オンラインは壁なく壁あり

 ハバロフスクで教えていていたのは前世紀の終わり、まだ日本語の教師として経験の浅いころだった。大学の教室にはビデオ機器がないが、幸いすぐ近くに日本センターがあったので、そこを借りてビデオを使った授業をしようと手はずを整えたのだけども、始まる前に突然停電となり、呆然とした。停電がしばしばあることを考えていなかった。ビデオなど、電気なければただの箱だ。それ以来、授業プランは必ずふたつ用意するようにしている。停電その他で機器が使えないときのためのプランBは絶対に必要だと早々に学んだ。

 今回のコロナ禍では、インターネットの活用が進み、オンラインでできることはオンラインでやろうという風潮が強くなったが、これには多大の疑問を持っている。もちろん、登校や出社ができない物理的条件下ではそれしか解決策がないのだが、それは格差確定の方法でもある。決して魔法の呪文ではない。

 ネパールでは、ひところのロックダウン状況は脱したが、オミクロン株なるものが現われて、また学校の閉鎖が行なわれた。それは長く続かずすぐ解けたのだけれど、大学はなぜか小中高校が対面授業を再開してもオンライン授業を続け、ネパール語クラスはずっとオンラインだった。これは非常に困る。一度は教師の家が停電で授業ができず、一度は私の下宿が停電で受けられなかった。それでなくても私の家では電波が弱く、遅かったり止まったりするし、非常にストレスが大きかった。受講生の抗議があってやっと対面授業になり、安堵した(「対面授業」なんてことばは、昔から存在したのかもしれないが、普通の人はこのオンライン授業の跋扈があって初めて聞くようになっただろう。携帯電話が現われて「固定電話」なる語が使われるようになったのと軌を一にしている。それまでは単に「授業」「電話」ですんだのだが)。

 初めに文字を習得しなければならないのだけれど、オンライン授業では黒板が使えないので、それは各自の努力に任されることになる。私は教師の言うことをカタカナで筆記してローマ字表記を確認するだけにしていたが、対面授業が始まると教師はデーヴァナーガリー文字ですべて板書するので、非常に困った。それは私の努力が足りないということではあるのだけども、最初から対面授業ならこうは難儀しなかったのは確かだ。

 自分が日本語を教えるときのことを考えても、私は板書を多用するし、学生にも大いに板書させる。文字を覚える必要からいって、板書に勝るものはない。授業でゲームをよくするし、歌もうたう。オンラインでやれと言われたら途方に暮れるばかりだ。

 その点は教師の努力で乗り越えられるかもしれない。しかし設備環境は個人的な努力ではどうにもならない。停電はそのひとつだし、電波の届きぐあいもそうだ。ロックダウン中学生は田舎に帰るが、ネパールの田舎にはそもそもまったく電波の圏外であるところも広くある。パソコンを持っていない人も大勢いる。スマホはみんな持っているけれど、スマホの小さい画面では不十分なことは多い。目を悪くするだろう。日本人には眼鏡の人が多い。中国人の学生にはもっとずっと多い。あれは間違いなく漢字の所為である。中国でも大学の外では眼鏡をほとんど見ないことから、そう断言できる。漢字にわずらわされる宿命のない人たちの目を悪くさせてどうする。

 セミナーもオンラインで、ウェビナー(ウェブによるセミナー)なんてことばも知ったわけだが、それは国境を軽々と越え距離を無化してくれるという点ですぐれているのだけれど、いかんせん国境は越えられても、停電多発地域の事情はどうにも乗り越えられない。インド発のセミナーでは、日本の出演者とも結ばれているという大いなるメリットはありつつ、あちらの停電による混乱もあり、こちらの停電による視聴不能もあって、なかなかに消化不良でストレス多かった。

 オンラインは、結局みながパソコンをもちネットにつながり、停電など大きな災害時にしか起きないような国で有効な方法であるのだ。配布される資料もすぐにプリントアウトできる環境も必要だ。かなりの設備と環境が前提として必要とされる。すべての国がそのようになるべきだというのには賛成できるが、そうなるのはまだずっと先のことだ。コロナ流行のような事態ではそれしか方法がないのもわかる。だが、現時点でそれは格差をまざまざと示しているし、非常に脆弱な基盤の上に立っていることもよくわかった。授業はやはり教室で、黒板の前でやってこそだと確信した。黒板を背負って村々を歩き生徒に授業をするというイラン映画があった。イランでもさすがにそんなのは昔話、ほとんど寓話なのだろうが、それが根本である。ロシアでは教室の外の長い黒板が縦に立てかけられている場所で授業をした。ルーマニアでは新しい教室に黒板が馬車で運ばれてくるのを出迎えた。ネパール語のクラスでは、きょうは結婚記念日だからといってある受講生がみんなにお菓子を配ったりする。別にお菓子がほしいわけではないけれど、人と人のつながりはそういうもので、SNSなどは代替手段の域を出ない。SNSの長所は長所として活用しつつ、本当に大切なものを視界からそらしてはいけないと思うこのごろである。

 インターネットは壁を乗り越えるが、乗り越えられない壁もある、ということだ。