備忘録/参加希望者

裁判員制度について、マスコミは参加したくない人のことばかり取り上げるが、中にはぜひとも裁きたいと思っている人も相当数いるはずだ。しかし、何事にせよ、自分にできるだろうかと悩んでいる人々こそまさにそれをすべき人であり、おれにやらせろと思っている人はできればしないでほしい人たちだというのは、ありがちな真理である。
制度が始まったら、報道の潮目も変わるかもしれない。この制度には基本的に賛成ではある。それが下からの要求なら。だが、こんな大事なことがなぜ上からのディクタートなんだろう? 社会の根幹にかかわることが国民的議論抜きに少数の人々によって決められているあり方には驚く。この国は、憲法改正以外のことならどんな重大決定も人知れずなされてしまう体質みたいだ。
日本語のためによいことであるのは確かだ。裁判所では、日本語と同系の姉妹語ではあるが、まっとうな日本人にはうすぼんやりとしか理解できない「シホー語」が話されていて(いや、正確に言うと、話されてはおらず、書いたものを読み上げるという形の不思議な内輪のコミュニケーションがなされていて)、それが日本語をそこないつづけていた。裁判所でも「日本人にわかることば」が紙でなく人の顔を見て話されるようになれば、それは一歩前進だろう。「カンリョー語」が読み上げられる似たような内輪の振り付け芝居(「国会審議」という名の)のほうも何とかなればいいのだが。