ローマ字アルメ字優劣論

Ամպել ա, ձուն չի գալի, Շողե՜ր ջան.
Սարիցը տուն չի գալի, Շողե՜ր ջան:

アルメニアではキリル文字でもラテン文字でもない独特なアルメニア文字を使っていて、この文字をデザインした絨緞や壁掛けのようなみやげ物をよく売っている。おもしろがって買い求める外国人が多いのだろう。アルメニア人自身も自分たち固有の文字に誇りをもっているとおぼしい。日本には、魚へんの漢字を書いた鮨屋の湯呑みならある。いろは歌の掛け軸もあるかもしれないけど、五十音表なんて小学校の壁に貼ってあるだけで、こういう趣味はちょっと奇異な感じがする。だが、のっぺりしたヨーロッパおよび新大陸の文字事情(文字はローマ字のみ、キリル文字ギリシア文字が少数派としてあるだけ)を見ると、なるほど珍しがられるわけだと納得する。


文字(表音文字)というものは、一音一字であるべきだ。「表音」というからにはそれが基本的大原則であり、ロシア語のキリル文字もかな文字も、あるいはハングルもこの原則にのっとっており、アルメニア文字やとなりのグルジア文字もそうである。ところが、この原則をないがしろにしている困った表音文字体系がひとつ存在する。ほかでもない、ローマ字である。
ローマ字礼賛は、今もラテン語で話しているヴァチカンの人々がする分にはOKだが、それ以外の人たちが語るときにはかなりの留保が必要だ。ラテン文字(ローマ字)はラテン語を書き表すためのものであって、ラテン語でない言語を写すためには小細工が必要、というか大細工が必要なのである。外見だけでも、ウムラウトのように文字の上や下にチョロチョロチョンチョンがついたり、Oを串刺しにしたり、Lに斧を打ち込んだり、ギリシア文字まがいが顔を出したり、まあいろんなことをやっている。
英語はそういう細工がなくて見た目にきれいだが、それゆえに逆の困難がある。ラテン語にない発音を表すために文字に加工を施すのは合理的な対処法である。これを採用しないとなると別の対処法を見出す必要があるわけだが、理論的対応をきらい慣用を優先する英国気質は、その結果として「書いてあるとおりに読めない」という困った表記を生み出した。ラテン文字で母音を表す文字は5つだけ、それで12もある母音を表記しなければならないという事情ひとつをとってみてもわかろうというものだ。
たとえばラテン文字には「シ」の子音を写す字がないので、ヨーロッパ諸言語はこれを表記するのに工夫がいる。こういう場合、ある文字に符号を加えるか(šのように)、2文字(以上)の組み合わせで表すか(shのように)である。英語は組み合わせを選択した。しかしそれには、その2文字を切って発音しない保証が必要となる。英語の中にはそれはあるかもしれないが、外国の地名人名はどうするのか。[ð]というほかの言語にはあまりない発音をthの組み合わせで表すが、外国にたとえば「ファトヘル」氏というのがいたとして、それはFatherと書かれることになるけれど、fat−herと切って読んではもらえまい(togetherをto get herと覚えたことも思い出される)。さらにドイツ語では「シ」の子音は3文字sch、「チ」は4文字tschである。これはあんまり行きすぎだ。
フランス語には黙字(書いてあるが読まない文字)があるが、法則性があるので、それを習得すれば読める。ドイツ語その他は、その言語の正書法をざっと知れば、書いてあるとおりに読んでだいたい問題ない。ところが英語ときたら、綴りのとおりに読めないのだから困る。アルファベットは表音文字で、表音文字の断然の利点は書いてあるとおりに読めることなのだが、そこの部分をみずから切り捨てているんだから、じゃあ「アルファベット」じゃないんじゃないの、ってことでしょう。語を見て発音がわからないのでは、漢字と同じだよ。アメリカ人に漢字を難ずる資格はないと思うねえ。その前に自分とこのを何とかしなさい。印欧語のくせに性もなく(これはありがたいけど)、格変化語尾もなく、語順によって意味が決まる語順絶対主義であるところなども中国語と同じだ。米中はまったく好敵手だ。
その逆もまたむずかしい。ある人がアメリカ人に「アイキバキューロウ」へ行きたいがどう行けばいいかと聞かれて、「秋葉原」かなと一瞬思ったが、よく考えて「池袋(Ikebukuro)」だとわかったという。その人は英語がよくできたからわかったので、ふつうの人はまず何のことだかわからないし、わからない人のほうが絶対に正しい。Aokiは「エイオキ」と呼ばれる。Dice-Kと書かなければ「ダイスケ(イ)」と読んでもらえない。こんなことばが共通語にならなければならないのかと深く考え込んだことのない人に、英語教育を論じてもらいたくない。英語屋さんたちにだまされてはいけない。
このようにラテン文字は、文字の形こそ(細工を施されたいくつかを度外視すれば)同一だが、正書法は言語の数だけあり、それについての知識がなければ実は発音できないのである。智恵子さんはドイツに行くと「ヒーコ(Chieko)」と呼ばれる。誠三さんは「ザイツォー(Seizo)」だ。sachiはフランス語で「サシ」、イタリア語で「サキ」、ドイツ語で「ザヒ」。szaはハンガリー語で「サ」、ポーランド語で「シャ」、ドイツ語なら「スツァ」と読むだろう。
ラテン・アルファベットの世界は、一歩はいれば混乱混迷の無法地帯なのである。言語ごとに勝手に正書法を決めているんだから。何の断りもなく。そんな無数の正書法に通じなければ正しく読めないというのでは、字形習得上の便宜があるだけだ。その便宜は大きいが、それは唯一絶対というものではない。ラテン文字をほめたたえる用意はこちらにもあるが、それにはいくつか条件をつけてもらわないといけない。


日本語がローマ字表記される場合にも、困難がいくつもある。現代かな遣いにも長音の表記のような問題点はあるけれど、かな文字はローマ字よりはるかに日本語の特性に合っている。たとえば日本語には「連濁」という現象があり、「て(手)」の前に「ひと」がくると「ひとで」、「ち(血)」の前に「はな」がくると「はなぢ」と濁る。濁ろうが濁るまいが同じことばだ。ひらがななら濁点をほどこすだけだから、同語異音であることは簡単に見て取れるが、ローマ字だとt > dのように文字が変わる(さらにヘボン式だとchがjになる)。ひらがなで書けば何ら問題なく、発音のちがいを明瞭に表している「たに(谷)」taniと「たんい(単位)」tan’iも、ローマ字表記ではばかばかしいアポストロフのお世話にならねばならず、うっかり見落とすとまるでちがうことばになってしまう。
さらに、ローマ字表記にはヘボン式と日本式の対立があって、そのどちらを採用すべきか意見の一致を見ていない。日本語なのだから日本語の音韻法則に基づく方式であるべきだ(日本式)というのは原則論として正しいが、ラテン文字なのだからラテン語に準拠するか、そうでなければ世界共通語の地位をデ・ファクトで得ている英語に準拠する(ヘボン式)というのも合理的であり理性的である。ヘボン式と日本式の対立点は、「し」「ち」「つ」に集約される(shi/si, chi/ti, tsu/tu)。タ行子音をtで統一するのは、日本語のことのみを考えた場合非常に合理的だが、しかし「ティ」や「トゥ」の音がない日本語のほうが世界的に見れば例外なのだ。Tutiuraと書いてあるものを「トゥティウラ」と読んだとして、それを誤りとするのはお手盛りによる傲慢、つまり役人的ではないか。それでなくても無秩序なラテン文字正書法の世界に、新たに日本語だけにしか適用されない規則を加えるのはためらわれる。日本式にはラテン・アルファベットを礼賛する欧米人に感じるのと同じ独善の感触があるので、どうしても賛意を示すに踏み切れない。
ローマ字の便宜は、しかしたしかに存在する。表意文字である漢字の発音は、漢字を知らぬ人たち(中国の子どもたちを含む)がいくら字を睨んでいてもわからない。表音文字でそれを補う必要はある。
中国語のローマ字表記は、国家的にピンインというのが定められている。だが、ここでもラテン文字は混乱の種を投げ込む。「北京」はわれわれの耳には「ペイチン」と聞こえるが、ピンイン表記は「Bĕijīng」で、これをすなおに読めば「ベイジン(グ)」だろう。日本式ローマ字について言ったのと同様に、中国語にしか適用されない奇態な正書法ラテン文字に新たに負荷するわけである。注音字母のほうがピンインよりずっと合理的なはずだが、この両者の勝負はもうついているようだ。だが、それが正しい勝敗であったかどうか、軽々には言えまい。

あることばがローマ字で書かれていても、そのことばそのものを知らなければ、それは単なる文字の羅列にすぎない。日本語がローマ字表記になったと考えてみればいい。「駐車禁止」を「chūsha kinshi」と書きかえても、日本語を知らない外国人がそれで突然意味がわかるようになるわけではない。つまり、「チュウシャー、キンシ〜」なんてガイジン風のイントネーションで発音したって、それで外国人に通じますか、という話。絵模様にしか見えない珍奇な文字の習得よりもローマ字正書法を覚えるほうがやさしいから、ことばを学ぼうとするときには有利であるものの、そもそも日本語の学習なんぞ人類の99パーセント超にとっては無縁の行為だ。辞書が引きやすくなるというメリットはあるし、「レストラン」「ホテル」などのような西洋語からの外来語は見当がついて便利だ(でも日本語では「hoteru」だよ)といういくつかの利点を除けば、本当に必要なのはただ地名人名など固有名詞のみである。これらにさえラテン文字表記が併用されていれば、言語そのものはどんな文字で書かれていてもかまわないはず。アルファベット礼賛者たちの心の奥底には、人類はすべからく英語(あるいはフランス語)を話すべきだという思想がひそんでいるんだよ、きっと。


こう考えてくると、一言語一文字こそ自然な姿であり、そうでないのは妥協とか便宜という次元のことだとわかる。ヨーロッパ人がローマ字を使っているのは、ローマに征服されるまで文明を知らない遅れた被征服民であったという哀れな過去に由来するので、自分たちの独自の文字を自分たちの手で作り出した東方の文明の民とはまったく出がちがうのだ。アルメニア人がアルメニア文字を使うのは、ギリシア人がギリシア文字を使っているのと同じ、彼らの「高さ」の証明であり、一音一字の表音の視点から見ると、アルメニア文字は(ラテン語以外の言語によって使われる)ラテン文字よりずっとすぐれている。


アルメニア文字は、文字の歴史から見れば、現在世界で幅をきかせている諸文字、アラビア文字キリル文字・ひらがななどより古いが、中近東のレベルではむしろ新しい。とはいえ、アルメニア人が自分たちの文字に愛着と誇りをもつのはもっともである。この文字とキリスト教信仰が、アルメニア人をアルメニア人として今日まで失われずに残してきたのだから。たとえばヘロドトスが言及している民族のうちいくつが今日まで残っているだろうかと考えてみれば、ただ「残る」というだけでも驚嘆すべきことだというのがわかるだろう。
現在のいわゆる中近東の住民は、アラブ・トルコ・イランに整理され、単純化してしまっている。イラン人(ペルシア人)は大昔からいた。トルコ人は新参者、アラビア人は昔からいるにはいたとはいえ、僻陬の砂漠地帯にひそんでいるだけだったけども、最終的に小アジアやシリア・メソポタミア・エジプトの旧住民をトルコ化・アラブ化してしまった。その中で、国家をもつ民としてはユダヤ人とアルメニア人・グルジア人だけが残った。そのほかにはクルド人。彼らは一度も国家を形成しなかったのに、しっかり生き残っているのはすごい。
また、少数ではあるが「アッシリア人」という人たちもいる。これはネストリウス派キリスト教徒であって、古代のアッシリア帝国とは関係ない。昔のシリア人で、現代アラム語ということばも残している。かつてのキリスト教徒シリア人はほとんどがイスラムに改宗し、ことばもアラビア語を受け入れて「アラブ人」になってしまったが、宗教を保持した人々は言語をも保ったのである。アルメニア人はカトリックとも正教ともちがう単性論キリスト教を信じる。独自の信仰を守った人たちは、ことばも失わなかった。つまり民族性も保持したのだ。エジプトのキリスト教コプト教会も単性論だが、コプト教徒の場合はことばを失い、今ではアラビア語を話す。典礼ではなおコプト語が使われているそうだが。
キリスト教受容・アルメニア文字の発明は、アルメニア民族を民族として保たせた二大要素であって、文字と信仰を愛し誇るのには理由がある。しかし、それはキリスト教以前・アルメニア文字以前を失わせる結果となったという事実も、反面で考えておくべきだ。キリスト教に改宗する前にもアルメニア人の長い歴史はあり、固有の文字が作られる前にはギリシアやシリア、ペルシア文字で書かれた文献が多数あったが、それはアルメニア文字を用いるキリスト教権力によって棄て去られたのだという事情のことも。文字というもののもつひとつの性格である。


もうひとつ、民族文字の次のような性格についても言っておかねばならない。
文字は音素に対応し、音声に対応しない。日本語の場合、たとえば「しんぶん(新聞)」の発音は音声的にはshimbunと書くべきだが、ここでmと表記する必要はない。日本語ではそれは「ん」という音素の異音でしかなく、「ん」としてしか認識されていないから。文字が書き表しているのは音素であって、音声ではない。だから、上述の通り、その文字の属する言語以外の言語を表記するには大いに困難がともなうし、その言語の内側でも、それで地域的・社会的方言を表記するのはむずかしい。津軽弁出雲弁をひらがなで書くことを考えてみればいい。標準日本語にない発声があるのが方言だから、それを標準日本語のための文字で書き記すことはできないのだ。文字は中心や権力によりそうものであり、非常に規範的である。音声的変異は顧慮しない。標準語の友であり、方言の敵ないし無縁の人だ。言語学的現象として一般言語学の友であるが、社会言語学の無縁の人であり、潜在的敵対者でもある。
ローマ字については、それがラテン語以外の言語を書き表してきた長い歴史を通じて鍛えられているので、ある特定の言語を表記するのに特化しているだけの諸民族文字にはない「世界性」という重要な特質を得ているのだということは言っておくべきであろう。


アルメニア文字の価値を認める一方で、困ることはけっこう困る。読めないもの。通りの名がアルメニア文字だけで表示されていたら、どこを歩いているんだかわからない。キリル文字と両字併記のこともあるが、キリル文字もふつうの日本人は知らないよ。オペラの演目も、ポスターにはアルメニア文字でのみ書かれている。外国人お断りなんだろうか。デジカメで写して、アルメニア人にこれ何ですかと聞かなきゃならない。せっかく来たのだから文字もことばも覚えたいが、たかが半年や一年の滞在ではむずかしい。覚えたところでこの国を離れたらまったく役に立たないし。趣味でやる人はいいが、そうでなければ、やはり努力に対する見返りはほしいもの。アルメニア文字にはそれが乏しいのが大いなる難点だ。しかしながら、それはこの文字を賞賛する妨げにはならない。