イスラム習俗瞥見

極東のさらに東の果て、湿潤多雨の日本列島の住人には、西アジア乾燥地のいわゆる「砂漠の宗教」であるイスラームは、あまりにも異質に感じられる。この感覚は重要だ。長く親しんで違和感をおぼえなくなってしまったが、初めて紅毛人の異俗に接したときに、昔の日本人もこんな感じを受けたであろうことを思い出させてくれる契機になる。要は、どれだけ目にしているかの頻度の問題にすぎない。われわれの目に立つ彼らの習俗に、人類の習俗として異様なものは何もない。
祈り方にまず驚かされる。キリスト教の祈りでは跪くだけだ。だが、それは西洋の家の床の汚さによるもの。家の中でも土足の西洋式とちがい、家では靴を脱ぐわれわれがあの礼拝方法に目をみはる必要はない。江戸時代の人ならさほど異様に思わなかったのではないか。あれの要諦は、膝だけでなく肘・額を地につけるということ。その点でチベット五体投地と同じだし、中国人の叩頭、われわれ自身の額づく作法や土下座と異ならない。
非常に異なるのは、ご神体や神像仏像の類がなく、ある方向に向かって礼拝することだ。しかしこれも、たとえば朝日を拝むというのと基本的には同じである。聖なる方向というのは、つまり西方浄土の類だ。一時の習俗であったが、宮城遥拝というのが違和感なく受け入れられていたことからも、われわれのうちにその感覚があることを証している(ひょっとしたらあれはイスラムに範をとったものだったろうか?)。
彼らは礼拝の前に手足を洗う。これなんかまさにわれわれの手水と同じだ。水垢離をとったりもする日本人には好感がもてるはず。
数珠も使う。キリスト教徒もロザリオをもつので、この点では三教一致である。インドに起源するものらしい。
断食月があるのが非常に特徴的だが、断食そのものはどの宗教にもある。生きるために必要なものを断つことで、心身を浄化し精神的な力を得るのだ。しかし完全な断食は死に至るので、即身成仏を願う高僧でもないかぎりやらない。イスラムの断食は日中だけで、日が沈んでからは食べる。キリスト教の復活祭前の四十日間の「断食」も肉類を断つだけだ。わが国でも願掛けの塩断ちなどがあるが、期限つきである。
豚を食べないという食事のタブーも、そういうものを失った現代の日本人や西洋人が妙に感じるだけで、昔の日本人は四つ足を食べなかったではないか。イスラムは「ユダヤ教アラブ派」みたいなところがあって、ユダヤ教と共通する習俗が多分にある。豚肉忌避もそうだし、食べてよい正しく屠殺された清浄な肉というのもそう。割礼もする。礼拝のときに頭頂にぴったりかぶるお椀帽も同じだ。ヴァチカンの人たちもかぶるが。
家畜(羊)の供犠というのが日本人にはいちばん強烈だろう。われわれのところでも、仏事は精進だが、神事のお供えには生ぐさが不可欠だ。しかしそれは魚である。陸に引き上げれば死んでしまう魚とちがい、家畜は殺さなければ死なないし、解体もしなければならない。頭でわかっていても、初めて見るときの印象は非常に強い。
チャドルのような女性が髪と体をすっぽり覆う衣服はイスラムのエキゾチシズムの最たるものだが、よく考えれば、あれはカトリックの修道尼の服装である。仏教の尼僧も(男僧と同じく)髪を剃り衣をつける。つまり、女を尼と同じくするということだ。家族にとっては女であるが、それ以外の者にとっては尼である。たしかに女性差別や自由の抑圧と見られもしよう。だが、正確な統計は知らないが、新聞やニュースで見るかぎり、現代日本の殺人事件の被害者の多くは女性だ。アメリカでは、直截な言い方(「バラバラにされてトランクに入れられてしまわないように」)で若い女性に身を守る心得を説く本が出ているそうだ。男の暴力から女性を守るというのは、社会に課せられた使命である。それを果たすものとして見れば、合理的でないわけではない。
欧米の文明は欲望の解放を善とする。映画や音楽など大衆にアピールする道具を駆使して、そのイデオロギーを世界中に刷り込み、洗脳しようとしている。非欧米人はああいう露出狂まがいの考え方に対して根本的な違和感をもっているはずだ。洗脳されきってしまわないうちに、イスラムにしばしよりそってみることは必要だと思う。ヨーロッパ文明はイスラムを敵として自己形成してきたのであって、その中にはイスラム誹謗が構造的に組み込まれている。直接の接点がほとんどなく、欧米を通じてイスラムを見ることの多い日本人はこのことに留意しなければならない。オリエントで手が白いという絶好のポジションを捨て、わざわざ手が真っ黒に汚れている人たちの色眼鏡を借りることはないだろう。
スカーフはロシアのプラトークで、キリスト教圏のロシア・東欧の田舎では今もふつうにつけている。きわめて世俗的ながら一応ムスリムである町のタタール人と巡礼教会に行くと、彼女らはキリスト教徒の友だちと同じく、中に入るときさらりとスカーフを巻く。教会に入る際の服装コードの厳格さは、正教もイスラムもかわらない。スカーフはイスラム教とキリスト教を分けているのではなく、都市/世俗と田舎/信仰を分けているのだ。イスラムキリスト教圏の田舎と切れ目なく連続しているのであって、イスラムは異質だと言うヨーロッパ人は、自文化の辺境は異質だと言っているのと同じである。実際、辺境は彼らの世界に属しておらず、一方で傲慢は十全に彼らに属している。
小さいことだが、聖地とされる場所の木に布切れがいっぱいに結びつけられているのを見ることがある。キリスト教徒のアルメニア人も同じことをする。おみくじを木の枝に結ぶ日本の神社のような、四海同胞な眺めである。