新型コロナに関する疑問

 私は素人である。医学の専門知識などまったくない。そんな人間がわずかな情報から常識のみによってこの病気について考えることにする。素人の寝言など聞きたくなければ、読まずにすませてほしい。

 この新型コロナは「コーカソイド・キラー」であるようだ。この問題を考えるときは、欧米とそれ以外は別々にする必要があるだろう。
 アジア諸国は、発源地中国にしてからがそうなのだが、その中国に隣接する諸国、ベトナム・モンゴル・台湾(北朝鮮の公式発表は何につけ信用できないので除くとしても)の驚異的な死者数の少なさに目を見張りつつ、それ以外の諸国の数字も慌てふためかなければならないようなものではない。地球にとっては人類がウィルスのようなものであり、人間が減るのは地球にとってよいことだが、実はあまり減っていないのではないか。少なくとも非欧米人地域についてはたしかにそうだ。野放図に多すぎる中国人(一人っ子政策の下でも増え続ける四則演算を超越した存在)など、ちっとばかり減ってもらいたいものだが(せっかく最初に流行したことでもあり)、死者は5000人にも満たない。大躍進の失敗や文化大革命時の死者数を考えれば、取るに足りない数である。母数は13億だから、コンマ以下切り捨てならゼロだと言ってもいい。
 WHOが「コントロールされたパンデミック」などと妙なことを言っていたが、アジア諸国に限ればそれは間違ってはいない。制御不能の欧米によってこの流行を見ると、誤る。峻別しなければならない。
 同じように国家権力の強権による封じ込めを行ないながら、このような差が現われているのはどうしたことなのか。変異した型によるのか、風土や生活習慣によるものか、あるいは人種によるのだろうか。それはわからないが(これからわかっていくことだろうが)、いずれにせよ非欧米世界ではこの病気はさまで脅威ではない。
 7時のニュースがコロナばかりというのは奇怪すぎる。この病気の恐怖がやたらに喧伝されているのは、広報が欧米に独占されていることに由来すると思う。情報知識はほとんど彼らの占有物で、彼らにより誤ったコロナ像と対処法が公布されている、という疑いは持っていい。彼らはペストやコレラと勘違いしているのではないか? 彼らのトラウマ、彼らの妄想につきあってはいけない。「悲惨」に群がるというジャーナリズムの本質がひとつと、報道の欧米独占による偏りがひとつ。今回はその欧米が悲惨であるため、(中国・韓国以外の)アジア近隣諸国は素通りし、悲惨な欧米にばかり注目する。成功は報じられず、失敗のみ声高に触れ回る。反省すべきだろう。

 昨年同時期の全病死者数と比較した統計が見たい。実はあまり違わないのではないかと思っているのだが、どうだろう(欧米は除いて)。変動があるとしても、誤差の範囲内ではあるまいか? 2020年以前にも人々は毎日死んでいた。インフルエンザでも毎年死者は多い。例年のほかの病気による死者の数を代置しているだけではなかろうか、センセーショナルでない日常の死がセンセーショナルな死に置き換えられているのではないかとまず疑ってみるべきだ。

 コロナは要するに都市生活者の問題である。都市生活者、つまり第二次・第三次産業従事者、時間を切り売りする連中の。第一次産業従事者にとってはこれはたいそうな問題ではない。気をつけましょう、で済むことだ。その人たちが今は圧倒的少数派になっていることもこの狂騒は示している。外出自粛だろうが何だろうが、時が来れば田植えをするさ。植えにゃ日本の米にならぬ。食糧が供給されなければ、自粛も何もあったものではない。
 メディアは大都市に盤踞する。知識人や専門家も都市住民だ。そのことによる偏りは常にあるし、常に念頭に置かなければならない。声の大きい人たち(欧米・都市)のために冷静に考えることができない。歪められ、踊らされている。それがこの問題を見るときに持つ感想だ。

 すっかりペストになりおおせているけれども、結局は風邪である。タチの悪い風邪、変態風邪だというのがこの病気だと理解している。無症状のことも多く、軽症ですめばこじれた風邪程度だ。
 風邪ならば、よほどひどくこじらせて肺炎にでもならないかぎり、命までとられることは少ない。しかしコロナの場合、2割が重症の肺炎になる。重症になった場合の致死率は高いみたいだし、急速に悪化することもあるようだ。
 無症状というのは健康体だということである。風邪の場合はまったくそうだ。いま私の体内には風邪のウィルスがあるかもしれない。しかいそんなことは私も他人も(医者も)気にしない。なぜなら私が「健康」であるからだ。もし発症したら、そのときに対処するだけのことだ。無症状者(=健康体)からも風邪のウィルスがうつることはあるだろうが、うつっても風邪ならば何のことはない。ただコロナだと、うつされた人が重症化するかもしれないから厄介だ。絶命するかもしれないし。発症者は入院し隔離し治療することで、方針に迷いはない。この無症状者の問題がコロナ対策の要なのだろう。
 とはいえ、やはり基本は風邪なのだ。そこを外してはいけないと思う。風邪を抑え込むことはできるのか? できない。風邪ならば、できるだけ注意してかからないようにしよう、うつさないようにしよう、というのがせいぜいだろう。コロナにも同じことが言えるのではないか?

 アメリカの若者はこの病気を「ブーマー(=ベビーブーム世代)・リム―ヴァ―」と呼んでいるそうだ。日本語で言えば「団塊取っ払い屋」である。この病気が悪化し致命的になるのは大多数が高齢者か病気持ちだからだ。つまり、死ぬのが2、3年早くなるだけというシニカルな見方も可能だ、ということだ。
 男のほうが死者が多いという事実もある。男のほうが飲酒喫煙など不健康な悪習をもつ者が多く、体の酷使もしていることが多いことを考えれば、むべなるかなである。
 「死んでもしかたがない人」という言い方は残酷で無神経だが、しかしそれは存在する。7歳以下の子供(「七歳までは神の子」)と高齢者(歯が丈夫なのを恥じて石を噛んで砕こうとするおりん婆さんの世代)だ。この病気は、遅かれ早かれ死ぬ人たち(それはわれわれすべてであるが、その中でも特に、もう時が数えられ始めていた人、という意味で)の運命を早めていると見ることはできる。それ以外が死んではいけない人で、その人たちが大勢死ぬようなら大ごとだが、そうでなければそれほどではない。ものには順番がある。非情ではあるが合理的な考え方である。人は誰しも自分がかわいいし、家族身内は大切だ。だが、そういう感情を離れて遠くから眺めれば、たしかにそうだと言えるだろう。目の前の患者のため身を危険にさらして救命に努める医療従事者の美しい姿も別にして。
 漱石は五十、鴎外は六十で死んだ。七十は古稀、古来稀なり。漱石はさすがに若すぎるが、鴎外が仕事をやり残して死んだという印象はない。不自然に、自分の功績でもないのに伸びてしまった平均寿命に現代人は惑わされてしまっている。70でも早死にだと言われかねない。誰も死にたくはないが、遅れ先立つためしなるらむ。苦しいようだし、人にうつす恐れのあるこんな病気よりも、ポックリが理想だけれども。

 この病気による悲劇は、罹患死ではない。看取られもせず、葬式も満足にあげられないのはモラルの踏みつけであるにしても、この病気が引き起こした事態の悲劇的側面としては些末なことである。悲劇は、医療従事者の感染死であり、しばしば自殺や一家離散にいたる解雇倒産、貧窮である。
 日本(緊急事態宣言前の)とスウェーデン以外のほとんどの国では、封鎖(ロックダウン)によって対処している。この病気には治療法がなくワクチンがないからうろたえているわけで、それができるまでの時間稼ぎというなら、この対処法にも意味があるかもしれない。しかし、風邪にも特効薬がなくワクチンもないではないか。風邪についてできないことが、新型コロナに対してなぜできるのか?
 「ロックダウンの思想」は拒絶排除の思想である。医療従事者やその家族に対する差別、まるで感染者であるかのように忌避されることが横行しているらしい。しかし彼らはまさに濃厚接触者そのものなのだから、「ロックダウンの思想」に依拠すれば、当然の如く排除隔離されるべきではないか。彼らを別扱いするなら、それはダブルスタンダードということになろう。「ロックダウンの思想」に染まることがおかしい、と考えてみていいのではないか。ペストのような「死んではいけない人たち」もばたばた倒れる流行病なら、封鎖もやむをえまい。だか、これはそうなのか?
 ロックダウン(それも徹底したロックダウン)が成功したのは、中国である。見る人聞く人すべてが驚く突貫工事であっという間に専用病院をふたつも建設したり、感染防止のため髪を切り丸坊主姿になった看護婦を大量に送り込んだり、驚嘆するほかない荒業を次々に繰り出した。そして一応抑え込んだ。大成功として誇らしい経験になるだろう。世界よ、これにならえ。ロックダウンが是であるならば、世界は中共を礼賛しなければならない。中共の前にひれ伏さなければならない。この思想の帰結はこれだ。

 コロナに対する勝利というのは、感染ゼロではありえない。それは実現不可能だ。風邪の感染ゼロ、インフルエンザの感染ゼロがないのに、新型コロナだけ感染ゼロになりうるはずがない。そうではなくて、感染しても軽症ですみ、重症化しても助かることが勝利だ。人間の体の持つ力によって、この新しい猛毒風邪を馴致しで、きるだけ無害化するしかないだろう。よい療養法(完治法ではない)を見つけ出して。
 風邪に対してできないことが、新型コロナに対してできるとは思えない。風邪に対してするべきことを、新型コロナに対してもするべきだ。私はそう思う。

 コロナに関連して、気になることがもうひとつある。
 日本は感染検査を十分にしていない。しないのか、できないのか。「しない」のはひとつの見識である。それは感染者数の把握の放棄であって、科学的な態度ではないが、この病気で重要なのは重症者数と死者数であるから、感染者数を重要視しないという態度はある決意を表わしているのだろう。あの検査は7割ぐらいしか信頼性がないと聞く。検査で陽性でも実は感染しておらず、陰性でも実は感染している人が3割。そんな信頼性の低い検査結果に立脚する危うさはあるわけだし。
 しかし、その方針は緊急事態宣言(ロックダウンはもちろんのこと)とは相容れない。社会活動の停止状態はいつか解除しなければならないが、それにはよるべきデータが必要で、それを持っていなければ解除できない。つまり宣言もできない、ということになるはずだ。宣言発出の前、首相は何日も「ぎりぎりで持ちこたえている」と繰り返していたが、その根拠は何なのかいぶかしく思っていた。ま、いわゆる「総合的な判断」なのだろうが。
 首相は検査数を上げると言明した。しかし実際はそうなっていない。職務怠慢か統制不能か、どちらにしても由々しき事態だ。あるいはその場を取り繕うだけの虚言ということも考えられ、あの首相はそんなことばかりやってきたからその可能性もあるわけだが、それも情けない話だ。
 あるいは、「しない」のではなくて「できない」のか? 韓国にできることが日本にできないはずがないから、この可能性は考えていなかったが、ひょっとしたら日本はもういろいろなことが「できない」国になっているのかもしれない。もしそうなら、それはさらにいっそう恐ろしいことだ。首相お得意の虚言であることを願うよ。