トルコのための本棚

昔は予習なんかしない生徒だったんだけど。大人になったら、どこかに出かける前にはせっせと予習に励む人間になってしまった。君子豹変、子どものころとうってかわるのは人生においてままあることだ。これをも成長と呼ぶか?
トルコには前から興味を持っていて、関連する本は読んできていたが、実際にトルコに出かけることになって、やあ、ずいぶん読ませてもらいました。その棚の総ざらえをしてみよう。


トルコについて書く場合、まず「トルコ」とは何ぞや、というところから始めなければならない。それは民族か、地域なのか。言うまでもなくそれは民族である。しかし国名でもあるし、「現在トルコ人が住んでいる地域」という意味でも俗用される。地域名としてはアナトリアとか小アジアを用いるほうがいいのだが。
トルコ人」と日本語で言う場合、それはテュルク系民族のうち、オスマン帝国の中核をなし、主としてアナトリアに住んでいた人々とその後裔を指す。そのオスマン・トルコはようやく14世紀から勃興してきたにすぎず、その前のセルジュク・トルコ、1071年のマンジケルトの戦いのあとアナトリアに侵入してきたテュルク族を含めても、長い小アジアの歴史の中のごく新しい部分を占めるにすぎない。
遊牧民であるテュルク諸民族は大いなる民族移動を重ねてきた。今アナトリアに住む彼らを系譜的に追うならば、つまりテュルク民族史として把握するならば、それは中央アジアの広大な地域まで拡散する。
逆に、地域に根ざして遡るなら、それは小アジア史であって、ビザンツ帝国ローマ帝国・ヘレニズム諸王朝・ペルシア帝国・フリギアやリディアなど・ヒッタイト王国等々の覇者たちと彼らの文明を訪ねる旅となる。あの国はアナトリアにコンパクトにまとまっているので、われわれはその大きさをつかみそこねがちだが、なかなかあれで広大なのである。気候においても歴史においても大いに異なる地中海岸・黒海岸・中部アナトリア・東部アナトリア・上メソポタミアの諸地域を分け、そのそれぞれに目を配らねばならない。しかも、ヨーロッパのようなポッと出とちがい、古き文明の地オリエントの一部であるから、歴史をたどりだせば長いのだ。
その二つの作業をともに行なわないと、「トルコ」を知ることにはならない。どうして、一筋縄ではいかないやっかいな相手である。
歴史と民族に加え、宗教についておおまかな知識も必須である。まずイスラム。テュルク諸族はほとんどがムスリムだし、わけてもオスマン・トルコはスンニ派ムスリムの盟主だったから。彼らの歴史も現在の生活もイスラムのネットワークの中にある。
そしてまたキリスト教についても。聖地でこそなけれ、パウロヨハネ、マリアの足跡があり、日本人になじみの薄い東方正教やもっとなじみのない単性論キリスト教の土地でもあったところなのだ。それ以前のギリシア多神教やその他の民族宗教については言わないことにしても。
もちろん、知らなくたって旅はできるし、生活もできるし、深く愛することもできる。仏教や神道がどうこうだと知らなければ日本に行けないなんてことはない。だいいち日本人自身そんなことよく知らないし。理解のためには知識はむしろ邪魔かもしれないのだ。そうも思っているけれど、ま、しかし、知らないより多少は知ってたほうがいいでしょう。


オスマン帝国に関しては、鈴木董氏の一連の啓蒙書がよい手引きとなる。
・鈴木董「オスマン帝国イスラム世界の柔らかい専制」、講談社現代新書、1992
・鈴木董「オスマン帝国の解体」、ちくま新書、2000
・鈴木董「イスラムの家からバベルの塔へ」、リブロポート、1993
・鈴木董「食はイスタンブルにあり」、NTT出版、1997


 そのほかにも、トルコをよく知る人たちがいろいろな角度から本を書いている。
・大島直政「ケマル・パシャ伝」、新潮選書、1984
・坂本勉「トルコ民族主義」、講談社現代新書、1996
・松谷浩尚「イスタンブールを愛した人々」、中公新書、1998
内藤正典「トルコのものさし日本のものさし」、ちくまプリマーブックス、1994
 これは中高生向け叢書で出ているが、大人にとっても有益だ。この分野では、鈴木董編「暮らしがわかるアジア読本・トルコ」(河出書房新社、2000)のようなものもある。
しかしながら、トルコを全般的に紹介する本としては、
・ホサム「トルコ人」(護雅夫訳)、みすず書房、1983
が一番である。古いものだが、古いのは何ら恥ずかしいことではない。これを越える新しい本が出ていないことが恥ずかしいのだ。どれか1冊と言われたら、これを勧める。
 ユルック遊牧民のフィールドワークをした松原正毅氏の3著は、
松原正毅「遊牧の世界」上下、中公新書、1983
松原正毅「トルコの人びと」、NHKブックス、1988
松原正毅「遊牧民の肖像」、角川選書、1990
いずれも好著。ユルック調査の報告とその副産物で、村と村人が具体的に見える。アナトリアを知るためには必読だ。
・ベハール「トルコ音楽にみる伝統と現代」(新井政美訳)、東海大学出版会、1994
こんな特殊なテーマを扱った著作の邦訳があることに驚きながらも、まずそのことを喜びたい。伝統音楽には楽譜がなかったというところから始まって、さまざまなことを考えさせられる本である。オスマン帝国の崩壊後、伝統音楽の楽師たちは窮状に陥るが、それなどまさに明治維新後大名のお抱えを離れた能楽師たちそのままだ。トルコと日本が同じ位相にあることがこういう点からもわかる。また、バルトークがトルコに民謡を採集に来たことがある。彼のハンガリー民謡採集は西洋古典音楽に対してハンガリーの民族性を確認する作業だったのだが、トルコ民謡の採集は、伝統音楽を否定しトルコ民謡の上に西洋流トルコ国民音楽を築こうとする人たちの思惑の上にある。「西洋」と「民族」の関係が、「伝統音楽」というもうひとつの要素によってさらにねじれているわけだ。ハンガリー人は実は幸福な人たちである、ということがわかった。トルコ人は日本人と同じくもう少し不幸であり、そんな似たような状況にあって、完全に西洋音楽の軍門に下ってしまった日本に比べ、民謡(「テュルキュ」)がなお人気を博し、サズが日常に使われる楽器であり、エレキサズなどまで作り上げているようなトルコの音楽の姿は、日本人を赤面させずにはおかない(余人は知らないが、少なくとも私はした)。


ヒッタイトについては、
・ツェーラム「狭い谷黒い山」(辻瑆訳)、新潮社、1975
古くなっているのかもしれないが、これに代わる道案内はまだない。
・大村幸弘「鉄を生み出した帝国」、NHKブックス、1981
は、ヒッタイトの鉄生産について自己流に追い求めた記録であり、おもしろく読めることは読めるのだが、根本的な疑問がある。ヒッタイトと鉄については、彼が追いかけていた頃よりずっと前に定説が打ち立てられていたはずなのだ。これはつまり、日本の考古学についてほとんど知識のないままやってきたトルコ人留学生が、縄文土器が発達して弥生土器になったのではない、弥生土器を持った集団が渡来して土器が替わったのだというテーゼを立てて、それを証明すべく右往左往している、というのと同じではないか? 自分の頭で考え、足で調べるのは立派なことだが、それまでの研究を踏まえるという研究者として必要な準備に欠けるところがあったのではないかとの疑いを持ってしまうが、どうなのだろう。私はこの分野の素人だから、この疑いのほうがまちがっているのかもしれない。それはともかく、知見を広めるという意味であまり役に立つ本でないことはたしかだ。同じ著者の「アナトリア発掘記」(NHKブックス2004、)も同様。トルコの大学や学界を知るためにはいいかもしれない。


ビザンツ帝国やヘレニズムについては、白水社文庫クセジュをひもとくのが手っ取り早い(クセジュが威力を発揮するのはこういう分野である)。とりあえず、
・ルメルル「ビザンツ帝国史」(西村六郎訳)、白水社文庫クセジュ)、2003
・フリューザン「ビザンツ文明」(大月康弘訳)、白水社文庫クセジュ)、2009
・プティ/ラロンド「ヘレニズム文明」(北野徹訳)、白水社文庫クセジュ)、2008
渡辺金一コンスタンティノープル千年」、岩波新書、1985
もおもしろい。皇帝選出の方法から、ビザンツ帝国と呼ばれる国が「ローマ帝国」であることがわかり、ひいてはローマ帝国の性格がわかった。
ビザンツ時代に造られたカッパドキアの岩窟僧院については、次の2著がある。
・柳宗玄「秘境のキリスト教美術」、岩波新書、1967
カッパドキアに当てられているのは半分くらいで、それも概論だが、実地調査で得た卓見が示されている。アトスの部分もしかり。しかし全体としてはまとまりを欠く。
・立田洋司「カッパドキア はるかなる光芒」、雄山閣出版、1998
カッパドキアの洞窟僧院や地下都市について、アナトリアキリスト教史から説きつつ紹介したものだが、実際のところは文献資料を欠くこの洞窟僧院や地下都市群については「ほとんど何もわかっていない」というのが正しい意見であり、わからないところを想像で補って語っているのだということを忘れてはならない。


史書はこの国の重要性に比して十分ではないが、旅行記や滞在記は一山をなしている。
・尚樹啓太郎「ビザンツ東方の旅」、東海大学出版会、1993
・フォーブス「トルコ歴史紀行」(月村澄枝訳)、心交社、1992
イギリス人はこういうものを書かせるとうまい。後者のほうが断然読みやすいけれど、前者もデータは多い。
・柳宗玄「カッパドキヤの夏」、中公文庫、1988(1967)
カッパドキア調査時の滞在記で、興味深いし、時代的に貴重だが、ヨーロッパ的な視点がやや気になる。
村上春樹「雨天炎天」、新潮文庫、1991(1990)
東南部も走破したトルコ一巡記と、聖山アトス訪問記である。この人は、エッセイではしゃれた都会的な生活の点景をうつすくせに、旅行はかなり過激だ。小説はその中間か。
・小島剛一「トルコのもう一つの顔」、中公新書、1991
クルド人」の問題に全身的かつ客観的に絡みこんでいるので、トルコ滞在記としては特殊だが、躊躇なくもっともおもしろいと断言できる。このように旅したいものだ。


旅行記・滞在記には「オンナもの」というジャンルがある。トルコに限らないが、トルコではわけても目立つかもしれない。トルコへの旅のリピーターや長期滞在者には女性が多いという印象がある。トルコ人と結婚した日本人女性も数多い。彼女たちの書いた本が一群をなしているのだ。
これがけっこうおもしろい。だいたい、女性は料理をするし買い物をするし、男どもよりずっと生活に近い。それがまずひとつ。
イスラムで男女の間に大きな仕切りがあるのはよく知られているが、それは何もイスラム世界に限らない。男と女の間には暗くて深い川がある。女のことは女にしかわからない。逆もまた真で、男心は男でなけりゃわかるものか、なのだけど、異性を知るのに男女どちらが有利かというと、やはり女性であろう。夫が妻や娘のことを知っている以上に、妻は夫や息子のことを知っているだろうから。さらに、子どもを通じて異性の世界をうかがう場合も、男が女の子から知ることよりも、女が男の子を通じて知ることのできる部分のほうが大きいにちがいない。それに、外国人だから男たちとも堂々と交際できるし。いくら外国人でも、男は女性とはそうそう親しくはなれない。女のほうが有利なのだ。
加えて、女性の旅行者のほうがずっと親切にしてもらえるにちがいない。男の私もトルコ人は非常に親切だと思うけども、たとえば渋沢さんがされたように度外れて親切にはされないよね。
・渋沢幸子「イスタンブール、時はゆるやかに」、新潮文庫、1997(1994)
これを読んだら、きっとトルコに行ってみたくなる。
「女もの」ではほかに、
細川直子「ふだん着のイスタンブール案内」、晶文社、1991
細川直子「トルコ 旅と暮らしと音楽と」、晶文社、1996
などがいい。


だが、これはいけません。
・新藤悦子「エツコとハリメ」、情報センター出版局、1988
ギョレメ村にひと夏暮らして絨毯を織りあげたときの滞在記である。絨毯は冬に織るものである。それを夏の農繁期に織ろうというのだ。著者のほうの勝手な都合でそうなる。ここがまずおかしい。洞窟モーテルに泊まって、やもめの女手ひとつで子どもを育てている農婦に相手をしてもらい、大した謝礼をするわけでもなく。
さて、絨毯を織ることになって、ハリメは化学染料で糸を染め、綿糸を経糸にするつもりである。自分が今までずっとやってきたように。彼女は草木染めなどそもそもしたことがない。だが著者は、糸は草木染めにし、ウールを経糸にすると言い張る。最初は糸も紡ぐとまで言う。おいおい。やり方も知らないくせに。草木染めと経糸については希望を通し、失敗しながらもとにかくそうやらせている。
けれどもね。絨毯織りを習いたいのなら、まず今の村の女たちがやっている方法で織ってみるべきだろう。織り方のイロハも知らないのだから。1枚織りあげ、織り方をひと通り習得したあとで、2枚目に自分のやりたい方法で織ればいい。それが順序である。だがそうしない。彼女は絨毯の織り方を学びたいわけではなく、1枚しか織りたくないからだ。要するに、ツーリストなのだ。
ハリメはときどき約束をすっぽかす。朝急に畑仕事やパン焼きの手伝いを頼まれたので。約束を破られると怒る「心の狭い人間」(村人によれば)である日本人の一人の著者は、そのつど腹を立てるが、近所づきあいは当然優先されるべきであるし、やもめのハリメにとってわずかでも現金収入になる賃仕事はありがたいものなのだ。その理解を欠いて、どうして村で暮らすことができよう(それは彼女もあとで気づいて、反省しているようだが)。
ギョレメといえばカッパドキア観光の中心地だ。冬ならば室内で織るが、夏だから戸外で織る。すると観光地だから、それを見に来て写真を撮るツーリストがいる。見せ物になってしまっているのだ。それで、村の女たちが知恵をつけて、旅行者から金を取ることにした。著者はそれを怒り、見物料100リラ(当時のレートで20セントぐらい)と書いた紙を取ってしまうのだけど、そもそもこんな観光地で観光シーズンに絨毯織りなどをやらせたのは彼女である。堕落をさせながら堕落を嘆くのって、ヘンじゃないかい?
ひと言でいえば、目先を変えたツーリズムの本である。
「買うつもりで来た客や迷っている客に絨毯を売るのは当たり前、全く興味のない客に買わせるのが腕の見せどころ」という絨毯屋の生態がのぞける部分はおもしろい。
小さなことだが、タイトルはどうして「ハリメとエツコ」ではないのだろう。まあ「エツコ」のほうが五十音順でもアルファベット順でも先に来るが。
これを読んだら、同じ著者の
・新藤悦子「羊飼いの口笛が聴こえる」、朝日新聞社、1990
は、読まなくてもだいたいどんなものかわかる。しかし2冊まとめて借りたので、こっちも読んだ。同じである。「絨毯ツーリズム」が「羊飼いツーリズム」になっただけだ。
この本でおもしろいのは2個所。前の本でもっとも興味深く思ったのは、
「実はね、一つ一つの絵柄を組み合わせて何か伝えることもできたらしいんじゃよ。羊や櫛を上手く組み合わせて昔の娘たちは口でいえないことを絨毯に織りこんでいたというわけさ。わたしの母は古い絨毯を読んでは『この絨毯にはこんなことが書いてある』とおもしろがっていたけど、わたしには読み方はわからない。娘や孫娘に至っては、一つ一つの絵柄が何を象徴しているかも知らずに、ただただ真似をして織っているだけさね」(p.113)
という村のおばあさんの述懐である。ところが、後日そのことを本人に確認すると、知らないと言ったのだそうだ。おそらく、前著では著者の誤解ないし読み込み過ぎがあったのだろう。それを知った分は、この本を読んだ功徳であった。「絨毯が何かを語っている」にしても、手紙のようには語っていないようだ。
もうひとつは、トルクメンの村の祭りを見に出かけた折のことである。行ったものの、実際にはほとんど何も見られなかった。セマの踊りを見ることはよそものには許されず、著者は祭りのただ中にいながら、肝心の儀式はなにひとつ見ることができなかった。午前中のセマだけは、離れた丘の上から眺めることができたはずだった。しかしそのときに彼女は飲んだウイスキーの酔いがまわって眠りこんでしまっていたのである。あとで友人が言った。「デデ(長老)が喜んでいたよ。トルクメンの秘密を守るためにサル・クズ(伝説の聖者)が眠らせたんだって」。悲しむことはない。おかげで村の伝説になれた。聖者の力を証明する話の登場人物として、その村ではきっと語り継がれていくだろう。
人間は秘密を暴きたがる生き物で、好奇心は人間の業である。学問や研究は「秘密を暴くこと」を使命とする。私もそちら側に属する。しかし、知られたくないことを知ろうとするのははしたないことであり、必要以上に知ろうとしないのはたしなみのよいことだ。そのことはわきまえておきたい。考古学というのは、要するに「墓暴き」である。墓を数多く暴くのが「教授への道」であり、テレビ局とタイアップしてそのさまを撮らせるなんてことがふつうにある。ちょっとおかしくありませんか。そういうのを「善」とする思想からは、少しばかり距離を置きたい。


「オトコもの」と言えるものは少ないが、次の本はまさにそれだ。
・斎藤完「飲めや歌えやイスタンブール」、音楽之友社、2002
留学時代、男ばかりの下宿に住んで、アルバイト(というわけではないか、無給だったそうだから)先も酒を飲ませるカフェバーゆえ、同僚もすべて男という環境での滞在記なので、出てくるのはほぼまったく男のみ。濃い。
スキあらば笑わせようとする書きぶりは感心しないが、民謡というものが今も愛されていて、現代の現役人気音楽であるというトルコの音楽事情がわかって楽しい。また、それと知らないうちにクルド人やアレヴィー教徒の間の中にいる自分に気づくのもおもしろい。そのためアレヴィーに興味をもって、本山のようなところまで出かけていって祭りの一部始終を体験している。実におもしろい。


イスタンブールもの」というのもあるようだ。あそこは旅人にとって居心地がよさそうで、自然住みつく人も多い。だが心得ておかねばならないのは、トルコは「イスタンブール」と「それ以外」に分けられるということだ。「イスタンブール人」と「トルコ人」は「同じことばを話す別の民族」と考えたほうがいいのではないか。近年の人口流入でその境界が薄れてきているにしても。「首都はその国ではない」というのはどの国でも当てはまる真実だが、イスタンブールのような1600年もの間首都でありつづけた都市では、わけてもそうだろう。今は首都でなくなったとしても。
イスタンブールは「トルコの町」であり「スルタンの町」ではあったが、「トルコ人の町」とは言えなかった。共和国成立後にようやく「トルコ人の町」化していったのである。人口のかなりの部分をギリシア人・アルメニア人・ユダヤ人などの異教徒異民族が占めていた。ウィーンが「ハプスブルクの町」であるのと同じだ(ウィーンは今も東アルプスの小さな共和国オーストリアの町とは言えず、もはや存在しないハプスブルク帝国の帝都であることをやめていない)。
そんなイスタンブールをそのように描いた本をまだ知らない。
・渋沢幸子・池澤夏樹イスタンブール歴史散歩」、新潮社、1994
イスタンブール散歩の好個のガイドで、池澤夏樹の併載エッセイもいい。ギリシアをよく知る人が書いているので、視線が深い。しかしこれは入り口にすぎない。
・パムク「イスタンブール」(和久井路子訳)、藤原書店、2007
は、この町の特徴をなすのは「憂愁」であるということを教えてくれ、それを印象深く示したという点で貴重だが、自伝的であるために「トルコのイスタンブール」しか見えない。「帝都イスタンブール」を襞まで示すよい本はないものか。


ペルシア文学とかわり、トルコの文学はあまり翻訳されていない。
古いものでは、イスラム
・「ルーミー語録」(井筒俊彦訳)、中央公論社(「井筒俊彦著作集」11)、1993(1978)
テュルクで
・「デデ・コルクトの書」(菅原睦・太田かおり訳)、平凡社東洋文庫)、2003
そして民話で
・「ナスレッディン・ホジャ物語」(護雅夫訳)、平凡社東洋文庫)、1965(日本の民話風に訳そうとしているので、ちっとばかり読みにくい)
ぐらいである。
新しいところでは、ノーベル賞作家オルハン・パムクの小説がいくつか翻訳されている。
・パムク「わたしの名は<紅>」(和久井路子訳)、藤原書店、2004
まぎれもない傑作で、ちょっと見にはエーコの「薔薇の名前」に似ている。オスマン帝国がその最盛期を過ぎた頃の、細密画の絵師たちの狭いサークルの中で起こった殺人事件をめぐる話であるので。だが、エーコの本はそれ自体として自足した世界の中の話であって、だから娯楽としても一級なのだが、この小説の世界は自足できておらず、すぐれた娯楽であるためには揺り動かされる部分が大きすぎる。細密画を通じて芸術について考えさせられる。文明論的小説とも呼べるかもしれない。
また、こういうことも考える。詩とか絵とかが全人類的な芸術であるのに対し、小説というのはすぐれてヨーロッパ的な、それも近代ヨーロッパ的な所産である。小説という形式が誕生して以来、ヨーロッパの外から驚異的な小説が現われたことは二度あった。一度は19世紀ロシアから、一度は20世紀南米から。しかしその両者とも、ヨーロッパの中核部分からこそ異質であるが、一応ヨーロッパ文明の成員であって、その辺境から出て来たに過ぎない。一方で、ローカルな小説というものがあり、ヨーロッパの内外を問わず、いたるところに山ほどある。その国の人々にとっては「文学」だが、外国人はまず読まないような小説のことだ。漱石や鴎外もそんな「ローカルな小説」だ。日本を知りたい外国人は読む、つまりジャパノロジーとして読むのだが、日本のことなど何も知らず、特に知りたいとも思わない他国人(つまり健全な市民)は、こんなものを読まなくても彼の人生において欠落が生じることはない。だが、そうではない「世界文学」というものもたしかにある。筆者は小説をむしろきらっている人間だが、それでもそのようなものが存在するのは認める。中国やインドや、イラン、アラブなどにどんな小説があるのかよく知らない。トルコには「世界文学」があることがこの小説を読んでわかった。日本にもそれはある。ヨーロッパの所産である小説が、非ヨーロッパ人たちによって人類のものにされつつあるのだろう。
その意味でおもしろかったのが、「異教徒」ということばだ。初めてヨーロッパに住んで驚かされたことのひとつがこのことばである。何と、私は「異教徒」なのであった。キリスト教徒でない私は。そんなことはつゆ知らず20数年生きてきたが、実はそうだったのだ。その「異教徒」ということばがこの本でもしきりに使われるが、意味するところは「ヨーロッパ人」である。ヨーロッパの概念が、ヨーロッパの形式によって根底的にひっくりかえされる。現代トルコの立ち位置はここにある。
・トゥルグット「トルコ狂乱」(鈴木麻矢訳)、三一書房、2008
というのもあり、第一次世界大戦に敗れ、国家存立の危機に瀕したトルコを共和国としてよみがえらせたアタテュルクの戦いを描いたものだというが、未読。
トルコ人のアタテュルク崇拝には驚くべきものがある。町の一番の広場に彼の銅像、一番の大通りに彼の名前、役所や学校に彼の写真などというのはほかの国の建国の父にもあるし、ソ連時代にレーニンがそうだった。彼が今も崇拝されているのは、レーニンとちがい彼の打ち立てた国がまだ存続しているからだけなのだろうか? いや、そうではあるまい。若者が彼の顔のタトゥーをいれているところをテレビで見た。女子学生がうれしそうに彼の写真の自作のコラージュを見せてくれた。ソ連時代のレーニンが実際の民衆レベルでどれほど愛されていたのかよく知らないが、単に教育だけでは死後70年もたってなおこんなに敬愛を集めることはできまい。トルコ人の心に訴える何かをもった人物だから、今なお英雄でありつづけているのだろう。孫文はたしかに今も大陸でも台湾でも尊敬されているが、尊敬にとどまる。イランのアタテュルクであったレザー・シャーは、結局王朝を建て、それが悪しき体制の烙印を押され革命に打ち倒されてしまった。熱い20世紀、老大国に時代の先端の革命をもたらした建国の父たちの現在の運命はこんなもの。ひとりケマル・パシャのみが民衆に愛されつづけている。奇観である。


ルポルタージュも文学の範疇なら、いい本がひとつある。
・マカル「トルコの村から」(尾高晋己勝田茂訳)、社会思想社、1981
これは中部アナトリアの村の学校に働いた若い教師の手記で、1948−49年に書かれ、1950年に出版されたそうだ。村では牛の糞を燃料にして暖をとるのだが、その糞が尽きそうになったときの、思わず体が震えてきそうな寒さの描写からはじまって、その頃の農村の驚くべき貧しさ、暮らしの厳しさが描かれている。家は1部屋だけ、女たちは裸足、牛どころかロバが、ロバどころか人が犂をひいて耕し、幼児死亡率は40パーセント、生きている子はシラミにたかられながら、教科書に出てくる「蜂蜜」について、「それは馬に似てるんですか、それとも子羊?」と質問する。見たことがないのだ。誇張はきっとあるだろうが、2割引してみたところでかなりである。著者の村はカッパドキアの奇岩地帯からも遠くない。1960年代半ばに柳宗玄氏が調査した村の近くだ。「カッパドキヤの夏」に描かれる村の生活もずいぶん厳しいものだと思ったが、これはそれどころではない。二者を比べ、そして現在を比べれば、トルコが戦後急速な発展をしたことがわかる。
著者は教師であるから、「農村の遅れた生活実態」を何とかしたい、近代化したいという視点でこれを書いている。だがこれを読むわれわれは、誤解を恐れずに言えば、逆に、古代とは言わないまでも、中世と言っていいような生活がついこのあいだまで続いていたことを知り、その様子を生きた現実としてのぞけることを貴重に思う。先祖がいて、われわれがいる。父祖たちが何百年も生きてきたさまを知るのはよいことだ。
この本で強烈に印象に残るのは、農民の貧しさよりも、その貧しい農民たちの宗教への渇望である。アタテュルク改革の草の根の先兵であり、したがって世俗主義である著者の意図とは別に、それを裏切る形で、宗教の力を思わされるのだ。たとえば、
「薄手のボール紙に宗教詩を印刷したものが市場で10クルシュで売られている。私は町へ行くたびにいつも例のやせこけた顔の男に出くわす。彼はそのボール紙の束を小脇にかかえ、その詩を大声で暗誦して売っている。実に物がなしくうっとりさせる口調で語りかけるので、行き交う者は1枚ずつ買わずにはいられなくなる。
「死はたくさんだ・・・地獄の火はたくさんだ。最後には一握りの土があればそれで十分だ。」
と彼が大声を張り上げるたびに人が彼の周りに集まって来る。・・・
近ごろどの村のどこへ行っても必ずそのボール紙が掲げられているのを目にするようになった。みんなその前に坐って苦労しながらも精一杯読んでいる。それを聞いている者はうなずいてなんとなく酔いしれている。そして「もう一度はっきり読んでおくれ。聞いているから」という。彼らは100回聞いても飽きることはあるまい。・・・
私はわがデミルジ村の村長の部屋を訪れたところ、何事が起こったのか大変な騒ぎで今にも部屋が崩れそうな勢いだった。みんな口々に文句をいっているのだが、なにをののしりわめき合っているのかわからなかった。ちょうど私が中へ入った時、村長は叫んだ。
「みんな静かに! マムト先生、ひとつその前にあるそいつをみんなに読んで聞かせてやっておくれ。」
 急に静かになり、私は調子をつけてそれを読んで聞かせたところ、なんと今しがたまで続いていたののしりや罵倒はたちまち消え失せてしまった。こうしてもめごとの原因も忘れ去られ、一人残らず至福の天国の夢につつまれた。村長が、
「さあ、みんなけんかを止めて仲なおりだ。壁にかかっているのはなんといっているかわかるだろ!」と告げるや、みんな祈りを捧げたのである。・・・
村長は、
「今しがたあんたが読んだ、その壁にかかっているのはあんたのところにはないのか? まったくそいつは憲兵どころか軍隊よりも威力がある」といった」(p.137ff.)。
一見すると、愚民である。「宗教は阿片だ」という命題を証明する例と見えるかもしれない。だが、実際はまさに逆である。それはブルジョワの見解なのだ。民衆にとって、経済だの法律だのにまして、いやそれどころか、ひょっとしたら食べ物や衣服などにもまして、宗教ほど確かなものはないのである。次のような村人たちの教師への批判は、本質的なところを衝いているではないか。
「われわれにとって本当に必要なのはもう一つの世界なんだ。先生の教えているのは、馬とかロバとかこの世の知識ばかりだ。そんなことは時期がくればわかることでさして必要なことではない!」(p.189)
「そんな印刷物を読んでいたずらに頭を疲れさせるくらいなら沐浴をして祈りを捧げ、神に借りを返してはどうなんだ。たしかにあんたは人柄も良く品行方正で正直者だし清い心の持ち主だ。わしらに対する態度で神に接したらどうか?」(p.194)
日々の労働に身を粉にしている人々は、この上ない実感としてわが身は塵あくただと感じている。生の中に、そのすぐとなりに死が確固としてある。そんな人たちには、宗教は人生哲学なのである。宗教に無関心を公言する人は、自分は死なないと思っている人たちである。自己愛を肥大化させて、ぬくぬくぼんやり暮らしている健忘症の人たち。人生においてもっとも確かなことは、あした死ぬということなのだが。世界の奥には、何か固い本源的なものがある。信仰心薄い現代日本人の一人でも、そのことはわかる。
うかうか生きているわれわれには、こういう本を読む必要こそあるだろう。


次の本は歴史ノンフィクションということになるが、無視するのがいちばん賢明なのだけど。だが、トルコやトルコ人について言われることのひとつの典型ではある。
塩野七生コンスタンティノープルの陥落」、新潮文庫、1991(1983)
1453年、スルタン・メフメットによりビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルが陥落するまでを描いた歴史読み物だが、まことに困った本である。文庫になって版を重ねている。それだけ多くの人が読んでいるわけだ。読むべきでないのに。たとえば、この本ではヨーロッパ人(イタリア人)は「近代人」として描かれ、ギリシア人は「狂信」、トルコ人は「狂信」に加えて「野蛮」とされる。しかしね、十字軍が聖地でやった蛮行はどうなの? 魔女狩りはヨーロッパで起こらなかったとでも?
「19世紀に至って、それまでの400年間にわたるトルコ支配を脱して独立した、ギリシア人をはじめとするギリシア正教徒の根強さは、国を救うためならば宗教上の妥協はいたしかたないとしたイシドロスの考えよりも、信仰の純粋と統一を保つためには、国が滅びることさえ甘受するとしたゲオルギオスの考えのほうが、正しかったことを証明してはいないだろうか。狂信を排する立場からすれば暗澹たる気持ちにならざるをえないが、理よりも、それを排した狂信のほうが、信仰の強さを保ちつづけるには有効である例が、あまりにも多いのも事実なのである」(p.227)
それならば、これは「狂信」ではない、と考えるほうが自然なのではないか? それを「狂信」とする見方に固執しているから、暗澹としなくてはならなくなるのでは? 自分の誤った前提のために、自分で苦い結論を出して得々としているように思える。
「しばしば、人は、あることを契機として、その人物に対するこれまでの評価を、百八十度転換させることがあるものだ。コンスタンティノープルの陥落は、未熟で野放図な野心に酔うばかりの、うまくいっても父スルタンの遺した領土を維持するのが限度だと言われていたマホメッド二世を、一代の英雄に変えてしまった」(p.243)
「評価が変わった」のではなく、「真価が現われた」のであろう。コンスタンティノープル攻略以後の彼の重なる武勲を見ても、そのことは歴然としている。艦隊の山越えや巨砲の採用など、この若きスルタンの武略たるや並大抵ではない。この歴史的事件において、彼をほめるのでなければいったい誰をほめるのだ?
ギリシア人の名は原語によっているが、トルコ人の名はそうではない。コンスタンティノープルの征服王は日本ではふつう原語により「メフメト」と表記される。「マホメッド」だなんて、いつの時代かと思ってしまう。些事のようだが、一事が万事である。ヨーロッパ人、わけてもイタリア人の目から見ているのだというのがこういうところからもわかる。
イタリア人がこういうのを書くのはいい。よくはないが、しかたがない。自民族中心主義はすべての民族が陥る罠である。だが、なぜ日本人が「イタリア中心主義」にならわねばならないのか。戦時中の軍部には「ムッソリーニの武官」がいたそうだ。駐在中にその国に心酔してしまった人である。日本にはこういう類の人が多すぎる。イタリアを知りたければ須賀敦子を読めばいい。塩野七生ではない。
トルコ人は、世界の95パーセントは自分たちを嫌っていると思っているらしい。たしかに、周辺諸民族からはことごとく嫌われているし、西欧人は嫌っていなければ蔑んでいる。しかし日本人は、トルコ人に対する偏見を免れており、明らかに白い5パーセントのほうに属する。トルコ人の日本人好きの理由のひとつには、たぶんこれもあるだろう。だからこそ、せっかく免れている偏見を、ヨーロッパ人のマネをしてふりかざす人々にはうんざりする。ああ、いやなものを読んだ。もう一度「女もの」を読み返すことにしよう。


こうして見れば、トルコの本もけっこうあるかな。ここにあげなかった本もこれよりずっと多くあるのだし。だが、この国の占めるその位置(日本からはそれは見えにくい)から考えると、この程度ではまだまだだ。ヨーロッパ文明の外にあり、独立不羈を貫いているトルコは、われわれの姿を映す鏡でもある。「仰ぎ見る」本はもうたくさん、「同じ目の高さの国」をもっと大事にしてほしい。