言文一致と言文乖離(1)

1.「浮雲」時代の日本語
われわれが今こうして書いている文は、「口語文」と言われ、「言文一致」と言われる。
「言文一致」の歴史はまとめられていて、前島密の漢字廃止建議あたりから語りはじめ、明治20年頃から二葉亭四迷・山田美妙によって小説で実践され、明治30年代に確立し、新聞論説が口語体になった大正10年ごろに完成、終戦で軍や法令の文語体が廃されたのをもって完結したと説かれる。
だが、ことはそう簡単ではない。


「言文一致」を始めたのは二葉亭と美妙だとされる。それはこのような文章であった。
「千早振(ちはやふ)る神無月(かんなづき)も最早(もはや)跡二日の余波(なごり)となツた廿八日の午後三時頃に、神田見附(かんだみつけ)の内より、塗渡(とわた)る蟻、散る蜘蛛の子とうよ〱ぞよ〱沸出でゝ来るのは、孰(いづ)れも顋(おとがひ)を気にし給ふ方々。しかし熟々(つらつら)見(み)て篤(とく)と点検すると、是れにも種々(さまざま)種類のあるもので、まづ髭から書立てれば、口髭、頬髯、顋(あご)の鬚、暴(やけ)に興起(おや)した拿破崙髭(なぽれをんひげ)に、狆(ちん)の口めいた比斯馬克髭(びすまるくひげ)、そのほか矮鶏髭(ちやぼひげ)、狢髭(むじなひげ)、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡(うす)くもいろ〱に生分(はえわか)る。髭に続いて差(ちが)ひのあるのは服飾(みなり)。白木屋(しろきや)仕込みの黒物(くろいもの)づくめには仏蘭西皮の靴の配偶(めをと)はありうち、之を召す方様(かたさま)の鼻毛は延びて蜻蛉(とんぼ)をも釣るべしといふ。是より降(くだ)つては、背皺よると枕詞(まくらことば)の付く「スコツチ」の背広にゴリ〱するほどの牛の毛皮靴、そこで踵にお飾を絶(たや)さぬ所から泥に尾を曳く亀甲洋袴(かめのこづぼん)、いづれも釣(つる)しんぼうの苦患(くげん)を今に脱せぬ貌付(かほつき)、デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚(なに)をか覔(もと)めんと済(すま)した顔色(がんしよく)で、火をくれた木頭(もくづ)と反身(そつくりかえ)ツてお帰り遊ばす、イヤお羨しいことだ。」(「浮雲」第一編、明治20年。「二葉亭四迷全集」1、岩波書店、1964、p.4f.)
「さて子舎へ這入ツてからお勢は手疾(てばや)く寝衣(ねまき)に着替へて床へ這入り、暫らくの間臥(ね)ながら今日の新聞を覧(み)てゐたが……フト新聞を取落した。寝入ツたのかと思へば然(さ)うでもなく、眼はパツチリ視開(みひら)いてゐる、其癖鎮まり返ツてゐて身動きをもしない。頓て、
「何故(なぜ)アヽ不活発だらう。」
ト口へ出して考へてフト両足を踏延ばして莞然(につこり)笑ひ、狼狽(あわ)てヽ起揚(おきあが)ツて枕頭(まくらもと)の洋燈(らんぷ)を吹消して仕舞ひ、枕に就いて二三度臥反(ねがへ)りを打ツたかと思ふと間も無くスヤ〱と寝入ツた。」(「浮雲」第二編、明治21年。同、p.78)
発表当時たいへんな評判になった美妙の「蝴蝶」(明治22年)は、
「勇む源氏、いさむ浜風、無情、何のうらみ、嗚呼今まで白旗と数を競つて居た赤旗もいつか過半は吹折られたり、斫折られたり、はやその色をば血に譲つて仕舞つて、たゞ御座船の近処の辺に僅に命脉を繫いで居るありさま、気の故か、既に靡いて居るやうです。 海は一面軍船を床(ゆか)として、遠見の果てが浪に揺られて高低さへ為なければ水が有るとは思ハれません。」(「明治文学全集23 山田美妙・石橋忍月・高瀬文淵集」、筑摩書房、1971、p.12)
なるほど口語体ではあるものの、その文体が確立して以後のものとはだいぶ感じがちがう。「浮雲」第一編の書き出しは戯文臭く、二編三編と進むにつれてようやくなじんでいく。しかし、後世に与えた影響でみれば「浮雲」よりずっと大きいツルゲーネフの翻訳「あひびき」(明治21年)の訳文などは、すっきりと「近代的」な趣きをすでに備えている。
「秋九月といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおり〱生ま煖かな日かげの射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。あわ〱しい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さか)し気に見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空(あをそら)がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上(ずじやう)で幽かに戦いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白さうな、笑ふやうなさゞめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおど〱した、うそさぶさうなお饒舌(しやべ)りでもなかツたが、只漸く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語の声で有つた。そよ吹く風は忍ぶやうに木末を伝ツた。」(「二葉亭四迷全集」1、岩波、1964、p.158)


浮雲」が世に現われたのが明治20−22年。そのころの日本語はどうであったか。坪内逍遥が言うように、そこには漢文くずしか和文くずし、戯作文しかなかった。基本的な部分は江戸時代の日本語状況とほとんど変わっていなかったと言える。


当時大人気の小説、東海散士(柴四郎)の「佳人之奇遇」(四編巻之八、明治21年)の文章はまったくの漢文訓読体である。
「散士椅子(いす)ヲ進メテ曰、聞ク、初メ夫人大西洋ヲ航スルノ時、既ニ已(すで)ニ僕ガ名ヲ知ルト。僕未ダ夫人ヲ知ラズ、夫人何ヲ以テ僕ガ名ヲ知ルト。夫人曰ク、郎君曽テ芙蘭麒麟ノ墓ヲ吊(とぶら)ヒ、一士人ニ邂逅セシヲ忘レザルベシ。散士曰ク、詳(つまびらか)ニ之ヲ記セリ。高節公ノ偉功ヲ語リ、波蘭ノ盛衰ヲ説キ、僕ヲシテ感慨禁ズル能ハザラシメタル者ハ則(すなはち)彼ノ士人ナリト。夫人曰ク、是レ則妾ガ家厳ナリ。当時妾モ亦墓辺ニ在リ。暑ヲ樹陰ニ避ケ敢テ郎君ニ面セズト雖(いへど)モ、其談話ハ竊(ひそ)カニ之ヲ樹陰ニ明ニセリト。散士曰ク、僕啻(ただ)ニ其姓名ヲ問ハザリシノミナラズ、又何国ノ人ナルヤヲ知ル能ハズ。常ニ以テ遺憾トセリ。何ゾ料(はか)ラン是レ夫人ノ父君ナラントハト。夫人曰ク、然リ、父名ヲ骨数斗(コースート)ト謂ヒ、妾名ヲ満梨(マリ)ト呼ビ、元匈牙利(ホンガリー)ノ産ナリト。」(「明治文学全集6 明治政治小説集(二)」、筑摩書房、1967、p.78)
「紅露」時代を築いたこの時期の人気作家幸田露伴尾崎紅葉の文は、いわゆる「雅俗折衷体」であった。
「三尊(さんぞん)四天王(してんわう)十二童子(じふにどうじ)十六羅漢(じふろくらかん)さては五百羅漢までを胸中(きょうちゅう)に蔵(おさ)めて鉈(なた)小刀(こがたな)に彫り浮かべる腕前に、運慶(うんけい)も知らぬ人は讃歎すれども鳥仏師(とりぶっし)知る身の心恥かしく、其道に志す事深きにつけておのが業(わざ)の足らざるを恨み、爰(ここ)日本(にっぽん)美術国(びじゅつこく)に生れながら今の世に飛騨(ひだ)の工匠(たくみ)なしと云はせん事残念なり、珠運(しゅうん)命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈(た)ケを尽(つく)してせめては我が好(すき)の心に満足さすべく、且(かつ)は石膏細工(せっこうざいく)の鼻高き唐人(たうじん)めに下目で見られし鬱憤(うっぷん)の幾分(いくぶん)を晴らすべしと、可愛(かはい)や一向専念の誓(ちかひ)を嵯峨(さが)の釈迦(しゃか)に立(たて)し男、齢(とし)は何歳(いくつ)ぞ二十一の春。」(露伴風流仏」、明治22年。「日本文学全集3 幸田露伴樋口一葉集」、集英社、1974、p.7)
「都さえ……さびしさいかに片山里の時雨あと。晨(あした)から夕(ゆふべ)まで昨日も今日も木枯(こがらし)の吹通して。あるほどの木々の葉 ― 峰(みね)の松ばかりを残して ― おおかたをふき落としたれば。山は面瘠(おもやせ)て哀れに。森は骨立ちて凄(すさ)まじ」(紅葉「二人比丘尼 色懺悔」、明治22年。「日本文学全集2 尾崎紅葉泉鏡花集」、集英社、1974、p.9)


「人に脚あり、車馬の便を借らずもあるべし、特り万里に遊びがたきを奈何。人に舌あり、文章の媒を俟たざるも可なり、唯億兆と語らひがたきを何如。此に於てか、文章の必要起る。文章は談話の舟車なり、思想を他に伝ふる機械にこそあれ。されば文章の目的たる、心の働を表出して他人に知らしむるに外ならぬを、我が東洋の操觚者流は往々此道理をはき違えて只管支那風の虚文に泥みつ。文を先にして意を後にし、動ともすれば順序を誤り、文の為に文を綴り、無用の贅言を並べたるぞ多かる。豈違へりといはざるべけんや。」(「文章新論」、明治19年。「小説神髄」、岩波文庫、1936、p.192)
小説神髄」(明治18年)で「おのれは今より頸を長うして新俗文の世にいづる日を待つものなり」と言っていた逍遥の主張も、当然のことながらこのように文語体で書かれていたし、小説は、
「いつの頃(ころ)にやありけん。鳥(とり)が鳴(な)く吾妻(あずま)の都(みやこ)の山(やま)の手(て)なる。故郷(ふるさと)こいし川(かわ)の大和町(やまとちやう)に。豊原正夫(とよはらまさを)となん呼(よ)ばれたまふ。やんごとなきおん方(かた)ぞおはしましける。昔時(むかし)ハときめいたる御身(おんみ)の上(うへ)にておはせしかば。流石(さすが)に其(その)名残(なごり)の今尚(いまなほ)しるけく。家令(かれい)とやらん家鮒(かふ)とやらん。魚類(さかな)に似(に)たる名前(なまへ)のものども。幾人(いくたり)となふ召仕(めしつか)ひたまひて。いと〱ゆたかげに暮(くら)したまひぬ。」(「諷誡 京わらんべ」、明治19年。「明治文学全集16 坪内逍遥集」、筑摩書房、1969、p.259)
のような戯作調の書きぶりであった。


「明治の詩形」である新体詩は、「新」とはいいながら文語の雅文であった。
阿蘇の山里、秋ふけて。なかめさひしき、夕べまくれ。
いつこの寺の、鐘ならむ。諸行無常と、つげわたる。」
をりしもひとり、門に出て。父を待つなる、少女あり。」
袖に涙を、おさへつゝ。憂にしつむ、そのさまハ。
色まだあさき、海棠の。雨になやむに、ことならす。」(「孝女白菊の歌」、明治21年。「明治文学全集44 落合直文上田万年芳賀矢一藤岡作太郎集」、筑摩書房、1968、p.73)


新聞記事は、
「一昨廿五日は日曜日なるにも拘わらず、官報号外を以って保安条例を発布せられたるを見れば、内閣にては右の条例を以って、目下一日も猶予し難きまでに至急を要するものと認定せられたるに相違なし。右の条例の内閣に提出せらるるや、諸大臣には一人もこれを異議するものなく、全会一致にて即決し、その後直ちに発布せられたるなりと云えり」(保安条例「日曜日に官報号外で発布」、「朝野新聞」明治20年12月27日。「明治ニュース事典」3、毎日コミュニケーションズ1984、p.701)
などと書かれ、辞書は、
「いぬ(名)|犬|狗|(一)家ニ畜フ獣ノ名、人ノ善ク知ル所ナリ、最モ人ニ馴レ易ク、怜悧ニシテ愛情アリ、走ルコト速ク、狩ニ用ヰ、夜ヲ守ラスルナド、用少カラズ、種類多ク、近年、舶来ノ種アリテ、愈一ナラズ。(二)草木ノ類ノ似テ正ナラザルモノノ稱。「−櫻」「−稗」(三)徒(イタヅラ)ナルコト。益(ヤク)ナキコト。「−死」「−カハユガリ」」(大槻文彦言海」、明治22年ちくま学芸文庫、2004、p.217)
新しい日本語を作るのに貢献した翻訳も、
「或る富家の細君なが〱のいたつきにて最早全快もおぼつかなく見へけるが終焉(いまは)のきハにのぞミてひとりの娘を枕辺(まくらべ)ちかく呼びよせ手をとりて涙ながらに
 母
  是れ娘よ斯くばかりなげかずこの母がいまハのひとことをきヽ候へ母がこの世を去りてのちもおんこヽろばへやさしくすなほにして父上につかへよろづにつけまめ〱しくおんはからひ候へいかなる事おこるともいかなるうきめに出逢ふともゆめ人々をうらミ給ひそ母が草葉のかげよりまもるそよ
といふ声糸の如く細(ほそ)りひといきつきて眼をとぢけるがかくてあるべきことならねば野辺の送りもすみてけり」(「シンデレラの奇縁」。菅洞南「西洋古事 神仙叢話」、集成社、明治20年、p.133)
のような和文だったり、翻訳王と呼ばれた森田思軒のいわゆる「周密体」訳文、
「昨日、一千八百五十三年十月二十日、余は常に異なりて夜に入り府内に赴けり 此日(このひ)余は倫敦(ロンドン)に在るショールセルに一通 ブラッセルに在るサミュールに一通 合せて二通の手紙をしたゝめたれば 自(みづ)から之(これ)を郵便に出(いだ)さんと欲せしなり 九時半のころおひ 余は月光を踏みつゝ帰(かへ)り来(きた)りて 雑貨商ゴスセットの家の前なる隙地(げきち) 我々のタプヱフラクと呼べる所を過ぐるとき 忽(たちま)ち走(は)せ来(きた)る一群の人あり 余に近づけり」(「探偵ユーベル」、明治22年。「新日本古典文学大系 明治編15 翻訳小説集二」、岩波書店、2002、p.401)
のごとき漢文脈だったりしていた。


漢文というのもそのころの日本人の言語の一部であって、日本の教養人とは漢詩を作る人とほぼ同義だった。江戸期以前は漢文ができる人はごく限られており、江戸時代でももちろん絶対的には少数だが、前代と比較すれば爆発的に増えた。特にその後期に漢学の普及は頂点に達し、そのピークにおいて明治維新を迎えている。明治にもその余波は続き、明治前期の有為の青年はほぼ例外なく漢学塾に通っていたという背景がある。
若年の漱石も漢文で紀行を書く。
「余児時誦唐宋数千言喜作為文章或極意彫琢経旬而始成或咄嗟衝口而発自覚澹然有樸気竊謂古作者豈難臻哉遂有意于以文立身自是遊覧登臨必有記焉」(「木屑録」、明治22年。「漱石全集」12、岩波書店、1967、p.445)
鴎外は「隊務日記」を漢文で書いた(明治21年)。中江兆民はルソーの「民約論」を漢文に訳したし(明治15年)、鴎外は西洋の詩を漢詩に訳すなどということもしていた(「於母影」、明治22年、後述)。


「言文一致体」が登場したときの文章環境はこのようなものであった。その中へ「あひびき」の清新な文章を置いてみれば、二葉亭の文体革新がいかに突出して進んだものであったかがよくわかる。
「鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで来たが、フト柱を建てたやうに舞ひ昇ツて、さてパツと一斉に野面に散ツた――ア、秋だ! 誰だか禿山の向ふを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたツた……」(明治21年。「二葉亭四迷全集」1、岩波、1964、p.169)


書くのがこんなふうであったころ、では当時の日本人はどのように話していたか。それは口述筆記でうかがえる。
渋沢栄一明治20年に語った思い出話はこうである。
「自分が書物を読み初めたのは、たしか六歳の時と覚えて居ます。最初は父に句読(くとう)を授けられて、『大学』から『中庸』を読み、ちょうど『論語』の二まで習ったが、それから七、八歳の時、今は盛岡に居る尾高惇忠(おだかあつただ)に習う事になった。尾高の家は、自分の宅から七、八町隔(へだた)った手計(てばか)村という処であったが、この尾高という人は、幼少の時から善く書物を読んで、その上天稟(てんぴん)物覚えのよい性質で、田舎では立派な先生といわれるほどの人物であった。殊(こと)に自分の家とは縁者の事でもあるから、父は自分を呼んで、向後(こうご)、読書の修行は乃公(おれ)が教ゆるよりは、手計村へいって尾高に習う方がよいといいつけられたから、その後は毎朝、尾高の家に通学して、一時半かないし二時ほどずつ読んで帰って来ました。」(「雨夜譚」、岩波文庫1984、p.16)
三遊亭円朝の「牡丹燈籠」(明治17年)の語りは、
「寛保(かんぽう)三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、湯島天神の社(やしろ)にて聖徳太子の御祭礼を致しまして、その時大層参詣の人が出て群衆雑沓(ぐんじゆざつとう)を極めました。ここに本郷三丁目に藤村屋新兵衛(ふじむらやしんべえ)という刀屋がございまして、その店先には良い代物(しろもの)が列べてあるところを、通りかかりました一人のお侍(さむらい)は、年の頃二十一、二とも覚しく、色あくまで白く、眉毛秀(ひい)で、目元きりりっとして少し癇癪持(かんしやくもち)と見え、鬢(びん)の毛をぐうっと吊り上げて結わせ、立派なお羽織に、結構なお袴(はかま)を着け、雪駄(せつた)を穿(は)いて前に立ち、背後(うしろ)に浅葱(あさぎ)の法被(はつぴ)に梵天帯(ぼんてんおび)を締め、真鍮巻(しんちゆうまき)の木刀を差したる中間(ちゆうげん)が附添い、この藤新(ふじしん)の店先に立寄って腰を掛け、列べてある刀を眺めて、
侍「亭主や、そこの黒糸だか紺糸だか知れんが、あの黒い色の刀柄(つか)に南蛮鉄(なんばんてつ)の鍔(つば)が附いた刀は誠に善さそうな品だな、ちょっとお見せ。」」(「怪談 牡丹燈籠」、岩波文庫、2002、p.13)
今のわれわれとまったくちがわない。実際に話していることばと書くことばがこんなにかけ離れているのは不自然で、だから言文一致は必然なのだと結論づけられそうだが、話はもう少し面倒だ。


日記は、人に読ませるためでなく、自分自身の覚えのために書かれるものである。だからその文章は自分にとって自然なものであるはずだ。その日記を、「言文一致」の旗手自身が文語で書いている。
「一日 ― 夜九時より行く、此日二百十日にて好天気人心かなり浮立つ、廓に祭礼ありとて往来賑也、至れば九時半留掾にあり、此日客三組有りし由語る、一人は鋳物師、留が佐藤に行きし頃来り、一直にて留を待ちしよし、留即ちそこに行き、其人は五人連にて夫より八百松に到りしといふ、客は如何なる者か知らず、此夜遅く行きしも尽くその故と推せし如く明らさまに打明けて待遇特に力めたり、宝一帰途みやげ一折、車代五銭復、往復車十銭、食盤明日求むるよし約束、明日様々の訂約するよし前告」(明治24年9月1日。「明治の文学10 山田美妙」、筑摩書房、2001、p.360)
樋口一葉の日記「若葉かげ」は、
「十五日 雨少しふる 今日は野々宮きく子ぬしがかねて紹介の労を取りたまはりたる半井うしに初めてまみえ参らする日也 ひる過る頃より家をは出ぬ 君か住給ふは海近き芝のわたり南佐久間町といへる也けり かねて一たひ鶴田といふ人まてものすること有て其家へは行たる事もあれば、案内はよくしりたり 愛宕下の通りにて何とやらんいへる寄席のうらを行て突当りの左り手がそれ也 門くゝりておとなへばいらへして出きませしは妹の君也 此方へとの給はすまゝに、左手の廊下より坐敷のうちへ伴れいるに兄はまた帰り侍らす今暫く待給ひねと聞え給ひぬ 誠や君は東京朝日新聞の記者として小説ニ雑報ニ常に君かあづかり給ふ所におはせばさもこそはひまもなくおはすべけれと思ひつゝくるほとに門の外に車のとまるおとのするは帰り給ひし也けり やかて服など常のにあらため給ひて出おはしたり 初見の挨拶なとねんころにし給ふ おのれまだかゝることならはねば耳ほてり唇かはきていふへき言もおほえずのふべき詞もなくてひたふるに礼をなすのみ成き よそめいか斗おこなりけんと思ふもはつかし」(明治24年4月15日。「明治文学全集30 樋口一葉集」、筑摩書房、1972、p.165f.)
のように、彼女の小説と同じ擬古文だ。


手紙は日記とちがい相手に読んでもらうものではあるが、これも公刊は目的でなく、同じく私的な性格である。これはたいてい「候文」であり、世の文章がまったく「言文一致体」になってしまったあとも長くそう書かれていた。
「一丈余の長文被下難有拝見小子俳道発心につき草々の御教訓情人の玉章よりも嬉しく熟読仕候天稟庸愚のそれがし物になるやらならぬやら覚束なき儀には存候得共性来年かゝる道は下手の横好とやらに候得ば向後驥尾に附して精々勉強可仕[候]間何卒御鞭撻被下度候(…)
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳も無之是も小子嗜好の下等なる故と只管慙愧致居候元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて全体を窺ふ事かたく候得共当世の文人中にては先づ一角ある者と存居候ひし試みに彼が作を評し候はんに結構を泰西に得思想を其学問に得行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候右等の諸分子相聚つて小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候(…)
時下炎暑の砌り御道体精々御いとひ可被成候 拝具
 八月三日                           平凸凹拝
 のぼるさま」
正岡子規あて書簡、明治24年。「漱石全集」14、岩波書店、1966、p.30ff.)


二葉亭は明治22年、公刊された「浮雲」第三編を手に取ったときの感想を、「落葉のはきよせ 二籠め」という日記のような雑記帳にこう書いている。
「乃ち取る手もわなゝくはかりいそぎて発き他人の作には眼を留めずまづ我作を求め出せり 其時は為す事の善悪はほと〱考ふ遑はなく只インスチンクトに働かされて知らす識らさるうちにしかせしなり 我作を求め出せしかばまづ之を手に持ちて歩みなから読みもてゆくほどに手先おのゝき出せり その前よりおのゝきをりしや否やは知らす たゝその時になりて心附きしなり 次いて忽然として顔を真紅にそめたり 「かほとまで拙なしとはおもはさりしが印刷してみれば殆と読むにたへぬまでなり」と心のうちにおもへり 読終りても心落居ず ちきれ〱の独語を我にもなくいひつゝ間断なく躍るやうに部屋のうちを歩みめくりつひにたへかねて両手に我頭に(を)毟りつけり されと我にかへりておもへばかゝることに精神を脳乱するは甚だ拙た[な]しと耻つか[し]くなりしほとにふとまた雑誌を受取らさるまへ気結ふれて心地死ぬへくおほえしとき遥かの空をみあけたるにやゝ心のとやかになりたるをおもひだすと同時に我顔はおのつからあかりて眼は蒼空にそゝけり此時蒼空は余のための唯一の解毒剤の如くにおもはれしなり、」(「二葉亭四迷全集」6、岩波書店、1965、p.89f.)
「言文一致」の自分の小説を読んだ感想を文語で書く。その文章は息もつかさず懊悩惑乱のさまを伝えて余すところがない。文語でこれだけみごとに表現できるなら、なぜわざわざ言文一致体で書かなければならないのかと疑問に思ってしまう。
内田魯庵西園寺公望首相の招待になぜ応じなかったかと問うた手紙に、虫のいどころの悪かった二葉亭は、
「拝復 平凡ハ平凡なりそれを強て非凡たとおつしやるなら非凡てもよろし けれと平凡は矢張平凡也
首相の招待に応せさりしはいやであつたから也 このいやといふ声は小生の存在を打てハ響く声也 小生は是非を知らす可不かを知らす 只これか小生の本来の面目なるを知る而已
謀面は今時機に非すやかて折あるべし 草々頓首 長谷川生 内田兄」(明治40年10月。「二葉亭四迷全集」7、岩波書店、1965、p.359f.)と一気呵成に書き上げた返事を送る。墨の走りぐあいからも勢いがわかる。文語であるが、言い足りないことなど何もない。文語をマスターした者は、文語で書いて書けないことなどないのである。
「言文一致」の小説を書く作家が、こしらえものの作品よりずっと自分に近い日記や手紙を文語で書いている。そこからわかるのは、彼らの心により近い文章は文語文であったこと(「言文一致」がすでに勝利している明治40年ごろにおいても)、「言文一致体」は文体にすぎないものとして始まっているということである。


文語体から「言文一致体」に進むのが世の中の流れであったのはまちがいない。だが、この点で鴎外の歩みは示唆的である。逆に「言文一致体」から文語体に進んだのだ。帰国直後の明治22年ごろはさかんに口語体を使っていたという事実がある。
鴎外は当時の日本語のすべてをあやつることのできる書き手であった。「於母影」(明治22年)において、西洋の詩を漢文にも雅文にも自在に訳す。
「波上繊月光斜紛
 蛍火明滅穿碧叢
 宵暗燐碧生古墳
 陽炬高下跳沢中
 星墜如雨光疾於電
 梟唱梟和孤客驚顫
 残月斜射千壑陰
 風死林木渾絶音
 正是威力如汝時
 霊咒無仮誰脱羈」(「戯曲「曼弗列度」一節」。「鴎外選集」10、岩波書店、1979、p.37)
いづれを君が恋人と
わきて知るべきすべやある
貝の冠とつく杖と
はける靴とぞしるしなる」(「オフエリヤの歌」。同、p.34)
評論ではカタカナ書き漢文訓読体も使うし、
「我東京市区改正ノ重且ツ大ナル衛生上ノ問題ナルコトハ、固ヨリ復タ余ガ如キ学藝、閲歴共ニ人後ニ在ルモノヽ、之ヲ辨ズルヲ竢タザルナリ、」(「市区改正ハ果シテ衛生上ノ問題ニ非サルカ」、明治22年。「鴎外選集」11、岩波書店、1979、p.40)
話しことばでも書く。
「欧米の人は靴(くつ)を穿(は)き日本の人は屐(げた)を穿きます孰(どちら)が善いかといふことは随分諸君の肚裏(はらのうち)に起つた問題でしやう吾們は今純粋な衛生学上の点から見てその相互の ― 靴と屐との ― 関係を論じてみませう
元来衛生とは身外の物が人身の健康に及ぼす影響を知る学問ですそれを知つた以上は彼れの影響が悪ければこれを避け此れの影響が善ければこれに就くといふ撰択が出来ます衣食住と一口にいふ内に食は外物を捕へて衛生的の材料にするもので衣と住とは外物に対して身を衛る衛生的の器械です扨て靴も屐も亦た衣といふ部類に属して居る器械に相違ありますまい」(「靴? 屐?」、明治22年、「鴎外選集」11、岩波書店、1979、p.111)
(しかしながら、この口語体の文中にはさまれた翻訳や論述の部分は文語体となっている。「誰か法蘭西の「ランド」と名くる広く枯れたる砂原を知ざらんやこの原はビスケー湾を環ること数百時程(じてい)ジロンドの河口よりビスケーヤと呼べる西班牙の県(あがた)に達せり」(ヂェームス「旅人」、p.116)、「拇趾の受ける害を詳にいへば/(一)爪の外縁は爪牀を踰え外爪襞(ひだ)* , は炘* , 衝す/(二)爪の内縁は下へ圧され爪牀は上へ圧され爪甲乙嵌入す(くひこむ)」(p.118)のように。これは、そのようなものは正格の文で書かれるべきであるという当時の常識の反映でもあるし、文体上の工夫でもあろう(1)。)
真正の「言文一致体」も駆使する。
「路易(るい)第十四世の寵愛が、メントノン公爵夫人の一身に萃(あつ)まつて世人の目を驚かした頃、宮中に出入をする年寄つた女学士にマドレエヌ、ド、スキユデリイと云ふ人があつた。丁度千六百八十年の秋の事で、或る夜の十二時過ぎに、其女学士が住つて居るセントノレイ町の家の戸を劇(はげ)しく敲くものがあつた。其夜下男のバプチストは妹の婚礼に招ばれて行つてまだ帰らず、家の内で目を醒まして編物をして居たは仲働きマルチニエヽルといふものであつたが、今此響を聞くと、何となく怖気立ち、急に自分と主人と女二人で家に居ることに気が付き、昔から巴里(ぱりい)であつた人殺しや、押込の怖い話が皆一時に胸に浮んで、只慄々(ぶるぶる)と震ひ乍ら室(へや)の片隅に蹲んで居た。」(「玉を懐いて罪あり」、明治22年。「鴎外選集」16、岩波書店、1980、p.12)
しかし、「舞姫」(明治23年)を発表するころから決然文語体になり、世の大勢が「言文一致体」になってしまうまでそれは続いた。
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこヽに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗抔をさへ珍しげにしるしヽを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のまヽなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象を養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。」(「鴎外選集」1、岩波書店、1978、p.5)
同じ年に書かれた「言文論」で、「古歌の歌ふべからずなりて今様起り、今様も亦歌ふべからずなりて都々逸の起れるさまを考え見よ」と、もと口に出して歌われていた詩歌が書いて読まれるものとなっていき、「言」が「文」と化すと、死文を乗り越え次々に新しい「言」が現われ出てくる歴史の流れをまず指摘する。古今を雅俗に重ねることはできないと説き、古の文を言とすることはできず、今の言を文にするほかないと認める一方で、「言文一致も亦た今の言を取りたりといふのみにて、其質は則ち儼然たる文なり」と本質を指摘する。彼の意見は、文中引用される落合直文のもの(「私も言語と文章とは離るべからずという論者であります。さりながらこれには余程注意せねばならぬと思ひ居ります。即ち言語を今少し上品に進め、文章を少し引下げやうと云ふことであります」云々という文語体擁護の口語の発言!)に近いと思われる。新語新思想は取り入れつつも、野卑に流れないために「旧来の語格」(古文法)は守るという折衷式のあり方である。この一文は、前年さまざまな「言文一致体」を試みていた鴎外の、「旧来の語格」で新しい世態思想を描くことはできるし、そうすべきであるという宣言と見なすことができる(2)。
鴎外はたぶんこのころ(落合直文などに触発されて)「和文の発見」を行なっていたのだ。明治の文語は漢文訓読体であった。和文・擬古文も存在したが、主流ではなかった(和文では学問技術の翻訳がおぼつかない)。そんな中で、文語(漢文訓読体)でもなく卑俗な口語(初期の言文一致体や口述体)でもない「新しい和文」の可能性を信じたのであろう。
紅葉や露伴のいわゆる「雅俗折衷体」も、現われたのはこのころで、言文一致体の出現よりむしろ少しあとになる。これには明治の「西鶴発見」(淡島寒月がその導きとなった)が影響しているだろう。清新な雅文による文体刷新が言文一致と同時進行していたわけだ。漢文訓読体でも口語でもない「第三の道」の模索である。
最終的には彼も「言文一致体」で書くのだが、そこに至るまでの歩みは、両体に分裂していた二葉亭の文筆行動とともに、われわれに「言文一致」に対する反省を促す。「言文一致体」を採用したのは文語で書きあらわせないことがあるからではないということを、まず知っておかねばならない。


文語ですべて書きあらわしうるなら、どうして「言文一致」でなければならないか。文語は、それが書けるようになるためには多大の努力を必要とするエリートの言語だからである。「国民皆文」を目指す近代社会とは異なる性格をもっているのだ。
田山花袋には大学予備門に通っていた同郷の年長の友人がいて、ユーゴーやゾラなどの西洋文学を英語で読んでいた。彼から本を借りて文学の勉強をし、花袋のほうは文筆家になったが、彼はならなかった。「かれには文学的気分が非常にあったにもかかわらず、また絶えず英語の小説や歴史や伝記を繙読しているにもかかわらず、漢学の力がないので、文章が旨く書けなかった」(田山花袋「東京の三十年」、岩波文庫、1981、p.24)。大読書家が「文章が書けない」とはどういうことなのか。それは作家になるならないとはまったく別の問題だ。「漢学の力がないと文章が書けない」日本語の悲劇の犠牲者であろう。
柳田国男は少年時代の国語教育について、「私らのころには山へ行ったという記事文には、きまって一瓢を携えと書き、この日天気晴朗といい、家に帰って燈下にこの記を作るなどと書いて笑われたものであった」(柳田国男「国語の将来」上、講談社学術文庫、1977、p.52)と回想する。子どもの書く文章ではないが、しかし書くとなればこうとしか書けないのである。
昭和の初めに皇太子が生まれたとき、「日つぎの御子はあれましぬ」という奉祝歌ができたそうだが、金田一春彦の下宿していた家の小学生の女の子はそれを聞いて、「皇太子さまが生まれたのに死ぬなんて変ね」と言ったという。「あれましぬ」を「あれま、死ぬ」と思ったらしい(金田一春彦「日本語」、岩波新書、1957、p.54)。笑ってはいけない。彼女のほうが絶対に正しい。「兎追いし」を「兎おいしい」と思うのと同じだ。ふだん話していることばと違うのだから、文語を習得していない人が文語をまちがえるのはきわめて自然で、まちがえないほうがかえって不自然なのである。
子どもだけではない、教育勅語にも「一旦緩急アラバ」と言うべきところを「一旦緩急アレバ」としたような誤りがある(同、p.55)。勅語を起草するのは自他ともに認める大学者のはずだが、それでもこんなまちがいをする。生きていない死語を使うからだ。口語体で文を書く「言文一致」はこの点から必然であった。それはたしかなことである。
しかし、では話していることばをそのとおりに文字にすればいいのか。もしそうならば、「言文一致」はもっと早く実現していそうなものだ。そうではないところに、さまざまな困難があった。