言文一致と言文乖離(2)

2.口語文法の文語文
田舎で生まれ育ったものだから、狂言や歌舞伎を見たのは大学に入って上京してからである。初めて見て驚いたのは、それがわかるということだ。耳なじみのないことばや言い回しはあるが、基本的にほとんど理解できる。平安朝の文学の朗読を聞いたら、そうはいかない。今のわれわれのことばとかなりちがうので。室町以後の口語はわれわれの口語とだいたいがところ同じなのだ。
古文は平安時代の口語であり、それで文章も書かれているから「言文一致」であった。そののち口語は語彙も文法も変わっていったが、書くときだけは平安時代の文法にしたがっていた。文語と口語の乖離がおきたのである。


江戸時代以来、小説の中でも会話文は「言文一致」、話すとおりの口語であって、地の文が文語体で書かれていた。地の文を口語体にしようとするのが「言文一致」主義者の苦闘だった。どうして地の文を「話すように書く」ことができなかったのか。そこに日本語特有の困難がある。敬語があるからだ。話しことばは相手が誰かによって言い方が変わる。不特定一般を対象にして中立的な物言いをすることが話しことばではむずかしい。そのために書きことばが必要なのであり、「言文一致」以前はそれを平安調古文や漢文訓読体という時間的(中古)空間的(異国)に距離のあることばに求めた。それが文語体である。その便利な文体を廃し、口語で文をつづるとなると、まずここで困難にぶつかるのである。
日本語は、相手との関係が定まらないとものを言うことができないという面倒な特徴をもっている。初めて会った人が年齢が上か下か、どこの出身でどんな仕事をしているか、日本人はとりあえず当たりさわりなく始める会話から情報を集める。それによって敬語の使い方もちがってくるし、自分の側(ウチ)に属するか他人の側(ソト)かによってことばづかいも微妙に異なるのだからしかたがない。同じ“give”の行動が、相手しだいで「あげる」になったり「くれる」になったり、「いただく」にも「さしあげる」にも「やる」にもなる。男の場合、英語なら“I”ひとつですむ自称が、相手によって場面によって「わたし」「わたくし」「ぼく」「おれ」「自分」「小生」と変転するのは、全然おかしなことでも努力のいることでもなく、当人が自覚すらしないようなごく自然な現象である。
そこまでは問題にしなくとも、文末をどうするかが第一の問題として現われてくる。先駆者二葉亭もそれで悩み、「「私が…で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものか」(「余が言文一致の由来」)考えた末、逍遥が敬語がないほうがいいという説だったので、敬語なしでやってみたと述懐する。美妙は逆に敬意のない「だ」体で始め、のち「です」体に移った。
「なり」は客観的で中立的である。古語なので、生々しい「関係性」から超越できる。それに対して、「だ」でも「です」でも「ございます」でも、そういう口語の文末詞を使うと「関係」が生じてくる。誰かが誰かに対して何らかの立場でものを言っている感じになるのだ。最初期の「言文一致」実践を特徴づけるのは「文末の苦闘」である。二葉亭の「だ」、美妙の「です」。「ござる」体というのもあった。武士の公的な場での話しことばであって、江戸時代以来しばしば使われてもいた。西周の「百一新論」(明治7年)などはそれで書かれている。
「或曰ク、先生ニハ平素ヨリ百教一致ト云フ説ヲ御主張ナサルト承リマシタガ実ニ左様デゴザルカ
先生対テ曰く、如何様左様デゴザル、敢テ主張ト申スデハゴザラヌガ、彼此ト考え合セテ見候ヒツルニ、如何ニモ一致ノ様ニ存ゼラルヽ故、朋友ト話ノ序ニサル事マデ論ジタ事ガゴザルニ由テ、大方世間デソレヲ拙者ガ主張スルト申デゴザラウ」(「明治文学全集3 明治啓蒙思想集」、筑摩書房、1967、p.3)
耳になじみの薄いこういう「ござる」のケースだと、ある種の人がある種の人々に対してある立場でものを言っているということがよくわかる。「だ」も「です」も、明治以来使われてくる中である程度の客観性・中立性を獲得しているが、それが初めて文章に現われたときいかに目障りだったかが、「ござる」の語感からわれわれにも追体験できる。
代表的な文末詞には「です」「だ」「である」などがある。このうち「である」というのは、室町時代に「にてあり>にてある」から変じて成立したようだが、そののち「る」が落ちて「であ」となり、そこから西国の「ぢゃ・や」、東国の「だ」が現われて、「である」自体は一度消えたが、江戸時代の蘭学者オランダ語文献を翻訳するときにbe動詞の訳語として再登場した(山本正秀「近代言文一致文の文末語の語史的研究」。同「言文一致の歴史論考」所収、桜楓社、1971)。それ以来の近代的用法は、いわば人工的に作られた書きことばであった。「だ」や「です」は現実に話しことばで使われている。だが、翻訳由来の「である」は初めから書きことばであって、話すときは使われない。演説でもないかぎり。しかしそのために、「だ」や「です」がもつ対人関係的語感がなくて、客観性・中立性で勝っている。初めは「言文一致」に強く反発していた尾崎紅葉に用いられることによって、「である」は「言文一致体」に欠かせない文末語となった(3)。


けれども、文末だけが問題なのではない。
この文は論文ではなく、評論というくらいのものである。論文ならば、どの言語で書かれてもそれは読んで理解するためのものであり、聞いてわかる必要はない。だが日本語では、評論程度の文章でも、聞き手に対して話すとなると、そのまま口にすることはできない。聴衆に向かって語る講演会のような形式でも、それを読み上げただけではよくわからないのである。むろん文末の「だ」「である」は「です」に変えるが、それだけでは何も変わらない。語彙自体を変えなければならない。書くときは「言文一致と同時に言文乖離も進行していたのである」と書いて問題ないが、話すときはこのままではいけない。「言文乖離、話すことと書くことが離れていってしまう現象も、言文一致と時を同じくして進んでいたのです」とでも言わなければ、聞き手にわかってもらえない。
つまり、「言文一致」運動によってもたらされたのは、「口語文法の文語文」、「言一文語」とでもいうべきものだったのである。まさに「言文一致」と「言文乖離」が同時進行していたのだ。「言文一致」であるはずの現在の日本語には、「話しことば」と「書きことば」の区別が厳然とある。ともに口語文法にのっとっているので、かつての文語体と口語体ほどにはっきりと境界は見えないが、そういうものが存在しているのは明らかで、混同することはできない。日本語はどうしてもこのふたつを分離させずにはおかない言語であるらしい(4)。
北朝鮮のスローガン「強盛大国」を伝えるアナウンサーは、「強盛大国、強く盛んな国」と言っている。「キョーセータイコク」と言うだけでは何のことかわからないし、あの国のことだから、「強制(労働の)大国」「矯正(されるべき)大国」とでも思われてしまいかねないので。だが、これって「文選読み」じゃないか。「蟋蟀」を「シッシュツのきりぎりす」と読むような、漢字を音読し、さらに同じ意味の和語で言う読み方と同じだ。「漢文訓読」を今もやっているのである。


「言文一致」が唱えられ実践されていた時代は、西洋の事物を取り入れるためさかんに漢字訳語が作られていた時代である。
漢字には屈強な造語力がある。たとえば「言文一致」は明治以後新しくできたことばである。がんばって調べれば誕生日や作った人まで特定できるかもしれない。意味もよくわかり、必要があって使われつづけたため熟語として熟しており、辞書にも載っている。「言文乖離」は辞書にはないし、「言文一致」ができたあとでそれを踏まえて即興的に作られたことばだ。しかしこちらも字を見ればどういう意味かすぐわかる。
江戸時代には、書かれた文章は耳から聞いても理解できた。漢文訓読でないかぎりは。漢語も多く使われていたが、それらは字音語ではあっても和語の中にとけこんでいて、聞くだけでも誤解することなく意味がわかることばがほとんどであった。「老中」「奉行」「旦那」「始末」「往生」等々々。これらを「和漢語」ないし「和化漢語」とすると、明治以降主に西洋の概念事物を翻訳するためにおびただしい数の字音語が新造された。昔からある語の場合も、それに新しい意味が盛られた。あまりにも数が多く、また音節の組み合わせが非常に少ないという日本語の特性のため、同音異義語が氾濫し、聞いただけでは意味がわからないというどうしようもない状況に陥った。これら明治以後の新造字音語を「新漢語」と呼ぶことにしよう。
―という一般論を述べた中で使った「和化漢語」ということば、これは私が今作った。前に用いた人もいたかもしれないが、それとは無関係に、この場で造語した。漢字を使うとこういうことが可能だし、読んだ人は一読して意味が理解できる。読んだら。しかし聞くときはそうはいかない。「和歌漢語」?「若看護」? 聞いてすぐわかる人はまずおるまい。わからないことばなら作るなよ、というのは正しい。だが便利である。それが困ったところだ。
新漢語の氾濫は、同音異義語の大海にわれわれを漂流させる結果となった。「シンリロン」と言われても、それは「新理論」なのか、「真理論」「心理論」「審理論」なのか。どれも同じコンテクストで出てきそうだから始末が悪い。「私立」と「市立」、「工業」と「鉱業」「興行」、「民族学」と「民俗学」なんかまったく同一文脈で使われる隣接分野でかつ同音なのだから、無責任じゃないかと難じたくなる。書いてあればわかるが、聞いたのではわからない。聞いてわかってもらうためには、書いたことばとは別の言い方をしなければならないというのが明治以降の日本語の大きな特徴である。漢字を知らなければ、日本語はわからない。読むときだけでなく、聞くときにも漢字の知識が必要なのだ。どんな字か頭に思い浮かべられなければ意味が取れないのだから。たしかに、コンテクストによって同音異義語の区別はかなりできる。しかし文脈に過剰に負担をかけるのはよくないし、聞いているとき一時的に脈絡を見失うことはしばしばあるのだ(聞く場合にも「見失う」ということばが適切だ。そのとき漢字を頭の中で「見て」いるわれわれにとって)。
日本社会で漢字を知らない者として暮らすというのはどんなものなのだろうと考える。さいわい文盲はほとんどいない社会を築いているのだが、そこからはみだす人はいる。盲人とか、外国人とか。漢字を知らないと新聞が読めないというのはまだいいが、満足にコミュニケーションもとれないというのでは、何か根本的なところで無理がある(5)。


「和化漢語」と「新漢語」の関係は、古い外来語と「カタカナ語」の関係である。もちろんカタカナ語も外来語であるが、古い外来語がすっかり日本語になりきっていて、漢字やひらがなでも書かれたりするのに対して(「煙草」「かるた」「天ぷら」等。むろん「ズボン」「コップ」のようにカタカナで書かれるほうが多いが)、カタカナ語は比較的新しく入ってきたものだから、かならずカタカナである。
カタカナ語は明治からできていたが、激増したのは戦後である。新漢語もカタカナ語も、西洋の事物概念を取り入れる過程で生まれた。明治の頃は漢学の素養があったので、漢字の造語力を生かして漢語化して取り入れた。漢学離れや漢字制限によって漢字力が衰えてきた戦後には、原語をそのままカタカナに置き換えたカタカナ語の形で取り入れることがふえた。しかしこのカタカナ語も、単に発音の日本語化だけでなく、日本で造語されたり(和製英語)、原語の複数形の“s”を落とすなど日本語の論理によって処理されていたりする立派な日本語ではあるのだが。
外来の事物を受け入れる場合、原語をそのまま採用する「カタカナ語」のような行き方が一般的で、「新漢語」のように自言語に翻訳して取り入れることはむしろ少ないだろう。表意文字である漢字はこの局面で大いに力を発揮したが、漢字が自言語の文字である中国はそれでいいとしても、漢字自体が外国の文字である日本ではそれが新たな問題を引き起こす。もともとは外国の文字であったけれど、すでにかなり血肉となっていることが、さらに問題を複雑にする。
最近よく聞く「コンプライアンス」「アウトソーシング」などのカタカナ語も、そのままではわからないが、「法令順守」「外部委託」と漢語にされればよくわかる。だが、たとえば「イノベーション」を「革新」とすれば、字を見ればなるほどと思うけれど、耳から聞いた場合の「カクシン」は、同音異義語(「確信」「核心」など)との混同の恐れをともなう。「ノーマライゼーション」に対して「等生化」なんて訳語を新しく作り出すのは、目ではわかりやすくなったとしても、耳で「トーセーカ」と聞いたのでは何のことかと思ってしまう。「統制家」か? 2・26か? さりとてカタカナ語の跳梁跋扈をよしともできないし、まったくもってやっかいだ。


日本では、漢字を知っていることが教育があることのしるしであった。下町の子どもの世界でもそうである。長吉が龍華寺の真如にけんかの加勢を頼み、「向こうの奴が漢語か何かで冷語(ひやかし)でも言ったら、こっちも漢語で仕かえしておくれ」(「たけくらべ」)と言っているくだりなどを読むと、感慨を抱かざるを得ない。子どもは大人の引き写しだ。大人たちもそのように漢語に対していたのである。
漢字に加え、明治時代からは英語を知っていることも重要なエリートの標章になった。「当世書生気質」の書生の会話を見ると、英単語をやたらにおりまぜているのに一驚する。
「須「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急(せ)いて行きよったら、大丈夫ぢゃらう。」宮「それぢゃア一所にゆかう。」須「オイ君。一寸(ちよつと)そのブックを見せんか。幾何(なんぼ)したか。」宮「おもったより廉(れん)だったヨ。」(…) 須「実にこれは有用(ユウスフル)ぢゃ。君これから我輩にも折々引かしたまへ。歴史(ヒストリー)を読んだり、史論(ヒストリカル・エツセイ)を草する時には、これが頗(すこぶ)る益をなすぞウ。」(坪内逍遥当世書生気質」、岩波文庫、2006、p.22)
そのころ大学の講義は英語で行なわれていた、当時まだ訳語が確立していなかった等々の事情はあるが、われらがその似姿である先祖のさまに赤面してしまう。日本人は学があればあるほど軽薄になってしまうように思うのは気のせいだろうか。現代の雑誌のページをめくれば、「××マーケティングジャパン・マニファクチャラービジネスデベロップメントの〇〇シニアアカウントディレクター」なんて悪い冗談みたいなのが平気で現われる。だがこれは、「絶対矛盾的自己同一」などと位相は同じだ(「同じところにいそう」ということ)。できたての新語をふりまわすのが教育ある日本人の言語生活のかなりの部分を占めるという不幸な歴史を、日本語は今も重ねている。

「言文一致」論者が「文」を一致させようと努めたその「言」、口語・話しことばの側の事情も見ておかなければならない。明治初期には、「文」が一致するべき「言」もまた混沌としていた。「全国統一話言葉」制定取調べをめぐる井上ひさしの喜劇「国語元年」の世界である。「夫我日本ノ国タル東西僅(ワヅカ)ニ六百里[北海道ヲ数ヘス]ニ過キスシテ言語相通セサルカクノ如キモノハ他ナシ従前会話ノ学ナキカ故ナリ方今吏務(リム)ヲ奉スルモノ或ハ西ヨリ東ニ赴キ或ハ東ヨリ西ニ詣(マヰ)リ事務ヲ訊(ト)ヒ訟ヲ聴クニ言語相通セサルアレハ情実審カニシ難ク猶外国ニ至ルカ如シ其不便モ亦以テ知ルヘキノミ」(「文部省雑誌」1、明治7年。「日本語の世界」10、中央公論社、1985、p.141)。
当時「標準語」があったとすれば、それは古文と漢文であった。口語のほうは無数の方言があるばかり。参勤交代により諸国の士が集まっていた江戸で話を通じるための武士ことばはできていたが、それは地理的にも社会的にもごく一部にのみ通用するものでしかない。方言の大海の中に「文語」という「標準語」の島があるという図である。しかも日本語は方言差が非常に大きく、互いに「自言語」でしゃべってどの程度理解しあえるかで見れば、薩摩弁と津軽弁の距離は、たとえばチェコ語ポーランド語、デンマーク語とスウェーデン語の距離より大きかったに違いない。真偽は知らないが、薩摩藩士が津軽へ行って、ことばが通じないので謡曲で話をしたなどと語られるけれど、それは要するに「標準語」(である古文)を会話に用いたというごく当たり前のことなのだ。
軍隊と学校、中央集権の官僚機構を制度の柱とする近代国家は、標準語・共通語を必要とする。それがなければ、作らねばならない。その際基礎となるのは首都のことばであるはずで、実際東京山の手のことばを基に近代日本標準口語も文語もできた。「言文一致」は標準口語の確立と同時進行しており、作家たちの「言文一致体」が標準口語の形成をもたらした。「言文一致」は標準の「言」を作り出す作業でもあったのだ。いまだ存在していない「言」に「文」を近づけるという、両方の足場が危うい中での力仕事をやり抜くうちに、近代の「言」も「文」も形作られていったわけである。


3.口述体
二葉亭が最初に「言文一致」を試みたのは、ゴーゴリの翻訳(今は伝わらない)であった。それは逍遥評するところの「裏店調」で、「おまい」「おれ」「そうかい」「そうしな」のような書きぶりだったらしい。とても中産階級の夫婦の会話ではない。外国の夫婦は対等だからというのでそうしたということなのだが、現実の日本の中流の夫婦ではありえないことばづかいである(坪内逍遥「柿の蔕」。「逍遥選集」別巻4、第一書房、1977、p.418f.)。試行錯誤の連続であったことがわかるが、それが「文体実験」であったこともよくわかる。あのツルゲーネフの翻訳も、本人がのちに回想して、「コンマ、ピリオドの一つも濫りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つコンマが三つといふ風にして、原文の調子を移さうとした」(「余が飜訳の基準」、明治39年、「二葉亭四迷全集」5、岩波書店、1965、p.174)というようないき方であった。要するに、現実に存在しないものを作り出すために油汗を流していたのであって、「言文一致体」は「文章語」であり、人工の「実験的文体」として始まっているのである。
彼の「言文一致体」の基準は、のちの回想によると次のようなものであった。「国民語の資格を得てゐない漢語は使はない」「日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた。日本語でも、侍る的のものは已に一生涯の役目を終つたものであるから使はない。どこまでも今の言葉を使つて、自然の発達に任せ、やがて花の咲き、実の結ぶのを待つとする。支那文や和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である、人間の私意でどうなるもんかといふ考えであつた」(「余が言文一致の由来」、明治39年。「二葉亭四迷全集」5、岩波書店、1965、p.171ff.)。これはまことにさもあるべきことである。
しかし、彼自身がいくらそう思っていても、この「言文一致体」が世に広まって皆が皆採用すれば、「国民語の資格を得てゐない漢語」が湯水のように使われてしまい、聞いてわからぬ「文語」の方向へどんどん進んでいく。昔の「文語」は聞いてわかるものだったのだから、なお悪い。


「言文一致」研究は文学に偏っている。そのため明治期に関心が集中するが、口語文を筆記するという意味の「言文一致」自体はずっと歴史が古い。それは往々「前史」のようにあつかわれるが、実は「正史」であって、こちらこそ「正道」なのである。
「口語文法の文語文」である「言文一致体」と区別するために、これらを「口述体」と呼ぶことにするが、それは現在の口語に近いものが成立した室町時代以降ずっとあった。ローマ字で書かれた天草本「伊曽保物語」や、聞き書きの体裁の「雑兵物語」などから、江戸時代の心学道話や平田篤胤門の講本などへ続くとだえることのない流れがある。たとえば心学の道話はこんな説きぶりだ。
「天地の常とは則ち道の事でござります。天の心といふは、一切万物人間禽獣草木に至るまで、皆天の心なるゆへ、夜が明けるとちう〱かう〱、梅の木に梅の花が咲き、柿の木に柿が出来るも皆天の功用(おもひ)じや。けれど天は目に見えぬ、影形もなく無心なれど、平等一枚万物に普くして、此やうに働き詰めじやによつて、一切万物(ばんもつ)の造化するは、悉く天の働。天と万物と一体なるゆへ、釈迦如来孔子様も、千石万石の殿様も、賤しい銘々どもゝ、蚤も鯨も、犬も猫も雁も鴨も、皆天の生じた土じや。其生じた土が形の通りしてゐるが則ち道じや。といふことでござります。」(「道二翁道話」初篇巻上、寛政7年(1795)。岩波文庫、1935、p.29)
西周加藤弘之が「でござる」体で書いたものなどもこの系列に属する。植木枝盛らの自由民権パンフレットもそのように書かれていた。鴎外の前引口語評論や坪井正五郎の文章、たとえば「看板考」(明治20年)もそうだ。
「今若し屋根の上に矢を一本差し又は軒に弓と矢とを下げたならば之を見る人は必ず棟上げの略式か然らざれば鳥威しで有らうと思ふでせう、併し昔は之が湯屋の看板で有たのです、骨董集や皇都午睡に随へば弓(ゆ)射れを湯入れに掛けた隠語ださうでござりますが弓と矢なれば弓矢(ゆや)即ち湯屋との意にも取れませう、天保年間刻八十翁昔かたりに載せた古画及び西川祐信筆の絵本答話鑑にも此図画がござります、尚ほ尋ねたらば類がござりませう、」(「湯屋の看板」。「日本考古学選集3 坪井正五郎集」下巻、築地書館、1972、p.270)
実際に話したものを筆記したのもあるが、初めから話すように書かれたものも多いはずだ。これらはたしかに冗漫ではある。文章語に求められるのは簡潔さだから、そこに大きな難点がある。その点ですぐれていた小説の「言一文語」のため十分展開せずに終わったが、これによる「言文一致」がなされていたら、「言文一致」がこの方向に進んでいたらどうなっていただろうか、と考える。新漢語の氾濫はある程度抑えられていたのではないか(6)。


むろん、「言」と「文」がまったく一致することなどありえない。互いにその性格も目的も異なるのだから。要は両者の間の距離の問題で、それが大きすぎないかどうかである。日本語の諸特性は、それを引き離すほうへと常に働く。
「ゲンゴガク」はもっとも汚い日本語だと誰かが言っていた。「ゲンゴガクガイロン」はもっとひどい。略して「ゲロ」。「ブンガク」もそうだ。「ゲンダイブンガクロン」、略して「ゲブ」。痛切な反省なくこういうものを講じている人たちが日本語について論じる資格があるのかどうかは問われていいだろう。
といって、今さら「言語学」や「文学」の語をどう改めるわけにもいかない。「新漢語」なしに現代生活は営めない。この文も「新漢語」だらけだし。
和文と漢文、漢字と敬語(外国人が日本語を学ぶときに直面するふたつの難題だが、日本人にとっても同様だ。そしてこのふたつは日本語を書くことに困難を持ちこむことをやめない)、教育の普及(江戸期のエリート階層内での漢学の普及と明治になってからの義務教育による読み書き能力の一般化)と西洋の衝撃(近代化の必要)。さまざまなエレメントがからみあい、苦闘を重ねて、今の「書きことば」と「話しことば」から成る現代日本語ができあがった。話しことばに目配りしつつも、「だ」と「である」を併用した「言一文語」で書かれているこの文章のような中途半端を一例としながら。日本語は大きく変わってきたが、これからもなお変わらなければならないだろう。その方向は「聞いてわかる」であってほしい。


註:
(1) この中には、「爪の内縁は下へ圧され爪牀は上へ圧され爪甲乙嵌入す(くひこむ)」のように、送りがなを含めた漢語動詞に和語動詞を当てている箇所があり、こういうのが訓読なのだと気づかせてくれる。2語以上の漢字に和語を当てるいわゆる熟字訓(「重薦(たヽみ)」「靴傷(くつずれ)」「穹窿(まるてんじよう)」:漢名「百日紅」を和名「さるすべり」で読むような類)のほかに、漢語(なじみのある)を当てたり(「氍毹(もうせん)」)、外来語を振ったり(「土瀝青(アスフアルト)」)もしている。漢字語をわかりやすく解くということであり、その際用いられるのは主に和語だが、それは外来語であってもいいし、ことによったら漢語であってもいいのである。
(2) もうひとつ、こんなこともあるかもしれない。「言文一致」をリードした二葉亭・美妙は東京(江戸)生まれの東京育ちであるが、鴎外は石見国津和野の生まれである。10歳で上京して以来東京の人になっているから、方言で苦労することはなかったろうし、その故郷の方言も覇者長州のものとほぼ同じなのだから、コンプレックスもなかったに違いないが、いずれにせよ近代標準日本口語の基となった東京山の手方言で育った人ではない。「言文一致」文語も標準口語もまだ確立していない状況で、それを打ちたてようと努める人々の列から離れた理由のひとつには、そういうことも考えられるのではないだろうか。
なお、美妙の父は南部藩士だったが、母は江戸の町医者の娘で、地方官吏(島根県など)となった父親とは幼時からほとんど別居だった。二葉亭の父は江戸詰めの尾張藩士、母も同藩士の娘で江戸で育った。それを考えると尾張弁も二葉亭の「母語」の資格がありそうだが、「自分は東京者であるからいふ迄もなく東京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ」(「余が言文一致の由来」)と「浮雲」創作を回顧しているのを信ずれば、「母語」はやはり東京弁である。外貌に似合わぬ俗曲趣味なども「江戸の人」を感じさせる。彼は5歳から9歳までを名古屋、12歳から15歳までを松江(父が ― 美妙の父と同じく ― 島根県庁に勤めていたため)で過ごした。出雲弁ズーズー弁であり、同じ島根県でも鴎外の石見弁と違って訛りがひどいが、そのときにはすでに自分のことばをもっていたのだから、むしろそういう「多言語環境」を生きることは彼の言語感覚を磨くべく働いたであろう。
(3) 文体は統一されているのが望ましく、「普通体」(「だ体」と「である体」)で書くならすべて「普通体」、「ですます体」ならすべて「ですます体」で書くべきなのに、「普通体」で書かれた本のあとがきで感謝のことばを述べるとき、そこだけ「ですます体」になっているのをよく目にするが、あれなども実に日本語的な現象だと言えよう。良識ある日本人は、敬意と文体上の要請の両立に悩んだ末、結局それを断念し、前者を優先するのだ。
(4) この国における国語教育はいつも「書きことば教育」であったし、今もそうである。
日本語の書きことば・話しことばの分立は、外国人に対する日本語教育でも問題になってくる。もっぱら話しことばをあつかう日本語初級は教授項目が決まっていて、スタンダードな教科書もできており、方法もほぼ確立しているが、中級はこれはという教科書すらない。話しことばの能力も上げなければならないし、一方で書きことばも習得しなければならないという相異なるふたつの要請があるからむずかしいのだ。
(5) 明治は江戸時代に準備されていた。「である」の採用もそうだし、漢学の普及もそうだ。
日本語は和文(古文)と漢文から成っている。和文は基本的に聞いてわかることばであった。和語はもちろん、漢語も「和化漢語」は漢字を知らない者でもわかる。漢字漢文は日本語の切り離せない一部となっていて、漢文訓読体は近代の日本語を形作る上で少なからぬ働きをなした。しかし漢文訓読というのは読んで字のごとく和訓で読むことであって、古い時代の訓点は、できるだけ字音で読まず、和語にして読むのが原則だった。「帰去来田園将荒」を「かへらなんいざ、たはたまさにあれなんとす」と、あるいは「東行西行雲渺渺、二月三月日遅遅」を「とざまにゆき、かうざまにゆき、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、日うらうら」と訓じるように(落合直文「将来の国文」、「国民之友」、明治23年;「日本語の歴史」6、平凡社、1965、p.262)。しかし江戸時代に漢学が大衆化すると、後藤点や一斎点のようになるべく字音で簡約に読む読み方が広まった。こうして普及した漢学の素養が、漢字訳語の案出によって近代化を国民的に容易にしたのだが、その一方で、日本語を聞いてわからないものにもしたのである。
(6) 座談会というものがある。わが国ではたいていの雑誌に対談や座談会が載っている。外国の雑誌事情はよく知らない。インタビュー記事はよく見るが、座談会などあるのだろうか。しかし、外国にあるないは別にして、日本にきわめて特徴的なものだということは言える。書きことばと話しことばが分離している日本だからこそ、話しことばで書かれている座談会や対談の需要は大きい。座談会の人気は日本の言語状況を映している。