ボルネオだより/チキ菜食・チキ断食

 ラマダンが終わった。これはたいへんいい習慣で、トルコにいたときそのまねごとをしたことがある。だがいいかげんなインチキ断食で、要するに昼食を食べないだけ。朝食を夜明け前にとるわけでも、夕食を日没後に食べるわけでもなく、まして日中水を飲まないわけでもない。日中断食をしている学生たちにささやかな連帯の気持ちを持っただけのこと。もとよりムスリムではないので、するべきいわれはまったくない。ここボルネオでは、ムスリムのマレー人は生徒の3割程度だから、今回は別に連帯しなかった。しかし、褒むべき習慣であることは間違いない。マレーシアでは断食明けにオープンハウスという習わしがあり、誰でも家に入って飲食を受けられる。イスラムを非難するのはまず断食をしてからにしてもらいたい。
 周囲に影響されやすい人間なので、菜食もインドで実践していた。インド人の4割がヴェジタリアンだそうだが、学生には祭司・学者カーストのブラーミンが多く、彼らはみなヴェジタリアン。そういう人たちに囲まれていたので、それに倣ったわけだ。下宿先が孤児院の2階で、そこはガンジー主義の団体が運営しているから、当然宿舎の子供たちも菜食だった。それにも影響されている(なお、インド人からは相槌として首を振る癖もうつされた。いろんなものにかぶれる)。
 といっても、卵も魚も食べていた。ベンガル地方のブラーミンは魚を食べるとどこかで読んで以来、ベンガル・ヴェジタリアンと称していたが、なに、江戸時代の日本人である。こちらもインチキ菜食で、この形態なら明日からでも日本人は実行できるはずだ(はずだが、現代の日本人はすっかり四つ足喰らいになってしまっているから、案外むずかしいのかもしれない)。
 宗教行為であるラマダン断食は倣いにくいが、菜食には取り立てて宗教色はなく、あってもわれわれに親しい仏教色だし、それを離れてもまことにもっていいことだから、なるべくやりたいとは思っているが、なにせ主義でも何でもないインチキ菜食だから、すぐに掟破りをする。肉食文化の国では菜食メニューが乏しいから、そんなときは平気で肉食。誰かに招かれたときや誰かといっしょに食事するときも、出された料理勧められた料理を何のためらいもなくおいしくいただき、一粒も残さない。菜食「主義者」では全然ない。菜食メニューが豊富なら喜んで菜食するだけのことだ。
 ボルネオでは、中国人のやっている店でも菜食がけっこうある(「素」と書いてある)。豚肉命の人々だと思っていたから、ちょっと意外だ。コロミーという麺料理が好きなのだけども、それにもヴェジタリアン・コロミーがあって、もっぱらそちらを注文する。そっちのほうが肉食ヴァージョンより安いのだから、言うことない。それで、ほとんどはそういう店に通いつつ、ときに肉を口にすることがあっても気にせずに、日々を過ごしている。もちろん海鮮はいただきつつ。
 呑酒民族である欧米人中国人とばかりつきあっているので気がつかないが(日本人自身が泥酔終電乗りすごし民族だし)、酒を飲まない人々というのも世界にはけっこう多くて、これもまことにいいことだ(ムスリム移民と結婚してイスラム教徒になったイギリス人女性を取り上げた番組で、酔っ払って帰って来ないのが彼と結婚してよかったことだと漏らしていたのにはうなずいた)。しかしこれには倣う気はない。酒は神様の飲み物だからね。
 神様は獣肉を召し上がることもあるが(諏訪など)、だいたいは魚肉で満足されているようで、それならこのチキ菜食は御心にもかなうのではないか。よきかな、よきかな。神ながらだ。