわざもそうだし、歌舞伎や能で今も耳に入り、短歌俳句で実際に使われている。だから、現代の口語さえできれば十分という人はともかくとして、古文を読む必要のある人はもとより、そこまででなくとも日本に深く浸りたい人には文語の知識は必要となってくるので、文語文法、つまり国語文法との連絡はつけておいたほうがいい。将来文語にも親しむことを見越して考えるべきだ。口語だけでいいとするのは、学習者を見くびっている感じでよろしくない。日本語世界を豊かにしてくれる人を育てるのが日本語教育の目標なのだから。

 

<活用のあるなし>

 自生的であるから、国語文法の用語は日本語を分析理解するのに適している。それによって分類すると、単語はまず詞と辞に分けられる。詞は自立語、辞のほうは付属語で、助詞と助動詞である。そして詞は体言と用言に分かれる。体言は要するに名詞、用言は活用のある語で、動詞と形容詞が含まれる。

 まず詞と辞への大別、さらに詞も辞も活用の有無で大別されるのは、システマチックでまことにけっこうだ。辞のうちの助動詞は活用があり、助詞は活用せず形が変わらない。助詞は働きによって格助詞(「が」「を」「に」「で」など)・副助詞(取り立て助詞とも:「は」「も」「だけ」など)・接続助詞(「が」「ので」など)・終助詞(「ね」「よ」など)に分けられる。

 断定の助動詞とされる「だ/です」は、いろいろおもしろい。代用の働きもする。前に挙げたウナギ文は、「にする」を省略した「ぼくはウナギ」でも十分なのだが、そこを「(に)する」代用の「だ」で締めくくっている。「あの本はどこにありますか」「机の上ですよ」の場合の「だ/です」も「(に)あります」の置き換えである。「お先に失礼します」を「お先でーす」と言ったりするのもそういう代替の例だ。「事故が起きました」「いつですか」「きのうの朝です」という会話で、どうして過去のことなのに「です」なのかという疑問を持つ外国人は多い。「いつでしたか」「きのうの朝でした」とも言えるが、それだと完了したという意味が強く出る。この「だ/です」もまた「(が)起きた」の「代動詞(代助動詞)」と考えるのがよさそうだ。

 もう少し進めると、「で」「だった」などと活用すれば助動詞だが、「君は何を注文した?」に対しても、答えは「ぼくはウナギだった」とは言わず、一般に「ぼくはウナギだ」で十分なのだから、これらウナギ文や方言ないし疑似方言の「オラは死んじまっただ」のような「だ/です」は、助動詞というよりむしろ「言い切りの終助詞」と考えたほうがいいのかもしれない。さまざまなもの(ウナギ文の場合は「にする」、「昼に何を食べましたか」「ウナ丼です」なら「を食べました」)を代替するという意味で、「代助動詞」という考え方もできそうだが、「ウナギ」「ウナ丼」と単語だけで十分なところに添えられているということで、やはりむしろ「終助詞」的であろう。

 同じように「丁寧の終助詞」と見たほうがよさそうなのが形容詞につける「です」で、「美しいです」の「です」は、いわゆる形容動詞の「です」(「きれいです」)とはまったく性質が違い、普通体(日本語文法の用語。国語文法で言う常体)の「だ」はなく、普通体にすると、形容動詞が「きれいだ」となるのに対し、取れて「美しい」になる。単に形容詞のそれぞれの活用形に添えて丁寧の意を示すだけだ(「美しかったです」「美しくないです」)。不変化である点でも終助詞的であって、名詞やいわゆる形容動詞につく助動詞「だ/です」とは性質が違う(「でしょう」の形については後述)。

(あとでも触れるが、この形容詞につける「です」は困りもので、おかげで「きれいでした」に倣って「美しいでした」「美しいじゃないです」などと言う外国人学習者が出てくる。)

 その一方で、こんなことも言える。「美しいです」のような「形容詞+です」がかなり普及しているのに比べ、多々良三平氏(「吾輩は猫である」)のように「御馳走するです」「幅が利かんです」などと動詞に「です」を添えるのは、しばしば聞きはするものの、抵抗があるようでさほど普及していない。だが、若者が目上に対してよく使う「っす」は「です」の俗語的短縮形だから、「食べるっす」「食べないっす」「食べたっす」「食べなかったっす」のように「動詞+です」も広がりつつあるのかもしれない。美しくないと思うが(筆者の感覚では「美しいです:形容詞+です」も美しくないのだが)、合理化という言語変化のひとつと認めるべきなのだろう。たしかに、「食べる・食べない・食べた・食べなかった+です」と「連用形:食べ+ます・ました・ません・ませんでした」との比較では、前者のほうがより簡単で合理的とされるのは理解できる(「食べる+です(っす)」に比べ、「食べない・なかった+です(っす)」は収まり悪くない。「ない」は形容詞変化で、「形容詞+です」は一足先に定着しているからだ)。

 このような「です」による「ます」の置き換えという現象の将来はどうなのか。「ら抜きことば」がほぼ定着の様相を示しているように(「ら抜き」:可能の意味の一段動詞は「見られる」、カ行変格動詞は「来られる」と「られる」をつけるのが正しいとされてきたが、それは五段動詞の可能形が「行ける」「飲める」のようにエ段で言うのと異なり統一的でないし、「れる・られる」には可能のほか尊敬・受身・自発の意味もあってまぎらわしいこともあり、これを「ら抜き」で言うのは合理的で論理的であるため、近過去の正しさに拘泥し叱責する論者の非難をものともせず、浸透していった)、あるいはデファクトとなるのかどうか、そのような道をこれもたどるのか。そうはまずならないが、しかしそれが進行した場合をシミュレーションしてみるのは興味のあることだ。ふたつある「美しいです」の否定「美しくないです」「美しくありません」のうち、「美しい・美しくない・美しかった・美しくなかった+です」で統一するほうが簡単で合理的、ないし少なくとも経済的だと言え、その方向(「ないです」方向)に進みそうなのも、この傾向に同調している。

 なお、ここでまた用語の問題に触れておきたい。国語文法では「です・ます」などをつけた言い方を敬体と言うのに対して、そういうもののつかない親しい人の間での言い方を常体と言うが、これは状態・常態など同じコンテクストで出てきそうな語と同音でよくない。敬体も形態・携帯と同音だ。日本語文法ではこれらを普通体・丁寧体と呼ぶ。このほうがいい。しかし、日本語文法が「食べる・食べない・食べた・食べなかった」「美しい・美しくない・美しかった・美しくなかった」を普通形と呼ぶのは、普通体との混乱を招きやすく、よろしくない。用言の四基本形とか単に基本形とでもするべきだ。

 理由を示す・求める言い方の「ん(の)です/ん(の)だ」はつまり「四基本形(普通形)+ん(の)+です/だ」で、上述「四基本形(普通形)+です」に「ん(の)」がはさまった形であって、理由の提示・要求をしたいたきは「ん(の)」を入れるのだという説明・理解でよくなり、外国人学習者にはたいへん好都合である(若年日本人にもそうかもしれない)。習得の経済であることはまちがいない。

 「だろう/でしょう」は、もとは「だ/です」の活用形である。出自はそうだが、これはこのまま「まい」のような不変化の推量の助動詞ないし終助詞と考えて別立てにするのがよい。「来る・来ない・来た・うれしい・うれしかった・雨だった」に「だろう」はそのまま接続するが、「雨だ」+「だろう」は「雨だろう」であって、この場合は助動詞「だ」が活用して「だろう」となるというもとの地が出ているわけだけども、こういう名詞・いわゆる形容動詞+「だ」に「だろう」が接続するときは「だ」が落ちるのだ、と例外と見なして便宜的に対処したほうがいいと思う。この「だろう/でしょう」も動詞・形容詞の四基本形(普通形)につくわけで、上に述べた「丁寧の終助詞:です」の勢力拡大を側面で支持するものかもしれない。

 体系はいつも美しいが、自然界と同様文法においてもはっきり分類できない妙な種が現われ、そういうものがあるのもまた体系の喜びである。

 

<体言(名詞)>

 日本語における名詞の勢力は驚くべきもので、たとえば、

「三日前の午後、わたしたちが彼のふたりの妹といっしょに○○交通のバスでとなりの町へ遊びに行ったとき、突然の雨で、駅の近くの知り合いの店で安物の傘を2本と、それから町でいちばんのレストランの並びの土産物屋で彼の恋人のためにピンクの腕輪をひとつと、家族へのおみやげに名物のお菓子を二割引でたくさん買った」

という文章のうち、「行った」と「買った」以外はすべて名詞と助詞である。英語なら代名詞・副詞・形容詞・接続詞等々さまざまな品詞とされるものが、日本語ではみな「名詞」となる。「もの」「こと」「ところ」も名詞だし(実名詞のことも形式名詞のこともある。「読むことができる」「いま来たところだ」のようなときは形式名詞)、「ようだ」「はずだ」などの「よう」「はず」も名詞だ。「それから」は一般に接続詞とされるが、分析すれば指示名詞「それ」と助詞「から」である。名詞の海に日本語は浮かぶ。

 名詞は副詞や接続詞を侵食する。独立の副詞や接続詞というカテゴリーはたしかに存在するけれども(「ちょっと」「ゆっくり」・「しかし」「だから」など)、用言を修飾するものとしては形容詞の連用形が非常に多く(「楽しく遊んだ」「楽観的に考える」)、副詞的に用いられる名詞もある(「むかし行ったことがある」「再度試みた」)。文や節の接続についても、接続助詞によるもの(「行ったが、会えなかった」)のほかに、名詞も接続に用いられる(「とき」「ため」など)。だから、実践文法では副詞や接続詞はカテゴリーとして重要でなく、連用表現・接続表現としてまとめたほうがいいということになる。

 

 また、日本語の名詞で重要なことは、代名詞が文法上独立のカテゴリーとなっておらず、名詞の一部であることだ。名詞の下位分類に普通名詞・固有名詞があるのと同じで、意味的な違いにすぎない。わけても、人称代名詞というものはない。1人称(自分)・2人称(相手)・3人称(第三者)という理論的範疇は存在するが、それを表わすことばは名詞である。つまり「人称名詞」である。「私が・私の・私に・私を…」と「父が・父の・父に・父を…」の間に文法的な違いは何もない。だから、1人称に「わたし・わたくし・ぼく・おれ・わし・小生…」、2人称に「あなた・あんた・きみ・おまえ・きさま…」等々の無数のことばがあるし、もともと1人称であった「われ」や「おのれ」が2人称になるといった通用転用が頻繁に起こる。「自分」は1人称にも2人称にも用いられ、「ぼく」が2人称にも使われるし(迷子の男の子に向かって「ぼく、どうしたの?」)、「彼・彼女」が「ボーイフレンド・ガールフレンド」の意味にもなって、「あの子は彼の彼女だよ」などという文も普通だ。

 英語の「you」のような確とした2人称代名詞がないために、日本語は非常に困っている。「あなた」が代表的な2人称だが、これは目上の人に言うと失礼だ。「社長、あなたは…」はケンカを売る語調である。だから相手を役職で呼んだり、名前に「さん」をつけて呼ぶのが普通だ。ただし、そうすると「田中さんは知っていますか」にふたつの意味が出てしまう。2人称か3人称か、「Mr. Tanaka, do you know it?」か「Does Mr. Tanaka know it?」かということだ。困ったことだが、やむをえない。

 

 指示代名詞についても事情は同じであるけれど、いわゆる「こそあど」詞のうち、「それ」「そこ」「そちら」は名詞だが、「そう」(副詞)「その」「そんな」(連体詞)は違う。だから「こそあど」(これ・それ・あれ・どれ等)類は指示語として別立てにするのがいい。

 「こそあど」体系の整然とした美しさは無類である。「こ」(近くにあるもの)と「ど」(不明のもの)はどの言語にもあるだろうが、「そ」と「あ」の区別は日本語に特徴的である。場所については「そ」は相手の近くにあるもの(話者から遠い)、「あ」は話者からも相手からも遠いものを指し、文脈においては「そ」は話者と相手のどちらかが知らないもの、「あ」は話者も相手も知っているものを指すというように、はっきりした規則がある。「きのう山下さんに会いました」「山下さん? それは誰ですか?」「田中さんの友だちです」「ああ、あの人ですか」という会話が好例だ。知らない人だと思っている間は「そ」、知っていることを思い出したら「あ」になる。相手が離れたところにいる場合、相手の近くにあるものが「そ」、相手と話者の中間にあるものが「あ」となって、「それ」より「あれ」のほうが近くにあるということにもなる(東京からニューヨークに電話をして、「もしもし、そこの天気はどう?」と聞いたあと、大阪について「あそこは大雨だそうだよ」)。こういう一見をくつがえす規則整合性は実にめでたいではないか。

 

 体言と用言の違いは、次のようなところにも現われる。「and」は「と」でない。名詞+名詞なら「と」を使う(「本とノート」。名詞+名詞ではほかに例示の「や」もある)けれども、しかし動詞+動詞・形容詞+形容詞では「と」は使えず、「て」(継起)、「たり」(例示)、「し」(付加)で結ばなくてはならなくて、「と」を使うと別の意味になってしまう(「横になると死ぬ」:「横になって死ぬ」、「高いとよくない」:「高くてよくない」)。

 

<用言の活用>

 動詞・形容詞(用言)の活用形を、国語文法では未然形・連用形・終止形・連体形と言い、日本語文法ではナイ形・マス形・辞書形と言う。現代日本語では終止形と連体形に違いはないので(断定の助動詞「だ」に関わる問題を除いて)、これをひとくくりにするのは合理的だし、国語文法の連用形のうち、「て」「た」とつながる形をテ形・タ形と別立てにするのもそうだ。一カテゴリー一形態の原則は学習者を助ける。昔は「行きて」「飲みて」だったものが「行って」「飲んで」と変化してしまった。そしてその形がよく使われる、ということなら、それはもうそういうものとして覚えてしまうほうが適切だ。

 しかし、テ形・タ形が「て」「た」まで含む形なのに(「行って」「食べた」など)、ナイ形は「行かない」でなく「行か」、マス形は「行きます」でなく「行き」であるのは間違えやすい。学習者は、テ形・タ形と同じく、ナイ形は「行かない」、マス形は「行きます」だと考えるから、はっきりさせるためにはナイ形語幹・マス形語幹というような言い方をしなければならない。この点は混乱しやすい。

 辞書形というのも非常に便宜的な名称で、ほかの活用形の名称、意向形(「う・よう」がつく形で、国語文法の未然形から別立て:「行こう」)、条件形(「ば」がつく形:「行けば」)、命令形(「行け」)などと違い、意味によらない名づけ方が気にさわる。

 連用形・連体形という名称は合理的かつ明示的で、副詞の働きをする(用言を修飾する)形、名詞(体言)を修飾する形というのは知っていていいし、いわゆる連用中止という用法(「行って」でなく「行き」として文を続ける言い方。「きのう東京へ行き、歌舞伎を見た」)の説明も、連用形ということばを用いたほうがやりやすい。文語文法への接続という点でも役立つはずだ。

 だから活用形は、接続形1(「ない」「れる・られる」「せる・させる」などが接続する)・接続形2(連用形)(「ます」「たい」「はじめる・おわる」などが接続する)・テ形・タ形・終止形/連体形(このふたつを辞書形ないしル形と便宜的に言う)・条件形・命令形とするのがいいのではないかと考えている。接続形というのは新奇でもありいささかややこしくもあるが、それでもこちらのほうがわかりやすいと思う。

 日本語文法では活用の型を、第1グループ(国語文法の五段活用動詞)・第2グループ(上一段・下一段活用動詞)・第3グループ(カ行変格・サ行変格活用動詞)と呼んでいる。把握しやすくていいのだが、上に述べた文語文法への連絡の必要からいって、五段動詞・一段動詞・変格動詞としたほうがいいだろう。

 日本語文法の用語は、それを覚えるのに学習者に大きな負担をかけさせないという配慮もあるわけだが、それをよしとしても、いずれもっと広い世界へつなげる必要があるのも一方の事実である。いわゆる日本語文法は、研修などで来日した人たちに、今現在社会で使われている日本語を習得させるという需要に応えるために生まれた、という出自がある。しかし、日本語には過去から現在(そして未来)まですべて含まれるはずだから、現在に特化するのはやはりいびつである。少なくともそのように教える者は考えておくべきだろう。

 

<形容詞>

 国語文法の形容詞・形容動詞は、日本語文法ではイ形容詞・ナ形容詞(「うつくしい」と「い」で、「きれいな」と「な」で名詞にかかることによる命名)としている。日本語の形容詞は非常に独特だ。いわゆる形容動詞という奇態なものは後で考えるとして、まず形容詞を見てみる。

「いい辞書が安かったら買いたかったが、こんな辞書はすごく大きくて使いにくいのでほしくない」。この文で、「辞書が」「が」「辞書は」「ので」以外は「形容詞」(連体詞を含む)である。

 日本語の形容詞は「地球は青かった」「悲しくてやりきれない」などと活用する。これが大きな特徴だ。「大きい・大きくない・大きく・大きくて・大きかった・大きければ」。そして、活用があることとその形から見ると、「(V連用形+)たい」「ほしい」「らしい」「ない」「(V連用形+)やすい/にくい」などは「形容詞」以外の何物でもない。「ほしい・ほしくない・ほしく・ほしくて・ほしかった・ほしければ」/「ない・なくない・なく・なかった・なければ」(ただし「ない」のテ形には「なくて」と「ないで」のふたつがある。「彼が来ないで彼女が来た」「彼が来なくて困った」)。語幹に「さ」をつけて名詞になることも形容詞と同じだ(「絵にも描けない美しさ」/「会いたさ見たさ」「金ほしさの犯行」「いくじのなさにあきれた」)。これらは「準形容詞」とでも呼ぶべきかと思う(「Vやすい」「Vにくい」などは問題なく形容詞である)。

 これら「準形容詞」以外の一般的な形容詞には、客観形容詞(属性形容詞とも:「大きい」「若い」など)と主観形容詞(感情形容詞とも:「楽しい」「痛い」など)がある。

 対象を、動詞は「を」で示すが(「に」をとるものもある:「誰それに会う」など)、主観形容詞は「が」で示す。「故郷がこいしい」「その気持ちがうれしい」などのように。いわゆる形容動詞・ナ形容詞の「すき」「きらい」「じょうず」「へた」なども、「あの子が好きだ」「踊りが上手だ」と言う。そして「ほしい」「たい」等も、「翼がほしい」と「が」をとるのである。「たい」の場合も「すしが食べたい」と「が」で示すべきなのだが、「すしを食べたい」と「を」をとることも多い。「たい」は「が」、「食べる」は「を」をとるため、そこで衝突があって、どちらをとるかが分かれるのだ(「好き」の場合、「彼女を好きだ」とも言うのは、おそらく英語の影響だろう)。そういうことを考えても、これらの語も「形容詞」と見なしていい。

 「ほしい」には「Vて+ほしい」の形があり、これと「V連用形+たい」の関係は、後者は自分がそうするのを欲する(「君の料理が食べたい」)、前者は誰かがそうするのを欲する(「あなたに私の料理を食べてほしい」。「に」で行為者を示す)と使い分けされ、「ほしい」のほうは「が」をとらない(動詞が何をとるかに従う)。

 なお、対象を「が」で表わすのは、ほかに「わかる」「できる」や可能形など能力に関する動詞もある(「話がわかる」「子どもができちゃった」「酒が飲めるぞ」)。感情形容詞の「が」と考え合わせれば、自動詞だから「が」をとるのだという機械的な説明とは違う説明がこれには必要だろう。

 形容詞には修飾用法と述語用法がある(「美しい花」/「あの花は美しい」)。関係節のない日本語の場合、動詞も連体修飾するので修飾用法があり、それは肯定・否定・過去・過去否定の4つの形である(四基本形・日本語文法で言う普通形:「飲む・飲まない・飲んだ・飲まなかった+酒」)。形容詞の修飾用法も同じだ(「おいしい・おいしくない・おいしかった・おいしくなかった+料理」)。連用修飾もあって、それは連用形である(おいしく:「おいしくいただいた」)。

 英語などのように関係節がないのも日本語の特徴のひとつで、英語なら関係節で言うところを、日本語は修飾節で言う(「the book that I bought yesterday」/「きのう買った本」)。そしてこの修飾節は、形容詞と同じく、被修飾語の前にくる。「King of Tokyo」/「トーキョーの王」の場合も同様だ。つまり、修飾語がかならず被修飾語の前にくる点が一貫している。そのため時に混乱を招くことはあるが(修飾節の始まりを示すマーカーがないので、どの語にかかるのか迷う:「きのう買った本を読んだ」=「きのう本を買って、その本を読んだ」か「買った本をきのう読んだ」か。話すときは間の取り方や発声の強さである程度わかるが、書いた文ではそうはいかない)、修飾・被修飾の前後関係が一貫する規則性はけっこうなことだと思う。

 名詞にかかるという点では形容詞と同じだが、活用せず述語用法がないものを連体詞と呼ぶ(「この」「いわゆる」など)。

 

<いわゆる形容動詞>

 「形容動詞」は非常に困ったカテゴリーで、たしかにその文法範疇は存在するのだが(意味からも、語幹に「さ」をつけて名詞になることからも、明らかに形容詞だ。「元気」+「さ」=「元気さ」、「静か」+「さ」=「静かさ」)、動詞では全然ないし、形容詞にしては名詞に似すぎている。この特異なグループをどのように把握するべきかに悩みながら、学者はいろいろな答えを出している。

 「ナ形容詞」というのもひとつの説得力のある解決策であるけれど(だからこそいわゆる日本語教育で取り入れられている)、それはまっとうな形容詞を「イ形容詞」なるものにして形容詞を分断してしまうことになるし、あとで見るように、接続するときの形がこの「ナ形容詞」は名詞とほとんど同じで「イ形容詞」とはまったく異なる点で、学習にいささか不都合がある。

 名詞形容詞という名称を使う人もいる。これだと「名詞と形容詞」とも解しうるから「名形容詞」とでもするべきだが、これもやはり違うけれど(たしかに「元気な」「便利な」の「元気」「便利」は名詞だが、「ほがらかな」「細やかな」の「ほがらか」「細やか」は名詞とは言えない)、「形容動詞」よりはすぐれていると思う。

 形態を見れば、いわゆる形容動詞の「活用」は、述語用法では名詞に助動詞「だ」がついた形と同じだ(名詞:病気だ・病気で(は)ない・病気で・病気だった・病気なら/形容動詞:健康だ・健康で(は)ない・健康で・健康だった・健康なら)。ただ、修飾用法で形容動詞に連体形(「健康な人」)と連用形(「健康に暮らす」)がある点だけが違う。名詞の場合は、それが名詞にかかるときは助詞「の」を使う。「病気の人」のように。

(この「の」による名詞との接続は、便利と見えて外国人に乱用される。「きのう会ったの人」「おもしろいの本」のように。気持ちはよくわかるが、たちどころに外国人だとわかる特徴的な誤用で、これを脱するのをもって日本語習得のレベルが上がったとする目安ともなる。)

 連体修飾する動詞・形容詞に4つの形があり、日本語文法でそれを普通形と呼ぶことは上述したが(これは「四基本形」としたほうがいいというのも上述)、「食べる・食べない・食べた・食べなかった+人」「高い・高くない・高かった・高くなかった+服」。これが形容動詞/ナ形容詞と名詞では「元気な・元気で(は)ない・元気だった・元気で(は)なかった+子」、「病気の・病気で(は)ない・病気だった・病気で(は)なかった+患者」となる。肯定(「形容動詞+な」/「名詞+助詞の」)以外は助動詞「だ」の活用形であって、形容動詞(「元気な」)の活用形とするのは無理筋だ。いうところの「形容動詞」は活用するとは言えない。

 これらのことを考えると、いわゆる形容動詞は「形容名詞」とするのがいいのではないかと思えてくる。それには連体形(「-な」)と連用形(「-に」)があり、そのほかは名詞と同じである(助動詞「だ」に接続する)。「やか・らか・か」で終わることばは名詞とは言えないし、「積極的」「画期的」など漢語に「-的」をつけたものも名詞ではない(「さ」をつけて名詞になることもない。名詞にするには「積極的:積極性」のように「-的」を「-性」にするか、「-的」を取ってもとの漢語にもどすか)。だが、便宜的に名詞に準ずるものと考えよう(どこまで行っても便宜的な見なしから離れられない)。

 なぜ「形容名詞」なんて新奇な名称を持ち出すのかというと、接続の形を説明しやすいからである。この形容名詞は、ほとんどの場合名詞と同じ形で接続する(「元気なら/病気なら」「元気だそうだ/病気だそうだ」「元気であっても/病気であっても」)。ただ後続するのが名詞のとき(つまり連体修飾)、形容名詞は連体形「な」となり、「の」をとる名詞と異なるだけである(「元気なとき/病気のとき」「元気なようだ/病気のようだ」)。なお、後続するのが「の」の場合は、名詞も「な」をとって同形となる(「健康なので/病気なので」。これは「名詞+の+の」と「の」が連続するのを避ける音変化と説明できるかもしれない)。そのほか、「だけ」「ほど」などが後続するときも注意が必要だ。

 「よう」「そう」「ふう」「みたい」(<「みたよう」から)などは、意味からも、また「さ」がついて名詞にならないところからも形容詞ではないけれど(本来名詞である)、形態的には連体形「-な」・連用形「-に」があり(「おいしそうなケーキ」「貝のように口をつぐんでいる」)、連語として名詞や用言を修飾するところはこの「形容名詞」(ナ形容詞)に似ているので、「準形容詞」に倣って「準形容名詞」と呼ぶべきだろうか。まっこと日本語の形容詞は無類である。

 「好き」「きらい」もまた十全に形容詞ではない。「さ」をつけて名詞になることがなく(「×好きさ」「×きらいさ」)、「上手」「下手」などとは違う。これらはもと「好く」「きらう」という動詞の連用形で、名詞である(「好きが高じて」、複合語で「好ききらいが激しい」のように)。名詞「黄色」「茶色」が形容詞となった「黄色い」「茶色い」の好一対だ(「空の青さ」は言うが「菜の花の黄色さ」とは言えないように)。

 

 形容名詞(形容動詞/ナ形容詞)は、「繋辞」(だ/です)を伴う点、「繋辞(be動詞)+形容詞/名詞」である英語と似ている。(「This cat is beautiful」「This cat is Siamese」と「この猫はきれいだ」「この猫はシャムだ」)。英語話者にはこちらのほうがなじみやすく、好ましいだろう。前に触れた形容詞を形容名詞のように活用させる誤用(「美しいでした」など)もそれによる。形容名詞を形容詞のように「好きくない」などと言う日本人の(意図的であるらしい)誤用の逆だ。活用などする日本語の形容詞が奇態なのだという意見もあるかもしれないが、日本語の話なのだから、郷に従ってもらわなければいけない。

 

 とまあ考えてみるのだけれど、現代語でこそ「漢語・外来語+な」が非常に多いので、そしてそれらはほぼ名詞と同じ接続をするので、「形容名詞」として考えたほうがわかりやすいと思うわけだが、しかしながら、このカテゴリーの根幹であろうと思われる「静か」「明らか」などが名詞とはできない以上、力押しに「形容名詞」とするわけにはいかず、「形容動詞」というどうにも不適当な語を避けるなら、やはり「ナ形容詞」の術語がいいのかもしれない。だが、その名称を使うとしても、その実態は連体形「-な」・連用形「-に」がある点以外名詞と同じだから、「形容名詞」という考え方は現代の日本語学習者を助けてくれるはずだ。無駄ではない。名詞を形容詞化する装置という働きをしていることを明示してもくれる。形容詞には「イ形容詞」「ナ形容詞」のふたつがあるという混乱を誘う教え方だと、「静かなです」「広いじゃないです」という誤りに導かれる。名称についてはともかくとして、「連体・連用の形のある特殊な名詞」扱いにして教えたほうがいいと思う。

 そして「イ形容詞」はただ「形容詞」とするべきである。「イ形容詞」なんてものは文語には存在せず、それは正しく「形容詞」であるのだから。古今一貫であるべきだ。

 

<漢語・外来語>

 語彙についても日本語独特の三分法があって、つまり和語・漢語・外来語であるが、本来の日本語である和語はいいとして、漢語と外来語についてはいささか問題がある。

 漢語は基本的に名詞であるが、「呆然」「堂々」「楽観的」などは名詞とは言えない(「楽観」は名詞)。外来語もだいたいが名詞であるけれど、「ロマンチック」「ソフィスティケート」などはそうでなく、またそれだけでは形容詞・動詞でもない(「ロマンチックな」「ソフィスティケートする」とせねばならない)のも同じで、これらは「な」「する」のつかない形では何ものでもない(「ロマンチックが足りない」などという名詞扱いの言い方はできるにはできるが、いささか奇異でコピーライター的だ)。だから、漢語・外来語は素材と考えるのがいいだろう。「な」(または「的な」)をつけて形容詞(ナ形容詞/形容名詞)に、「する」をつけて動詞を作るための素材、というふうに。特に漢語の場合、複合語を自在に作る能力があることも、品詞にとらわれず、素材としてその範疇外とするのがいいことを示している。

 漢語を分類すると、

1.働きが名詞のみであるもの:道路、全体、肺炎など。

2.名詞のほか、「な」がついて形容詞(いわゆるナ形容詞/形容名詞)となるもの:安全、健康、自由など。

3.名詞・「する」がついて動詞となるもの(スル動詞):前進、理解、運転など。スル動詞は、「○○をする」の「を」が取れて一体化したものだが、「哲学する」のように直接つくこともある。

4.名詞・「な」も「する」もつくことができるもの:迷惑、無理など。なお、外来語「クリア」も「クリア」(名詞)「クリアな」(ナ形容詞)「クリアする」(スル動詞)と3つある。類義の「クリーン」が「クリーンな」の形しかない(名詞・スル動詞がない)のと好対照だ。

5.そのほか、連用形「と」、連体形「たる」があり、述語になるときは「だ」でなく「と+する」がつく特殊な「形容名詞」がある:堂々、唖然など(文語文法のいわゆる形容動詞タリ活用)。これらは「さ」がついて名詞となることがない。

 漢語・外来語を素材と見れば、ナ形容詞・スル動詞はつまり形容詞語彙・動詞語彙を増やすための装置であるとわかる。造語力の低さを漢語で補っているのだ(日本語はもともと造語力が低かったのか、造語力の高い漢語を取り入れたためにその力が萎えてしまったのかはわからないが)。

 日本語に形容詞が少なかったことはたしかだ。色を表わす形容詞は「赤い・青い・白い・黒い」だけで、あとは珍しく名詞がイをとる形容詞になった「黄色い・茶色い」のほかは、「灰色」とか「緑」のように名詞を使うばかりだ。

 「を」をとるスル動詞の場合(「○○する」)、分割して「○○をする」とすると、「○○する」のときは「を」をとっていた対象は、「○○をする」の場合は「○○」にかかる名詞修飾になるので、「を」は「の」になる(「盲腸を手術する」:「盲腸の手術をする」)。「を」以外の助詞は変わらない(「病院で盲腸を手術した」:「病院で盲腸の手術をした」)。

 

 漢語はもともと中国語から入ったものだから、中国語の文法に従う。漢語(AB二字としよう)の構成法には、1.同種の組み合わせ(A≒B:「岩石」など)、2.反対の組み合わせ(A⇔B:「大小」など)、3.AのB(「洋服」など)、4.AがBする(「日照」など)、5.Bを/にAする(「投石」など)、6.否定B(「無数」など)があるが、このうち1-4は日本語と語順が同じだけれど、5と6は逆になる。「殺人」と「人殺し」、「不変」と「変わりなし」のように。日本人は漢語を使うことによって知らず知らず二言語に生きている、という言い方もできるかもしれない。

 日本語にわずらわしいことはたくさんあるけれど、そのうちでも語彙が多いことがまずあげられる。何語知っていれば使用される語彙の何パーセントをカバーできるかという語彙カバー率を見ると、1000語で英語が80.5%、中国語が73.0%なのに対し、日本語は60.5%にすぎない。5000語で英語が93.5%、中国語が91.7%と、ほとんどがカバーできるのに対して、日本語は81.7%。つまり日本語では5000語でやっと英語の1000語と同程度になる。このように日本語に語彙が多いのは、言うまでもなく和語のほかに漢語があるからだ。異なり語数で語彙の47.5%、延べ語数でも41.3%が漢語であり、本来の日本語である和語(それぞれ36.7%・53.9%)とシェアで拮抗している。「いち・に・さん・し…」という数の漢語と「ひ・ふ・み・よ…」の和語から始まり、「車」と「自動車」、「食べる」と「食事する」等々、同じものを和語と漢語で覚えなければならないことが多い。

 数あるわずらわしさの中でも最高にわずらわしいのが漢字の音読みと訓読みで、面倒な漢字の書き方を覚えるだけでたいへんなのに、その上それに2つも3つもそれ以上も読み方があるのはたまったものでなく、漢字自体はよく知っている中国人も悩むところだ。しかし、この音読みと訓読みが漢語と和語に当たるわけだから、これを着実に習得すれば語彙力もあがる。辛抱強くやってもらわねばならない。

 加うるに、母音および子音+母音の開音節とnしかなく、音節(拍)数は112だけ(中国語は411)という日本語の発音の単純さのゆえに、字音の種類が少なく、そのため漢語の同音異義語が異常に多いのも困ったことだ。「副詞」と「福祉」、「助詞」と「女子」ならアクセントが違うから判別できるが、アクセントが同じ「名詞」と「名刺」、「完了」と「官僚」、まして同じコンテクストで現われる「シリツ高校(私立・市立)」「カガク者(科学・化学)」となってはどうにも判別しがたい。漢語の造語力に頼りすぎた罰のようなもので、その便利さが仇になっているのだが、それでもなお漢字漢語は重宝なのでやめることができず、借り物だったはずの漢字はもはや日本語にとって肉付きの面になっている。

 

 和語・漢語・外来語の関係は、この順に、上・下では下に、親・疎では親しいところにある。「風呂場」「浴室」「バスルーム」の3つの同義語に見られるとおりだ。「風呂場」は親しみあるが生活の汚れがついていそうで、「浴室」はよそいきでとりすました感じがあり、「バスルーム」はホテルなどにあるもので普段使いではない。

 外来語では、和製英語の問題がある。本来の英語にはない日本で造語したもので(「ガソリンスタンド」「ベッドタウン」など)、折々非難されるが、それはこれを「できそこないの英語」と見なすからであって、日本語としては実に立派な日本語である。「ガソリン」+「スタンド」で「ガソリンスタンド」、「ベッド」+「タウン」で「ベッドタウン」、まことにわかりやすい。和製英語は、「社会」(社に会する)「物理学」(物の理)などのような明治の大翻訳時代に作られた新漢語と同じである。あるいは「辻」「働」のような国字(日本で作られた漢字)とも同じだと言える(「十字の道」「人が動く」)。国字は漢字構成法のうち会意(意味を持つ要素と要素を組み合わせて別の意味の字になる:「人」が「木」によりかかる=「休」)によって作られている。字から語へと続くその流れは造語の正道であり王道である。英語がそう言わないのは英語の勝手。和製英語は、英語を学ぶときこそ妨げになれ、日本語としては恥じるどころか誇ってよいものだ。

 

<「は」と「が」、「が」「を」と「に」>

 外国人学習者は「は」と「が」の違いにとまどい、日本人もうまく説明できなくて四苦八苦するが、この区別は歴然とある。それは、外国人の書いた文の直しを求められたとき、ここは「は」じゃなくて「が」、ここは「が」とすらすら手を入れられるところから見ても明らかだ。

 「は」は文の主題を表わし、「が」は格関係の主格、動作・作用の主体を表わす、というのが根本である。

 「が」や「を」はひとつの節の中に一度だけ現われる。主格・対格という格関係を表わすのだから、当然そうなる(例外は後述)。それに対して、「は」は何度でも現われることができる。主題として取り上げたい部分はいくつもありうるからだ。「その議論については、私はその点では賛成できない」。

 「は」のある文が従属節になると、「は」が消える。前掲の文は、「その議論について私がその点で賛成できないことは前にも言いました」。ただし、対比の「は」というものがあり(「天ぷらは好きだが、さしみは食べられない」のように「天ぷら」と「さしみ」を対比する:「天ぷらは好きだがさしみは食べられない外国人は多い」)、その意味を入れるなら「私がその点では賛成できないことは前にも言いました」とも言える。「その点」と「ほかの点」の対比であるなら。否定のときに「は」がよく出てくるのも対比に関係する。「それは本ではない」。本ではないが、ほかの何かではあるわけで、「は」を入れるのは論理的である。

 上の文で「私は」が「私が」になったように、従属節になることで「は」が消えると、そこに「が」が現われる。「その本はそこにある」>「その本がそこにあるのが見えないのか」。

 つまり、「は」はいろいろな助詞につくことができて、それを主題として示すが(で+は=では:「日本では家に入るとき靴を脱ぐ」)、ただ「が」と「を」の場合は「は」がつくと「が」「を」が消えるのである(が+は=は、を+は=は。「火事があった」>「火事はあったが、死者はいなかった」、「薬を飲んだ」>「薬は飲んだが、治らなかった」。「に+は」は「には」となることが多いが、落ちて「は」だけになることもある。「山に柴刈りに行った」>「山には柴刈りに、川には洗濯に行った」/「山は柴刈りに、川は洗濯に行った」。「も」も同じで、が+も=も、を+も=も。「君が好きだ」>「君も好きだし、彼女も好きだ」)。だから逆に、「は」が消える従属節では「は」があった場所に「が」や「を」が現われてくるのだ(「その本は読んだ」>「その本を読んでから寝た」)。 

 主語と主題は同一であることが多い。その場合、主語の助詞「が」に主題の助詞「は」が重なるわけで、そうすると「が+は=は」の法則で、「が」が消えて「は」だけになる。そのために主語は「は」が示すもののように見えてしまい、「は」と「が」の違いに戸惑うことになるが、主語「が」・主題「は」の原則を見失わなければ、「は」か「が」かの問題は決して(それほど)むずかしくない。

 上述このように、従属節では「は」が消えてそこに格助詞が現われてくることから、「ことテスト」というものを行なって、どの格助詞が「は」の裏に隠れているのか調べることができる。名詞節化してみるということだ。「が」「を」のほかに、そこに「に」が出てくることもある。「日本は温泉が多い」>「日本に温泉が多いことはよく知られている」。ただ、時を表わす「に」は「きょう」「あした」などにはつかないから、その場合は出てこない。「きのうは雨だった」>「きのう雨だったことを彼は知らなかった」。

 「は」の裏に「の」があることもある。「きのうの会議は私が司会をした」は「私がきのうの会議の司会をしたコト」であり、ちょうど「犬が彼の手を噛んだ」を受身にすると「彼は犬に手を噛まれた」となるように(「彼の手は犬に噛まれた」とも言えるけれども、いわゆる直訳文体であり、日本語としては意識して客観的である妙な文だ)、「の」を「は」にして表わすのと同じ例である。

 「~は~が文」というものがある。典型的なのが「象は鼻が長い」であるが、この文では、「鼻」は形容詞「長い」の主語で、部分主語という言い方をされることがある。これを従属節にすると、「象が鼻が長いのは進化の結果だ」と「が」がふたつ出てきてしまう。「が」の衝突を避けるため、「象の鼻が」とされることが多いけれど、「象が鼻が」も正しい文だ。「秋は悲しい」「そうですか。ぼくは春が悲しい」「君が春が悲しいと思うのはどうしてですか」という会話を考えてみてもいい。象鼻文に「ことテスト」を施せば、その結果は「象の鼻が長いコト」ではなくて、「象が鼻が長いコト」であって、「象の鼻が長いコト」は本来「象は鼻が長い」でなく「象の鼻は長い」の名詞節化であり、その文は「鼻」にフォーカスしている。対して「象は鼻が長い」は「象」にフォーカスした文だ。「京都は秋がいい」というのも、「京都の秋がいいコト」でなく「京都が秋がいいコト」である。

 「~は~が文」の「は」と「が」は、主体と部分ないし所有物の関係(「象は鼻が長い」「彼女は白い服が似合う」)か、主体と対象の関係(「彼はロシア語ができる」)である。それを無主題化すると、「~が~が重なり」・重ガ文となる(「彼がロシア語ができるコト」、「彼がロシア語ができるので、われわれは助かる」)。「が」は原則として1節に1つしか現われないが、このように例外的に重なることがある。

 動詞なら対象は「を」で示されるが、主観形容詞では上述したとおり対象を「が」で示すので、「彼が好きな女性」は「the woman whom he loves」「the woman who loves him」の2通りの意味になりうる。「彼女は彼が好きだ」を従属節にすると、「彼女が彼が好きなことは明らかだ」となってしまい、これも「が」がふたつになる。それを避けるため、「彼女が彼を」と言うこともよくある。「好き」は本来「が」をとるべきものだが、こんな場合は「を」にしていい。「わかる」「できる」などの能力を表わす動詞も「が」をとるので、同じく重ガ文ができる(「彼女は事情がわかっている」「わが子はもう割り算ができる」>「彼女が事情がわかっているのはありがたい」「わが子がもう割り算ができるのを親は自慢している」)。

 

 この「象は鼻が長い」という文に見られるように、日本語は主題(「象」)と叙述(「鼻が長い」)という構造になっているのである。下部の構成要素として主語・述語構造もあるのだが、主題・叙述構造がその上をおおうのだ。「が」で示される日本語の主語は、英語で主語が必ず明示されるのと異なり、自明ならしばしば省略され、また「は」で示されるものと同一であることも多い(が+は=は、「は」の下に「が」が隠れているケース)。主題を示す「は」は、基本的にあるべきものであって、ないことも多いけれど、ないならそのわけを考えてみなければならない、というくらいあって当然なものである。

 「は」がない文は、「は」が省略されている(隠れている)か、あるいは述語部分ないし文全体が主題かである。

 「彼は悪い男じゃない。よく知っているんだ。そんなことをする人間じゃない」という文では、2番目の文では「私は彼を」、最後の文では「彼は」が省略されていて、それぞれ「私」「彼」が主題である。

 「あなたはどなたですか」の問いに対する答え:「私は田中です」と「田中さんはどなたですか」の問いに対する答え:「私が田中です」を比べると、前者では主題は「あなた/私」であり、明示されているが、後者では主題は「田中」であって、それは「私が田中です」は「田中は私です」とも言えることからわかる。

 自衛隊イラク派遣をめぐる国会質疑で、首相は「自衛隊の行くところが非戦闘地域だ」と言い、防衛相は「自衛隊の行くところは非戦闘地域だ」と言い直した。「は」と「が」の違いで、意味はまったく違う。「は」文は自衛隊派遣地域の定義であり、「が」文は「非戦闘地域自衛隊の行くところだ」と言い換えられ、「非戦闘地域」の定義と解釈されるから、乱暴で無茶な物言いになってしまう。

 疑問詞の前には「は」、疑問詞のあとには「が」がくるという法則があるけれど、これも、「君たちはどう生きるか」「あなたのおうちはどこですか」では「君たち」「あなたのおうち」が主題。「何が彼女をそうさせたか」「あんなやつのどこがいいんだ」では、「私が田中です=田中は私です」と同じく述語部分、「彼女をそうさせたコト」「あんなやつのいいトコロ」が主題なのだと考えられて、納得できる。「ピクニックはいつがいいですか」だと法則ふたつとも当てはまっているが、主題に対する叙述部分で疑問詞が主語として示されているわけだ(かつ、その部分の主題は「いいトコロ」であるとも分析できる)。

 「その本はそこにある」と「そこにその本がある」だと、「その本」を主題としている前者に対し、後者は文全体が主題だと考えられる。

 「雪は降る」という文は、「雪」を主題として言っている。「あなたは来ない」は「あなた」が主題。この文を従属節にすると、「あなたが来ないので私は悲しい」と「は」が「が」になるのは上述のとおり。そして「白い雪がただ降るばかり」は、述語部分「ただ降るばかり」が主題、またはその文全体が主題であると考えればわかりやすいだろう。

 

 「が」「を」(「が+は」「を+は」としての「は」も)については、話すときにはよく落ちることもおもしろい。「あの人酒飲んだの?」のように。これは文語に見られる性質で(「かの者酒飲みしや」)、もともとそうであったものが「が」「を」を用いる方向、文法的明晰化への方向へ発達してきたので、それ以前と以外が連続している例と見られる。その意味でも文語を知っておくことは大切だ。話しことばには古代が残存している、という言い方もできるかもしれない。地が出ている。

 「こと」の接続(による名詞節化)で助詞が変わることに関連して、「の」による連体修飾について見ておこう。「の」による連体修飾は「名詞+の+名詞」だけでなく、助詞にも続いて「名詞+助詞+の+名詞」ともなる。つまり、文の名詞化は「の」を伴うという原則である(「バスで通う>バスでの通学」、「京都から出発する>京都からの出発」)。そのときも「が」「を」は消える(「彼女が喜ぶ>彼女の喜び」、「ビルを建設する>ビルの建設」)。そのため、「彼の絵」は「彼が描いた絵」か「彼を描いた絵」かわからないという問題も出てくる。

 「に」の場合は、「にの」とは言えない。「への」となることが多いが(「彼にプレゼントする>彼へのプレゼント」)、「からの」ともなるものもあるし「彼にプレゼントをもらう>彼からのプレゼント))、「パリに滞在する」は「パリの滞在」であろう。「パリでの滞在」とも言えるが、ちょっと意味がずれる感じがある。

 ここでもまた、従属節化すると「は」が消えるのに似た現象があることがわかる。「が」「を」、そして限定的に「に」には特殊な地位があるのだ。「が」「を」は特権的である。助詞の中で特別な位置を占める。それはよく消える。この場合、そして前述の「は」がつく場合に(「を」の場合、「は」がつくと「をば」となることもあるが)。それはつまり、主体と対象、主格と対格(目的格)、主語と目的語が文構造において特権的な地位を占めていることの日本語における呼応なのだろう。SVOだのSOVだのが云々されるのには理由があるわけだ。

 

 これらの助詞の意味について簡単に見てみる。

 「が」は、ほとんどの場合主体(動作主・属性主)を表わすが、対象を表わすこともある。主観形容詞・状態性の動詞の場合に(別れが悲しい・サッカーが上手だ・車がほしい・英語ができる・山が見える等)。

「を」についても、それは主に対象を示すが、移動の場所や起点を示すこともある。

 場所を示す助詞は主に「に」(存在の場所:公園にベンチがある・東京に住む)と「で」(動作の場所:公園で遊ぶ・東京で働く)であり、外国人はその間違いを多くするのだが、それに加えて「を」(移動・起点の場所:公園を散歩する・東京を離れる)もある。

 時を示す助詞は「に」だが、「に」がつかないものもある。「に」がつくのは絶対的時間(x時・x日・x月・x年など)、つかないのはある基準点による相対的時間(きのう・きょう・先週・今月・来年など)である。また、つくこともつかないこともある(春・夏・秋・冬・曜日など)。

 

<動詞の分類>

 動詞にはまず自動詞(代表例は「なる」、自然な過程を表わす)と他動詞(代表例は「する」、対象に対する意図的な行為を表わす)がある。

 日本語はできごとを自動詞で表現することを好む。「お茶が入りました」と言ったって、お茶が自分で勝手に入るはずがない。誰かが(たぶんその文を言った当人が)入れたのだが、それでも「お茶を入れました」では何やら出すぎな感じがある。同じく、「私たち結婚することにしました」より「結婚することになりました」のほうがずっと落ち着きがいい。「結婚することになりました」と言われると、外国人は親が結婚相手を決めたのかと思うかもしれないが、もちろんそうではなく、人為より自然な事態の進行を喜ぶ日本語の性格による。「俺が俺が」は日本語らしくない。

(ちょっとはずれるが、「なる」に関しては次のようなこともある。「です」を丁寧に言うとき、昔なら「~でございます」と言っただろうところで、今はたいてい「~になります」と言う。「こちらが新製品です」を「こちらが新製品になります」と言うのがほとんど定着している。「ございます」は丁寧すぎ、「です」では十分に丁寧でないと感じるところから出てきたものだろう。気に入らない言い方だが、ある需要に基づいてはいるらしい。)

 自動詞他動詞は他の言語にもあるものだが、それに加えて、日本語では所動詞と能動詞という区分もあるとされる。受動態・受身はふつう他動詞がなるもので、自動詞は受身ができないが、日本語には自動詞の受身が存在する(死ぬ:「妻に死なれた」、降る:「雨に降られた」)。こういう自動詞の受身は一般に迷惑な意味になるので「迷惑の受身」と言われる。このように、受身になるかならないかで動詞を分けると、受身のできる能動詞とできない所動詞という分け方になり、所動詞はすべて自動詞だが、能動詞には他動詞と自動詞があり、他動詞は普通の受身だが、自動詞の受身は迷惑の受身である。

 普通の受身、中立的な受身もある(「ほめる/ほめられる」のように)とはいいながら、日本語の受身には被害のニュアンスがまとわりつくことが多い。

 日本語には有情と非情の区別がある。外国人が困る「いる」と「ある」の区別がまさにそれた。「犬がいる/犬小屋がある」ということだが、「幽霊がいる/霊魂がある」「(運転手の乗った)タクシーがいる/(運転手の乗っていない)タクシーがある」などは妙に厳密な区別だ。日本語は有情物を主題にして言いたがることばで、「鼻」という非情物に特に焦点を当てたいときを除いては、「象の鼻は長い」より「象は鼻が長い」と言うほうが自然である。非情物について言う受身なら、「この建物は19世紀に建てられた」のように、「非情に」、客観的に言えるけれど、有情物主語の場合、自動詞受身は言うに及ばず、他動詞の受身でも被害の感じがある。「先生に教えられた」は中立的客観的な言い方である。だが、恩恵を受ける場合は、恩恵の移動の表現であるやりもらい(授受表現:~てあげる・~てもらう・~てくれる)を使ったほうがいい、ということになる(「先生に教えてもらった」)。「彼は彼女に傘を貸した」を受身にして、「彼女は彼に傘を貸された」というのは、「貸す/貸される」で文法的にはまちがっていないように思われるが、まず言われることのない文である。もし言われたとしたら、借りたくないのに無理に貸しつけられたという迷惑の意味になる。「彼女に傘を借りられた」も同様に迷惑な感じだ。雨のとき傘がない人に傘を貸すのは恩恵だから、ふつう「彼に傘を貸してもらった」と言う。

 受身では、部分・所有物の受身もある。「隣の男が私の足を踏んだ」を受身にすると、「私の足が隣の男に踏まれた」となりそうなものだが、よほど「私の足」を強調したいのでなければ、「私は隣の男に足を踏まれた」と言う(格助詞を現わすためにコトをつければ、「私が隣の男に足を踏まれたコト」)。部分を明示する「象は鼻が長い」に対応する現象であろう。

 また、「~ている」をつけてみて分類することもでき、そうすると日本語の動詞は、状態動詞(「~ている」がつかない。ある・いる・できる・泳げる・遠すぎる等)・動作動詞(「ている」がつくと現在・現在進行の意味になる:「彼は酒を飲んでいる」)・変化動詞(状態の意味になる:「彼は結婚している」)となる。同じ動詞が変化も動作も表わすこともあるが、「変な服を着ている」なら「着る」は変化、「服を着ているところだから、ちょっと待って」なら動作である。

このような截然とした区分ではないが、おおまかに状態性の動詞・動作性の動詞というとらえ方もでき、それは重要である。

 

<ウチ称・ソト称>

 「さん」は男女も未婚既婚も問わず使えて非常に便利であり、役職にもつけられるし、最近では乱用気味に相手団体に対してもつけることがよくある(「○○高校さんは強いチームで…」)。日本語は2人称代名詞に不自由するので、相手をしばしば名前で呼ぶことは前に述べたが(「李さんはどこから来ましたか」「李さんの仕事は何ですか」等々)、そのため「私は李さんです」などと言い出すことがよくある。これを直すのが敬語法への第一歩と言っていい。敬語の原則は、自分を下げ、相手を上げることであるから、自分に「さん」をつけることは決してない。そしてこれはまた、ウチ称・ソト称理解への第一歩でもある。

 家族の呼び方もそうだ。自分の父親は「父」と言い、相手やほかの人の父親は「お父さん」と呼ぶ。以下、「母:お母さん」「兄:お兄さん」と、すべてにウチのための呼び方・ソトのための呼び方があるのはなかなかわずらわしい(音読みと訓読み、漢語と和語のペアのわずらわしさに似ているが、こちらは和語のペア)。原則は、「李さん」の場合と同様、自分の側には「さん」をつけないということだ(近頃は自分の妻を「うちの奥さん」と言う人が多くて困る。昔なら「愚妻」とも言うべき自分の妻を人に向かって尊敬するなと言いたいが、しかしそれが現実なら、どんなに好ましくなくても受け入れなければならない)。

 日本語では人称は意味的な概念ではあっても、文法的な概念ではない。1・2・3人称のどの語を使っても形態上の変化は現われない。しかし人称に似たものはある。自・他、またはウチ称・ソト称と言われるものがそれで(自・他よりウチ・ソトという言い方のほうが好ましい。自動詞・他動詞との混同の恐れを避けるために)、ウチ称はわたしとわたしの側に属する人、ソト称はそれ以外である。この境界線は場面場合によって動く。私と私以外が問題になる場合は、私がウチ、私以外がソト。家族と家族以外が対照されるなら、家族がウチで家族以外がソト。同様に、自社と他社、日本と外国、地球人と宇宙人等々と、何がウチで何がソトかは移り変わり、一定しない。

 ウチとソトの把握が重要となるのは敬語や授受表現(あげる・もらう・くれる)であり、それは次に見る。

 主観形容詞にもウチ・ソトがからむ。かつ、主観形容詞におけるウチは他のウチよりずっと狭い。それは他人(ソト)についてはそのままでは用いられないのだ。「私は悲しい」は可、「私たちは悲しい」も言えるが、「彼は悲しい」は不可。その場合は「彼は悲しそうだ」「悲しいようだ」「悲しがっている」などとせねばならない(多くの場合でウチである家族もこの場合はソト扱いで、「母は悲しそうだ」)。ちょっと面倒ではあるが、正しいことではあるし、論理的である。私のことは私がわかる。だが、あなたは彼ではない。神様でもあるまいに、なぜ彼の気持ちが断定できる? 推測できるだけだろう。相手については、質問では言える(「あなた、悲しいの?」)。

 逆に見れば、「がる」は「私」には言えない。「私」はただ「ほしい」「したい」。「私以外の人」が「ほしがる」「したがる」のである。

 

<敬語>

 敬語の原則は、自分(ウチ)は低く、相手(ソト)は高く、である。

 敬語についてまず確認しておくべきことは、それは目上/目下・年上/年下などの上下関係だけでなく、親しい/親しくないの親疎関係にもよる、ということだ。上司の妻が夫の若い部下に「いつからお勤めですか」「どうぞいらっしゃってください」などと尊敬語を使うような場合を考えてみるといい。初めは距離のある関係の会話が、親しくなるにつれて、尊敬語と尊敬語・丁寧語と尊敬語・丁寧語と丁寧語・敬語なしと丁寧語・互いに敬語なし、と変わっていく。最後の段階は家族並みということだが、男女の場合はどんな関係か疑われることもあろう。いずれにせよ、日本人はフランス語の「vous」と「tu」などよりずっと細かくステップを踏みながら微調整を重ねるのである。

 それは美点でもあるけれど、大きな欠点でもある。相手との関係がわからないと話すのがむずかしいのだ。初対面では、相手が何者で自分との関係がどうなのかを探り探り進めていくことになる。まず1人称2人称をどうするかの問題がある。女性なら「わたし」でいいが、男は1人称のことばがたくさんあるし、それぞれが2人称とペアになっている(ぼく:きみ、おれ:おまえ、わたし:あなた)。そして、敬語を使うべきかどうか、どのレベルで話したらいいか、気をつかわなくてはならなくて、はなはだ面倒だ。関係依存、また文脈依存の程度が高い。察する能力が求められ、その力が高いのが日本文化の特徴であるが、それは言語に基づいていると言えよう。

 

 敬語には尊敬(「お〇〇になる」・「れる・られる」・尊敬動詞)・謙譲(「お○○する」・謙譲動詞)・丁寧(「です」「ます」「お+名詞」など)があるわけだが、敬意を向ける対象によって、仕手尊敬(尊敬)・受け手尊敬(謙譲)・聞き手尊敬(丁寧)とする言い方もあって、理解を助けるのによい。尊敬は敬意の対象がすること(「社長がいらっしゃいました」)、謙譲はウチの人が敬意の対象に関わる行為をすること(「うちの田中が御社へうかがいます」)、丁寧はそれを聞く人に敬意を示すこと(「さあ、行こう」に対する「さあ、行きましょう」)である。ウチの人がする行為でも、敬意の対象に関わらなければ謙譲語は使わない(先生の本なら「先生に本をお借りする」だが、図書館の本なら「お借り」しない。「借りる」だけ)。

 A(話し手)・B(聞き手)・C(そこにいない第三者)の会話で、仕手尊敬/受け手尊敬と聞き手尊敬の関係がどうなっているかを考えてみよう。

1.まず3項関係で、Cが来るかどうかAがBに聞く:

 Cさんはいらっしゃいますか。 (Cへの敬意:〇、Bへの敬意:〇)

 Cさんは来ますか。 (Cへの敬意:×、Bへの敬意:〇)

 Cさんはいらっしゃる? (Cへの敬意:〇、Bへの敬意:×)

 Cさんは来る? (Cへの敬意:×、Bへの敬意:×)

2.BがCのところへ行くかどうかAがBに聞く(Bはウチ。たとえば会社の同僚):

 BさんはCさんのところへうかがいますか。 (Cへの敬意:〇、Bへの敬意:〇)

 BさんはCさんのところへ行きますか。 (Cへの敬意:×、Bへの敬意:〇)

 BさんはCさんのところへうかがう? (Cへの敬意:〇、Bへの敬意:×)

 BさんはCさんのところへ行く? (Cへの敬意:×、Bへの敬意:×)

3.2項関係の「Bが来るかどうかAがBに聞く場合」もこの4つの言い方がされうるが、その場合はちょっと面倒なことになる。

「Bさんはいらっしゃいますか」はBへの敬意あり、「Bさんはくる?」はBへの敬意なしではっきりしているけれども、「Bさんは来ますか」「Bさんはいらっしゃる?」はどうなのか。これらはそれぞれ、「行為者としてのBへの敬意なし、聞き手としてのBへの敬意あり」「行為者としてのBへの敬意あり、聞き手としてのBへの敬意なし」ということになるだろうが、それはどういうことかを考えてみると、「聞き手としてのBへの敬意」は上下・親疎のうちの親疎の関係を示している、と解される。それが「なし」というのは近い関係、「あり」は遠い関係、というように。

 敬意が示されるのはソトの人である。「お話しになりました」とだけあっても誰が話したのか、「お話ししました」だけで誰が誰に話したのか、だいたいわかる。前者では話したのはソトの人、後者では私ないしウチの人がソトの人に話したのであって、前後関係を見ればそのウチ・ソトが誰かはおのずと判明する。それは他言語の人称関係と似ていて、「Hallották」(聞いた:ハンガリー語)とあるだけで3人称複数であること、つまり「彼らが聞いた」ことがわかるのと同じだ(加えて、ハンガリー語の動詞活用の特性として、不特定でなく特定のことを聞いたことも)。

ウチ・ソトの境界線が動くことは前述のとおりである。社内では「部長はこうおっしゃいました」と尊敬語で言うが(部長はソト)、社外の人に対しては「部長はこう申しました」と謙譲語で言わなければならない(部長はウチとなる)。

 敬語(「いらっしゃる」「おいでになる」「来られる」など)に対して侮蔑語もあり(「来やがる」「来くさる」「来てけつかる」等々)、だから合わせて待遇表現と言われる。日本語には罵倒語が少ない。ほかの言語でよく口にされる「母親と寝る奴」の意味の「mother fucker」「他媽的」のような表現が日本語にはなく、それが非常に特徴的だ。「アホ、何してけつかんねん! いにさらせ!」の「アホ」などはごくごく普通な罵倒語で、全然強烈ではない。「ドアホ」にしたってそうだ。このような言い方の場合、待遇表現のレベルを下げることによって効果を上げている。つまり、口調は別にして、罵倒が語彙にはあまりよらず、より多く文法による、ということだ。他言語は語彙的に罵る。日本語は文法的に罵る。なかなかおもしろい。

 

<授受表現>

 授受表現は「やりもらい」とも言い、「あげる」「もらう」のことで、物をやりとりする場合は単純に「名詞N+を」、行為のやりとりは「動詞Vテ形」となる。どの言語にもあるだろう普通の表現だが、日本語ではそれに加えて「くれる」というのがあるので、少しばかり厄介だ。だがこれも、よく考えれば規則的で体系的である。

 A→Bは、Aから言えば「あげる」、Bから言えば「もらう」である。だから、

  AはBに Nを/Vて あげます/BはAに Nを/Vて もらいます

 B→Aはその逆で、

  BはAに Nを/Vて あげます/AはBに Nを/Vて もらいます

 ここまでは何の問題もない。問題はウチ(「私」で代表させよう)がからむ場合で、

 A→私

  ×Aは私に Nを/Vて あげます/〇私はAに Nを/Vて もらいます

 私→A

  〇私はAに Nを/Vて あげます/×Aは私に Nを/Vて もらいます

 つまり、「私はあげます」「私はもらいます」はOKだが、「私にもらいます」は普通言えないし、「私にあげます」は「私にくれます」となる。「ウチに」だけが問題なのだ。そこだけ注意すればいい。つまり授受表現は「あげる」「もらう」「くれる」の3つではなく、それにΦ(言わない)も加えた4つなのである、と考えるといい。つまり、

 A→私

  Aは私に Nを/Vて くれます/私はAに Nを/Vて もらいます

 私→A

  私はAに Nを/Vて あげます/ Φ

 「くれる」は常に「ウチの側に与える」だから、「彼がプレゼントをくれた」とだけあっても、彼が誰にあげたのかは明白である。「私に」なのか「私の妹に」なのかといったところは文脈でわかるだろう。「彼がくれた。うれしかった」とだけ書いてあれば、「私」などなくても「誰に・誰が」は自明であること、敬語の場合と同様である。

 本来の「与える・受ける」の意味から進んで、方向性を示すずっと軽い使われ方もしていて、日本語らしい話し方をする場合、けっこう重要になる。「彼は彼女にそのニュースを教えました」というのは正しい文だが、ひどく離れた視点から言っているようだ。「彼は彼女にそのニュースを教えてあげました」「彼女は彼にそのニュースを教えてもらいました」と言うのが自然である。

 

<終助詞>

 終助詞のない会話というのは非常に不自然で、ロボットの会話のようになる。話すときに「か」「ね」「よ」などの終助詞は付随するものである。そして、これらの使い方はシステム的に整理できる。「あしたは雨だそうです」に対する応答として、「そうですか」「そうですね」「そうですよ」を考えてみよう。

 「か」は疑問・質問の終助詞だから、「ね」「よ」とは少し異なると見なされがちだが、これはつまり「私は知らない/知らなかった」ということで、上昇イントネーションで言われると疑問や質問になり、下降イントネーションでは気づき・発見を意味する。「あした雨になるとは知りませんでした」ということだ。「そうだったのか」である。「そうですか?」「あしたは雨ですか?」と上昇イントネーションなら質問となる。

 「ね」は、「私は知っている・あなたも知っている」である。だから同意を意味し、確認するときにも使われる。「あした雨だと私も知っています」という含みである。「あしたは雨ですね?」なら相手に確認する感じだ。

 「よ」は、「(あなたはともかく)私は知っている」で、相手が知っていても「私のほうがよく知っている」というようなニュアンスがあるし、相手が知らなかったら「教えてあげる」という感じにもなる。「知らなかったの? あしたは雨なんです、私は知っています」ということだ。指示するときに「よ」がつくのもそれによる(「早くしてよ」)。強い主張や働きかけの意味も帯びる。

 このようだから、これらも適切に使わないと嚙み合わない印象を与えてしまう。

 

<女ことば>

 日本語には女性に特徴的な表現、いわゆる「女性語」がある。

 「お」や「ご」を頭につけて丁寧に言うことが多い(男が「肉」「給料」と言うのに対し、「お肉」「お給料」など)とか、終助詞に女性は「ぞ」「ぜ」「な」などは使わず、「わ」をよく使う(最近はそうでもないかもしれない)などが挙げられる。

 断定の助動詞「だ」に終助詞「ね」「よ」をつける場合、男が「だね」「だよ」と言うのに対し、女性は「だ」を落とし、ただ「ね」「よ」をつける(「あの人だね」「これだよ」に対し「あの人ね」「これよ」)。「か」も避けられる(「食べたいか?」に対し、「食べたい?」、「行くのか?」に対し「行くの?」)。「だ」には横柄な感じがあり、「か」は直截的なので、女性はそれをきらうということだろう。女性語には言語に対する批評性がある。最近は「だね」「だよ」と言う女性も多いけれど、それはちょっともったいない。

 名詞を丁寧に言うとき、前に「お」をつけるか「ご」をつけるかの問題も女性語に関係しているようだ。これの基本は、和語の前には「お」(お酒、お出かけ)、漢語の前には「ご」(御酒[ごしゅ]、ご旅行)であるが、「お」をつける漢語(お食事、お散歩)、「ご」も「お」もつける漢語(お/ご返事、お/ご病気)という例外がある(「ごゆっくり」「ごもっとも」など「ご」のつく和語という例外もあるが、これはごく少数だ)。漢語なのに「お」がつく語を見渡してみると、生活に溶けこんで日常的に使われていて、その点で和語並みになっている語ばかりである。そして、家事に関連し、女性のテリトリーにある語が多いということにも気づく(お料理、お洗濯など)。「お豆腐」「お野菜」などのように食べ物の漢語にこれでもかとばかり「お」がつくのを見てもいい(例外は「ご飯」だが、しかし「赤飯」は「お赤飯」である)。女性は丁寧な物言いをすることが多く、その際「ご」でなく「お」をよく使う(給料を男がもらえばただの「給料」、女がもらえば「お給料」)。男は抽象性の高い語と「ご」をよく使い、女は具体性の高い語と「お」をよく使う、という事情がそこにはあるのだろう。これも男の言葉遣いに対する一種の批評性である。

(「漢語+する」を見た場合、「ご+漢語」の語は尊敬、つまり相手のすることに(ご理解になる、ご出席になる)、「お+漢語」は謙譲、つまり自分のすることに使われる(お掃除する、お電話する)ことが多いということも言えそうだが、それは傾向にとどまる。)

 

<SOVの宿命>

 英語や中国語の語順がSVO(主語・動詞・目的語)であるのに対し、日本語はSOVで、そういうタイプの言語は少なくないどころか、むしろSVO型より多いのだが、SOV文型の場合、その宿命として述語が文末に来る。肯定か否定かも最後まで聞かないとわからない。旗を上げるのか上げないのか、下げるのか下げないのか、最後まで聞かないとわからないから、旗を使った子供の遊び(「赤上げて、白上げないで…」)もおもしろく遊べるわけで、「Raise it」「Don’t raise it」としょっぱなでわかる英語ではこのゲームは成り立たない。

 しかし、ゲームができて喜んでいてはいけないので、これはかなり大きな問題だ。たとえば、「私は妻XXに遺産の相続分を与え」の後で文書が切断されていたら、それに続くのは「る」か「ない」かで大問題だし、妻が後妻で先妻の子と仲が悪かったら、相互に弁護士を立てて大騒動になりそうだ。

 あるいは、「彼は頬を殴」でページが終わっていたら、めくるとどう続くか。「った」「らなかった」の二択ならいいが、「れなかった」「りそこなった」「られた」「られるところだった」「らせた」「らせてやった」「らせてもらった」「らせてくれた」「らせられた」「らせられなかった」「らせられそうだった」…。殴ったのか殴らなかったのか、誰が誰の頬を殴るのか。「た」ばかりあげたが、「るだろう」「らないだろう」「っていたことだろう」等々もありうるので、まったく「可能性は無限大」である。

 「オレは着飾った彼女を真っ赤なポルシェに乗せて海岸通りをドライブし、夕日が見える小高い丘のレストランへディナーに…行きたかったなあ」。これでは、何だ、行かなかったのか、となる。倒置して、「行きたかったなあ、着飾った彼女を真っ赤なポルシェに乗せて海岸通りをドライブし、夕日が見える小高い丘のレストランへディナーに」とすれば、どんでん返しは起こらない。この場合は、興味を引っ張っていって最後に落としたいのだろうから、そんなアドバイスは野暮だが。

 副詞には、様態副詞(「ゆっくり」「じっと」など)・程度副詞(「かなり」「もっと」など)のほかに、陳述副詞と言われるものがある。「決して」(否定)、「まるで」(比況)、「たぶん」(推量)、「まさか」(否定推量)、「ぜひ」(願望・依頼)、「なぜ」(疑問・反語)、「もし」(仮定条件)などで、それは文末の述語と呼応し、それを前もって予期させる働きをするので(「決して」なら「ない」などの否定、「まるで」なら「ようだ」など)、数は限られているけれど、スピーチなどでは倒置とともに適宜使って、述語の見えにくさを時おり回避するのが望ましい。

 

 ほかにもトピックはたくさんあるが、文法書を書くつもりではないので(書けもしないし)、このあたりで区切りとする。

 欠点はあまたあるけれど、それにもかかわらず日本語文法は美しく、そして美しくあるのをやめることはない。それが言語であるかぎり。何より愛すべきものは母語である。