Facebookはじめました

私はITのことは、さっぱりと言っていいくらいわからない。それでも、パソコンも使えばインターネットもするし、デジカメも携帯電話ももっている。現代の中核労働力に必要とされるものは最低限クリアしていると言えるかもしれない。しかし、もってはいても使いこなしているとは言えず、ましてわかってなんかいないのである。
それが日本語でも、法律の専門家同士が話していることは6割程度しかわからない。しかし逆に言えば、6割くらいならわかる。けれどもITの話となると、わかるのは1割以下である。極端に言えば、てにをはと活用語尾しかわからない。漢字が読めない人の目に映る日本語の刷り物はこんな感じなのだろうなと、疑似体験させてもらっている。その意味では貴重な経験だ。
こんな人間だが、将来はともかく(年年新世代は旧世代を生物学的に駆逐してゆく)、現時点ではまだ私程度の者のほうがぎりぎり多数派であろうと思う。お慰みにIT私史を書いてみるのも、無用ではあるまい。


まず、いちばん初めはコンピューターゲームである。しかし、あの全盛を極めたインベーダーゲームを一度もやったことがない。それ以後のゲームもすべて。やったことがあるのはごく初期の単純なピンポンゲームだけである。しかし最近、トランプゲームをした。トルコの長距離バスの中には、飛行機のように各席にテレビ画面がついているものがあって、それでテレビを見たり映画を見たり音楽を聞いたりできるのだが、そのコンテンツのひとつに簡単なトランプゲームもあって、何しろバスの中はひまだから、これをやってみたのだが、さっぱりルールがわからない。あれこれいろいろしているうちに、ゲームの規則がつかめてきた。そういうものを誰にも教わらず独力で発見するとうれしいし、とにかくバスに乗ってる間はひまなので、何度かやった。それだけ。だからゼロではないが、0.01マイクロシーベルトぐらいか。
ワープロなら、今書いているその行1行しかディスプレイされないものがあった時代から使っていたが、パソコンはフェルガナへ行くとき中古をゆずってもらったのが始めである。ラップトップにしては非常に重かった印象がある。その機械はウィルスでダウンした。それから数えて、今のこれは3台目だ。
デジカメは、サハリンへ行く前に買ったのだろう。その頃からのデジタル写真しかないから。現在2台目を使用。
携帯電話は、トルコで必要に迫られて買った。職場では、研究室はもちろんだが、宿舎でも電話は内線で、外へかけられないのである。だからケータイをもつ必要があったので、いちばん安いものを買った。買ったはいいが、電話番号を知らない。自分にかける必要はないので。どこかにメモしてあるはずだが、どこだったかにわかには思い出せない。だもんで、自分の携帯番号を教える必要があるときは、相手に電話を渡して、番号を探し出してもらう。プリペイドの度数の入れかたも知らない。それも学生にやってもらっていた。
初めはとにかく受信専用だった。けれどメッセージの打ち方は自分で習得した。トルコの汽車はひどく遅くて、乗っている時間が目がくらむほど長い。その上に分でなく時間の単位で遅れるものだから、それを迎えの人に知らせる必要があり、かつ時間は膨大にあるから、試行錯誤しながら何とかやりかたを覚えた。バスのトランプゲームと同じく、独力で「文法」を読み解くと、愛着がでてくるものである。学生たちのあの指の早業には百年たっても追いつけないが。
ごらんのとおりブログもやっているわけだけど(2005年に始めていますね、今調べると)、それは「ブログの作り方」みたいな本を買って、それを見ながらやった。どうして「はてな」のブログなのかというと、その本にはココログライブドアと「はてな」の説明しかなくて、ココログは有料だから除外すれば、あとは「はてな」しか残らないのだ。ライブドアは何だかいやだったので。そんなわけで始めた「はてな」だが、やってみると、これは自分に合っているかもしれないと思って、けっこう気に入っている。
そして、Facebookの開設となるわけである。これも、学生から友だちリクエストをもらって、せっかく誘ってくれているんだからむげに断るのも悪いと、よくわからないまま開いてみたというのが実のところだ。


で、今もこうしてパソコンに向かっているわけだが、私はパソコンをどのように使っているのだろうか。
まず、ワープロとして使う。6割その使い方だろう(にもかかわらず、キーボードを両手でたたくことができない。ほとんど右手中指だけで打っている)。
それから、メールのやりとりに。このふたつで8割になると思う。
インターネットでももちろん使う。
CD、DVDプレイヤーとしても使うが、これは必要なときだけ。たぶんデジタル写真アルバムとしてとしてのほうがもっと使っている。
パワーポイントは使えない。しかし「必要」に包囲され、その包囲網がだんだん狭まってきているのはひしひしと感じるから、遠からずできるようになっているかもしれない。
ざっとこんな貧しい履歴である。周回遅れ、それも平均的な人々からも2、3周、少し前目の人たちからはふたケタは確実に遅れています。はい。


まあ、根本的な問題は、これですね。必要に迫られて後追いしているだけで、目標がないのだ。私にとってITには、「こうなりたい人間像」がないのである。
ジダンになりたい」と思ったら、一生懸命サッカーの練習をするだろう。でも「オタクになりたい」とは思わないものねえ。それどころか、学生時代には、学問はすぐれているがテープレコーダーも満足に操作できない教授を見て、「すばらしい。私もこうなりたい」なんて思っていたんだから、その時点ですでに勝負はついているのである。その上、デジタルは怪しいが、アナログ機器ならその教授以上には使いこなせるのだから、どっちからでもまるでダメなのだ。


新しいものは何でもまずきらってかかる旧弊な私は、むろんコンピューターもデジタル機器もインターネットも、深い深い疑いの目で見ておりました。電気がなければただの箱だ、というのが最新機器ぎらいのまずもっての言い分である。電気というのがときどきなくなることを前提にしなければならない地域は今も広く存在しているのだ、世界には。そして私が好んで赴任したがる土地は、そういうところが多いのである(私は「いなか」の断固たる味方だ。「都市」と「いなか」が争っていたら、私の愛は決然と「いなか」に注がれる)。
停電にはいろいろ思い出がある。ウズベキスタン日本語能力試験の模擬試験をやったとき、フェルガナにもその会場を設けて、そこの係をした。聴解試験ではテープレコーダーを使う(この段階ですでに古いね。これもラジカセも、遠からず死語になろう)。停電が多いのは承知だから、当日の朝バザールで電池を買った。聴解の時間の前に、案の定停電した。さもあろう、備えあれば憂いなし、などと胸のうちでつぶやきながらスイッチを入れると、こはいかに、ぴくりとも動かない。6個買った電池のうち、不良品がひとつあって、そういうのがひとつでも混じっていると動かないのだ。本当に備えがあるというのは前日に買って前夜に試しておく人だと知らぬ愚か者であることを思い知らされた。念のため言っておきますけど、これ21世紀の話ですから。こないだまでの超大国での。
(最近の輪番停電で、作業中は常に通電しておかねばならず、2,3時間でも止められると作業全体ができなくなるという業種の人たちから苦情が出ていると聞いて、驚いた。それなら自家発電でやるべきだろう。電気が止まらないことを前提にしているなんて、理解の外である。前提はその逆でなければならないんじゃないか?)
電気の話でいけば、薄型充電池、あれはダメですね。外で使うために必要なのに、外にいるとき電池が切れたら、どうにもならない。それに、冬は零下ふたケタにもなろうかというところでは、充電はすぐに切れてしまう。そんなときのために予備の充電池をもっておくべきなんだろうが、高いのだ、あれは。アルメニアでいっしょだったある知人は、もってきたデジカメの充電池が壊れてしまい、その型のは店で売っていないので、日本から送ってもらうことにしたが、その小包が届かなった、なんてことがあった。それを見てから、乾電池式のデジカメにかえた。乾電池型の充電地もあるわけだし、予備をしのばせておくのもかんたんで、僻地でも探せば何とか手に入るから、万一外で電池が切れても安心だ。乾電池式だと少し大きくなるが、それは何の苦でもない。同一規格・入手容易でないほうがずっと困る。それ以来、薄型充電池のカメラをもっている人を、高い都市インフラの中でしか暮らせない人として、少しばかり見下している。
インターネットについてはさらに、そんな停電のよくある土地では、電話回線しかない上に、その電話もろくにつながらないのがふつうだ。かつ、すぐ切れる。大容量のメールが来たりすると、絶望的な気持ちになったものだ。何十分もつなぎっぱなしにしなければならなくて、そしてその間には必ず切れるのだから。
人口的にはどうか知らないが、こういう土地は面積としては今も先進地域よりはるかに広大である。これが常態である人間にとっては、ITを駆使する人というのは、端的に言って「租界に住む人々」なのである。いつでもどこでもインターネットに接続できるようになって初めて、「新しい時代が来た」と言える。それまでは「租界に住む人々」の利便が向上するだけの、「星からの便り」なのである。過渡期にいることは、かたときも忘れてほしくない(日本だって立派な過渡期ですよ。私は電話回線でインターネットしてるんだもの)。
「革命」は、それまでの弱者を強者に変え、それまでの強者を弱者に変える一面がある。それが「革命」の醍醐味だ。しかし他面では、強者をさらに強く、弱者をさらに弱くもする。「革命」の果実が全員にいきわたるまでは、「格差拡大装置」として働くのである。「革命」を金儲けの手段としか考えない人たちには、取り残された人々のことは視野に入ってこない。視野に入れなければ、それだけ金儲けのほうも進むのだ。「インターネット革命」も、「革命」のこの常道にしたがって進んでいる。


とこうしつつも、遅ればせながらデジタル機器を使うようになって、ありがたいのは、写真もビデオも音楽も一元化できるということだ。
デジカメ以前のわれわれは、「写真屋の債務者」みたいだった。フィルムを買うのは借用証文を書かされたようなもので、撮っては現像焼付のためにまた写真屋へまいもどり、焼増しでまた訪れ、というぐあいに、そのつど元金の利子を払いに行かねばならない感じだった。それから解放されたのはありがたく、また解放されて初めて、鵜飼の鵜だったなと気がついた。
インターネット、わけてもEメールというのは、距離を無化してくれるので、私のようないなか暮らしでかつ「住所不定」、1年か2年のスパンで住所が変わる人間にはありがたい。どこからでもアクセス可能な「私書箱」があるのは非常に助かる。調べものも本の注文も以前とは比較を絶して楽になった。
「距離」というのはどうにもならない所与で、桎梏であった。それがもののみごとに粉砕される。「一方的」であるという特権もひっくり返された。インターネットはその意味で構造的な大革命である。これを経験したあとの世界は、それ以前と同じではありえない。それは「いなか」にとって大きな福音だ。
個人的に言えば、ブログで発信できることに大いに恩恵をこうむっている。この「ブログ」には、「日記」というブログ本来のありかたから遠い論文じみたものが載っているのにお気づきだと思うが、学界の辺土をうろうろしていた頃は、発表の場がないのに苦しんだ。書きたいことは多々あるのに。インスティテューションというものはどこか帰属する場所のある人間を前提に作られていて、無所属の人間のための場所はほとんどない。それを幾度も痛感した。私的なブログに載せても業績にはならないが、少なくともそんなばかげた苦しみからは解放される。これからは頼まれたものしか書かない(ハハハ、偉そうに。頼まれることなんて5年に1度もなかろうに)、書きたいものはブログに書くと決めたら、楽になった。すべてに優先されるのは心の平安だ。
ものを書くとき、ワープロというのはまことに重宝だ。他の人はどうしているのか知らないが、私の場合、草稿から決定稿にいたるまでにはだいたい次のような手順を踏む。まず、書きたいことの要点を列挙する。これは「点」である。それから、それぞれの点についてあまらましをざっと書いていく。この作業は「面」と言っていい。碁盤の上で、あちらにとんだり、こちらにもどったり、さまざまなところで局面がくりひろげられているイメージである。そして、文章というのは、音楽や話しことばほどではなくても、やはり線的な存在であるから、最後は「線」に収束する。冒頭から結末まで、筋道を整えて並べ、それにさらに細かい加筆修正を行なって、できあがり。ワープロのない時代は、これをいちいち紙に書いてやっていた。その頃は誰もがそうしていたのだから、特に骨が折れるとも思っていなかったが、今考えればかなりな仕事だ。ワープロだと、この作業が実にスムーズにやれる。手で下書きを重ねていたときとは、かかる労力がケタ違い、ふたケタ違いそうなくらいに楽である。これに慣れてしまうと、もう元にはもどれない。
人間は、苦労にはなかなか慣れないが、安楽にはすぐ慣れてしまう生き物である。それをひしひし感じるのが、このワープロだ。しかし、たとえば、電気を使ってしまうともう電気のない生活にはもどれない、というのとはちょっと違う。電気は生まれたときからあったので、停電こそ古馴染みだけど、電気がないことは未知の領域なのだから。ワープロのない時代に成人し、ものを書きはじめた頃は全部手書きだったので、ワープロなしに書きものをするのには慣れていたはずだが、もうだめですね。ワープロを奪われたら、きっと書くことはほとんどしなくなる。それは、世界にとっては何の問題でもない。私が書こうが書くまいが、世界は何も失わず、何も得ない。だが、私個人にとっては、「書く自分」がいなくなるというのは大きな喪失である。朝起きてみたら片手がない、みたいなものだ。人格の由々しいところまで機械に侵蝕されている。もしこのワープロ(パソコン)が壊れたら、すぐ新しいのを買いに電器店に走らなければならない。むろん、ボールペンが切れたら文具店に走るわけで、それと外面的には似ているけれど、内面的には違う。ボールペンに対しては明らかに私のほうが主人だが、パソコンに対してはそうとは言い切れない。「写真屋の債務者」ではなくなったが、「電器屋の債務者」にはなっている。それも、もっと奥深いところで。


もともと、インターネット以前から世界は情報に満ちていた。それへのアクセスができなかっただけである。インターネットはたしかに飛躍的に情報を増やした。情報発信の場が段違いに増えたので。かつ、情報の情報、メタ情報はそれ以上に増えた。だが、インターネット以前の世界が情報に乏しかったと考えるなら誤りである。問題の根幹はアクセスであり情報の再編成あって、そのアクセスを革命的に容易にしたのがインターネットの功績だ。しかし、よく考えてみれば、アクセスはほんとうに「容易」になったのだろうか?
なるほどインターネットには情報が、「海」という形容も小さすぎると思えるくらいにあふれている。そして、それらは正真正銘の「玉石混淆」であって、何が玉かは人によってちがうが、どんな人にとってもその99パーセント超が「石」である。では、人はどうやって「玉」にたどりつけるのか? 検索サイトは「玉」への道を保証してくれるのか?
このブログにアララト山について書いた一文があるが、あれはアララトについて日本語で書かれたものとしてはかなりくわしいと思う。だがあの文は、検索サイト(ヤフーでもグーグルでも)で10ページまで見ても出てこない。そんな情報は存在していないのと同じだ(能海寛についても書いたが、あれは1ページ目で出てくる。能海はそんなに知られていないのか)。このブログの読者が何人いるのか知らないが、かりに100人いるとして、それは1億人のうちの何パーセントですか。しかもその人たちすべてがアララトに興味をもっているわけではないのだし。それならば、インターネット以前の、小部数の雑誌か何かに書いて、誰にも読まれず図書館の片隅に埋もれている状態と選ぶところがない。「情報の海」の実態はこうである。
(この例でもうちょっと言うと、「アララト山/ノア」「アララト山/洪水伝説」での検索結果も同様だ。しかし、「アララト山/ジューディー山」での検索なら、あるいは「ジューディー山」だけでも、1ページ目で出る。でも、この山、知ってましたか? つまり、こんなものを調べるくらいマニアックな人にしか無用の文章だと検索サイトに仕分けされているということで、一種の批評にはなっている。)
また、いくら技術が発達しようが、1日が24時間以上になることはない。情報量が無限でも、私たちの時間は哀れなほど有限だ。寿命のほうは多少のびることもあるかもしれないが、かえってストレスで短くなってしまう可能性も否定できない。勤務時間の内も外もPC画面に向かっているような人は。


それにねえ、よくわからないんだよね、ITの世界は。たとえばケータイで言うと、1000キロも離れたところから、その半径の中にどれだけの人がいるのか知らないが、その人々のほとんどすべてがケータイをもっているだろうに、私1人だけに電話が通じるのって、不思議ではないか? 地下にいてもかかってしまうんだよ? 私が話しているこの同じ時間に、国内でも何百万人が通話しているに違いないのだ。そんなにこの空間には電波が充満しているわけ? それって体に悪いんじゃないの? まったく、「子どもなぜなぜ教室」である。でも、笑っているそこのあなた、あなたは答えられますか?


で、Facebookを始めたはいいんだけど、これで何をする?
とりあえずはメモ帳かな、と思う。
デジタル写真アルバムとしても使おうか。デジカメになって以来、写真が増えすぎた。全写真は自分のために別にとっておくとしても、そのうちから人に見せるための写真をとりのけて整理するのにはいいだろう。
それから、ブログに載せるほどでないこともここに書いておこうと思う。その際、短めの文だから、ローマ字で書くことを試みている。漢字を使って書いていると、つい漢語を多用してしまう(今ごらんのとおり)。ローマ字だと、同音異義語をなるべく避けなければならないから、いい文章レッスンになるかもしれない。それに、変換キーさえ押さなければ、パソコン使ってる私たちは実はローマ字書きしてるんだよね。
Facebookに誘ってくれた学生の思惑とはずれるかもしれないが、まあこんなところを考えています。
グループを作ることもできるので、これで勉強会を組織してみようと試みもしたが、これはちょっとなじまないようだ。


あなたのそんな仕事で、それっぽっちしかパソコンできなくて、恥ずかしくありませんかと言われれば、恥ずかしいです、と一応答える。ちょっと。でも、それほど恥ずかしくも思っていないのが、この人の困ったところで。
明治の人はどうしてあんなに威厳があるのだろうかと問われた人が、テレビを見ていないからだろうと答えたそうだが、たしかにそうもあろう。IT時代のメリットをそこそこ享受する一方で、私はITのアの字も知らずに死んでいく人がうらやましい。きょうも多くのそのような人々が世を去ってゆく。ITを駆使する人の側に「未来」(それには「金儲け」も含まれる)はあり、しない人の側にはない。それはたしかだ。しかしそのことは、幸福であるか否かとはまったく関係がない。「未来」があって幸せな人と、「未来」がない幸せな人を比べても、同じ程度に幸福だというだけのことである。こと幸福に関するならば。その人たちよりITを使いこなす人々のほうがかしこいともまた言えない。インターネットが秒速でできるのがえらければ、オタクのほうが湯川秀樹よりえらいことになってしまう。人間の価値は、まったくそこにはない。と言って、それがパソコンをやらないでいい理由に全然ならないところが、浮き世である。こんな妄言をくりかえす私もまた、浮き世の間抜けな一員である。