春が来た

この3月1日は春の最初の日として記憶されるはずだったのだが。
2時から4時ぐらいの間外出した。よく晴れて暖かく、気持ちのいい日だった。雪は消え、数日前から帽子をかぶるのもやめて、この日からはマフラーもとった。もう最低気温もプラスである。冬の間のばしっぱなしにしていた髪も、この日向かいの店で散発し、気分もさっぱりしたところだ。
マシュトツ大通りはいつものように人が歩き車が走り、ふだんと違うところはまったくなかった。大学も授業をしていた。図書室で借りていた本を返し、女の子とカフェに入ってアイスクリームを食べた。隣の席に婦人警官らしき制服の女性が女友だちとすわり、ビールを飲んでいた。「ギュムリ」という銘柄で、いかにもまずそうな色だったのでよく覚えている。その日見た警官は彼女1人だった。
帰宅するのを待っていたかのように知人から電話があり、その朝オペラ前広場で寝泊りしていた反対派の連中を警官隊が逮捕した、何かあるかもしれないから注意して出歩かないでくださいとのこと。2月19日に大統領選挙があり、その結果(現職首相が過半数の得票で、決選投票になることなく当選)をめぐって反対派が抗議集会やデモを連日やっていたのは知っていた。別に荒っぽい示威ではなかった。よく続くなと感心するというか、半ばあきれていたのだが。


ここからは日記風に書いてみよう。外国人居住者はこんなふうに事件を知るという一例である。
その夜のウェストハムチェルシーの試合は、0−4と一方的ではあったが、おもしろかった。見つけたスペースに走りこみ、そこにクロスが正確に送られ、それをボレーでシュート。こういうコンビネーションのいいプレーとその結果のきれいなゴールを見るのは楽しい。テレビはあるものの、サッカー中継しか見ることはない。CNNは映るのだが、あれはアメリカの洗脳装置だし。
夜遅くロシアの日本大使館から安否確認の電話があった。この時点ではまだ朝のオペラ前広場での実力行使のことでだろうと思っているから、町は平穏ですなどと話す。
未明、2時前に目がさめ、3時4時ぐらいまで寝つけなかったのだが、車の音がとぎれることなく続いているのを不審に思った。こんな時間に表で人の話し声も聞こえた。いくら土曜の夜とはいえ、ちょっと変だ。ここは町一番の大通りであるマシュトツと町一番の広場である共和国広場(ともにソ連時代は「レーニン」の名が冠されていたことからも、その一番ぶりがわかろう)を結ぶアミリヤン通りのそばである。
朝、窓から見ると、通りにいつもは何台もとまっている路上駐車の車が全然ない。するとこんな時間にまた知人からの電話だ。きのうフランス大使館の近くで反対派がバリケードを築いて警官隊と衝突しただの、夜中央市場の近くの商店が襲撃され、車が焼かれただの、1人死者が出ただのという穏やかでない話で、大統領は非常事態宣言を出したとのこと。すると焼かれちゃかなわんのでこの通りの路上駐車も姿を消したのだな。その現場からここは直線距離で300メートルほどなんだから。昨夜の安否確認もそれを受けてのことだったのかとわかる。夜騒ぎの物音は全然聞こえなかった。昼間カフェにいた間にも衝突があったことになるが、そことカフェは600メートル。それだけ離れればかくも平穏無事である。
朝のうちに別の知人からも電話があり、死者は4人だと言われていると。夕方には8人だという話になっていた。情報を得ようとCNNをつけっぱなしにしているのだが、アルメニアのニュースはさっぱりやらない。小国の人間が8人ぐらい死んだだけじゃ報道価値がないのだろうか。もっと死んでから来なさいってこと? ま、大した事件じゃないものを大きく報道される害というのもあるからね。これでチャラ?


しかしよく晴れた日曜日、こんな殺風景な部屋に閉じこもってはおれないので、ゴミ出しのついでに散歩に出た。マシュトツ大通りには小さい子どもを連れた母親もおばあさんも普通に歩いている。ただ、いつも両替するSASというスーパーマーケットの両替所が閉まっていた。ほかの両替所はやっている。
月がかわったので、オペラの3月のプログラムが張り出してあるか確認したかったのだが、まだ出ていなかった。オペラ横のカフェは軒並み閉店。
カスケードという花壇のある大階段をいちばん上までのぼる。中にエスカレーターが設置されているのだが、それは動いていないので、徒歩。1週間前にもここに来ていて、そのときはエスカレーターでのぼれたのだが。この上からはイェレヴァン市街が一望できる。晴天とはいえ靄があるらしく、目の前に聳えているはずのアララト山は見えなかった。1週間前には日陰のところに雪が残っていたが、それはほとんど消えている。
イェレヴァンの市街を広いと見るか、狭いと見るか。いずれにせよ、事件が起きるのはこの広大なパノラマのほんの一部分のことだ。はるかに離れて眺めれば、当事者たちの切実さや懸命さと裏腹に、きわめてちっぽけなものにしか見えない。前景に大きく農夫の畑仕事や生活世界のありさまを描き、遠くの海に墜落するイカロスはさがさねば見つからぬほどでしかないブリューゲルの「イカロスの墜落」の遠近法は正しい。大道の無窮を思わずにはいられない。
まだ来たことのなかった「アルメニアの母」像を見に行く。像の前にはソ連の各地にあるような「永遠の火」が燃えている、のでなければならないが、エネルギー不足のアルメニアではずいぶん前から消えたままらしい。第二次世界大戦大祖国戦争)の戦没者を記念するモニュメントである。その奥に「アルメニアの母」が剣を抜いて、アララトを含むトルコに奪われた領土のほうを向いて立っている。像自体は23メートル、台座は50メートルだそうだ。決して美しいものではない。その巨像のまわりにはソ連の戦車や装甲車、ミグ戦闘機などが並べられ、台座の中は軍事博物館になっている。閉まっていて見られなかったが、ガイドブックによると内部はリプシメ教会を模しているのだそうだ。外観はソ連スターリン様式の建造物に似ている。つまり、アルメニア靖国神社だ。「不戦の誓い」をする政治家は、手前の「永遠の火」のところでそれをしているつもりなのだろうが、すぐ後ろの「遊就館」や抜刀の本尊はどうなの、ということである。第三者が見た場合、「好戦的」と評されてもしかたがないものに見えるねえ。「母」の立つ場所には、その前はスターリン像があったという。彼よりましだが、彼女のほうもどうなんだろう。見ていて愉快なものではない。イェレヴァンでもっとも不愉快な建物は断トツでアメリカ大使館だが(人口300万の国になぜあんなものが必要なのかわからない。広い敷地に建物もアルメニアの政府庁舎より大きそうだ)、これも入賞の有力候補だ。なお、「母」像が立てられたのは1967年。虐殺記念館ができたのと同じ年である。
像の前では日曜らしく若者たちがボール蹴りに興じ、ミグとカチューシャの間ではカップルがひしとやけに密着面積大きく抱き合っていた。
それから丘をくだり、アボヴィアン通りを歩く。トゥマニヤン通りと交わるところより先は交通規制で車の通行を止めていた。イェレヴァンには歩行者天国がないから、こんなときだけでなく毎日こうしてもらいたいものだが。道筋だから、地質学博物館に入ってみようと思ったのだが、これも閉館。
共和国広場から北東へ行くアボヴィアン通りは、イェレヴァン銀座と言っていい。道幅は狭く一方通行、二階建てのさして大きからぬ古い建物が多く、好ましい。道端にカラバラという名物男の像が等身大で立っている。道行く美人に花を差し出していた爺さんだそうだが、今も微笑みながら花を進上する風だ。そういう男がほっつき歩くにふさわしい通りである。小さな家を売って百万本のバラを買う男は歌の中にしかいない。この爺さんぐらいなら現実にいる。その意味でも等身大である。花は数日で萎れひからび、行く先はゴミ箱と決まったもの。そんなものに喜び悲しむのは、人間の人間たるもっとも美しい部分だ。私は花などあげもしなければほしくもない男だが、それでもそのことはわかる。
週末に開かれるヴェルニサージュの青空市も、ふだんどおりにやっていた。人出もいつもとかわらない。オペラの近く、サリヤン像のまわりで週末に立つ絵の野外市には出品が少なかったが。ただひとつ、いつもとまったく違うのは、青空市の入り口近くに兵隊が大勢たむろしていたことだ。勤務交代を待つ休憩中なのだろうか。けれど古本の露店にいい出物なし。
そして共和国広場に出る。ここには装甲車が配置され、ヘルメットをかぶり銃を持った兵士たちが並んでいる。人は歩いているが、こういう剥き出しの「力(権力・暴力)」のすぐそばでは、物見高く立ち止まって眺めたりはしないものだ。人間は視野に縛られる。展望台から眺めたときと打って変わり、間近でなお進行中の「事件」の現場を見ると、ころりと儒家や法家の感想をもってしまう。
音楽コメディ劇場の看板で演目を調べ、橋を渡って対岸へ、ペルシア時代の要塞跡に建つワイン工場の写真を撮りに行きたいと思ったが、ホレナツィ通りから先は封鎖されていた。それでマシュトツ大通りに出ると、ここもホレナツィとの交差点から先は封鎖。野次馬が少々。1分ほどその中にいただけで、アップダウンの大きい散歩を終えた。3月のオペラの出し物はわからず、露店にいい本もなかったけれど、おもしろい散歩ではあった。


フェルガナで第1回フェルガナ弁論大会を準備していたときも、直前にテロ事件が起こり、予定していた審査員がタシケントから来てくれるかどうか案じたものだった。今度もまた第1回アルメニア弁論大会の直前にこれである。春になるといろいろなものが動き出す。春機発動期か? あのときは4月17日の大会で3月29日の事件。しかし間に20日近くあったので、大使を初めJICA所長、日本センター日本語専門家などの客人は約束通り現われた。今回は3月9日の大会で、3月1日の事件。中1週間。モスクワから日本から、審査員を依頼した人たちは来てくれるだろうか。微妙なところである。心配するのはわが身より大会のこと。身の危険性はきわめて少なく、大会不首尾の危険性は非常に高い。どっちを案じるかといえば、それはもちろんこっちのほうだ。