癖字起因論

世の中を広く見なければいけない。
ユーラシア以外の大陸には渡ったことがないから、それらについて知見が少ないのは承知だ。だけどユーラシアについちゃおれもちっとは知ってるよ、なんてつもりでおりました。愚かなうぬぼれだ、「ちっと知ってる」のは旧共産圏だけだった。多くの日本人から見ればどこにあるかもはっきりしない旧ソ連とトルコの国境、それをまたいだだけで新たな認識の得られることのなんと多いことか。アラブを、イランを、インドを、東南アジアを知らないうちは、ユーラシアについてだって口はばったいことを言うのはやめようと恥じ入ってしまう。旅するロバもそのくらいの知恵はつきました。


たとえば、学生たちのくせ字。
「シ」と「ツ」、「ソ」と「ン」、「ナ」と「メ」、「ク」と「ワ」のように、形が似ていて初学者がまちがえやすいものがあるが、そういうのはまず注文どおりにまちがえる。しかし混同されてはならないので、これらのまちがいは教師は必ず直す。「ホ」の点がつながって、「木」のように見える場合もそうだ。「ほ」の右側の縦線が上に突き出て「ま」になっているというのも、くせ字というより明白なまちがいである。マス目のないふつうの紙に書いたら「しま」と読まれてしまうから。
混同されるわけではないが、「ミ」の三本線が反対に傾いているのもよくあって、少数だが「マ」が鏡に映したように逆向きという例もある。これらも直さなければならないまちがいだ。


そういうもののほかに、どの字かはわかるのだが、しかしいかにも形が悪いというのがいくつもある。まちがいというわけではないので、たいてい直されずに放置されている。
「い」の線がまっすぐに起き、かつ左が長すぎて、「り」の左右対称形のようになったり、「こ」と見まがうほど傾きすぎたりする。前者はかなり多く、後者もけっこう見る。
そのほかに、「た」の左側の横線が右側の横線ふたつの間に入る、
「ム」「マ」の留めの線が異常に短い、「マ」が傾く(「ア」は傾かないくせに)、
「く」が尻餅ついて「L」のようになっている、
「あ」の縦線が傾きすぎる、などというのをよく見かける。
いかにも書きづらそうに書いてある「ふ」や、
「ね」の左部分が大きすぎ、右部分がひしゃげて、「な」のつづけ字のように見えたり、
「や」の短線が右にはみだして「か」のように見えたりというのもあるし、
「え」の点が右にずれることも多い。
また、書き終わったあとの字面だけ見れば問題ないのだが、目の前で書かれるとおやおやと思ってしまう字もある。「ロ」「コ」「ク」は、大多数の学生が一筆書きで書く。「イ」の斜線を下から上に引く者も必ず何人かいる。「う」「え」「ら」の上の点をあとで打つのは絶対的な多数派だ。


これらすべてが旧ソ連とトルコの学生に共通しているのである。何ら交流のない、互いに相知ることなくそれぞれその土地で没交渉に勉強している彼らの間で。


なぜこのような現象が起きるのか。それには内因説と外因説が考えられる。ひらがなカタカナという文字そのものに原因があるのか、彼らの母語の文字の書き方に由来するのか、ということだ。


自分たちの文字に原因があるというのは大いに考えられることだ。「う」の点をあとで打つのなどは、「i」の書き方をなぞっているのだろう。しかし、トルコ人ラテン文字(ローマ字)、ロシア人はギリシア文字に由来するキリル文字で、同一の文字ではない。だが、ラテン文字キリル文字とも、大きくくくれば同じ系譜の西方アルファベットではある。
中国で教えたことがないので、中国人がどんな書き方をするのか実際には知らないのだが、しかし論理的に考えれば、彼らはたぶんロシア人やトルコ人のような妙なくせ字は書かないだろう。同じ漢字民族で、向こうのほうが本家である。カタカナは漢字の一部だし、ひらがなも漢字由来で、草書をさらにくずした速記体のようなものだから、文字の書き方において問題があるとは思われない。
そこで注目されるのは、もと漢字圏で、今はラテン文字を使うベトナムである。彼らが上記のようなくせ字を書いているとしたら、アルファベット起源説の大いなる裏づけになりそうだ。
さらに、右から左へと書くアラビア文字の民族は、どんなひらがなカタカナを書いているのだろうか。ロシア・トルコ式と異なる独特なくせ字があるのかしら。これも興味深い。


内因説をつきつめれば、人類は放っておけば彼らのように書くのであり、日本人(や中国人)は文字を習うときそれを矯正するのだ、という仮説も考えられる。
これを検証するためには、日本の子どもが初めてひらがなカタカナを習ったときどう書いているかを調べる必要がある。小学1年生を担当する教師に聞いてみなければならない。もし彼らがここの学生のように書いているのだとすれば、それはけっこうな驚きだ。


あるいは、文字ではなくむしろ筆記具や書法に由来するのかもしれない。汎技術説である。
漢字もかなも筆で書く文字だった。手を紙につけずに、肘を浮かせてさらさら書く。ペンを使うときのカリカリ書く書き方とはまったくちがう。ペンではイリ(太く始まる線の開始部)とヌキ(細く消えてゆく線の終わり)がはっきりしないので、「ソ」と「ン」、「ツ」と「シ」の書き分けがむずかしくなる。どちらなのかはじっくりにらまないとわからないような字を書く学生は多い(いやまったく、「ソ」と「ン」の右の斜線を始めから終わりまで同じ太さで書いたら、それは「ソ」でもなければ「ン」でもないんだけど、それをいくら説明してもわかろうとしないのには困ってしまう。どんな目をしてるんだ。「パソコン」を「パソコソ」と読んで笑わせる漫才師がいるが、ちょうどあれ)。
われわれだって今はペンや鉛筆で書くけれど、書道は必修で、身体感覚のうちにそれは残っているし、美しい筆書きの字を見る機会も多い。それのほとんどない外国人学習者とは全然ちがう。
だから、かなや漢字のこれらのしつこい悪癖を直すための方法としては、筆をもたせての書道実習が最善である。


付言すれば、こういう研究(というか、好事家的探究)は、日本の日本語学校では十全にできかねるだろう。サンプルが十分に集まらないから。それに、日本に住んでいる学習者たちは日本の文字に日常的に接しているし、これまでの学習歴もばらばらだ。やはり外国で、日本語を初めて学ぶ学習者からデータを集めなければならない。世界各地に散らばる日本語教師のネットワークによってこの問題の解明が進めばうれしい。
それがわかったところで、だからどうした、という問題なんですけどね。だけど、わかったほうがおもしろいじゃないですか。人間が人間である理由は好奇心にあるのだから。


付記:その後中国とベトナムに赴任中の教師に聞いたら、やはり中国人学生に上のようなくせ字はなく、ベトナム人学生にはあるという話だった。すると西方アルファベット由来説が重みを増してくるが、さてどうなんでしょう。