漢字とかなの法三章

日本語に正書法はあるのか。
正書法がかなづかいのことなら、それは存在する。内閣告示「現代仮名遣い」である。かなは表音文字なのだから、表音原則を最大限尊重しなければならない。その点で現代かなづかいは、助詞「は」「へ」「を」や四つ仮名、長音を除いて表音原則に忠実だ。送りがなも文部省の定めたものに従って問題ない。だが、かなづかい以上のことについては、ほとんど野放し状態である。


たとえば句読法がそうだ。文部省も一応「くぎり符号の使い方」なるものを示してはいるが、ほとんど役に立たない。日本語では句点「。」の打ち方はむずかしくなく、昔は打ちさえしなかった。打たなくても文の切れ目のわかりやすいことばだから。読点「、」の打ち方となると、修飾節や句の多い文を理解しやすく誤解されないように書くためには大いにこれのお世話にならなければならないのだが、その規則は明示されていない。それでも、本多勝一「日本語の作文技術」(朝日文庫、1982)や木下是雄「理科系の作文技術」(中公新書、1981)に示されている実践的で妥当な原則を指針として準用することができる。それは、
「第一原則 長い修飾節が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ。(重文の境界も同じ原則による。)
 第二原則 原則的語順が逆順の場合にテンをうつ。
 右の二大原則のほかに、筆者の考えをテンにたくす場合として、思想の最小単位を示す自由なテンがある。」(p.104)
 木下氏の本には、学習院初等科で小学生に教えている規則があげてある。
「(a)受けることばが、すぐ続くときはつけない。離れているときはつける。
 (b)二つの文からできている文は、間につける。
 (c)コンマが多すぎてくどい場合は、(a)の「受けることばが離れているとき」のコンマは省いてよろしい。この意味で省けるコンマが二つ以上ある場合は、「かかる―受ける」の距離が小さいほうのコンマを省く。」(p.143)
自身明晰な文章を書き、論理的思考にすぐれていて、官僚式にも文学者流にも毒されていない人の原則は大いに参考になる。


これで、かなづかい・送りがな・句読法まではできた。漢字かな交じり文を書くかぎり分かち書きはする必要なく、そのための規則はいらない。けれども、まさにその漢字かな交じり文のために必要であるはずの、漢字とかなの書き分け原則が欠けているのである。
規則はなくていい。規則を立てるのはまず無理だ。だが指針はほしい。「法三章」のような簡単でわかりやすいものが。


技術の進歩と社会の国際化に伴って、日本語はいまふたつの挑戦を受けている。ひとつはコンピューターから、もうひとつは外国人から。
漢字ブームだそうである。聞けば、ワープロ使用と漢字検定受験者増加は関連しているらしい。漢字を自分の手で書く機会はへっているにもかかわらず、漢字使用はふえた。書かれていれば、読まなければならない。その必要に加え、漢字使用がふえれば誤字誤変換も当然ふえるわけで、誤変換をしないよう気をつける必要がある。キーを押して現われるいくつもの変換候補から正しいものを選ばなければならない。そのためには漢字の知識が必要だ。かくして漢字ブームとなった、というのである。なるほど。
ワープロが普及してから、ワープロ変換誤字というのがよく話題になる。「変漢賞」(変換ミス大賞)というのもあるようだ。ワープロ誤字も、「お客様用トイレ」が「お客彷徨うトイレ」になるのだったら、誰がどう見てもまちがいだから笑っておもしろがればいいのだが、「見に来てくれてありがとう」が「ミニ着てくれてありがとう」となったら、文脈によっては意味が通ってしまうからこわい。「悪魔でもやりぬく」となると、ひょっとしたら当人は実際「あくまでも(飽くまでも)」をこう書くものと思っているのではないかという疑いがおこる。ワープロでそう出てくるのだから。「夫人」「婦人」のような同音でかつ似た意味のことばや、「遍在」「偏在」のように同じコンテクストで使われながら意味が正反対のことばの混同とならんで、これもワープロ利用の落とし穴だ。
しかしワープロ・パソコンに関していえば、「変換誤字」より実は「変換正字」のほうが問題なのである。変換キーを押すだけで、たちどころに漢字が現われる。手軽なあまり、いきおい漢字を過剰に使ってしまうことになる。漢字の使用は明らかにふえた。変換キーを押すだけでいいのだから。ひらがなでいい「ありがとう」や「ない」を、「有難う」「無い」としたのをよく見る。手書きでもそう書いていた人は別、手書きなら漢字を使わなかったであろう人までそう書くのだ。手書きとワープロ書きで使う文字がちがってはダブルスタンダードになり、好ましくない。「ワード正書法」であろうか? それをワードにまかすのか?
(実際、ワードは単なる道具ではなく、意志をもっている。「盲」や「支那」は直接変換しないからね。コードに触れるものははねるのだ。)
パッシブな能力(読み)とアクティブな能力(書き)の間にいくらか距離があるのは自然で、「読めるけど書けない字」はたくさんある。それは漢字の性格のひとつである。だが、書ける字は読める。はずである。今までは。それが現在では、ワープロの発達によってこの関係に激変が生じた。「打つ」というアクティブだがパッシブだかよくわからない技能が現われたのだ。膨大な数の「打てるけど書けない字」があり、「打てるけど読めない字」(絵文字として使われる漢字のような)も相当にあるという状況が出来した。
過剰な漢字使用は、今までの漢字学習に対する復讐かもしれない。しかし、いつもパソコンが手元にあるとは限らない。電卓はそろばんを追いやることはできる。だが暗算や筆算は追いやれない。同様に、いくらパソコンが普及しても、手書きはなくならない。基準はつねに手書きにおかれねばならない。


ワープロ漢字の問題は、外国人にとっての漢字の問題とも共通する。
外国人から受けている挑戦というのには、彼らの破格な日本語(「おぞましい日本語」)が与える影響というものもあるが、外国人の日本語学習という行動そのものが日本語に反省を強いているのである。そのひとつが正書法の問題だ。そもそも正書法なくしてことばを教えることなどできないのに、日本人はこの問題を放置してきた。日本語を学ぶ外国人の増加が、日本人の怠慢を問いただしているのである。
作文すると、学生はよく「内に帰る」「所で」「行った事が有る」などと書く。まじめな学生ほどそうだ。学習者はおぼえた漢字を書きたがる。あんな面倒なものをせっせと練習してやっと書けるようになったのだ、もちろん使いたいさ。それはこの上なく正当な欲求である。しかしこれらは、「うちに帰る」「ところで」「行ったことがある」と書いたほうがいい。教師はそう直す。直されたらきっと、「どうしてこう書くのか」と質問してくるだろうが、あなたはどう説明しますか?
「覚えた漢字は全部それで書け」というのがルールなら、教えるほうとしては楽である。だがそうはいかない。漢字には、これは、こういう場合は、ひらがなで書いたほうがいいというものが存在する。日本語における漢字というのは、使うことより使わないことのほうが重要でもあり困難でもあるというやっかいな性格をもっている。
一方で「漢字を覚えろ」と言いながら、他方で「漢字を書くな」だなんて、ひどい話じゃないか。アクセルとブレーキを同時に踏むようなものだ。外国人には漢字使用と不使用の指針が必要なのである。覚えるほうには指針がある。1・2・3・4級漢字というものが設定されている。書かないほうは指針がない。これでいいとは誰も思うまい。


「原則も約束もない」日本語の正書法にも、おおよそのコンセンサスはできている。莫大な量の日本語文が日夜書かれているのだもの、何らかの合意はそこにある。それを踏まえた上で明文化することが必要なのだが、その努力において欠けるところがあるのだ(成文規定を好まない日本文化の特質でもあろうが)。
明文化の一例が、井上ひさし氏の言う「漢字仮名交り文についての『国民的合意』」(「私家版 日本語文法」、新潮文庫1984、p.229)である。それは氏によると、
「(1)名詞、動詞、形容詞など自立性の強いものには漢字を用いる。文法的な意味を添え、文を形式として完成させるもの、すなわち、助動詞、助詞、副詞、接続詞、感動詞、接辞、代名詞などには仮名を使う。語尾も仮名。
 (2)本動詞は漢字、補助動詞は仮名(「様子を見る」「様子を見てみる」)。
 (3)外来語、外国の地名や人名は片仮名。ただし国名の略字は漢字(米、仏、独、英・・・)。
 (4)擬態語、擬声語は平仮名。ただし漫画や劇画などでは片仮名が使われる場合もある。
 (5)仮名づかいは昭和21年11月の内閣告示「現代かなづかい」を守る。
 (6)送りがなのつけ方は、昭和34年7月の内閣告示に基づく。
 (7)漢字については当用漢字表による。」
たしかに、多くの人はこのように書いているはずだ。(5)−(7)は公的に定められたところであり、(3)(4)も問題ない。だが、(1)(2)では品詞によって漢字とかなを使い分けるという原則を認めているわけだが、これには便宜的な感じが否めない。なお、(2)には、「形式名詞(「こと」:「日本に行ったことがある」、「もの」:「よくこの川で泳いだものだ」、「ところ」:「今終わったところです」など)もひらがな」と付け加えたほうがいい。
国際交流基金日本語国際センター所長だった加藤秀俊氏の表記原則は、「ことばが漢語、あるいは音よみの漢字であるときには漢字をつかい、訓よみのときにはかなでかく」というものである(「なんのための日本語」、中公新書、2004、p.169)。これは単純明快でわかりやすい。しかし、ご本人が「これを実践しているとかなだらけになる。そういうときには、印刷された文章をざっとみて、かなで白っぽくなった部分のところどころをチョイチョイといじって漢字をいれる」と言っているくらいだから、もとより徹底できるものではない。同じ原則に従っている梅棹忠夫氏は、ひらがなばかりになってしまうところではわざと漢語を考えて入れるそうだが、それでは本末転倒だ。同音異義語の温床である漢語は使わないですむなら使わないほうがいいという大原則が一方であるのだから。


逆説めくが、「漢字を書く」日本語の正書法の要諦は、「漢字を書かない」ことにある。日本語は、書こうと思えば助詞と送りがな以外はすべて漢字で書ける。たとえば、「坊ちゃん」の出だしを例にとると、
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損許り為て居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事が有る。何故其んな無闇を為たと聞く人が在るかも知れぬ。別段深い理由でも無い」(1)
のように。だが、この表記でいいとは思えないし、漱石自身がこうは書いていない。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない」(2)。
筆者がこれを書くとすれば、漱石原文(2)ともさらに異なる。
「親ゆずりの無鉄砲で子どものときから損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかもしれぬ。別段深い理由でもない」(3)
とでもなろうか。「無闇」「別段」をひらがなで書く人もいようが、現代の日本人はほとんどがこの(2)と(3)の間あたりの書き方をするはずだ。
要するに、いつ漢字を書き、いつ書かないか、である。漱石はよく「八釜しい」と書く。彼の時代には多く見られた表記だが、完全な当て字であり、文豪の愛用とはいえ当然のことながら淘汰された。ほかにも脱すべきものはあるだろう。


前にあげたふたつの「正書法」をにらみつつ、考えてみよう。すると次のような原則が出てくる。
A)漢語(字音語)は漢字で書く。
その裏返しは、A’)和語(字訓)はひらがなで書く、ということになる。
B)名詞・動詞・形容詞以外(つまり副詞・接続詞など)はひらがなで書く。
その上でさらに、
C)語頭は漢字で書いたほうがいい、という大原則がある。


Aはわりあいに簡単だ。字音はつまり漢語であり、漢語とは中国からの外来語である。外来語は外来語表記をする。欧米伝来の語にカタカナ表記をするように、中国伝来の語には漢字表記をする。以上。終わり。これがA原則。ところが字訓は和語である。この和語をどう書くか。日本の文字であるひらがなで書く。それがA’原則。こちらをめぐってはいろいろ問題が出てくるが、それはあとで考えよう。
とにかく字音語については、まだその漢字を知らない学習者はひらがなで書くが、おぼえたら漢字で書くべきである。その際、交ぜ書きをしない。「ら致」「補てん」などとしない。常用漢字以外のいわゆる表外字も漢字で書く。常用漢字はできるだけ尊重するが、束縛はされない、ということだ。
日本語の特徴として、同音異義語が多く、それは漢語に集中する。「新しい世界をソウゾウする」と言うとき、それは「創造」なのか、「想像」か。意味をはっきりさせるためにも、こういう場合の漢字の使用は不可欠である。しかし、たとえば「あいさつ」のように使用頻度高くほとんど和語のようになっているもの(和習の語でもある)は、わざわざ表外字を連ねて「挨拶」と書く必要はなく、ひらがなで書くのがよかろう。
Bは問題がある。和語である「ほとんど」「たとえば」などは、原則A’にもよりもちろんひらがな、「したがって」などは「従って」としたほうが字数が節約できるが、これも原則にならうことはむずかしくない。字音語である「たいてい」「だいたい」などは、使用頻度が高く使い慣れこなれているので、ひらがなで書くほうがふさわしい。しかし「ぜんぜん」とか「きゅうきょ」となると、ひらがなで書くべきか漢字で書くべきか迷ってしまう。
もともとは漢語であることが明らかなものは、副詞でも漢字で書いたほうがいい。拗音・長音・促音を複数含む語やラ行で始まる語(それはまぎれもなく漢語起源であることを示す)のように、和語とちがうことが今でも明瞭にわかるような語で、かつ使用頻度の高くない語は、漢字で書くことが許容されるべきだろう。
この原則によると、品詞がちがうと漢字とかなで書き分けることばが出てくる。「一番」と「いちばん」は、副詞のときはひらがな(「クラスでいちばん背が高い」)、名詞では漢字(「運動会で一番になった」)というふうに。どんな方式であれ煩雑さは好ましくないが(複雑さは方法の敵である)、一面で利点もあるだろう。


A’はもちろんのこと大問題で、そもそもC原則と正面から背馳する。
日本語は分かち書きをしない。だから語の切れ目を判然とさせる方法として、漢字の使用は合理的である。カナモジ文でなく漢字かな交じり文を使う大きなメリットがそこにあるのだから、「和語はひらがな」で能事了れりとしてはいられない。スペースの節約というのも漢字使用のメリットであるが、こちらはある程度犠牲にしてもいい。だが、語を示す機能はなかなか捨て去れない。日本語の電文がままいく通りにも読めてしまうのは(「ツマデキタ」:妻できた? 津まで来た?)、分かち書きをしないことのほかに、漢字を使わないことにも由来しているのであり、「ここからはきものをぬいではいりなさい」(履物を? 着物を?)のような文も、漢字を使えばはっきりするのだ。
そこで、和語はひらがなでというA’原則に従っていいものと、C原則を適用して漢字で書いたほうがいいものと、和語をふたつに分ける必要がある。
それに呼応するかのように、実際にも訓読みの語はふたつに大別できる。(1)漢字を和語で解いたものと、(2)和語に漢字を当てたもの。前者には、1字の漢字に和語があてられるもの(「正訓」と呼ぼう)と、2字以上の漢語に和語をあてる「熟字訓」があり、後者はいわゆる「あて字」である。こういうのはもちろんひらがなで書くべきだ。そして前者についてはC原則が適用される。つまり、和語であっても「正訓」であれば漢字で書いたほうがいい、ということになる。
正書法は漢字に尽き、漢字は字訓に尽きる。それは字訓に漢字と日本語の関係が集約されているからだ。
漢字学習において重要なのは字訓である。子どもや漢字圏以外の日本語学習者が漢字を学ぶとき、漢字は訓でおぼえている。「山」の字は「やま」として、「川」の字は「かわ」としておぼえる。教師が「山」を示して「この字は何ですか」と聞けば、みんな口々に「やま」と答え、「サン・センです」と言う変わり者はほとんどいない。日本語の学習であり、「日本語の文字としての漢字」の学習であるのだから、それは当然だ。字音は漢語の熟語を学ぶとき初めて必要になってくるのであり、学習の段階でいえば字訓より後だ。字音の認識は漢語が出てきてからようやく始まるのであって、順序としては字訓−字音となる。
一方で、便宜を離れ漢字というものの原理に立ち返れば、漢字の読みは字音であり、字訓はその字の意味を日本語でいったものだ、ということを理解しておかなければならない。たとえば「鋼(字音:コウ)」を「はがね」と読むが、本来和語「はがね」を漢字で書くなら「刃金」であるはずだ。「鋼」字の意味が和語でいうと「はがね(=刃金)」であるから、「はがね」をこの字に訓としてあてているのである。このように、字訓とは和語で漢字の意味を説明したものである。一字多訓(生:「いきる」「うむ」「はえる」「なま」など)とか多字一訓(異字同訓、あつい:「熱い」「暑い」など)というものが出てくるのもそのためだ。
漢字と訓読みとの関係は、中国語と日本語の関係である。日本語ではただ「あつい」と言うものを、中国語では天気か物かによって「暑(ショ)」「熱(ネツ)」と言い分ける。それで、漢字を使う場合「暑い」「熱い」と書き分けねばならなくなる。「すごいあつさ」なら「猛暑」か「高熱」。それは日本語の「はやい」を英語で “early” “fast” と区別するのと同じである(漢字も同様:「早」「速」)。だから、和語を漢字で書くというのは、日本語を漢語漢文に翻訳筆記するということになるわけだ。異字同訓の書き分けは、漢語の学習のためには重要である。日本語の語彙学習は上にいくほど漢語習得の様相を呈するので、必習の事項ではあるけれど、あまりに煩雑なら無視してよかろう。「とる」には一般的な「取る」のほかに「撮る」「捕る」「摂る」「採る」という表記もあり、それぞれ「撮影」「捕獲」「摂取」「採用」の意味のときにそう書く。そこまで使い分けを強制することはない。これらはひらがなでいい。ただ中上級知識としてクイズ問題にとっておくだけで十分だ。
このほか、熟字訓(「田舎(いなか)」「今朝(けさ)」など)というものがある。熟字訓こそ字訓の性格(漢語を和語で釈す)をもっともよく表わしているのだが、しかしよほど慣用されているものを除いて、ひらがなで書いたほうがいい。けれども熟しているものについては漢字書きも認容される。
訓読み(2)は、いわば「逆立ちした漢字表記」である。これについては、あて字(「目出度(めでた)い」「馬鹿(ばか)」など)はしない、ひらがなで書く、というのが原則だ。さらに、「正しいあて字」とでも言うべきものがある。「ありがたい」や「おもしろい」を「有難い」とか「面白い」と書くのは、あて字と同様和語に漢字を当てたものだ。ふつうのあて字とちがい、その当て方は正しく、語源的にももっともなのだが、これらは複合して「おも」の意味とも「しろい」の意味とも異なる別の意味のことばになっている。こういうものも漢字で書かず、ひらがなで書くのを原則とするとしたほうがいい。漢字圏の外国人がわからないような漢字の使い方は、やはりクイズ用にとっておくだけでよかろう。
(日本人の名前にはどう読んでいいかわからず困るものが多く、特に最近ふえているが、あれも日本語に漢字を当てるこのタイプの訓読みである。人名にもこの原則は必要なんじゃあるまいか。)
つまり、C原則を言い換えると、
C’)その字の本来の字訓は漢字で書いてもよい(ただし常用漢字に限る)。
正訓は漢字で書いてもいい。そうでないものはひらがなで書く、ということだ。これだと、日本で慣習化した読み、いわゆる国訓(「戻」を「もどる」と読むなど)がひっかかりそうだが、これは「日本の漢字」として国字にならって認めればいい。
しかし、語を分かたないずらずら書きは、漢字を使って語の切れ目をはっきりさせる必要を生む一方、漢字が連続した場合に切れ目で惑わせる結果にもなる。たとえば、「それは今も」と書くのは適切だが、「今日本は」だととまどってしまう(「いま日本は」?「きょう本は」?)。こういう場合はひらがなを使ったほうがいい。
漢字で書いたほうがいいと言ってみたり、書かないほうがいいと言ってみたり。混乱じゃないかと言われそうだが、しかし首尾一貫するものはある。つまり、「読む人がわかりやすいように書く」というゆるがぬ大原則である。


この「正書法」は要するに、漢語は漢字、和語はひらがなが原則で、それを字音だけでなく字訓にも広げたものと言える。漢字の和解きは漢字でよく、和語の漢字着せは不可。その点では単純明快であるはずだが、少し立ち入ると、たがいに背馳するさまざまな原則があちこちにある。もとより指針にすぎないのだから、個々の局面でこれらの原則のどれに従い、どれに従わないかは、最終的には個々人の好みにゆだねられる。きわめて不徹底だが、それでいいのだ。漢字かな交じりは複雑怪奇な体系なのだから、それを一通りマスターした者がその特性を生かしてさまざまな表現をするのは楽しいことで、それに規制がかけられてはいけない。ここで示した原則は、「平明な伝達文」を書くのを目的にしたものであって、「表現者」たらんとする人たちのためではない。表現意欲に燃える人は欲するままにすればいい。
これに従うと、いま実際に行なわれているより漢字の使用は少なくなり、単純になる。世の中は広く、ことばに平明さとは逆のものを求める人もかなりいる。平明・明晰の側に立ち、あくまで外国人学習者のために、書き分けのガイドラインがあってほしいと思い、こう考えた(あんたの文章は平明でも明晰でもないじゃないかというもっともな指摘はこの際無視します。姿勢の話なので)。文章を書いたり教えたりする者は誰でも、自分のスタンダードをぼんやりとでももっているはず。その中から草の根的にデ・ファクト・スタンダードができてくればいい。その一例として、自分の「正書法」原則を書いてみたわけである。


えーと、しかしこの文章、私自身の私的正書法基準に合致していましたっけ。逸脱はいくつもあるでしょうな。まあ、目安にすぎないからね。これぐらいがたぶん限度でしょう。