エヴェンキ族ノート (2)

5.
エヴェンキを始めとする北方の人々は、「民族」とは何かという問いを突きつける。
中華人民共和国には55の少数民族が住んでいると言われる。そのうちの2つが北辺に暮らす「鄂倫春(オロチョン)」と「鄂温克(エヴェンキ)」だが、それは1950年代以降の「民族識別工作」によってそう確定されたものである。この「55の少数民族」というのは、「中国大陸に住む非漢民族が国家の識別政策(つまり弁別と認知)によって「55に分類されている」、国家が認知している民族が55種類あるということなのである」(毛里:55)。
広い中国にはさまざまな人間集団がある。そのうちのこれは「民族」で、それは「民族」でないのはなぜか。「少数民族」は「民族識別工作」の「識別」という「国家が民族の認知を行う、つまり彼らに民族のステータスを与えるきわめて政治的な行為」(同:56)をへて、国家にそう認められているわけである。
この民族識別工作にあたった費孝通は、1953年当時の錯綜した民族状況(特に西南地区の)をこう書いている。
「(1) 漢族なのに、自分が漢族であることを知らず、他人も漢族と呼ばない人びと(広東のタン民、雲南の蔗園)。
(2) 少数民族地区に移って久しい漢族で、漢族のアイデンティティを失い、漢族からも差別されている人びと(貴州の穿青人、広西の六甲)。
(3) 本当は非漢民族だが、民族を差別していた時代に漢族でないと言えず、しかも他民族からも漢族だとみなされてきた人びと(湖南のトジャ)。
(4) 移住してきた漢族の影響を強く受けて言語など自民族の特徴を失ったが、漢族からは差別されてきた人びと( 江のシェ人)。
(5) もともとある民族の一部だったがほかの地域に移ってから別の民族呼称で呼ばれてきた人びと(広西の布壮、雲南の布沙、布依など)。
(6) 同一民族が分かれて居住し周辺の他民族の影響を受けたが、言語は維持、他民族からは同じ名称で呼ばれてきた人びと(四川や雲南の西番)。
(7) 四方に分散して言語・文化面で相当程度違いが生まれたが、他民族からは同一民族だとみなされて自身もそう考えてきた人びと(ミャオ人)。
(8) その民族内部で、単一民族かあるいは他の民族の一部かで意見が分かれている人びと(ダフール人)」(毛里:64f.)。
政治を離れ純粋に学問的に考えただけでも民族分類がたいへんな作業であるのがよくわかるし、そもそも政治と切り離せないのだから、なおむずかしい。
その識別の基準は何なのか。中国の学者は、「共通の民族呼称、言語、経済生活、地域、民族感情の五つの標識をあげた上で、とくに民族呼称と民族感情が民族を構成する主要かつ不可欠な要素だとした」(同:68)。だが、「共通の民族感情」というのはその性格上主観的なものであるから、「結局当該民族の希望を「共通の民族感情」におきかえている」(同:68)。
その上で、「ソロン、ツングース(モンゴル人の遊牧生活を受け入れたエヴェンキ)、ヤクート人(つまりトナカイ・エヴェンキ)が合併したものである」エヴェンキ族の場合、「中華人民共和国成立後、これらの人々の共同体はともに、エヴェンキを民族名にしたいと主張するようになった。57年、フロンボイル盟友の民族委員会拡大会議においてこの問題が検討され、また代表的な人物との座談会、各地の民衆との広範な討論も行われた。同年、各民族の願望に基づき、「エヴェンキ」族という名称で統合されるようになった」(『20世紀満洲歴史事典』、吉川弘文館、2012/吉田豊子)とのことである。
上記のように、中国の「鄂温克族」は3つのグループに分けられる。ひとつはソロンで、ハイラルの南の草原に住む遊牧民・農牧民であり、これが「鄂温克」人口の80パーセントを占める。ソロンは歴史的にダウールと親しい関係にあり、たがいに「ウィエル」(兄弟・イトコ関係を意味する)と呼びあっているし、共通する氏族があるという(世界の先住民族01:57)。ダウールはツングースの影響を強く受けたモンゴル、ソロンはモンゴルの影響を強く受けたツングースと言われ、前に見たようにソロンとダウールは歴史を共有している。一方、言語学的にはソロン語はエヴェンキ語の方言でなく別語とされ、オロチョン語は逆にエヴェンキ語の方言と見なされていて、生業も森のエヴェンキと異なる。
ハイラルの北には「ツングース」というグループがある。「ツングース」はロシア人がエヴェンキを呼ぶ名だが、革命後ロシアから移ってきたのでこの通称があるらしい。ブリヤート人は「ハムニガン」と呼ぶが、これもブリヤート語でエヴェンキを指す。彼らも遊牧民であり、ブリヤート化されたエヴェンキと言える。鳥居竜蔵はロシア領内の「ハムニガン」を訪ねたことがある。「此処のツングースの風俗習慣は、ことごとくブリヤート化せられて、ほとんどブリヤートと変わらない。彼らは又固有のツングース語を忘れてしまって、全くブリヤート語を使っている」。「ブリヤート人はこれを特種扱いにして居る。現にブリヤート人の役人は此処に来て、煙草を吸うにも火を彼らから貰おうとしない。彼らの家に入ることさえ好まないようにして居る。いかに彼らがブリヤート人から軽蔑されて居るかが分かる。彼らの生活は牧畜を主として居るのであって、家畜の乳汁などで色々の食物をこしらえて居る。それからブリヤートが彼らツングースをハムニガンというが、彼ら自身もやはりその言葉を用いて居る」(鳥居:126f.)。なお、「家具としては樺の皮でこしらえたものが多い。すなわち乳汁を入れる曲げ物とか桶のようなものも、皆樺の皮を曲げてこしらえたものである」(同:126)。しかし、ホルンバイル盟の「ツングース」は言語も保ち自称としても「エヴェンキ」を用いており、それゆえに中国の「鄂温克族」の一部となっている。
もうひとつは大興安嶺北部に住む、あの服部四郎をとまどわせた「ヤクート」の通称のあるトナカイ・エヴェンキ人であって、狩猟の伝統を最後まで残していた正統なエヴェンキである。彼らもロシア領内から移住してきた。
つまりこの3つのグループは、言語においてソロン/ツングース・ヤクート、生業においてソロン・ツングース/ヤクートと分かれ、歴史においてソロンがまず別、ロシアから移り住んだ点でツングースとヤクートには共通点がないわけではないが(ロシア文化の影響、ロシア正教受容など)、ロシア領内での来歴は異なるというふうに、はっきり言っててんでばらばらである。共通するのはただ「エヴェンキ」を自称とする点だけと言っていい。そんな人々をひとつの「民族」としていいのだろうか? 資料にあるように本当に彼らが(彼らの代表者が)それを望んだのなら尊重されねばならないが。しかし、トナカイ・エヴェンキは他の二者とアイデンティティを共有できないし、「遊牧エヴェンキ」の文化や言語が標準化されることを恐れているという(佐々木1995)。
「ヤクート」(トナカイ・エヴェンキ)はオロチョンと同族である。言語において、生業において。歴史においてはロシアの影響対満洲族の影響という点での違いはあるが、シャーマニズムを始め信仰や習俗もほぼ同じだ。使鹿・使馬の別はあっても、少なくとも「ヤクート」と「ソロン」「ツングース」の間の違いに比べれば、「ヤクート」とオロチョンの間の違いは小さい。馬と満洲族の影響ならば、ソロンとオロチョンがひとまとめになりそうなものだし。自称が「エヴェンキ」「オロチョン」と違うことが区分の最大の根拠だとすれば、それには疑問なしとしない。
オロチョンはオロチョンで、クマルチェン、ビラルチェン、ガンチェン(川筋の名による)などの彼らが弁別する下位グループをひとまとめにしたものである。かつ、シロコゴロフによれば、彼らのうちのビラルチェン(小興安嶺)やナウンチェン(嫩江流域)・ゲンチェン(甘河流域)には「エヴェンキ」という自称があったそうだ(シロコゴロフ1941:141,125,135)。ガンチェン(根河流域)はその自称を失い、人が呼ぶようにみずからも「オロチョン」と称す。そして、彼らには馬を盗むという習性があり、そのため周囲の民族集団から嫌われている(同:122)。鳥居竜蔵の見聞にも、案内にやとったブリヤート人はオロチョンに馬を盗まれたら弁償するという条件で雇い、前夜馬を盗みに来たので発砲して追い払ったという漢人にも会ったことが記されている(鳥居:84ff.)。ガンチェンはトナカイ・エヴェンキと紛争もあったようで、それらのことから、トナカイ・エヴェンキは(彼ら自身そう呼ぶところの)「オロチョン」たちと同じにされるのを嫌ったのかと想像する(ちなみに「オロチョン」のほうは彼らを「テガ、テガチェン〔満洲族の軍隊組織に編入されていない・庶民〕」と呼んでいた。シロコゴロフ1941:99)。ただし、トナカイ・エヴェンキはクマルチェン(呼瑪爾河流域)とは良好な関係だったようだし(シロコゴロフ1941:205)、またソロンにも馬泥棒の習慣はあり、近隣のモンゴル人から「ホラガイ(泥棒)」と呼ばれていたそうだから(上牧:16)、そこにはそう簡単にときほぐせない錯綜がある。


民族とは何か。その定義は数々ある。研究者の数だけあるとさえ言われる。「文化と歴史を共有し、成員がその集団への帰属意識をもっている人間集団」と考えればいいと思う。文化もまたはっきりしない概念だから、言語・宗教・生業・習俗(というとやや抽象的だから、衣食住ということにしてもいい)という要素に重きをおいて考えよう。歴史では、起源(それは神話でもある)の共有というのが重要である。
だが、もっと重要な指標がある。民族とは要するに「対外闘争主体」である。「われわれ」とは違う外の集団に対し、戦ったり身を守ったりする中で形成されてくるものなのだ。つまり、外部(それは多くの場合、敵)によって規定される存在なのである。それはあらゆる集団に共通の性質で、その「敵」のレベルによってみずからの集団のレベルも決まる、という関係だ。「敵」が他の「民族」であれば、それに対抗する自集団も「民族」である、というような。
そうであってみれば、民族呼称に自称を求めるのは、ただ「政治的に正しい」というだけで、しばしば不適切である。外部によって規定されるという性格からすれば、他称のほうがむしろ適切な場合は多々あろう。
現在「ウイグル」と呼ばれている人たちは、カシュガル人だのトルファン人だのというそれぞれの住地による名前以外に、彼ら全体を表わす自称をもっていなかった。1921年の会議で、自分たちを言い表わす名称として「ウイグル人」を採択したのである。たしかに、この新疆一帯にはかつて西ウイグル王国があった。8世紀にモンゴル高原に覇を唱えたウイグルキルギスに敗れて西遷し、この地に建てた国であるが、存在したのは9世紀末から13世紀末までで、その民族意識が続いていたわけではない。歴史の書物から引っ張り出してきたもので、こう言ってよければ、ほとんどでっちあげである。それまで漢人が彼らを呼んでいた「纏回」(頭に布をまいたイスラム教徒)のほうがよほど客観的で統一的であった。だが、彼ら自身がそう呼べと言うのなら、従わなければならない。
今のヴォルガ流域のタタール人もまたテュルク系ムスリムで、カザン人とかムスルマン(イスラム教徒)のような自称しかもたなかったこと「ウイグル人」と同じであるが、こちらはロシア人が彼らを呼んでいた他称「タタール人」を、やや蔑称のきらいがあったものの、みずからのを民族呼称にした珍しい例である。「纏回」同様、他称のほうが適切であって、それを悟って受け入れたわけだ。自分たちの権利を守るためにはひとつの「民族」とならねばならない時代、統一名称が必要とされたときに取った対応の2つの例である。


ロシアのほうでも民族をめぐる事情は同じだ。
ウリチはアムール川下流、ニヴヒ(ギリヤーク)とナナイ(ゴリド)の間に住むツングース系の民族であり、日本で言う「山丹交易」の「サンタン」のことで、それはギリヤークが彼らを呼ぶ「ジャンタ」に由来する。1947年にスモリャークが初めてウリチの調査をしたとき、何度も「どうしてわれわれのことをウリチと呼ぶのか」と尋ねられた。しかしその後この名称が正式に採用されてから40年ほどたった1970年代には、すでに人々の間で自然に受け入れられるようになっていた(佐々木2001:63)。そう名づけられた当初は、彼ら自身がなぜ自分たちが「ウリチ」という名前なのが理解できなかったが、そう呼ばれつづけているうちに彼らもそれを受け入れたというわけだけれど、それは順序がおかしいのではないか。むろん「ウリチ」の名前を採用するに当たっての理由は十分あったにせよ。
ことばについても、ウリチとの境界に近い村に住むナナイの老人は、ウリチ語は何不自由なくわかるのだが、上流のナナイたちの言っていることはわかりづらいとこぼしていたそうだ(同:64)。
この地域の諸民族を深く研究したスモリャークは言う。「アムール下流域においては、ナーナイ、ウリチ、ウデヘなどのツングース系住民は互いに遠く離れて小さな集団で暮らし、文化も言語もその由来も異なるため民族的な一体性というものは意識していない。それが存在するのは、氏族の中か、複数の氏族からなる地域集団(例えばボランカン、ナイヒンカンなど(それぞれ「ボロン湖の人々」、「ナイヒン村の人々」という意味))、または場合によって行動を共にすることがある近隣の地域集団の集合体の中だけである。より遠い集団(100km以上遠方の集団)に対しては、一緒に行動する機会も少ないため、よそ者と感じられる」(同:56)。
要するに、彼らを分ける線は研究者や行政官たちが勝手に引いたのだ。「勝手な」はもちろん言い過ぎだが、そのくらいに言ったほうが本質がわかりやすくなる。
もちろん、住民みずからも区別はしている。昔弁髪のような髪型をしていたころ、髪に三つ編みのお下げが1本なのがオロチで、2本なのがウデヘだというように(同:47)。彼ら自身の分類や「われわれ」意識はもちろん参照されている。にもかかわらず、最終決定は彼らの上の方でなされている。
民族名についても同じことが言える。ロシアと中国に分かれて住むツングース族で、サケ漁で生活をたて、衣服もサケ皮で作っていたので漢人に「魚皮韃子」と呼ばれていた民族は、いまロシアで「ナナイ」と、中国で「ヘジェン(赫哲)」と呼ばれている。国境を越えると名前が変わること自体、名称に何かしら無理があることをほのめかしている。「ナナイ」は、以前ロシアでは「ゴリド」と呼ばれていたが、自称に基づいて「ナナイ」という名前になったのだけれども、その意味は「この土地の者」で、彼らだけでなく「ウイルタ」も「ウリチ」も「オロチ」もみずからを「ナニ」と言っていた(同:59)。「ナナイ」がその名前を独占することになったわけだ。「ナナイ」の中で、下流の人々は上流の人々を「ゴルディ」(上流の住民)と呼び、上流の人々は下流の人々を「ヘジェン」(下流の住民)と呼ぶ。中国での名前はこの「ヘジェン」によるのだが、ナナイより下流にいるウリチはナナイを「ゴルディ」、ナナイはウリチを「ヘジェンケン」と呼ぶ(同:55)。非常に錯綜した関係の中で現在の彼らの民族呼称を決定したのは、結局研究者や行政である。
サハ(ヤクート)共和国西北部森林ツンドラ地帯のオレニョク郡は、2005年にエヴェンキ民族地区になったという。だが、この地域の住民はヤクート語を話しているのだ。生業はトナカイ飼育や狩猟、つまり牛馬飼育のヤクートではなくエヴェンキのものだ(高倉)。つまり、彼らは言語がヤクート化したエヴェンキか、生業がエヴェンキ化したヤクートか、ということだが、おそらくそのどちらでもあるのだろう。17世紀にここに住んでいたのはエヴェンキだったが、そこにヤクートが移住してきた。彼らは、言語は自分のものを貫いたが、生業はエヴェンキのものを受け入れた。儀礼や物質文化にはヤクートの特徴が残った。そんな彼らはヤクートなのかエヴェンキなのかという問いに、自分らはエヴェンキであると答えたわけだ。住民みずからが決めたという点では「民主的」「民族自決的」であるが、それでもなく、これでもないという曖昧さが許されず、学者や行政官が決めたどちらかのカテゴリーに「整理」されなければならなかったということでもある。


アムール川流域にはツングース系の民族が多くいる。シュレンクの分類では、松花江黒龍江の合流点より下流にゴリド、オルチャ、オロチ、ネギダール、サマギール、キレ。それより上流にビラル、マネギル、ソロン、オロチョン。これらは現在では公式にナナイ(ゴリド)、ウリチ(オルチャ)、オロチ、ウデヘ、ネギダール、エヴェンキとなっている。つまり、オロチがオロチとウデヘに分けられ、サマギールとキレはナナイとエヴェンキの中に解消されている。一方で上流ではエヴェンキのみ、中国側のオロチョンをいれても2つ(もしソロンを分立させれば3つ)。しかしながら、「アムール川上流のシュレンク」、ザバイカル地方・アムール川上流地方のツングースを調査したシロコゴロフによると、そこにはビラルチェン、クマルチェン、メルゲン、興安、馴鹿ツングース、ソロン、ネルチンスク、バルグジン、カラル、上アンガラ・ツングースなど、さらに遊牧ツングースとしてマンコヴァ、ボルジャ、バルグジン・ツングースなどの集団がいた。彼らのほとんどは「エヴェンキ」を自称とし、中には「オロチョン」を自称とするものもある。自称こそ(ほぼ)共通だが、これらの諸集団の間には方言上また慣習上の違いがあり、別の集団であると意識されていたが、現在これらはただひとつの「エヴェンキ」にまとめられている(中国側の「オロチョン」を数えれば2つ)。下流の細分と上流の一括りにはもちろん理由はあるにせよ、その理由が純粋に学問的であったかどうかと、学問的というその学問のよってたつものは何かは問われていい。
北方ツングース諸集団の間の関係は、「ツングースは北方ツングース方言を話す総ての群団が共通の起源から出でていることを認め、その親縁者達がエヴェンキなる名称を用いる幾分の権利のあることを許容している。しかしいふまでもなく、それは或る程度の心意上の努力を要するのである。他方に於いて、多数の群団は自己のエヴェンキであることを知っているが、彼等同士の間ではこの語を用いない。というのは、彼等の間では社会単位即ち氏族を区別し、エヴェンキを用いるのは、ツングースの胸裏で彼等自身とは別であると考えられる他の民族諸集団と対比して自身のことをいう場合に限られているからである。… 二つのツングース群団の間にその慣習か方言かの何れかに僅かでも差異がありさえすれば、彼等は互に相手をエヴェンキと呼ばず、何か他の名称、例えば地名に因んだ名称とか、或は他の民族集団に属する隣族から借用された名称とかを使用する」(シロコゴロフ1941:100)。そして、「殆どすべてのツングース群団は自分等こそ純粋なツングース(通常エヴェンキと称するもの)であると信じているが、彼等の近隣群団はこれをこの純粋なツングース型から逸脱せるものと見做している。… もし民間伝承が共通起源の伝承を保持しておらず、また二群団間に在ってその差異点がその類似点よりももっと強調されるならば、彼等の各々は相手が純粋なツングースの出であることを否定する」(同:200)。要するに、ある区分が「民族の下位集団」を分けるものか「民族」を分けるものかは、立場によって決まるということだ。方言か別言語かという問題と同じである。沖縄のことばが日本語の方言か日本語と親縁な別の言語かを決める客観的な基準はない。「対外闘争主体」という民族の性格からみれば、エヴェンキの場合それに当たるのは小集団ないし氏族であって、現在の「エヴェンキ族」が全体としてそうであったことはない。
「近代」はすべてを整理する。逆に、整理し分類して、通覧可能にし操作可能にすることをもって「近代」と呼ぶ、と言ってもいい。それは「近代」の達成ではあるが、病理でもある。整理しつつ、それを踏まえつつも、一方でそれをほどき、曖昧さを取り戻すことも重要である。「近代」を超えようとするならば。
寄せ集めにすぎない中国政府公認「鄂温克族」は、ひとつの民族と呼ぶにはあまりにも違いすぎるその「下位集団」を、「雅庫特鄂温克(ヤクート・エヴェンキ)」、「通古斯鄂温克(ツングースエヴェンキ)」、「索倫鄂温克(ソロン・エヴェンキ)」と通称で呼び分けているらしい。他称と自称の組み合わせであるこの通称のほうが、公的な民族区分を外れ、むしろ好ましい。

6.
文献を摘記しながらエヴェンキを追ってきて気がつくことは、学問には国境があるということだ。それぞれの国への奉仕者が残した記録を基にする歴史学に国境があるのはみやすい道理だが、国境というものを知らずに生きていた(未開人と呼ばれる)人々を調査する民族学言語学も、そして国境なんか影も形もなかった石器時代などを石や骨で研究する考古学にさえ国境がある。新石器時代を「縄文時代」という特殊名彙で呼ぶ例のように。
国境は、国家というものができて以来存在はするが、近代に至るまではそれほど厳格なものではなく、簡単に越えられた。法は、近代以前には国家によって独占されるものでなく、国家内のさまざまな集団も留保分をもっていた。国による法の独占、一元化が進むにつれて、国境は越えがたいものになっていった。国境を越えられない人種の第一は役人で、第二は学者であろう。国に養われているからだ。国境を軽々と越えていたのが、国家有為の人々にさげすまれている連中である。ジプシーしかり、われらのエヴェンキしかり。北満のトナカイ・エヴェンキは、そもそもロシアから移動して来もしたし、トナカイが大量に病死したようなとき、ロシアに行って補充してきたりしているのだ。19世紀の終わりとか20世紀の初めのような時代まで。黒龍江は冬に凍るので、越えるのは何でもなかった。
北方狩猟民の生活は不潔で不便で不健康で、苦しみ多く蒙昧で危険だというのは、そのとおりである。だが、彼らは現代の都市生活者とは対極の生を営んでいた。そこから見える風景は貴重だ。世界を眺める「反対側の視点」が失われていけば、人類は数において肥大しつつ、質において痩せていく。ノスタルジアには理由がある。


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