大会の祝辞をそれでも言おう

40人ばかり入るサイズの教室で、7人ほどの学習者がスピーチした。日本人が3人来た。それだけ。これっぽっちの催しを背景に、これから聞きようによってはかなり大仰なことも言いますが、この眺めを頭の片隅に置いて、適当に修正を加えつつ聞いて下さい。
(なお日本人3人といっても、それはその時点でのアルメニア在住邦人の全員であり、教室は満席でした。)


これしきのことをするのも大仕事で、かなりの力技だった。3月9日に行なった「第1回アルメニア日本語弁論大会」のことである。開催まで紆余曲折あり、予定されていた参加者の半数が出場できなくなったり、死者10人が出る衝突が起き1週間前に非常事態宣言が出されたり、予定されていた主賓がほんの間際の間際で来られなくなったりなど、さまざまな障害が次々に出来し、当日は快晴であったけれど、「豪雨決行」のおもむきだった。初めてのことをするのはむずかしいという一般論のほかに、アルメニアの特殊な事情による困難も大きかった。
弁論大会なんてどこでもやっていること、少なくとも旧ソ連の国では当たり前のルーティンな催しなのだが、アルメニアはまだそんな「当たり前の国」ではないのである。弁論大会はリトマス試験紙だ。自由な言論の場であり、自主性・自発性の尊重を骨子とする弁論大会の精神は、それと相容れないものの存在をはっきりと示す。
ハイドパークのスピーカーズコーナーのように、個人の自由な意見の表明が保障されるのはすばらしいことだ。ギリシア兵一万人の退却行を記した「アナバシス」(彼らはアルメニアの山地も踏破するのだが)の中で、行軍中でも兵士たちは意思決定にあたって必ず会議をし、意見を戦わせているのにも感銘を受けた。わが国でも、宮本常一が紹介しているように、自治する村は常会などの会議の場をもっていた。弁論によって人は、そして社会は、鍛えられなければならない。
教室の王様は「正解」だ。教師はそれを要求し、だから学生もそれをさがす。法則性のあるところではなるほど「正しい答え」は存在するが、意見においてはそうではない。「アルメニアに必要なものは森です」と言う学生と、「工場です」と言う学生がいても、そのどちらかが正しく、どちらかが正しくないというわけではない。「正解の束縛」から自由であることも魅力のひとつだ。
弁論大会では、人を殺せ、人のものを盗めなど以外は何を言ってもいい。たとえばウズベキスタンの大会で、「女はずるい」というちょっとゆがんだ考えや、死刑制度に大賛成という世界のトレンドに反する意見が表明されるのを聞いた。ここでもある学生は、カラバフはアルメニアのもの、祖国に危険が迫ったら戦わなければならないなどという、アゼルバイジャンの人がいるところで言ったらかなり刺激的な主張を含むスピーチをしようとしていた。それでいいのである。
私は個人的に、「日本語はうとましい、日本語を話す自分が悲しい、日本語で私の魂は汚された」というような内容のスピーチを日本語で聞きたいと思っている。そのとき弁論大会は完全になる。日本語がそのような内容を過不足なく言い表せることばであり、日本人がそのようなスピーチをする場を設けられる人間であるならば、日本語を話す日本人として、これほどうれしいことはない。弁論大会はだから、それが完たき姿で実現されれば、危険な催しなのである。
弁論大会に出場するような学生は優秀で意欲が高いのがふつうだから、多くは卒業後も日本語を使いつづけるだろうが、かりに日本語を廃しても、それに参加した経験は何かの形で影響を残すだろう。ことはスピーチに限らない。日本語それ自体より、日本語を学んだ経験のほうがずっと重要なのである。日本語学習を通じて学んだことのほうが。
学生に対する教育的効果のほかに、教師に対する「教育的効果」もある。運営にはその土地の異なる機関の教師らが協力してあたらねばならない。共通の目的に対して共同で行なう作業、「共通理解」を形成する仕事であるのだから。


弁論大会は「異文化交流」である。そのことを今回も強く感じた。学ぶ場所が異なれば、視点も考え方もちがってくるものだ。個人的な傾向のほかに、グループごとのタイプのちがいが明らかに存在するし、そういうものを見るのは楽しい。そして、自分と異なる考え方や書き方から参加者は必ず刺激を受ける。固定された視角から自由になる。そのことはたとえ学内の弁論大会であっても当てはまるだろう。クラスごとにある傾向があって、クラスがちがうと異なった傾向の作文が書かれるものだから。ギムナジウムのクラスが学年によって、切手集めがはやったり、踊り子に熱中したり、トルストイアンになったりしていたというツヴァイクの回想のとおりだ。
教師と学生が一対一で向き合うスピーチ練習は、教育の原型である。サナヒン修道院に行ったとき、吹きさらしの狭い回廊の一部に腰をかけるくぼみがあり、そこが中世期の「大学」であったと聞いて、いとおしい気持ちになった。スピーチの練習も、それに似た手作りの手作業だ。学びたい意欲のある学生が教師と向き合い、得られるものを吸収していく。中世を愛する者には、そのかすかな残響を聞く思いがする。時間は必要だが、金はほとんどいらない。紙と鉛筆と、口と耳がありさえすればいい。ばかばかしいコピー機や日本からの寄贈教材や、ビデオやLLやパワーポイントや、その他人の創意工夫の能力を奪う物質万能主義のもろもろがすべて不要だ(テープレコーダーは必要だが、このくらいは勘弁してもらおう)。場所だって、大学ならどこにでもある大き目の教室か講堂があれば十分だ。
私は、B29と竹槍が戦っていたら、断固として竹槍の味方である。戦争だとそれでは負けてしまうが、必ずしも負けるとは限らない分野がいくつかある。そのひとつが弁論大会なのだ。紙と鉛筆でノーベル賞をとった湯川秀樹が英雄であった時代を追体験できるのが弁論大会だ。やらないわけにはいかないのである。


ともかくも挙行されたこの大会。「ショボい」と形容されても甘んじなければならない程度のものではあったが、しかしながらモスクワでやっている全CIS諸国のコンテストと運営や審査方法において異なるところはなかった。これが来年度以降も続くかどうかはわからないが、続くべきであることはたしかだ。CIS諸国の国々が採用している基準、いわば「国際的」な基準にのっとって行なわれた大会だからである。モスクワのCIS日本語弁論大会の代表は、このような開かれた大会を通して選ばれなければならない。「指名制」などでなく。
アルメニアには教師会がない。だが、学内大会でなく、地域あるいは国の弁論大会を行なうためには、教師会のような組織が絶対に必要である。今回はそれを作ろうとする作業と並行して弁論大会をやったので、いろいろなところで無理があった(そして教師会のほうは結局できなかった。弁論大会が規模縮小したのと同じ理由で)。できたところでそれはしょせん任意団体であり、公的な地位はあいまいである。氏子の寄合いのようなものだ。そして弁論大会は、言ってみれば鎮守の祭りの相撲大会のようなものだ。なくて誰かが困るわけではないが、あったほうがずっといいもの。われわれの人生は、結局のところそういうものをいくつやったか、いくつやれたかで決まるのではないだろうか。
この大会の1週間後に、イェレヴァン郊外の村の学校で日本についての学習発表会が行われた。講堂に机を並べ、模擬授業の形式で、小学6年生ぐらいの子どもたちが日本の地理や歴史、文化について調べたことを発表する。先生役をつとめたのは日本語科の大学生2人で、そのうちの1人は弁論大会でスピーチした学生だった。その学校は彼女の出身校であり、そこに自分の学んだものを伝えてくれたのである。日本の歌をいくつもうたったが、それらは大会のとき審査休憩の間にうたわれた歌であった。池に投じた石が波紋を描くように、1週間後に早くもあの大会の効果が波及した。たかが7人のスピーチでも、やってよかった。心底そう思えたのは、幸福の最たるものである。
やりきったことが、この大会の最大の達成であった。あったことは記憶になる。記憶はすべてあとに起きることの発火点だ。だから記憶を豊かにすることに努めよう。忘却に呑みこまれるまでのわずかの間でも。