断食もどき

日本からもどってきた翌日、時差のためか3時半に目がさめてしまった。そのときふと、これはラマザンの朝の食事の時間ではないかと気がついた。断食せよとのはからいかなと思い、のこのこ起き出して朝食をとった。それから今まで日中断食を続けている。
といっても、これはムスリムの正式な断食ではない。水は飲むし、日が昇るまでに朝食をすませるわけでもなく、日が沈みきるのを待って夕食をとるわけでもない、「なんちゃって断食」である。単に昼食を抜いているにすぎない。もともと朝は食べず、1日2食なのだから、昼の分を朝にもってきただけ。いいかげんなものである。
しなくてもいいのに、何となくしている。学生がしているから、それに敬意を表しているだけだ。ほんの形ばかり。それもかなり崩れた形で。でも、断食はいいことだ。一生不犯もそうだが、生きるために必要な動物的欲求を自発的に意志的に制限するのは、誰がどう見てもいいことだ。酒を飲まないこともそう。自分では禁酒しないどころか、酒が飲めないとぶつくさ文句を言う人間だが、しかし気違い水を飲まないのがいいことであるのはまちがいない。女性のスカーフなどには議論があろうけれど、これらは誰でも認めるところだろう。
学生はエリートの一面とともに、庶民代表の一面もある。何割ぐらいがしているのか知らないが、けっこうやっているという印象がある。教師となると、さあどうだろう。この時期に3日間教師会のセミナーがあったが、昼休みを1時間半も2時間もとっていた。その日程の組み方からも、ほとんどがしていないのだなというのがわかる。昼食をとらなければ、昼休みというのは手持ちぶさたでしょうがない。それがこんなに長くては。しかし同じように手持ちぶさたそうなのはごくわずかだった。
ケマリスト(世俗主義者)の牙城たる大学では、ラマザンでももちろん職員食堂は開いている。よそ者が多い教師はいいが、ほとんどがカイセリの人間である従業員は大半が断食しているだろうに、みずから料理しながら食べられないのは気の毒なことだ。


イスラムは、やはりアラブの民族宗教である。そのしきたりには、メッカから遠く離れた周辺地域のムスリムにはたいへんなことが多い。ラマザンもそのひとつだ。太陰暦を使っているため、太陽暦との差で断食月は年々移動するので、今は夏に当たっていても、年がたてばしだいに移りゆき、やがて冬にもなるわけなのだが、それでも低緯度地方では夏と冬で昼夜の時間はそう違わない。つまり、断食する時間の長さは年々そう大きく変わらない。しかし緯度が高くなるとたいへんだ。イスラム圏の北限はカザンあたりだが、北緯50度を越えていて、夏至冬至では昼と夜の長さが全然違う。冬至のころにラマザンが当たれば、ほとんど苦労せず義務が果たせるかわり、夏至に当たれば、夜が早い人ならもう寝る時間に夕食、ろくに眠る間もなく起き出して朝食をとり、そのあとはずっと断食。ソ連時代に北極圏のムルマンスクにはきっとムスリムの労働者はいただろうし、今もいるだろう。日の沈まない夏至のころにラマザンが来たら、つまり餓死である。極夜の冬至のころなら、クリスチャンでも誰でも市民全員がイスラム戒律遵奉者。むろんイスラムができたころ北極圏のことまで考えていたはずもないが、緯度の高い地方のことを全然考えていなかったことも明白だ。
しかしながら、日の長さでは夏の北方ほどのつらさはなくても、アラビアの砂漠では水が飲めないのはこたえるだろう。長さの分はそれであいこ、冬に当たった場合の短さで北のほうがましかもしれない。
昼食を抜くのは単に慣れの問題で、さほどつらくはない。つらいだろうと思うのは、水を飲まないことだ。これをやりとげる自信はない。水に乏しい地方の人には、ラマザンの水断ちが一種の訓練になっているのではないかと想像する。砂漠を歩くときは、わずかな水で生きていけることが死活的に重要だから。逆に、水をそれこそ「湯水のように」使うのに慣れた日本人には、これがむずかしい。あらゆる資源に乏しい日本だが、水だけはある。水はいつでも、どこでも、誰にでもふんだんにあるものだから、これを遠ざけるのはつらく感じる。イスラム圏は砂漠か、砂漠までいかなくても湿度がきわめて低く、夜手洗いしたジーパンが朝乾いているような土地で、そんなところでは渇きはより激しかろうのに、やわなことで申し訳ないけれど。


服にしてもそうだ。アラビアでは男も体の線の見えないだぶだぶの長衣で、頭に布をかぶっている。あの布のはしをあごで結べば、イスラム女性のいでたちになる。ベールを除けば、アラブ人にとって女性のあの衣装もなんら特別なことではない。男と同じだ。
しかし、アラビアでこそ自然なあの服装も、その外では自然に反するものとなる。あのむしむしした熱気の中で体をすっぽりつつみスカーフで頭をおおっているインドネシアやマレーシアの女性を見ると同情するが、しかし日本人は、胸に手を当てておのがネクタイと革靴のことを考えなければならない。不快指数のぐんぐん上がる日本の夏に、ネクタイで首を締めあげて、靴下と革靴で足を蒸らしあげようとするのは、およそ正気の沙汰ではない。国家的な水虫培養計画でもあるのかしらん。さらに背広まで着るつもりなんだから。誰かにそう命じられたわけでもないのに、宗教的なきまりごとがあるわけでもないのに、これはひどい「自己植民地化」である。「クールビズ」なるものが登場して事態はいくぶん改善したが、それを唾棄しネクタイ背広に固執する人も少なからずいるらしい。だけどね、あんたらにそんな格好をさせるために、女子職員はカーディガンに膝掛け、毛糸のパンツまではいたりしてエアコン防寒してるんだってことを考えてもらいたい。よろしく。といって、日本女性の味方でもないぞ。そっちはそっちで、ハイヒールで外反母趾をつくり、足を畸形にしたがっている人たちなんだから。彼女らに纏足を笑う資格はないし、スカーフについても、みずからハイヒールを廃し、同胞にもやめさせてから言ってもらいましょう。


ムスリムの義務のひとつであるメッカ巡礼も、アラブ人にとってはさほどでもないが、アラブ圏の外のムスリムにはたいへんな大事業である。けれども、距離は強度を与える。そんな困難なことだからこそ、それへの意志と達成感で当該社会を強化することだろう。


昼食抜くのはさほどむずかしくはないが、新鮮な朝の時間に腹にものが入っていて重たいのが、つらいといえばつらいかな。腹がふさがっていると頭がすっきりしないので。この文に濁りがあるなら、それはたぶんそのためです。ラマザンじゃなくても濁っているぞと言われれば、伏して謝するのみ。