オタクは輝いている

 言語は道具である。だからコミュニケーションの手段として学ぶのが正道だ。それはたしかに正道であり王道であるが、覇道でもある。コミュニケーションの道具としての学習法は、要するにジプシーの言語習得である。もちろん、ジプシーは人間のひとつの究極だから深甚な敬意を持っているが、人はジプシーのみにて生くるものにあらず。それだけでいいとは思わない。

 日本語学習世界は三つに分けられる。第一世界は東アジアと東南アジアである。地理的に近くて、日本のプレゼンスが高く、日本企業が進出していたりして、日本語学習が実利とつながっているところ。日本に行く機会も多い。第二世界は西欧北米の先進国。実利以外のものに関心を持つ余裕がある。第三世界はそれ以外のところで、実利は求めるけれども、その機会が非常に乏しい。進出日本企業は少なく、日本に行けるチャンスも少ない。

 東アジア東南アジアの経済発展によりこの構図にも変動が起きているけれども、基本的な部分は大きくは変わっていないと思われる。

 幸運にして先進国に数えられる国に生まれたためか、実利以外、実利以上を求める気持ちが強くある。文化やことばそのものに興味があるのだ。ことばのうちでは特に文法で、この世に文法ほど美しいものはない、人類が作り出したものでこれ以上の奇跡はないと思っている。

 文字にも多大の興味を有してはいるが、これは文法に比べ非常に欠陥が多い。嫌う人がいるのは理解できる。とはいえ、漢字のおもしろさはぜひ知ってもらいたく、ぜひ伝えたく思う。カナモジ論は賛成しないし尊重もしないが、ローマ字論は賛成しないが尊重する。それを尊重し、同音異義語の氾濫に歯止めをかけたく思っているけれども、漢字廃止はもはやできない相談だし、人類の貴重な文化遺産であると思えば、これとうまく共存することが必要だ。漢字はたしかにくびきであるが、非常に便利でもあるし、何よりこの上なくおもしろい。外国の日本語クラスにかならず1人ぐらい漢字マニアが出てくるのは必然である。

 分け隔てなく教えているつもりでも、やはり自分が文化やことばに興味を持つ人間だから、同じような性向を持つ生徒に親近感を抱くのは避けられない。逆もまた真なりで、学習者(特に若い学習者)は教師の性向に同調する傾向があって、それはいいことなのか悪いことなのかわからないが、それによって習得がはかどるなら、いいことに違いない。

 要するに、文化を愛する人を私は愛する、ということだ。といっても、自文化を嫌いエキゾチックな他国の文化にのめりこむタイプの人はいけない。それは不健康だ。そういうヨーロッパ人をドイツ語で「europamüde」と言うが、うまく言い表わしたものだ。自文化が第一で、その次に日本文化が好きというのが理想である(第二集団のひとつとしてでかまわない)。歪んだ日本像、知識の不足とわずかな知識による偏向が今なおはびこっているから、日本文化を好んでくれる人はなおのこと喜ばしい。

(少々脱線するが、文化とは端的に言って料理である。だから、ある文化が好きと公言するなら、その国の料理が食べられなければならない。みんな食べられなくていいし、嫌いなものがあっていい。宗教的信条的に、またはアレルギーがあるなど生理的な条件で食べられないのもOKだ。食べるものが選べるなら、食べたいものだけ注文すればいい。しかし、家に招かりたりして料理を出されれば、食べなければならない。それが食べられないなら、結局のところは口だけで、その文化が本当に好きだとは言えないと思っている。)

 ネパールは日本語第一世界と第三世界の狭間にある。日本企業のプレゼンスはほとんどないが、出稼ぎ先として好まれている。大勢の若者が毎年日本へ行く。他の国と違うネパールの日本語学習者の最大の特徴は、彼らは日本のことを何も知らない。驚くほど知らない。そんなに知らなくてよく行く気になるものだといぶかしく思うくらい知らない。出稼ぎしたいというのが何よりまず第一で、その点言語学習の正道・王道・覇道を歩んでいる。ヒロシマで何が起きたかを知らないで広島の日本語学校に留学する女の子には嘆息するのだが、たぶん嘆息するこちらのほうが悪いので、文化だの歴史だのという語学に無用のものを求めるのが間違っているのだ。坂口安吾的視点からは、いっそすがすがしいと言うべきか。ジプシーの友である。

 アニメファン、いわゆるオタクは日本を知っていて、多大の興味を持っている(その日本にはかなり偏りがあるが)。そういう人は中国に多く、中国の日本語学習者の半分はオタクだと思う。東南アジアもそうだろう。だが、ネパールの学習者には非常に少ない。中国や東南アジアを見たあとでは、不思議に思えるくらいに。それだけに、数少ないオタクは輝いて見える。日本文化を愛してくれている人たちだから。