トルコでドイツのサッカーを見る

トルコ人がサッカー狂だというのは聞いていたが、たしかにそうだ。女の子も自分のひいきチームがある。ヨーロッパやロシアでは大学出のインテリはサッカーをきらう人が多いし、女子学生はまずもって興味がないのがふつうだ。だがトルコでは、男子はもちろん、女子学生も好きなチームの名を即座にあげる。しかしそれがほぼ例外なくイスタンブールガラタサライフェネルバフチェベシクタシュの3チームなのは、何だかなあと思う。同じく首都の2チーム(オリンピアコスパナシナイコス)が全国を牛耳るギリシアと似ている。トルコとギリシアは仇敵のはずだが。敵ほど互いによく似るという真理を表わしているのか。


だからトルコに行ったらサッカーの中継が多いだろうと思い、スーペルリーグの試合が見られることと期待していたら、全然やっていない。有料衛星放送で中継しているのだ。地上波のチャンネルで見られるのはブンデスリーガとフランスリーグと、去年はときどきスペインリーグが見られて、今年はセリエAが見られる。そんなわけで、トルコにいながら熱狂的なガラタサライフェネルバフチェのダービーは見られず、映りの悪い国営放送でブンデスリーガを見ている。
しかし、これがおもしろいのですよ。去年は、ヴォルフスブルクの長谷部と、それからバイエルン・ミュンヘンが、初めはつまらないサッカーをしていたけども、ロッベンが出だしてからがぜんおもしろくなり、これを見るのと、あとはキースリング、エジルのプレー、マリンのドリブルぐらいしか楽しみがなかったが、今年はもう、香川のおかげでおもしろくてしかたがない。
去年のドルトムントは、最終的にそこそこの順位には来たものの、おもしろいサッカーだったという記憶はない。今年は、結果もすばらしいが、何よりやっているサッカーが楽しい。その中心に香川がいる。去年もたぶん監督がやりたかったのはこういうサッカーで、それをするために足りなかったピースが香川だったのだろうと思う。好調ドルトムントからは香川の僚友が大量にドイツ代表に招集された。つまり、香川はドイツ代表に呼ばれるレベルだということだ。彼ら以上のプレーをしているのだもの。
ブンデスリーガで初めて香川を見た、と言っていい。日本代表にも選ばれていて、だから代表戦では何度か見たが、そのときは凡庸なプレーで、なんでこんなのが選ばれたのかわからなかった。これよりいいのはたくさんいるだろう、単に若いから選ばれているなら年齢による逆差別みたいなものだと思っていた。若くして抜擢されているのだから、きっと「小野」なんだろうという期待もあったに違いない。その分、期待はずれを感じていた。当時セレッソはJ2で、その試合は見られなかったので、香川の本当のプレーを知らなかったのである。
奥寺の時代は除き、カズ以降の今までの日本人選手は、メジャーなクラブならマイナーなリーグ(セルテックやフェイエノールトのように)、メジャーなリーグならマイナーなクラブ(ペルージャだのヴァリャドリードだのフルハムだの)でプレーするのが常だった。稲本がアーセナルにいたことはあるが、試合に出なかったし。メジャーなリーグ(イングランド、スペイン、イタリア、ドイツの4大リーグ)の強豪チームでプレーしたのは、ハンブルガーSVの高原ぐらい。中田のASローマというのもそのときに優勝したくらいのわりあい強いチームだが、中田はレギュラーではなかった。
そこへ、香川である。ボルシア・ドルトムントブンデスリーガの強豪、ヨーロッパレベルでもチャンピオンズリーグを制したことのある名門だ。その不動のレギュラー。しかし名門とかそういうことより、このクラブのすごいところは何といってもその動員力で、ホームではあきれるほど多くの観客がスタンドを埋めつくす。そのものすごい声援を受ける香川がシュート、ゴール、割れるような歓声、そして勝利。驚きもするが、驚きより先に喜びがこみあげる。やっぱりサッカーは、ゴールを決めるゲームだし、勝つのをめざすゲームだから、そこが満たされると無条件にうれしい。
そのほかにも、中堅チームヴォルフスブルク(優勝したりしたけど、やはり中堅であることは変わらない)の長谷部、内田のシャルケは中堅と強豪の間あたりだが、人気ではリーグでもトップクラスのチームで、そこで2人ともレギュラーを(内田はしっかり、長谷部はほぼ)つかんでいる。週末にはとっかえひっかえ彼らが見られるのだからうれしい。日本だったら、日本人が所属しているというだけの理由で、名門クラブの試合をさしおいて弱小クラブ同士の試合を中継したりするんだろうが、トルコの局はもちろん日本人がいるかどうかなんてのを中継の試合を選ぶ基準にしておらず、当たり前におもしろそうなカードを選んだら、それが彼らの所属チームの試合で、それに当たり前のように彼らが出ているわけだ。いいじゃないですか。リーガにはもうひとり矢野がいるが、これはフライブルクという弱小クラブで途中出場したりしなかったりと、これまでの日本人選手の「定位置」にある。


ドイツ帝国の3B政策以来、トルコはドイツの友好国で、西ドイツの戦後復興時に労働力として招かれたトルコ人の「ガストアルバイター」が大量に流入し、そのままいついてそこで家庭を築いた者も多く、ドイツには大勢のトルコ人が住んでいる。それで、たいていどのチームにもトルコ人選手がいる。審判にもいる。トルコでドイツのリーグを見るおもしろさはここにもあって、お、ここにもいた、あそこにもいたと、トルコ人を発見するのが楽しい。見分け方は簡単で、アナウンサーは、ほかの選手は名字を呼ぶのに、トルコ人の場合は名前を呼ぶのである。ヌーリ・シャーヒンからルーカス・バリオスへパスが出たら、「ヌーリからバリオスへ!」というふうに。トルコ人の場合、名字は便宜的なもので、ふだんはいつも名前しか呼んでいないので、そうなる。だが、なぜかほかのムスリム選手の場合は、ヨーロッパ人選手と同様名字のほうを呼ぶ。
そして、生まれも育ちもドイツという移民二世の選手が大勢トルコ代表にいる。ハミトとハリル・アルトゥントップとか、ヌーリ・シャーヒンとか。彼らは二重国籍なので、ドイツ代表になるほうを選ぶこともでき、少数ながらそういう選手もいる。今レアル・マドリードで活躍しているメスト・エジルがそうだ。
だが、こういう選手は「裏切り者」あつかいをされるようだ。ヨーロッパ選手権予選のドイツ・トルコ戦がベルリンであったのだが、その中継を見ると、ドイツのホームゲームのはずなのに、アウェイになっていた。ドイツの首都の試合が、トルコのホーム。びっくりである。そして観衆のトルコ人たちは、メスト・エジルにブーイングを浴びせていた。二重に屈折している。たしかにドイツにトルコ人は多く、ベルリンには特に多いが、いくら多くたってドイツ人よりはるかに少ない少数派である。なのにチケットを買ってスタジアムに集結し、ドイツ人を圧倒してしまうその愛国心と団結力。ドイツで生まれ、トルコ語よりドイツ語のほうが上手だし、夢もドイツ語で見ているかもしれず、恋人もドイツ人かもしれない彼らが、自分たちの似姿であるメスト・エジルに向ける容赦ないブーイング。あるトルコの新聞が、ドイツのトルコ人選手の「存在の耐えられない重さ」について書いていたが、たしかにそうである。
メストだけではない。今のドイツ代表チームは混成軍団で、移民出身の選手や、母親がドイツ人の異国の名字の選手が多い。そういう選手の見分け方はドイツの場合割合簡単で、試合前に国歌が流れるとき、歌わないのがそれだと思えばいい(例外はクローゼ)。
だが、メストはちょっとドイツ人には見えないし、ボアテングは全然見えないからそれはいいが、ポーランドからの移民なんてドイツ人と見た目は変わらない。その一方で、どこからどう見ても日本人には見えず、100パーセントブラジル人であるラモスは「君が代」を熱唱する。その違いは、みずから選んだ祖国かどうかということにもひとつ理由があるだろう。読売クラブ時代はけっこうな問題児で、きらう人も多かったはずのラモスが愛されているのには、それだけの理由がある。日本語うまいし、日本に育った日本人の日本語では言えないことを日本語で言ってくれるしね。日本を豊かにしてくれた人だ。


国歌や国旗は、「国民国家クラブ」入会に義務づけられている。国旗のほうは必要性がわからないでもないが、国歌などおよそばかげたもので、いわば「ヨーロッパの病」であるが、彼らがお手盛りで取りしきる秩序に参加するための税金ならばしかたがない。その秩序に加わるメリットはあるわけだから。
とはいえ、おもしろくなくもない(この世におもしろくないものなどない)。そのメロディーはなかなかに国民性を反映している。ラテン諸国の明るい(能天気な?)マーチ風音楽を聞くと、特にそう思う。私が個人的に好きなのはバルカン諸国のもの悲しげな旋律だが、実はトルコの国歌もバルカン風である。バルカン諸国の独立がオスマン帝国の崩壊を招いたのだから、いわば仇敵であるはずなのに、両者にはなかなかこみいった関係があるらしい。新生トルコ共和国の首都に選ばれたアンカラには、おや、これはルーマニアの建物じゃないかというのが散見する。オスマントルコこそ支配者であったけれど、それを打ち倒す形でできたトルコ共和国にとって、バルカン諸国はより早く独立していた「年長」の模範国であったらしいという事情がうかがえる。「国民国家」としての先輩に学んでいるのだ。トルコ共和国オスマン帝国の継承国家という面もあるが、たぶんそれ以上に、バルカン諸国の兄弟国なのである(それも「弟国」)。そんなことも国歌から見えてくる。
そんなわけで、メロディーのほうはおもしろいが、しかし歌詞はいけない。隣国にはがまんのならないものか、でなければひどい自己陶酔だ。当該民族しか喜ばない。豚に食わせてしまえ、と思う。詩人というのはパトロンに奉仕する商売であるという悲しい出自がよくわかる。それに比べ、音楽はより深いところで民族を表わしているわけだ。
その意味で「日の丸」と「君が代」を見ると、かなり上出来だと思う。「君が代」を排撃する人がけっこういるが、それがもし国歌廃絶を意図しているなら、同感である。だが、国歌そのものは認めた上で「君が代」を批判するなら、あまりに世界を知らないと言うべきだ。これは数多い国歌の中でもかなりいい部類で、ひょっとしたらいちばんいいかもしれない。メロディーも悪くないし(「さざれ石の巌となりて」が「さざれ。意志の巌となりて」と聞こえるのはまずいけれど)、詞も、なんら他民族のわずらいにならないし、さして自己陶酔でもない。何より短いのがいい。これを別のものに差し替えたがる人が、代わりにどんなおぞましいものを作るか、およそ想像がつく。これでいいよ。国歌死滅の日まで、これでいい。その日は残念ながらすぐには来ないが。


このメスト、羽生に似ているなと思って見ていたが、ずっと見ているうちに羽生の顔のほうを忘れてしまった。そういえば、日韓ワールドカップのときの代表だったバステュルクも森島に似ていたし、トルコ人と日本人の顔は根本的に違うのだけど、こう似ている例が続くと、違うとばかりも言っていられないかもしれない。両民族とも入り混じりの激しい成り立ちだからか?