北朝鮮とボランティア

私は北朝鮮のミサイル実験を断固として支持するものである。まわりの国すべてがミサイルを持っているのに、北朝鮮のみがミサイルを持ってはならず、開発をしてはならないというのはわけがわからない。自分はピストルを突きつけておいて、お前はピストルを持ってはいけないなんて、どんな悪党の論理だ。開発すれば実験はするさ。それを禁じるのは、一人前の国であってはならないと言っているようなもので、いかなる国(日本を除く、という注釈をするべきかもしれないが)に対しても通る言い分ではない。
核兵器となると話は別である。これは非常に好ましくないが、安保理常任理事国だけしか核兵器を持ってはならない不平等な今の体制がおかしいのであって、それに反対して核を開発しても、ステータスが上がりこそすれ(インドやパキスタンのように)、下がることはない。もし核保有国が他の国の核開発を阻止したければ、イスラエルがやったように(そしてやろうとしているように)、実力で破壊するしかなく、それはイスラエルを見ればわかるように、言語道断なヤクザの所業である。
あんな貧乏国がきわめて不利な状況下で核開発に成功したのは、敵ながらあっぱれとほめていいことだ。豊かな韓国が満足に宇宙ロケットも飛ばせないのに、北朝鮮が長距離ミサイルをまがりなりにも飛ばしているのは、いっそ痛快でさえある。
北朝鮮を非難する日本人は、戦前の日本は北朝鮮のような国だったということを思い出さなければならない。ブッシュのおじいさんが当時のアメリカ大統領なら、日本はならずもの国家の筆頭に挙げられたにちがいない。ま、実際「悪の枢軸」の一角だったしね。わが友ヒトラー、ムソリーニだもんね。人民を飢えさせながら核開発をする彼に、百姓に娘を売らせながら分不相応な世界一の巨艦大和や武蔵を保有していた我を重ね合わせ、痛切に恥じ入りながらする批判なら聞こう。そうでない、単なる健忘症の驕りなら、聞いているこちらが恥ずかしい。
尖閣諸島の問題で重要なポイントは2つ。中国のふるまいは不愉快きわまる。だが、戦前の日本はあんなことばかりしていたんじゃなかったっけ。まあ、日本は欧米列強のやり口を不器用かつ強引に真似していただけだけども。要するに、昔していたことをやりかえされているだけである。
そして、「尖閣諸島はわが国固有の領土であって、領土問題は存在しない」。日本が実効支配している尖閣について広報しているパロールは、韓国が実効支配している竹島について広報しているパロールと一字一句同じだということをよく味わうべきである。人のふりとわがふりが同じでは、人のふりは直させえまい。
戦前の日本について、司馬遼太郎は「あんな時代は日本ではない」と灰皿を叩きつけるように叫びたい衝動に駆られるという。今の北朝鮮より戦前の日本のほうがいい国だったろうと思うけれど、それは五十歩分でしかあるまい。そうして見ると、いかに憲法がGHQの作文の稚拙な和訳にすぎなくても、戦後日本というのは偉大な達成であったことがわかる。しかしながら、そんな戦前の日本を守るために進んで命を投げ出した人たちが大勢いた。守るに足る美点を備えているはずの戦後の日本を守るために、命を捨てる人はいるのか。世界は逆説的にできている。けれども、震災のあとのボランティアを見て、これが戦後流の国の守り方なのかとふと思った。